SEASON FINAL ACT.23
遠くで、パトカーのサイレンがこだましている。
腕を押さえたデイビッドが、地面にしゃがみ込んだ。押さえた右手の指先から、血があふれて、配管工の制服が、黒くにじんでいく。わたしは思いきりパニくって、デイビッドを乗車させるために開けたドアから、外へ出てそばにしゃがんだ。
「ああ、あああああ、大変、大変! どうしよう!」
あわてふためきながら叫べば、かすっただけだとデイビッドは笑った。
「びょ、びょ、病院行かなくちゃ!」
「そ、の前に、こいつを、フランクル、に渡したほうが、いいと思う、けど?」
とぎれとぎれにいったデイビッドが、血まみれの指に挟んだクリスタル状の物体を、わたしに見せる。わたしは受け取って、制服のポケットへ突っ込む。マエストロが発砲した弾丸が、デイビッドの左肩をかすたっため、やぶれた制服からかすかに煙が上っている。たぶん、やけどのようになっているのだ。流れる血が、全然止らない。
「あなた死んじゃう!」
「先に病院へ行くぜ!」
運転席のミスター・スネイクが叫んだ時だ。猛烈な振動音が、スネイク兄弟の車のボンネットでとどろいた。だけどわたしは、おっかなくて振り返れない。デイビッドを抱きかかえて、なんとか車へ乗ろうとしたら、わたしとデイビッドの周囲が暗くなる。上空にはヘリコプター。そのサーチライトで眩しいはずなのに、誰かが影になっているせいで、暗いのだ。
「……というよりも、おれもきみも、死ぬかもね」
のん気な言葉を吐くデイビッドの、サングラス越しの視線は、あきらかに車の上へ向けられていた。立っているのが誰なのか、見なくてもわたしにはわかってる。そんなわたしの視線の先、デイビッドの肩越しに、地下鉄の駅をしめすボードが見えた。と、渋滞とマエストロのせいで、停車しまくっている車の向こう、歩道からこちらを眺めるたくさんの人たちのすき間から、見覚えのある人物が割ってあらわれ、両手でピストルを構えると、発砲した。
カルロスさんだった。
ミスター・マエストロが、車を飛び越えていく。カルロスさんから、円を描くみたいにして、野次馬たちが逃げて行く。黒い車体の上に乗ったマエストロは、カルロスさんの発砲する弾丸を軽くよけつつ、両腕を振りかぶる仕草を見せる。同時に、いきなりマエストロの身体が、その場から上空へ吹き飛び、十五階建てのビルの七階の窓に、たたきつけられた。
窓が割れて、マエストロの身体がビルの中へ消える。
あ、と思ったわたしの視界に、よろめきながら車の間を飛ぶ、パンサーの背中が映る。WJの名前を叫ぼうとする前に、パンサーは車体の上で身をかがめ、七階の窓へと、飛び去ってしまった。
「くそ、くそ! イラつく渋滞だぜ、これじゃあ病院に着く前に、朝日が昇っちまう!」
ミスター・スネイクが舌打ちまじりに叫んだ。背もたれに頭をあずけたデイビッドの息が、小刻みにきれはじめるから、わたしはこわくて、でもなんにもできなくて、だんだん涙がにじんでくる。ともかく、血を止めなくちゃ。それで、船の中で、WJのしていたことを思い出す。デイビッドが脱いだタキシードをまさぐり、タイをつかんでから、デイビッドの右腕をきつく結ぶ。
「血を、血を止めなくちゃ!」
「……かすった、だけだよ、死ぬわけじゃない」
デイビッドの口角が、にやりと上がる。わかってる。だけどおっかなすぎる! 泣いている場合ではないと自分を鼓舞して、手の甲で涙をぬぐったら、車の窓が叩かれて、ビクついた。おそるおそる窓を見れば、カルロスさんがかがんで、のぞき込んでいた。
ドアを開けたカルロスさんは、肩で息をしながら、
「すまない、ほんとうにすまない。発信器の位置が動かないから、アーサーがおかしいといいはじめてね。急いで地下鉄に乗って来たよ。撃たれたんだね」
カルロスさんが、デイビッドを抱えた。
「ちょうどドクターのアパートが、二ブロック先にある。連れて行くよ、病院よりも早そうだ」
わたしは、目を凝らしてビルを見る。割れた窓から人影は見えない。
「……カルロス、フランクルに頼まれた物があって、それを渡さなくちゃダメなんだよ」
カルロスさんに肩を抱かれたデイビッドがつぶやく。そんなの、そんなの!
「わ、わ、わたしが持って行くから、あなたはドクターのところへ行って!」
このすきに、地下鉄へ乗れば、ミラーズ・ホテルまでは一駅で着く。おれも行くぜとミスター・スネイクがドアを開けたけれど、レストランでデートの最中に、マエストロに倒されたローズさんも、気がかりだった。
「だ、だったら、ローズさんもケガをしてるかも。ブロックの角にいるはずだから、ボブさんと一緒に、連れて行ってあげてくれないかな! わたしなら大丈夫、地下鉄に乗っちゃえばすぐだから!」
みんながわたしの名前を叫ぶ前に、車から出て、いっきに地下鉄の駅をめがけて走った。そして間抜けなことに、構内へ向かう階段を駆け下りながら、もっとも重要なことを思い出した。
……わたしったら、お金持ってないじゃない!
もう、もうううううう。こうなったら仕方がない。かなりワルな行為だけれど、無銭乗車するしかない。大きすぎてだぼだぼの制服で階段を駆け下り、構内へ出る。ラッキー、とはまったくいえない状況だけれど、地上の騒ぎに職員も興味津々なのか、乗降する人たちをつかまえては、おしゃべりに夢中だ。というわけで、わたしはそんな職員の目を盗み、改札を通ろうとしている巨体なマダムの背中にはりつき、まんまと通過に成功する。
うう、うううう、これでわたしも、不良娘の仲間入りだ。
車両を待っている間、両手を握りしめてうろうろしつつ、どうかデイビッドが無事でありますようにと祈る。それからもちろん、WJも。
WJの、パンサーのことを考えると、胸がどきどきして、いてもたってもいられなくなる。ぐいぐいとマエストロに圧縮されていった、あの姿が、脳裏に刻まれまくっていて、心配でおっかなくて、身体が震えてきてしまう。
わたしはぎゅうっとまぶたを閉じる。
カーデナルの女の子たちは、みんなプレゼントが大好きだ。アクセサリーやライブのチケット、それから、高級なお菓子。そういうものを、ボーイフレンドにプレゼントされるたび、自慢する。
だけどわたしは、そんなものいらない。わたしにとって大切なのは、パパやママや、友達だ。だって、目に見えるものって、天国に持っていけないでしょ? わたしの家が貧乏だからかもしれないけれど、パパもママも、大切なのは目に見えるものじゃなくて、思い出なのだと、いつもわたしに話した。まあ、そういった時って、スーパーやおもちゃ売り場で、わたしがなにかを欲しがった時にかぎっていたんだけれど。
でも、いまなら納得だ。目に見えるものなんていらない、だから神さま、わたしの友達が、わたしのボーイフレンドが、みんなまるごと無事でありますように。そのためならわたし、なんだってしちゃうんだから! そう、いまみたいな無銭乗車もね! ……って、これっていいわけになっちゃうかな? このせいで天国へ行けなくなる? いいや、そんな心配をしている場合ではない、絶対に。
ばかみたいなことを考えていたら、構内がざわつきはじめた。その場にいる誰もが、改札へ顔を向けている。だからわたしも、うっかり振り返ってしまった。一瞬、構内の空気が止った、ような気配が流れて、その場に立ちすくんだわたしの目に、ふわりとコートをひるがえす、マエストロの姿が映った。
あ、と思う間もなく、改札の向こうから、わたしへ両腕を突き出したマエストロの身体が、爆風とともに横へ投げ飛ばされる。
乗客がいっせいに騒ぎはじめて、狭い構内を逃げまわる。こんな時にかぎって、車両の到着が遅いのはどうして? どうして! まるで、強力な磁石で、地面に靴がくっついているみたいに、わたしの身体が硬直する。硬直しているのは、おっかなすぎるためだ。蝋人形みたいにぼうっと突っ立っていたら、右手を突き出したままのパンサーが、改札にあらわれた。そして、マスクの顔を、わたしへ向ける。
身をかがめると、改札を飛び越え、わたしの目の前に降り立つ。肩で大きく息をしながら、有無をいわさずパンサーは、ぐいっとわたしの腕を取る。わたしを引き寄せて、抱きしめると、またもや改札を飛び越え、構内から階段へと飛び、はあはあと息をきらす自分の胸に、わたしの頭を押し付けて、
「どうしてきみが、こんなところにいるのかわからないけど、マエストロはきみを追いかけてるみたいだ。ホテルへ連れて行く」
短く告げる。
「デ、デイビッドが。あ、あなたが、あなたが」
「わかってる。ぼくは大丈夫」
全然大丈夫には思えない。
「もういいよ、WJ。全部警察に任せればいいよ、そうでしょ?」
パンサーは、わたしをぎゅうっと抱きしめた。それから、なにもいわずに、わたしを抱いたまま軽く身をかがめると、階段からいっきに地上へ、そして上空へと、飛んだ。でも、ホテルへは行き着かなかった。行き着く前にどこかのビルの屋上へ降り立ったパンサーが、そのまま倒れてしまったからだ。
★ ★ ★
屋上の、赤く錆びた給水塔の影で倒れたパンサーの息は、全力で短距離を走り終えた陸上選手よりも、あらかった。マエストロの姿はなく、ヘリコプターのサーチライトも、パンサーを見失ったのか、南東側でうろうろしている。
「あ、あ、あ、あなたが。あ、あなたが死んじゃう」
おろおろしながらいえば、腕をたてて身体を起こしたパンサーは、給水塔に背中を寄せて座り、笑みを浮かべた。
「……死ねないよ、ニコル。学年末試験もあるし、プロムもあるからね」
「そ、それはそうだけど。そうだけどでも」
「デイビッドが撃たれたの? 音は聞こえていたんだ。どうしても起き上がれなくて、邪魔できなくて。すごく心配だよ」
はあ、とマスクを取ると、額の汗を手の甲でぬぐう。
「カルロスさんが来てくれて、ドクターのところへ連れて行くって。それで、わたしはホテルに戻ろうと思って。本物のバックファイヤーを、持っていくつもりだったから」
「本物?」
WJが、切れ長で大きな片目を細めた。それで、アーサーに教えられたことを伝えると、WJが手を伸ばす。
「ぼくが持って行くよ」
いってから、ぐ、と顔をしかめて、胸をおさえた。
「どうしたの?」
前のめりになって、胸をおさえたまま「折れてるかも」とあっさりと、こともなげにWJにいわれて、わたしはさらにパニくる。
「え! ええ? さっき圧縮されたせい? もういいよ、もういいから一緒にホテルへ行こう、WJ。というか、病院に行かなくちゃ!」
ふ、とWJが笑う。嘘だよとわたしにいう。でも、絶対に嘘なんかじゃないようすだ。
「心配してくれるきみって、なんかかわいいよね。前にぼくが風邪で学校を休んだ時、電話をくれただろ? キャシーとお見舞いに行くっていわれて、汚い部屋を見られたくなくて断っちゃったけど、嬉しかったな」
「そういう思い出話みたいなこと、やめてくれないかな! なんだか最後みたいで、すっごくいやな気分になっちゃうから」
くすくすとWJが笑う。
「キャシーに弱ってる姿を見られたくないなら、自分だけが行くからとかいってくれてさ。誤解してるきみが面白かったし、嬉しかったけど、風邪をうつしたくなかったから、やっぱり断っちゃったんだよな。だってきっと、きみがぼくの看病なんかしてくれたら、なにかの拍子に、うっかりきみにキスしてしまうかもって。そうしたらきっと、きみはぼくのことを嫌いになって、おしゃべりもしてくれなくなるだろうって」
知ってた? とWJがわたしを見つめる。もちろん、そんなことはずいぶん前のことだから、わたしは首を横に振る。振りながら、なぜだがぼわぼわと涙があふれてきて、配管工の制服の袖で、涙をぬぐい続ける。
「自分の部屋にいる時、ぼくはいつも電話ばっかり見てたんだよ。きみから電話がくるかもって。ばかみたいだよね。だけど、同時にすごくこわかったんだ。どんどんきみを好きになっていって、いつか妙なやつに、きみを持っていかれたらどうしようって」
「わ、わたしのことなんて、誰も持っていかないのに」
あれ? とWJが苦笑した。
「デイビッドに持っていかれそうだったよ。それに、最初はアーサーも気になったな。すぐに違うってわかったけど、それでも仲良しだから、ちょっとねたんでた。ぼくって最悪に子どもだね」
ぐずぐずと涙をぬぐうわたしの頬に、パンサーのグローブが触れる。ごわごわした感触の上から、さらに自分の手で包むと、WJがいう。
「まだいってなかったから、ちゃんというよ」
「なにを?」
WJの、極上にハンサムな顔をじいっと見つめる。WJは、真面目な顔になって、わたしの目をまっすぐにとらえる。
「ぼくはきみが、すごく好きだよ。だから、ぼくと付き合って」
そんなの、いまさらだ。
「嬉しいけど、わざわざそんなこと、いわなくてもいいのに。もうそういう感じでしょ?」
違うよ、とWJは小さく笑った。
「ぼくがおじいちゃんになるまでだよ、ニコル。しわしわでよぼよぼのおじいちゃんになるまで、付き合ってくれない? ってこと。だからきみは、杖をついて歩くぼくと一緒に、公園を歩いたりしなくちゃいけなくなるんだよ。きっと、ジェラードなんか食べたら、みっともなくだらだらこぼしちゃうかもね」
わたしはグローブ越しのWJの手を、ぎゅうっと握った。
「いつもハンカチ持って歩くから大丈夫。スヌーピーのだと思うけど。というかわたしだって、とんでもなくみっともないおばあちゃんになっちゃうと思うな。腰なんか曲がっちゃってるくせに、あちこちうろうろしたがるの」
はははとWJが笑う。
「それでぼくはおろおろするんだ。ウチのばーさんはどこへ行ったんだ? とかいってさ。お互い、ネームプレートを首から下げておかなくちゃ。住所も書いてあるやつをね」
わたしも笑ってしまった。笑いながらうなずく。
「わたしもあなたのことが好きだから、おばあちゃんになるまで付き合ってね。それで、昔の映画とか観たりするの。モノクロの、ロマンチックなやつ。……それに、ありがとう」
「ありがとうって、なにが?」
「わたしを見つけてくれて。知ってるでしょ? わたしを見つけてくれる男の子なんかいないって、すっかりいじけちゃってたこと」
「デイビッドにも見つかっちゃった、みたいだけど? ああ、あと、あのギャング野郎だ。まったくもう」
わたしの頬から手を離したWJが、きゅっとわたしの鼻を指でつまんだ。わたしが顔をしかめたら、柔らかい感触が、唇と頬の間に押し付けられる。だからそのまままぶたを閉じて、されるがままになる。それで、わたしはこう思うのだ。
ほら、また。宝物の思い出が増えた。
ふかふかの羽毛みたいな感触が離れたので、まぶたを開ければ、WJはうつむいて笑っていた。
「……ターゲットからズレちゃった。眼鏡がないから」
唇から、ということらしい。照れているのか、つぶやくみたいにしていってから、WJは髪をかき上げてマスクをかぶる。そのすぐ後で、わたしはいっきに、現実へ引き戻される。
WJの肩越しに、屋上へ降り立つミスター・マエストロが見えたからだ。