目覚めたＷＪは、暗号みたいな殴り書きの手紙を、キャシーから渡されて（書いたのはもちろんわたし）、すぐさまガウンを脱ぎ、白いシャツと黒いスラックスに着替える。この服は、今朝方マエストロの手下から奪った服だ。

　それから、アーサーの予想に反し、カルロスさんに文句をいいに行ったわけではなく、まずはホテル内のショップへ向かう。

　高級ブランド店からお土産まで、なんでも揃うショップは地下一階にあって、パーティグッズの売られているショップに入り、ともかくすぐに顔バレしないように、おもちゃの髭とカツラと眼鏡を購入。宿泊客はパーティが大好きなので、こういうショップがホテル内にあるのだ（ちなみに、サンタの衣装もある、らしい）。

　セレブの誰もがそうだけれど、使用人やウエイターの顔を、いちいち覚えてはいないし、気にも留めない。そう考えたＷＪは、安いワインを数本手に入れ、タクシーに乗り込む。足りないドリンクを買いに出たウエイターを装い、出航間際のこの船になんとか、乗船したのだった。けれども、捜してもわたしが見あたらない。デイビッドを見かけて、声をかけようとしたところで、本物のウエイターに「タイとベストはどうした？」だの「その髪はなんだ？」だの文句をいわれ、さっさと働けと責められる始末で、いまのいままで、完璧なウエイターとして振る舞っていたのだという。

「そ、それで、そのタイとベストは？」

　しゃべり終えたＷＪに訊けば、

「予備を借してもらっちゃったよ。きみのことはなんとなく、気になって見てたんだけど、なにしろ視界はぼやけてるし、いろんな香水のにおいだし、まさかきみだとは思ってなかったんだ。それがまさか」

　はあ、とうつむく。

「ともかく、ありがとう。とってもパニくっちゃってて」

　見ればわかる、といわんばかりの顔で、ＷＪはわたしを上目遣いににらみ、片眉をくいっと上げた。

「こっちこそ、恐怖の手紙をありがとう。おかげで史上最大にパニくったよ」

「う。……ごめんね。でも、来てくれて嬉しい！」

　パニくらせて申しわけないけれど、本音だ。嬉々としていえば、ＷＪに苦笑されてしまった。

「にっこりすれば、なんでも許されると思ってる？　……まったく、もういいよ。それよりも、テリーがマエストロってどういうこと？」

　それで、男性用トイレで聞いてしまった内容を伝える。すると、マノロが立ち上がろうとしたので、気づいたＷＪは、わたしの胸ポケットにあるハンカチを抜き、丸めてマノロの口へ入れる。ベッドカバーをはぎ取り、マノロにかぶせ、カバーごとマノロの足首を、自分のタイでさらにきつく結んでしまった。

「あ、あなた、ギャングに殺されちゃう！」

「その前に警察に突き出すよ。未成年者への犯罪容疑。じゃあ、テリーには盗聴器をつけてないんだね？」

「うん。だって、わたしが持ってるから」

　指でつまんで見せると、もじゃもじゃのカツラをつけたまま、ＷＪが眉根を寄せた。

「……ずっと？　いつから？」

「ええっとう。トイレに隠れる前から」

　盗聴器のライトは点滅している。じいっとそれを見つめるＷＪに、無線機を持っているかと訊かれたので、ポケットから出す。受け取ったＷＪは、ちょっとだけ客室のドアを開け、通路のようすを確認し、ドアを閉めて鍵をかける。すぐにスイッチを入れると、こちらからなにも発していないのに、

『おれだ』

　待ってましたといったタイミングで、アーサーがいう。

「ぼくだよ。黙って出てごめん。いま船にいるんだ」

『ずいぶん戻らないと思ってたんだぞ、そういうわけか。ミスター・ロドリゲスとデカ女のボートが近づいているところだから、いますぐに、キャシディを連れて船から降りろ』

「え？　どうして？」

　ＷＪの持っている無線機に、背伸びして顔を近づけつつ訊けば、アーサーが答えた。

『スネイク兄弟から連絡があったぞ。テリーの会話が録音完了だそうだ。おれは内容を知らないが』

「でも、くっつけてないよ？　わたしが持ってたんだもの」

　訴えたら、ＷＪがにやっとした。

「持ってるきみが、テリーのそばにいたら、会話の盗聴は可能だよ。それが不可能だから、くっつけようとしてただけなんだから」

　これは、偶然の産物といえる。万歳、わたし！　というか、そのことに気づけなかった自分の間抜けぶりに、ほとほと呆れてしまう。

「わかった！　デイビッドを捜して、船から降りるよ、アーサー。でも、テリーはなんだか、おっかないことをしようとしてるみたいで、それがなんなのかわからないんだけど、ギャングはいなくなって、みんな魔界行きっていってたよ？　それで、もしかすると、テリーとマエストロは別人で、手を組んでいるとかじゃなくて、テリーがミスター・マエストロなんじゃないかと、わたしは思ったんだけど、どうかな？」

　アーサーが絶句している。一瞬間をおいて、

『詳細を求む』

　それで、ふたたびトイレでの出来事を伝えたら、またもやアーサーが沈黙した。

「アーサー？」

　あまりにも長い沈黙だったので、呼びかけたら、

『……おれがミセス・リッチモンドだったら、きみの成績をＡランクにしてやる』

「えっ、本当！？　それ、すっごく嬉しい！　だってわたし、いままでＡをとったことないんだもの！」

『もしも、だ！　本気で喜ぶな！』

　叱られた。

「きみもそう思うってこと、アーサー？」とＷＪ。

『その可能性はなくはない、ということだ。マエストロが誰なのか、そもそも誰も調べようとはしていないんだ。そのままマエストロは引退。痴話げんかの最中の、ミスター・メセニを呼び出して、テリー・フェスラーの詳細と、マエストロの活躍をすりあわせてみるから、少し待て。ともかく、きみらは船から降りろ。もうすぐそばまで、ボートが近づいているから、海へ飛び込めばいい。ちなみに、ジャズウィット。きみのパワーはゼロなんだろ？　部屋を出て行く時、よろめいていたからな』

　ＷＪの顔が、きゅっと少しばかりゆがむ。

「それがわからないんだ、アーサー。前みたいに、何も考えずにできる、という感覚が、まるで感じられないから。だから試してもいないんだ」

　無理はするなとアーサーがいう。わたしも同感だ。パンサーじゃなくても、ＷＪはＷＪだし、それに、パワーがなくなったら、変なことにならないように、気をまわしたり、緊張したりしなくてもよくなる。

　デイビッドを捜そう、といったＷＪが、無線機のスイッチを切ろうとした時だ。

『……おっと、そうだ。ちなみになんだが』とアーサー。

「どうしたの？」とＷＪ。

『あの物質は、きみが持ってるんだろ？　バックファイヤー。ベッドのサイドテーブルに、眼鏡しかないんだが』

　ＷＪが眉間に皺を寄せた。

「え？　ぼくはてっきり、きみが持ってるんだと思っていたけど、違うの？」

　アーサーが無言になる。それで、わたしは、ずっと気になっていた自分のスラックスの、ポケットの中へ手を入れる。気になってはいたものの、気にしちゃいけない気がして、そのままにしていたのだけれど、なぜだろう。

　手を入れて、なめらかかつひんやりとした感触を、指で撫でまわす。どう考えても、これは球体だ。でも、しゃべってはいけない気がする。わたしが持っていると、しゃべってはいけないのだ。だから黙っておく。でも、どうして黙っていなくちゃいけないんだろ。たぶん、そのほうがいいような気がするからだ。

　無線機のスイッチを切ったＷＪは、またもや髭をつけて眼鏡をかけ、デイビッドを捜そうとドアを開けた。シルク素材の芋虫みたいなマノロを置いて、客室を出る。通路を渡り、階下のデッキを見下ろせば、ダンスをしている男女でいっぱいだ。その中にひときわ目立つカップルがいた。黒いドレスのジョージアと、タキシードのジェイクで、二人はぴったりくっついて、時々顔を見合わせては、微笑んでいた。

　テリーらしき人物は見あたらない。もしかすれば立ち入り禁止の地下にいるのかも？　身を乗り出してデッキのすみへ目をこらせば、女性の集団が視界に飛び込んだ。

「……うーん。もしかすると、あそこにデイビッドがいる気がする」

　目を細めたＷＪは、わたしの手を取って、握った。

「行ってみよう。はぐれないでよ」

「うん。はぐれないよ」

　うなずくと、ＷＪがにっこりする。だからどうしても、カミングアウトすべき項目が過る。いまいうべき？　いまなら叱られない、のではないだろうか！

「……あのう、ＷＪ。わたし、必要に迫られて、芋虫に胸を、触らせてしまったんだけど、ごめんね」

　おずおずといっきに告げたら、ＷＪが通路で立ち止まった。

「え？　芋虫……って、マルタン？」

「う。ああっとう……、ううん、さっきの」

　客室をしめす。気づいたＷＪは、思いきり顔をしかめて、はあ？　とわたしに、顔を近づけた。変な眼鏡に髭にカツラなので、うっかり吹き出しそうになったら、笑ってる場合じゃないとやっぱり叱られた。う。そ、そのとおりです……。

「なにそれ」

「なんていうか、なんていうか。マノロは女性が苦手だから、そういう感触で嫌になると思って。でも、ぺったんこすぎたみたいで、男だろっていわれちゃって、結果、逆効果だったというか……」

　うなだれる。そんなわたしの頭上に、呆れたようなため息がそそがれた。

「……おかしいな。ぼくの助言が、まったく役に立ってない気がする」

「助言？」

　ＷＪはわたしの手を、ぎゅうっと力いっぱい握って引っ張り、ずんずんと通路を歩き、階段を下りはじめた。

「すきだらけって、何度もいってるのに」

「そんなことないと思うな！　わたし、断固とした態度の、氷の女王みたいに、がんばって振る舞ってたよ？」

　まあ、それにも疲れて、いつの間にかもとに戻ちゃってるけれども。わたしの訴えに、むっとしている気配を漂わせたＷＪは答えない。一階の船内を歩いていたら、ＷＪはほかのウエイターに呼び止められて、サボるなといわれてしまう。ゲストの手を引っ張っているウエイタースタイルのＷＪは、むすっとした口調でいい返す。

「お友達とはぐれたお客さまを、ご案内中です」

　ウエイターはわたしを一瞥して、トレイのドリンクを差し出した。のどが乾いていたので、喜んで受け取ろうとしたら、

「だめです。未成年のお客さまなので」

　冷たくいい放ち、ぐいっとわたしの手を引き寄せ、デッキへ出た。

「お、怒らないでほしいな！　わたし、カミングアウトしたよ？」

「うん、そうだよね。わかってるけど、やりきれない気持ちでいっぱいなだけ。自分の眼鏡をかけてなくてよかったよ。さっきはさっきで、あんな場面をクリアに見せられたら、芋虫のマノロを海に突き落としてたかも。まったく！」

　ぎゅうぎゅうと手を握られるので、ちょっと痛いと感想をのべたら、おしおきなのだといわれてしまった。そうであれば、受け入れるしかない。

「う……うん、わかった。できるだけ我慢してみる」

　痛いけど。すると、ちょっと力がゆるむ。わたしの前を歩くＷＪはうつむいて、そのうちになぜかくすくすと、声をもらしはじめたから、どうしたのかと訊けば、肩越しにわたしを振り返る。

「ほらね。きみはいっつもそうやって、ばかみたいな受け答えをするんだ。それでぼくは面白くなって、怒ってる自分のほうが間違ってるような気がしてきて、にくめなくなるんだよ。……もういいよ」

「え？　もう怒ってない？」

「怒ってるけど、きみになにを助言しても無駄だってことが、よくわかったからいいってことにする。まあ、ぼくだって完璧じゃないから。だから一緒に、完璧になっていけばいいんだ、ちょっとずつね」

　嬉しすぎて、背後からＷＪに抱きつきたくなる衝動におそわれた時、女性の集団の中心に、ブロンドの髪を発見した。

​

★　 ★ 　★

 

「どうして連絡してくれないのよ！」と誰か。

「ちょっと、モリー・マグガイア、それどういうこと？」ともうひとり。

「ちょっとお待ちになって！　デイビッド、この二人ともデートしていたわけ？」と、さらにもうひとり。

「え！　あなたもデートしていたの！？」とさらにさらにもうひとり。

　囲まれたデイビッドは、笑顔だったけれど、あきらかに口元がひきつっている。

「オーケイ、オーケイ、ガールズ。ぼくの時間はたっぷりあるんだ、順番に予定に入れるよ。秘書からの連絡を待っててくれ」

　両手をかざし、お手上げ、といった恰好でデイビッドがいう。それじゃあ納得がいかないと叫ぶ、ガールズ集団は、やっぱりどこか＆なにかで見かけたような、きれいな女の子たちばかりだった。そんな集団からデイビッドを助けるのは、至難の業、に思えたけれど、わたしから手を離したＷＪは、腕を組んでつぶやく。

「とっても困ってるみたいだから、助けなくちゃ」

「どうするの？」

　絶対にここにいること。ＷＪはわたしに告げて、ウエイター姿で集団の中へ突撃した。と同時に音楽が、ゆったりとしたボーカルジャズになる。歌っているのはハスキーボイスの女性で、曲は「わたしを見て」という歌詞ではじまる、スタンダードナンバーだ。

　ラジオで聴いたことがあるだけ、なのにわたしの身体は勝手に動く。なぜだか、どうしても、とある人物に会わなければならない気持ちになって、よろよろしながら船内に入る。その人物を捜すのに、見あたらない。

　見あたらないので、デイビッドとＷＪのいる方向とは反対の、デッキの通路へ出てから、またもや階段を上る。だんだんと視界がぼやけてくる。一刻も早く会わなければと気が急いてくる。じっとしていてと、ＷＪにいわれたというのに、どうしてわたし、階段を上ってるんだろ。

　通路にいる人たちが、曲に合わせて軽くダンスしていた。デイビッドのダンス指導は必要なかったかもと思いつつ、三階への階段に視線を向ける。そこにも、鎖がぐるぐると頑丈に巻かれ、立ち入り禁止のボードが下がっていた。うーん、ここはまたぐべきだろうか、それとも、くぐるべき？　迷っていたら背後から、とんと軽く肩を叩かれる。

　振り返れば、捜していた男性が立っていた。間近で見るのははじめてだ。それ以外で見かけたのは、デイビッドの豪邸で、望遠鏡越しだったから。ブラウンの髪に灰色の瞳。上品な顔立ちにはたしかに、どことなく、面影がある、ように思える。ともかく、わたしはポケットに手を入れ、球状の物体を渡す。すると、男性がいった。

「……きみだったのか。ずっと見かけていたというのに、どうりでわからないわけだ。時間が迫ってもきみは見つけられない。とうとうこの曲を流すはめになってしまった。とはいえ、念には念を入れておいてよかったよ。おかげできみから、姿をあらわしてくれたね。ありがとう」

　口角を上げ、にやりとすると、物体を手にして、スラックスのポケットへ入れた。任務完了、という感覚に包まれ、わたしはほっとして、にっこりする。すると、男性は腕時計を見て、いい時間だ、とつぶやく。つぶやいてから、わたしの左耳に、右手を寄せる。パチンと指を鳴らした瞬間、わたしの意識は遠ざかり、遠ざかっていく意識の中で、こんな声を聞いた。

「わざわざありがとう。アラン・ブラウンのお友達」

　それはあきらかに、ミスター・マエストロの声だった。

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