SEASON FINAL ACT.27
手にしているベッドカバーを投げ捨てたマノロは、スラックスに片手を入れて、わたしを見てからテリーを上目遣いにし、けげんな顔をした。
「……テリー・フェスラー? パーティはどうしたんだ?」
テリーも困惑顔になる。
「マノロ・ヴィンセント。きみがなぜ残っているんだ?」
「こいつで」
マノロが革靴でカバーを踏む。
「ぐるぐる巻きにされるプレイを楽しんでいただけだ、客室で。そのうちに酸欠気味で気を失った。目覚めてからなんとか解いて、客室から出てみれば、パーティは終わってる。ということだ、チャック!?」
う。ものすごい形相のマノロが、わたしを見下ろすとにらんだ。
「チャック?」とテリー。
「そうだ、おれのペットだ」とマノロ。
「なるほど、ペット」とテリー(というか、マエストロ)。
テリーはわたしに視線を向け、一瞬苦笑した。その苦笑が気に障ったのか、しゃがむわたしのそばに立ったマノロは、今度はテリーをにらんだ。
「なんだ、文句でもあるのか?」
「飼い犬に手を噛まれた、というわけかな?」
「……なんだと!?」
テリーのあざけったような言葉に、マノロのご機嫌がいっきにななめになる。
タキシードを着た堕天使的ギャングとシティの悪玉が、船のデッキでにらみ合う。なんだかおかしげなことになってきた。このすきに海へ飛び込むべき? いいや、その前に、パンサーはどこにいるの! ボールみたいな体勢のまま、わたしが船内へ顔を向けたら「動くな!」とマノロに叫ばれた。
「チャック。おまえはおれを怒らせた。そのことを肝に命じろ!」
わたしを指して、マノロが激昂する。ああ、ああああ、わたしきっと、シティの悪玉とギャングに殺される。だけどなんとしてもパンサーだけは助けなくちゃ! でも待って。わたしが殺されそうなのに、どうやったらパンサーを、助けられるというのだろう? ……どうしよう、まったくわからない。ただし、バックファイヤーだけは死守する、絶対に!
「ほかの客はどうしたんだ?」
しゃべりながらマノロは、青い配管工の制服を着た、わたしの襟首をつかみ上げて、顔を近づけると苦い顔になる。
「……まるで野良犬だな。髪はべたべた、潮のにおいがするのはなぜだ?」
海へ飛び込んで逃げたからです。なのにまたもやこの船に舞い戻っているだなんて、どういうこと? バックファイヤーを両手で握りしめ、胸に押し付けているわたしに気づいて、なにを持っているんだとマノロがいう。すると、マエストロ、というかテリーが、わたしとマノロに背を向けた。デッキを数歩、船尾に向かって歩いた、と思ったら、振り返っていっきに、腰を低めて両手を突き出す。
「お遊びは終わりだ」
とたんにわたしとマノロは飛ばされ、船首の操縦席の壁に、背中から激突した。うう、わたし、全身青あざだらけで、いまに自分の肌の色が、コミックの宇宙人みたいに、青くなるんじゃないかな!
うめきながらデッキに肘をついて、なんとか起き上がれば、マノロが頭をおさえたまま叫んだ。
「いまのはなんなんだ!? どいつもこいつも、なんだっていうんだ!」
ゆっくりとテリーが近づく。わたしは握りしめていたバックファイヤーを、ジッパー付きのポケットへ押し込み、船体を見上げる。テリーのいっていた、気を失っている青年とは、絶対にWJのことだろう。そのWJが、パンサーがいるとすれば、きっと三階。あの、装置のあった船室のような気がする。
だけど、そこまで行くには、マノロもテリーも邪魔すぎる! とまで考えて、はっとする。マノロは、自分の父親であるドン・ヴィンセントが騙されたため、マエストロ(というか、テリー。というか、もうややこしい!)を恨んでいる。いっそ二人がもみ合えば、わたしにはじゅうぶんな時間ができる、のではないだろうか!
どうしよう、アーサーもびっくりな自分の機転に、歓喜のあまりはしゃぎたくなったけれど、ぐっとこらえてマノロに告げた。
「テ、テ、テリー・フェスラーが、ミスター・マエストロ、なんです、ミスター・ヴィンセント!」
デッキに片膝をついたマノロは、思いきり顔をしかめると、近づくテリーを見やった。
「そういえばそんなようなことを、ムカつくウエイターとしゃべっていたのを思い出したぞ、チャック? 本当か!?」
本当です! 叫んだわたしが姿勢を低くすると、マノロはデッキに置かれてある、救命具の入った木箱を、テリーに向けて蹴り上げた。そのすきに、というべきか、船首に向かっていっきに走ったわたしは、「待つんだチャック!」と叫ぶマノロを無視し、ぐるりと船をまわりこみ、反対側の通路へ出る。そこから階段を上り、船室を目指す。
階下の船内から、グラスやらお皿やらが割れる音がたつ。ものすごい物音がひびくたびにビクつくけれど、大人同士のもみ合いに(というか、ギャングと悪玉のもみ合いに)かまっている暇はない。
三階の船室に着いて、ドアを開ける。ごうごうと音をたてて稼働する装置のそばで、パンサーがうつぶせになっているのを発見した。
「WJ!」
近づいて、そばにしゃがみ、震える手でマスクを取ると、まぶたを閉じて横たわるWJの顔があらわになる。パニくったわたしはぺたぺたと、WJの頬を手のひらで触れ、自分の耳を鼻へ近づける。息はしているけれど、意識がない? どうしよう!
「……どうしよう、どうしよう!」
何度も名前を呼んでみる。なのにWJはまぶたを開けない。ぐったりとしていて、動きもしないのだ。横たわるWJ身体に、おおいかぶさるみたいに両手をまわし、抱き上げたら、やっとうめき声をもらした。だからまた名前を呼ぶ。そのわたしの声が、だんだん涙声になっていく。涙でぼやけていく視線の先には、継ぎ目のない鉄製の球体。その球体に、すっと七色の光が走る。斜めに、上下に、左右に、一定のリズムを刻む稼働音が鳴るたびに、不可思議な光がひゅっと、横ぎりはじめていた。
「WJ!」
もう一度名前を呼んだら、
「……ニコルの、声がする」
ぐっと顔をしかめたWJがつぶやいた。
「声がするんじゃなくって、ちゃんといるの! 逃げなくちゃ!」
わたしがいったちょうどその時、発砲音が船を包んだ。はっとしたわたしが身を固くすると、その音に反応したのか、WJも瞳を見開く。すると、そばにあるわたしの顔に気づいて、険しげに眉を寄せた。
「……ニコル?」
おっとそうだ、WJはちゃんと見えていないのだ。マスクをかぶせると、今度はグラス越しにわたしを見る。
「……ニコル!?」
声を荒げたせいで、折れているかもしれない肋骨に痛みが走ったのか、パンサーはくっと口元をゆがめて、軽く胸をおさえた。階下からまた発砲音だ。とっさにドアを見たパンサーは、腕を伸ばし、開いた右手をドアへ向けた。カチリとかすかな音をたてて、ドアに鍵がかけられる。
「マ、マノロがまだ船にいたみたいで、テリーともみ合ってるんだと思う」
「……操縦席で、マエストロの手下が落したピストルを、どっちかが見つけたんだね。手下たちは、マルタンとアリスに倒されたまま、一緒に沿岸警備隊に連れて行かれたみたいだよ。残りの手下はわからない。セレブに混じって河川にいるのか、逃げたのか。ぼくとマエストロがこの船に降りた時は、警備隊の船がすでに離れはじめていて、誰もいなかったから。それからは……記憶がないな。頭をどこかへ、ひどく打ったのは覚えてるんだけど」
しゃべりながらパンサーが、首を軽く左右に振る。それから、グラス越しにわたしを上目遣いにした。
「ニコル、どうしてここにいるの?」
わたしはポケットのジッパーを下ろし、中からバックファイヤーを出す。
「これ、テリーに体当たりして奪ったから! それでテリーが、わたしごと船に舞い戻っちゃったの。もういっそ、これを海に投げちゃえって、わたしは思うんだけどどうかな!?」
グローブでバックファイヤーをつかんだパンサーは、ダメだという。
「海水の塩化ナトリウムとか、塩化マグネシウム、硫酸マグネシウムなんかと混じって、どう変化するかわからないから、捨てる方法はアーサーのいうとおりにするか、」
そこで言葉をきって、パンサーがぐっとわたしに顔を近づける。
「アーサー、というかきみ、アーサーと付き合ってたの?」
あああ、ああああ、そんなわけない! でも、アーサーのついた嘘のおかげで、パンサーのパワーが(わたしがらみで)もしも戻るのなら、その嘘に乗っかるべきだろうか? でもそんなの嫌だ。ここから逃げるだけなら、泳げるほどの体力があればいいはずだし、それにそもそも、WJに嘘なんてつきたくない。
「すごく疲れてるみたいだけど、あなた、泳げそうかな?」
「え? ああ、泳げるとは、思うけど。ニコル、ぼくの質問に答えてないよ」
泳げる体力が残っているのなら、アーサー発信の嘘はいますぐ却下しよう。
「……ごめんなさい、あんなの嘘なの。アーサーは、ああいったらあなたが元気になって、意地でも生還するだろうからって。なんていうか、焼きもち的な方向で。それに、アーサーは嘘をつく時に、演技のへたくそなアクターみたいに棒読みになるから、覚えておいて欲しいな!」
「……え? 嘘なの?」
はあ、と安堵したように、パンサーは息をついた。
「うん。……わたしはみんなのこと、友達として大好きだけど、男の子として大好きなのは、あなただけだよ。だからもしも、あなたが死んじゃったりなんかしちゃったら、わたし、一生ひとりぼっちになっちゃう! そうしたら、オールドミスのジェロームばあさん、とかいわれて、近所の子どもに気持ち悪がられて、おっかながられて、石をぶつけられたりしちゃうかも!」
大変だ、しゃべりながら興奮してきてしまった。薄く口を開けたパンサーは、涙声で訴えるわたしを見つめている。いまのわたしこそ、まるきり子どもみたいだ。
「う、ううう……。子どももわたしは大好きだけど、時にはとっても残酷になるの、知ってる? 正直なぶん、容赦ないこといったりするし、あなたがいなくなったらわたし、自分のよだれまみれの汚いぬいぐるみに囲まれて、ずうっと、ずううーっと、ひとりで生活するしかなくなっちゃう!」
鼻水をすすってしゃくり上げる。パンサーが、WJが無茶をして、この世界からいなくなったらどうしようと、ビルの屋上にいた時からずっと、不安にかられていた思いがあふれて、止らなくなってしまう。
「あなたがいなくなっちゃったら、誰がわたしの相手をしてくれるっていうの? 誰がこのくだらないおしゃべりを聞いてくれるの? だって、アーサーはわたしのおしゃべりを聞いてると、死にたくなるっていうし、キャシーは聞いてくれると思うけど、女の子同士とあなたは違うもの。それに、デイビッドは」
あれ、どうしよう。デイビッドは相手をしてくれそうだし、おしゃべりも聞いてくれそうだ……って、いいや、だから、そういうことではなくて!
「つ、つまり。と、とにかく、とにかく」
とりとめもなくべらべらと、思いをぶつけていたら、パンサーがわたしの背中に両腕をまわす。グローブで、わたしの頭を包み、ぐっと胸に引き寄せて、抱きしめてくれた。
「……わかったよ。心配させたんだね、ごめん。大丈夫、きみのおしゃべりを聞く相手は、ずっとぼくだよ」
ずずずと鼻水をすすりながら、わたしもパンサーの背中に、腕を伸ばす。
なんて大きな背中だろう。それに、コスチューム越しの体温が伝わってくる。暖かくて、力強い感触にまぶたを閉じると、パンサーがいった。
「……なんだ、すっかりアーサーに振りまわされてるなあ。きみを信じるべきなのに、どうしてもほかのやつのいうことを信じるのって、なんとかしなくちゃね。でも、ぼくにとってきみは、すごく魅力的な女の子になっちゃってるから、焦るんだ」
わたしが魅力的というのは、喜ぶべき意見だけれど、とてもじゃないけれどいまのこの、鼻水まみれのわたしをそれでも、魅力的と思えるかどうかは、訊ねないでおくことにしよう。
腕をゆるめたパンサーが、わたしを見下ろす。
「そうだ、ニコル。あれをぼくにくれない?」
「……え? あれってなに?」
うつむいたパンサーはいいにくそうに、
「ミルドレッド博士。ホテルで、ぼくの枕元に置いただろ? あれ、ちょっときみみたいな気がして。恥ずかしいけど、欲しいんだ」
ウサギのぬいぐるみはもともとは、フランクル氏のストレスをやわらげるべく、リックがプレゼントしたものだ。まあ、中には無線機と、偽物のバックファイヤーが詰まっていたという、問題の代物だったのだけれども。
「え? いいけど、わたしに似てるかな?」
「ほっぺがね」
パンサーがにっこりした直後だった。
装置の音のリズムが早まり、巨大計算機みたいなコンピュータが、ずるずると長いレシートのような紙を、いっきに吐き出しはじめたのだ。
階下の発砲音は止らない。わたしから腕を離したパンサーが、装置を見る。それから天井を見て、わたしに顔を向けた。
「テリーとマノロが、下にいるんだね?」
「下……というか、どこかにいるんだと思う」
パンサーは部屋を見まわして、ひとり掛けのソファを視界に入れると、わたしの腕を取って、部屋のすみにしゃがませる。それから、ソファを移動させ、わたしの盾になるような形で、ソファを置いた。
「ここから動かないで」
もちろんだ! というよりも、なにをするつもりなのだろう?
振動する装置の光のスピードが増している。胸に手をあてたパンサーは、静かに深呼吸をはじめた。一度マスクを取ってから、手の甲で額をぬぐい、黒っぽいブラウンの髪を、ぐいっとかき上げる。ソファの影から顔を出すわたしには、パンサーの横顔しか見えない。
「……最後になるかもしれない」
ささやくような、小さな声でいうから、不安になってわたしは叫ぶ。
「え! 最後って、なに!?」
ぐっとマスクをかぶったパンサーが笑った。
「そういう意味の最後じゃないよ」
笑みを消すとうつむいて、ブーツのかかとで床を二度踏みしめた。それから、床に片膝をつく。
「ぼくのパワーが最後になるかもしれないことを、これからするから、きみはそこから動かないで。大丈夫、きみを危ない目にはあわせないから、絶対に」
わたしはぐっと息をのむ。でも、パンサーを見守るために、まぶたは閉じない。片膝をついて、片手を床についたパンサーの姿は、黒い獣そのものだ。大きく息を吸っては吐く呼吸のリズムが、闇色の背中をうねらせる。
やがて、コスチュームが、パンサーの周囲が、南国の海のような色の発光色に包まれていく。デイビッドの隠れ家に住んでいた時に、グイード・ファミリーに電気を止められたせいで、動かなくなったエレベーターをWJが動かした、あの時のような光が、パンサーにじりじりとまとわりついていく。
船が揺れる。左右に、ゆっくりと、こんなに大きな船が傾く。と感じた直後、床についた右手の筋肉を、パンサーがかすかに盛り上がらせた。ぐ、と力を込めて、床を押すその振動が、部屋に充満する。
わたしの髪が逆立つ。びりびりとした気配におおわれたとたん、それが起きた。
ズン、ととつもない揺れが上下に起きたのと同時に、この船室の天井のライトがふっと消えて割れ、壁が波打つ。まるで外にいる巨人が、この船を手のひらでつぶしているかのように、めりめりと壁が圧縮されてへこみ、天井がゆがみ、鉄筋の骨組みが崩れ落ちる。ひび割れた天井がぼろぼろと音をたてて崩れ、装置にあたる。けれども装置はビクともしない。やがて、割れた天井から夜空がのぞいて、そこからばらばらと、コンクリートのような素材が雨のように降った。
装置の上に、ぽっかりと空いた穴。でも、装置はまだ動いていた。
床に片手をついたまま、パンサーが呼吸を荒くしていると、連続する発砲音とともに、鍵のかけられたドアに弾丸が埋め込まれて、外にいる人物が叫んだ。
「開けろ! いますぐ開けるんだ、チャック! そこにいるんだな!」
ああ、ああああああ、マノロ・ヴィンセントだ! ということは、ピストルを手にしているのはマノロ、ということになる。じゃあ、テリーはどこへ行ったのだろう……と思って、崩れた天井へ視線を移せば。
タキシード姿のテリーが、船体の上に立ち、穴からこちらを見下ろしていた。