SEASON FINAL ACT.25
港へ着いたものの、パンサーの姿もマエストロの姿も見あたらない。パトカー三台とフランクル氏の車の、計四台が、港をぐるりと一周する。
停泊している旅客用フェリーのライトは消えていて、倉庫街にも人影はない。不気味に静まりかえった港を、点在する街灯がひっそりと、オレンジ色に染めていた。しかも、さっきまでこのあたりの上空を、うろついていたはずのヘリコプターすら、どこぞへ消えているという状態だ。というか、ヘリコプターの音がずいぶん遠いので、パンサーとマエストロを見つけられずに、シティの中心部へ戻ったのかもしれない。
淡い星のまたたきが、闇夜に浮かんでいる。巨大なフェリーの背後、ずっと向こうの水平線は、漆黒に塗りつぶされていて、境界があいまいだ。
「……すんごく、静かだね」
隣接する倉庫の路地に、駐車されたパトカーに乗ったまま、わたしはつぶやく。
「嵐の前のなんとやら、か?」とアーサー。
装置のケーブルを切れば作動しない。作動しなければパンサーが、物質と装置を使って、ミスター・マエストロをどうにかすることはできなくなる。できなくなる、ということは、マエストロに引きずられて異空間? 異次元? わからないけれど、万が一「賭け」に失敗した場合でも、ブラックホールの向こう側へ葬られることはなくなる。アーサーはさっき、わたしにそういった。それはつまり、パンサーが「賭け」をして、マエストロを捕まえることはできない、ということを意味する。
わたしにとって、とっても安心できることだけれど、だったらマエストロを、どうやって捕まえるというのだろう? その疑問をアーサーにぶつけたら、
「残念ながら、パンサーの馬鹿力に頼るしかないな」
無表情でさらりといわれた。アーサーらしからぬ、計画性のない返答、なのでは……?
「え? 馬鹿力?」
「マエストロは身軽で、警官の弾丸は弾くし、そもそも命中しない。マエストロが弱ったところで、捕獲するしかないだろう」
「でも、逃げちゃうっていったのは、あなたなのに?」
「逃げられないほど疲労してくれることを、おれは期待するぞ」
マエストロが疲労する前に、パンサーのほうがすでに、疲労困憊状態なのに?
「そんなパワー、パンサーにはもうないかも」
たしかにな、とアーサーはまぶたを閉じた。けれどもいきなり、まぶたを開け、眼鏡越しにわたしをじいっと眺める。
「な、なに?」
「……なるほど。これもひとつの賭けかもな」
ひとりごちてから、にやっとした。港も不気味だけれど、なにかを企んでいるみたいなアーサーも、ものすごく不気味だ!
前方に駐車している車から、フランクル氏が降りた。こちらに向かって近づき、後部座席の車窓を叩く。窓を開けたアーサーが、フランクル氏を見上げた時だ。なにかが、どこかに、思いきり叩きつけられたような物音がたった。
ゴウン、と鈍いその音で、その場にいた全員が車から降りる。運転席にいた警官も、ピストルを構えて車から降りた。わたしはアーサーとフランクル氏にくっついて、車体に身体を寄せながら、石造りの倉庫と倉庫のすき間に見える、前方の港のようすに身構える。
警官たちとともに、ゆっくりと前進する。と、一番前にいる警官が、身振りでなにやら合図する。倉庫の壁に背中を寄せて、警官たちがピストルを構えたところで、先頭の警官が、二本の指を前に向け、上に立てた。同時に全員が、空を見上げる。見えるのは夜空のみ……と、口を開けていたら、それは起きた。
上空から猛スピードで落下する、なにか。そのなにか、の輪郭が、はっきりと目に映った時にはすでに遅い。わたしはフランクル氏とアーサーを押しのけて、倉庫の路地から飛び出す。落下した黒い物体が、フェリーの船体に叩きつけられ、反動で弾け、背中からどさりと、港の地面に落ちたのを見た。
わたしはとっさに、地面でうめくパンサーのもとへ駆け寄る。はあはあと、身体全部で息をするパンサーのそばにしゃがんで、抱きかかえたら、
「……どうして、ホテルに、いないの?」
とぎれとぎれにパンサーがいった。答えたくても答えられないほど、頭が真っ白になってしまって、パンサーをぎゅうと抱きしめたまま、とうとうわたしは泣いてしまった。
「あなた死んじゃう。あなたが死んじゃったら、どうしよう!」
マスクをつけたWJの口元がゆるむ。まるで、心配しているわたしのほうがおかしい、とでもいうかのように。
「マエストロをどうにかする前に、ぼくがどうにかされちゃってるね。すごく強いんだ。さすがヒーロー」
「元、ヒーロー! 褒めてる場合じゃないのに!」
わたしが叫んだら、ひらりとそばに、マエストロが降り立った。でも、警官たちは発砲しない。というか、できないでいる。なぜならそばに、わたしとパンサーがいるからだ。
無力すぎるわたしと、身動きもとれなそうなパンサーを見下ろして、マエストロの口角が上がる。なにもいわずに二歩退き、ぐっと力をこめて広げた両手を、腕ごと前に突き出した。とたんに、わたしとパンサーの身体は離れて、吹き飛ぶ。飛ばされたわたしは、背中から倉庫のシャッターに激突し、地面に倒れ、あわや全身打撲な勢いの痛みに、うめく。
うう、ううううううう! こういう時こそ、アメフトのユニフォームを着ているべきだったのだ、なんて、考えている場合ではない!
警官たちが発砲するも、屋上で起きたことと同じことが繰り広げられ、無惨なことになる。マエストロはコートをひるがえしながら、ゆったりとした足取りでわたしに近づく。
マエストロは、わたしの前方で倒れている、パンサーを見下ろした。
「バックファイヤーを渡すんだ」
パンサーは地面に手をつき、起き上がろうとする。
「……それでどうするんだ? あの船ごと、なにをしたいんだ?」
「セレブどもはやっかいだ。シティの市民の動向を把握するという、わたしの事業の計画の邪魔をする。市長、有名人、そしてわたしの家族。わたしにとっては、不要の存在。しょせん裏切り者だらけの家族など、暗闇に落ちるべきなのだ。テリーという存在のおかげで、パーティを利用させてもらっただけのこと。責められることなどなにもないはずだが? これは正義なのだから。さあ、渡さなければ、美しい友情を傷つけることになるぞ、パンサー?」
わたしに顔を向けたマエストロが、軽く右手を振りかぶった。またもやわたしは、無力なたんぽぽの綿毛さながら、隣の倉庫まで地面を滑るように飛ばされて、シャッターの前に積まれてある木箱に、思いきり背中があたる。同時にわたしの右足に、木箱の角が落ちて、思わず「うおっ!」と叫んでしまった。女の子らしからぬ、まるで、女性の裸を盗み見ていて、それを警官に見つかった時の中年男性、みたいな声で。
誰かがわたしの名前を叫んだ気もしたけれど、あまりの痛さに意識が遠のいていて、叫んだのがパンサーなのか、アーサーなのかフランクル氏なのか、まったくわからない。
……どうしよう、背中も痛いし、身体中が痛いけれど、なにしろ足がもっとも痛い! これって、ドアの角に足の小指をぶつけた時並みの痛さ……ってことは、たいしたことはない、ということかも? ああ、痛くないかも?
「渡すんだ」
マエストロがパンサーに手を伸べる。よろめきながらも立ったパンサーを、また倒し、倒し、倒しながらマエストロがにじり寄る。
「渡さなければ、きみの美しい友情の相手を、今度こそ海の底へ落す」
いって、マエストロが指で、わたしをしめした。ちょうど、自分の背後にいるわたしを、パンサーが肩越しに振り返る。ぐ、と右手を握りしめて、大きく息を吸い込んだパンサーは、マエストロに向き直り、背中を丸め、両手を突き出す。今度はマエストロが吹き飛ばされ、船体に勢いよく激突した。
両手を突き出したまま、前のめりになって、地面に片膝をついたパンサーの息は、いまや尋常ではないほどの上がりよう。なのに、肩越しにまたわたしを見て、
「大丈夫? アーサーと、いますぐホテルか、もしくは病院へ、行くんだ」
ぜいぜいと妙な息を吐きながら、しゃがれ声でいうから、とうとうわたしは「あなたも行くの!」と叫ぶつもりで、口を大きく開けた。けれども、先に叫んだのは路地から姿を見せた、アーサーだった。
「パンサー!」
なぜかアーサーは、両腕を大きく広げている。
「ニコルのことは心配するな! きみには内緒にしていたが」
街灯の逆光を受けたアーサーの表情はわからないけれど、なぜだかものすごい……棒読み、に聞こえるのはわたしだけ? 口を開けたまま、アーサーの長い影を見ていたら、あろうことかありえないことを、アーサーが叫んだ。
「おれは、ニコルが、好きなんだ!」
……はあああああ?
パンサー、もといWJが、マスク越しにわたしを凝視する。グラスのせいでわからないけれど、たぶん凝視、している。
「ニコルも揺れているぞ、おれのことがほんとうは好きなんだが、認めたくないんだろう。まあ、おれはきみよりも、ニコルと仲良しだ、だから安心して、死んでくれ!」
ちょおっと! なにをいい出しちゃってるの、しかも最強の棒読みで! わたしにはわかっている。アーサーが棒読み、ということは、嘘をついている、証拠なのだ!
「アーサー!?」とわたし。
「キャシーはどうするんだ、アーサー?」とパンサー。
こんな痴話げんかみたいなことを、している場合ではないのに、アーサーの棒読み嘘発言のせいで、パンサーの背筋がなぜか伸びる。
「もちろん、キャサリンは好きだ。だが、もっとも身近にいるニコルこそ、おれの理想の相手なのだと、悟・っ・た・ん・だ・!」
う・そ・だ・!
ああ、ああああ、アーサー。いまにも吐きそうな声音に聞こえる。でも、こんな場面で、自分の嘔吐感をおさえても、嘘をつくということには、なにか理由があるのだろう(たぶん、アーサーだから)。げんに、アーサーの衝撃のカミングアウトのせいなのか、しゃっきりとしたパンサーは、わたしを振り返り、わたしを見下ろし、口元をゆがめる。
「……本当?」
本当、というか、そんなわけない。あきらかに嘘なのだから。う、うううう、アーサー、なんてややこしい嘘を!
「答えないってことは、本当ってこと?」
そんなわけない! どおして、どおーしてそうなっちゃうの!? でも、パンサーのしゃっきり度が、あきらかに違う、ように思えるのはわたしの錯覚?
「さあ、ニコル。こっちへ来るんだ! パンサーは死ぬ! だから、一緒に墓参りへ行こう。パンサー、きみの墓の前で、ニコルとキスしてやるから、安心してくれ!」
どういう安心なの! いますぐにいいわけしたい衝動にかられるも、かなり元気に見えるパンサーを相手に、嘘だといったらまたもやへたってしまう気がして、アーサーのおかしげな嘘に、加担する、つもりになる。う、うううう、それになんでだろ。ものすごくムカついているみたいな、パンサーの気配が、微妙でかすかな、ピリピリとした刺激を、わたしの肌にもたらす。すると、パンサーがいった。
「……ああ、そう。そういうこと? ぼくもキャシーもデイビッドも、きみとアーサーにまんまと騙されていたんだ。そうなんだね?」
「え! ええええ? そ、そんなこと」
駆け出したアーサーが、わたしの背後にまわり、
「そんなことな」
わたしの口を手のひらでおさえた。
「……というわけだ、ジャズウィット。きみの好きにしてくれ。というか、マエストロを好きにしてくれ」
警官の発砲音がこだまする。船体に激突し、立ち上がったマエストロに向かって、発砲しているというのに、わたしたちは倉庫の前で、いきなりおかしな痴話げんかに突入していた。ああ、あああああ、こんな場合ではない、はずなのに! というか、いきなり足がまた痛くなってきた、ような気もしてきちゃった!
「きみのことは、あやしいなあと思っていたんだ、アーサー。まさかやっぱりそうだなんて、嘘をつかれていたような感じで、ものすごく腹が立つよ」
パンサーがいえば、
「そうだろう! おれは策士だぞ、忘れたのか? その苛立ちをぶつける相手が、ちょうどいま、きみの後ろで飛びまわってるぞ!」
わたしの口を塞いだまま、嬉々とした声音(&棒読み)で、アーサーがいう。
一瞬マスクを脱いだWJは、極上にハンサムな顔をしかめて、わたしをにらみ、額の汗をグローブでぬぐうと、ふたたびぐっとマスクをかぶった。
「……いいさ、アーサー。ぼくは絶対に死なないし、マエストロをのしまくったら、ゆっくり話し合おうよ。ニコル」
グラス越しにうっすらと、切れ長で大きな瞳をわたしに向けた。
「きみがアーサーを好きでも、ぼくはあきらめないからね」
前かがみになり、マエストロのそばまで飛ぶと、猛スピードで体当たりする。地面に倒れたマエストロは、立ち上がるとフェリーの船体へ飛ぶ。パンサーも飛んだ。それから二人同時に舞い上がり、いっきに北上、してしまった。
「……素晴らしく単純だな。これで、意地でも生還するはずだ」
わたしの口から手を離して、アーサーがつぶやく。
「ちょおっと! あなたの嘘のせいで、WJに誤解されちゃったじゃない!」
「べつにかまわないだろう。いいわけならあとでたっぷりできるぞ。それに、見ただろう? あんなに元気になってしまった。恋心とは、おそろしいものだな」
「……う。もちろん、嘘でしょ?」とわたし。
アーサーはぐったりした顔でわたしを見て、眼鏡を上げる。
「あたり前だろう。しゃべくっている間に、何度も意識不明になりそうだったぞ」
パンサーとマエストロは、パーティ会場だった船に向かったはずだと、アーサーがいう。無線機を出し、スイッチを入れたとたん、アリスさんの絶叫がとどいた。
『……っがうっつってんだろ! あやしいのはあっちで、あたしらじゃないってば!』
なにやら、もめているようだ。
「デカお……ミス・ランカートン?」
アーサーが訊けば、答えたのはマルタンさんだった。
『ゲストは降ろした。操縦席も占拠した。そうしたら、沿岸警備隊に停められて。つまり、ケーブルを切る前に』
そうだった、沿岸警備隊のことを、すっかり忘れていた。というか、到着が遅すぎる!
『おれとアリスがいま、聴取されるため、警備隊に捕まるところ、だ。……うっぷ、オ、オエエエエエ』
アーサーが凍る。
「え!」
わたしも凍った。
マルタンさんとアリスさんが、警備隊に捕まり、船から降ろされたその船には、まだ作動可能の装置が残っている。その船に、パンサーとマエストロが、たったいま向かってしまったのだ!
わたしとアーサーに近寄った、フランクル氏が叫んだ。
『悪魔どもが捕まらん! なぜじっとしていないんだ、あいつらは!』
どうでもいいけれど、フランクル氏にとっては、パンサーすらも悪魔的存在、のようだ。というか、というか、大変だ!
「……とりあえず、船の見える場所まで移動しましょう、父さん」
アーサーが、きっぱりと告げた。