SEASON FINAL ACT.21
寒すぎる!
初夏とはいえ、夜の海はひどく冷たい。マルタンさんとアリスさんの乗っている、小型のボートに引き上げられて、毛布にくるめられたわたしは、ぶるぶる震えてくしゃみをした。
シルクの芋虫(マノロ・ヴィンセント)を放置したままの船が、華やかなライトとロバート・マッコイのマイク越しの声とともに、ゆるゆるとルーナ河を東へ向かって去っていく。そしてこのボートは、スネイク兄弟と待ち合わせしているという、クラークパークのある方角へと、しぶきを上げて疾走している。
「やっぱ、ダメだったわけ?」
わたしの隣に座って、毛布にくるまったデイビッドが、目の前のWJに訊いた。WJは、ポケットに入れていたパンサーのグローブをつかみ、ぎゅうっと絞る。ちらりとデイビッドを見てから、なぜかシャツのボタンを外しはじめた。
「あそこには」
いって、片手でボタンを外しながら、去っていった船の船尾を指す。
「ウイークエンド・ショーの司会者がいるし、きみは」
デイビッドに視線を向けて、続ける。
「さっきまであそこにいたし、いなくなったって気づいているのは、ミスター・マエストロしかいないし、たぶん彼は」
シャツを脱ぐと、上半身がパンサーのコスチュームになる。スラックスのポケットへ手を突っ込み、濡れたマスクを出すと、固いグラスごとぎゅうっと握る。
「ぼくの安っぽい変装も見抜いてる。とすれば、ぼくがパンサーだってわかってるとは思うけど、ぼくは海へ落ちちゃったから、いまごろ安心してると思うよ」
ん? なんだか含みのあるいい方だ。スラックスのベルトも外して、服を脱いでしまうと、WJはパンサーそのものの姿になる。絞り終えたマスクを見つめながら、髪をぐっとかき上げたWJは、ちょっとげんなりした声音でつぶやいた。
「……これをかぶるのは勇気がいるね」
たしかに、とってもしょっぱそうだし、肌に悪そうだ……って、そうではなくて!
もしかして、ダメではなかった、ということ?
「WJ、飛べる感じだったの!?」
またもやくしゃみして、震えつつ訊けば、WJが笑った。
「……どこまで戻ってるかはわからないけど、なんとなくいけそうな気がするんだ。倒すまでは無理かもしれないけど、マエストロを船からおびき出してみるよ。人気のない工場街まで連れて行けたらいいけど、向こうも攻撃してくれば、ポイントははっきりできないな。でも、どこかのポイントに警察がいたら助かる」
「わかった。手配してやる」
デイビッドがうなずく。でも、わたしはとっても心配だ。なにしろホテルの部屋を出た時には、よろめいていたとアーサーはいっていたし、いきなり飛べなくなって、そのまま落ちる、なんてことになったら、わたしじゃ助けられないから!
「無理しないで、WJ」
心配のしすぎで、体感温度がさらに下がった気がする。いまや尋常ではない寒気におそわれて、身体の震えがまったく止らない。わたしったら、このまま震えが止まらなくなって、まっすぐに歩けない人になっちゃうかも。
「うん。わかってるよ」
うなずいたWJが、ぐっとマスクをかぶった。新作コスチュームをまとったパンサーは、自分にあてがわれた毛布を両手にして、震えまくるわたしへ身を乗り出し、ふわりと毛布ごと、わたしを包んでくれる。
「忘れてるかもだけど、明日ってきみの誕生日だよ」
わたしの耳元で、パンサーとなったWJがささやいた。そうだった、本気ですっかり、忘れていた。
「……ううー。でも、わたしのお誕生日のケーキは、手のひらサイズなの」
「なんだい、それ」とパンサー。
「ギャングのこととか、学校をサボったこととかの罰だって、ママに宣言されちゃって」
「おっと、ストップ。だったらおれが、タワーみたいなケーキを贈ってやる。だから、頼むからそれ以上のくっつき禁止だ、離れろ! いちゃつくなら、おれのいないところでやってくれ!」
しかめ面のデイビッドに訴えられる。わたしから離れたパンサーの表情は、マスクに隠れているのでわかるわけもないけれど、デイビッドに顔を向けると、肩をすくめた。
「悪かったよ、デイビッド」
「どういたしまして」
デイビッドは、むっと口をとがらせる。揺れまくるボートで、器用に立ち上がったパンサーは、腰をかがめてデイビッドを見てから、口をちょっと開き、隣のわたしを指した。
「……きみの隣に座ってる誰かさんは、まだすごく矛盾してるみたいだから、頼むから直感を総動員してよ」
なにかわたしに、忠告してくれているようだ。
「え、矛盾?」
デイビッドを見れば、目が合う。するとデイビッドが、にやっとした。
「安心しろよ、WJ。この、メイクがとれまくって、マスカラで真っ黒くなった顔の女の子にキスする気は、まったくないから」
大変だ。わたしの顔が崩壊しまくっているみたいだ……って、なにをいまさら。着ぐるみが脱げただけのことなのに。デイビッドの言葉に、ふ、と笑みをもらしたパンサーは、ぐ、としゃがむ。ボートに片手をついて、重心となる右足のブーツでボートを蹴った瞬間、その場から姿を消した。
おかげでボートは大きく揺れて、わたしの肩にデイビッドの身体が、なだれるみたいにしておおいかぶさる。水平に戻っても、デイビッドが毛布ごと、おおいかぶさったままなので、ちゃんと座ってとアドバイスしたら、顔を近づけたデイビッドにいわれた。
「……どろどろだね」
「う。わたしの顔が、ってことでしょう、それ。でももういいもの。マノロはあの船だし、自分の顔がもとに戻ったってだけだから」
もぞもぞと、自分の顔を毛布にこすりつけていたら、とれたメイクの残骸が、大量ににじんだ、ように見える。すっごい、あんがい分厚いメイクをしていたみたいだ。ああ、もっと明るかったら、どれくらいにじんでいるのか、はっきり見えるのに! 毛布を凝視して目を丸めていたら、デイビッドがいった。
「やっぱりかわいい」
「え! なにが!?」
びっくりして、うっかり顔を上げてしまったら、鼻先がデイビッドの鼻先にくっつくほどの至近距離になる。ので、のけぞる。
「ああ! ちょおっと、近い、近い。あなたのしゃべってること、WJのいったとおり、すっごく矛盾してる! わたしはビッチなんでしょ!? というか、あれれ? 完璧に友達だって、あなたがいったのに!」
なんとかデイビッドを押しのけると、舌打ちされた。
「船の中で実感させられたんだよ。おれを囲んでた女の子たちは、結局自分のことしか眼中にないんだ。なのにきみは、おれのために、クリス・カーターに平手打ちしようとするしさ。まったく、ムカつくっていうのと、かわいいってのが、交互に押し寄せてくるこの感じ。マジで最悪としかいいようがないね。おれもとうとうカウンセラー通いかよ、まったく」
両手で顔をおおってしまう。デイビッドが混乱しているようだ。そしてわたしも混乱してきた。
「えええ? じゃあ、じゃあ、よくわからないけど、わ、わたしは、どうすれば……?」
顔から手を離したデイビッドが、わたしを半目で見た。
「べーつーにー。そのままでいればいいさ。どうせおれの問題だからね。ああ、くそっ! 平気だって思ったのに、手に入らないものばかり欲しがるなんて、ガキの病気続行中かよ、おい!」
デイビッドはいきなり叫んで、さっきからずうっとボートに寝転がっている、マルタンさんを指した。
「吐くなら吐けよ、マルタン! 我慢してるおまえの顔見てると、イラついてしかたない!」
げっそりしている顔のマルタンさんは、寝返りをうちながらもだえた。
「……ああ、ずばないデイビッド、ミズ・ジェローブ……。アリズの操縦のすごさを、うばぐ表現できたら……」
う、と口を手でおさえたマルタンさんが、ボートから身を乗り出す。そこで、操縦するアリスさんが叫んだ。
「あたしの操縦がなんだってのさ、元海軍が聞いてあきれるね! ほうら、ロドリゲス、吐くならいまだよ!」
ぐるん、とボートが旋回する。うお、と短い声を発したマルタンさんは、とうとう海へ……これ以上はなにもいえない。デイビッドはわたしへのイラつきを、マルタンさんへ八つ当たりしたんだろうと予想し、毛布をすっぽりかぶってから、心の中で謝罪した。
ううう、マルタンさん、申しわけないです……。
★ ★ ★
『ニセモノ?』
わたしとデイビッドの無線機は、海水に浸かって使用できないので、アリスさんに無線機を借りたデイビッドが、物質について告げると、アーサーの語尾が上がった。
『ミスター・ワイズとリックに訊いておく。ちなみにおれはいま、紳士的な場所にいるんだ、深くつっこまないでくれ』
たぶんトイレ、だろう。
『しかし謎だぞ。どうしてそんなに、装置を破壊するための物質を欲しがってるんだ? ……よし、出たぞ』
水の流れる音がたつ。トイレから出たらしい。
「さあな。それより、WJがパンサーになって船に向かった。テリー、というか、マエストロを船からおびき出すから、警察がそのポイントにいれば、捕まえられるんじゃないのか? ちなみに沿岸警備隊はどうなったんだよ?」
『警察の件は了解した……が、父にだけは教えたくないな。どのみち伝わるだろうが』
アーサーはげんなりした声音のまま、続けた。
『警備隊には連絡したぞ、ミスター・メセニが。そのうち向かうだろ、船は見えないか?』
クラークパークへ寄せられたボートに座ったまま、辺りを見わたしてみたけれど、そんな船はまるきり見えない。
「ないな」とデイビッド。
そこで、アリスさんが発言した。
「無給男がなにをしてるのかわかんないけどさ、あんたらがちまちま相談してて、泣けてきたよ、ったく。あの船には乗客がいるんだろ? シティの警備隊の出動を待ってるうちに、よくわかんないけどさ、もしもドッカーンてなったらどーすんのさ、ええ?」
降りな、とアリスさんにいわれて、わたしとデイビッドとマルタンさんが降りようとしたら「ロドリゲスは乗ってな」と、マルタンさんの襟首をつかみ上げてしまった。
「アリス、おれもそれを考えてたんだけど、いいのか?」
アリスさんは、真っ赤な口紅の口角を上げて、にやりとする。
「急げばいまごろあの船は、ルーナ河で停泊してるんじゃないのかい? そのすきに乗り込めば、操縦席くらい占拠できるさ、そうだろ、ロドリゲス!」
うっぷ、と口に手をあてたマルタンさんは、大きくうなずいた。
「……手下どもに、おれの嘔吐爆弾をかましてやる」
その爆弾は、とても嫌です!
陸にわたしとデイビッドを残して、防弾ベストを装着した二人のボートのエンジンが、ふたたびうねりはじめる。
「ホテルに戻りな!」
アリスさんの叫び声とともに、ボートが猛スピードで去ってしまった。WJも心配だけれど、マルタンさんも心配になってきた。みんなの身を案じつつ、胸の高さまである柵を乗り越えて、芝生の広がるパーク内へ入ったところで、アーサーがいう。
『スネイク兄弟の車は、クレセント博物館の前に停まってるぞ。連絡させるか? それとも、そこまで行けるか?』
「ああ、大丈夫だ。誰もいないし、向かいながらこっちから連絡する」
わたしの腕を取って、デイビッドが走り出す。ううう、靴の中がべちゃべちゃで、とっても気持ちが悪い。デイビッドが無線機を、ポケットへ入れようとしたところで、『おっと』とアーサーが短く発した。
「どうしたの?」
『発信器がこっちに、いや、タワーに……。おい、いまだ、見上げてみろ!』
ぐんと顔を上げたわたしとデイビッドの視界に、たしかになにかが、飛び込んだ。黒いなにか。それが、北から南へと、シティの摩天楼のど真ん中へと、まるで低空飛行する飛行機みたいな早さで、ぐんと一瞬、横切ったのがわかった。
「……パ、ンサー?」とわたし。
すると、ああ、とデイビッドがささやく。ささやいて、空を指でしめす。
「……もうひとり。ミスター・マエストロだ」
中心街で、叫び声と歓声が同時に上がり、パークまでかすかにとどいた。デイビッドはわたしの腕をつかみ、博物館へ向かって駆ける。暗闇のパーク内は、とっても不気味だ。誰もいないし、ところどころに植えられている木々のすき間から、いまにもなにかが飛び出してきそうでおそろしい。なにか、というのは、飢えた野良犬だとか、ゴースト、だとか。でも、もっとおそろしいのは。
「WJ、大丈夫かな? ど真ん中だよね? なんだかいろんな声も聞こえたよ?」
「誰もが気づいたのなら、警察も気づいてるし、WJはひとりじゃない。おれたちもいるんだ、そうだろ?」
「でも、でも、なんにもできない感じじゃない? こんなふうになっちゃったら」
ぜいぜいと息をきらしながらいえば、わたしの腕をつかむデイビッドの指に、力がこもった。そのままなにもいわずに、デイビッドは無線機を持って、スネイク兄弟を呼び出す。
『坊ちゃんたち、脱出完了か!? こっちも録音完了だぜ! ちなみにちっちゃいの!』
ん? わたしになんだろう?
『……大変だったなあ。ああいうことは紳士のすることじゃねえぜ、まったく! とんでもねえ野郎だ!』
あああ、盗聴器がポケットに入れっぱなしだったので、マノロとのことも録音されていた、のだ!
「うわああ、わああああ、それは消してください!」
立ち止まったデイビッドが顔をしかめる。
「なんだそれ」
絶対にいいたくない! あああああ……とうなだれると、ミスター・スネイクに、どのあたりにいるのかと訊かれる。わたしをいぶかしんだまま、デイビッドがだいたいの位置を伝えたら、車を移動するので、同じ位置にいてくれと頼まれる。というわけで、パークのすみで待っていたら、無線機からじりじりと、電波の音がもれはじめた。
『おれだ』とアーサー。
「ああ、もうカルロスは死んだとみなすよ。どうした?」
デイビッドはいまだに、わたしの腕をぎゅうっとつかんでいる。うう、ちょっと痛い。もう、どうしてみんな、まるでどんなに力を込めても、わたしは痛がらないと思ってるみたいに、あちこちを力いっぱいつかんじゃうんだろう。わたしだって、痛いのに!
『あれはニセモノだと判明したぞ。しかも、物質の使用方法そのものが違う。敵を騙すにはまず味方から、だそうだ』
アーサーの声に「ごめんね!」と叫ぶキャシーの声が重なって、落ち着いた男性の声に替わった。
『……エキゾチックな物質を消す、という情報があれば、危険な物質の抽出によって与えられる不安が、解消されると考えてしまった。この世に存在しないはずの暗黒物質は、使用方法を間違えば、ブラックホールともなりうる可能性を秘めている。ホールを伝った向こうの世界は、別の次元かもしれない。その仮説を研究するつもりだったのです。わたしたち科学者は、多額の資金を必要とする。とくにわたしのような弱小の研究チームは、結果を出さなければ、危険と判断されれば、翌年の予算を大幅に削られてしまうから』
キャシーのパパが、苦悶のため息をもらす。
『……それでわたしは、友人のスティーブ・ローリーに相談した。彼の提案してくれたことだったのです』
スティーブ・ローリー? どこかで聞いたような……と思ったら、アーサーが割り込んだ。
『朝の番組、昨日よりも賢くなるために。きみも見たんだろ? へんな博士を思い出せ』
思い出してしまった。デイビッドの恋人発覚ワイドショーを避けるため、チャンネルを変えた時に、偶然見てしまった番組に出ていた、男の子向けコミックに登場しそうな、白髪ヘアの博士だ!
『リックに渡し、ぬいぐるみの中へ隠したものは、ただの色水。エキゾチックな物質を消す、といった物質など、実際は存在しない。危険ではない、という情報を、噂として流すためのもので、バックファイヤーとは残りの物質、暗黒物質を固めたクリスタルをしめす名称なのです。これは強烈なもので、現存する物質と配列が合致すれば、途方もない歪みを生み出す。もちろん、実験はしてないので、これは仮定だが……』
また、アーサーに声が替わった。
『……だそうだ。というわけで、マエストロはそれを知っていて、だからやたら執着していたんだろう。まあ、事実は本人にしかわからないが。それから、FBI女と連絡がつかない』
「え!?」
わたしの叫びに、アーサーがぐったりした声で答えた。
『住処に電話をしても出ないんだ。さっきスネイク兄弟に訊いたら、盗聴機器を渡したあとで、デートだとかなんとか、いっていたらしいぞ。きみの両親は元気いっぱい、なんの危険もなさそうだから、お出かけすることにしたんだろう。あの女にも無線機を持たせておくべきだったな』
うう、うううう。なにもかもがうまくかみ合ってない、気がするのは、わたしだけではないはずだ!
「それで? なにか頼みたいから連絡してきたんじゃないのか?」
ため息まじりにデイビッドがいう。
『おお、そのとおりだ、すごいぞキャシディ』
はやくいえよとデイビッドが怒鳴る。
『これから伝える住所へ、スネイク兄弟と向かってくれ。どうせ合流するんだ、行くしかないからな』
棒読みでアーサーに告げられた住所は、シティのど真ん中の高級アパートだった。
「……ここはなんだよ、フランクル」
『ミスター・スティーブ・ローリー氏の、お孫さんが住んでいるそうだ。そこに、正しい「バックファイヤー」があるから、ひっそりと奪還してくれ。奪還したのちは、葬ることに決まった』
「ほ、葬るって、どうやって? 焼いちゃうの?」とわたし。
『焼いてどうにかなるものだったら、とっくに焼いているだろう。きみの発想は相変わらず、やれやれだな。そうじゃない、宇宙へ捨ててもらうんだ』とアーサー。
「え! そ、それ、誰がどうやって?」
『最適な機関がヒューストンにあるだろう。ちなみにまだ午後八時じゃないが、ウイークエンド・ショーのチャンネルが、最高にバタついてパニくってる中継をはじめたぞ。おっと、ミスター・メセニ!』
ブチッとそこで、無線機が切れてしまった。
ヒューストン?
わたしとデイビッドは顔を見合わす。その時だった。耳をつんざくような轟音が、どこからともなく響きはじめたので、思いきりのけぞって空を見上げる。
サーチライトを灯したヘリコプターが、上空にあらわれたのだった。