SEASON FINAL ACT.17
着ぐるみハム状態の自分が、昨夜から早朝にかけて、乗っていた船だとはとても思えない。
施設の乗船口トンネルから港の埠頭へ出て、三階建ての船に設置された階段を上る。
上ればそこは、船尾デッキへ通じる一階だ。すでにデッキからは、ジャズの生演奏が聴こえている。自分が監禁されていた、地下を見てみたかったけれど、なにしろマノロに腕をつかまれ、不自由を強いられている状態なので、身動きがとれない。ただし、地下へ通じる階段の手前に、鎖がかけられてあり、立ち入り禁止のボードが下がっているのは、確認できた。しかも、早朝見た時には、白い扉でがっしりと閉じられていた一階の船内が、デッキまで開け放たれてあったので、かなり驚いてしまった。
真っ赤な絨毯の敷かれた広い空間には、テーブルと椅子が置かれていて、両側の壁際に、白いクロスのかけられた細長いテーブルがあり、さまざまな料理やドリンクが用意されている。素敵すぎる料理ゾーンを、制服姿のコックと、白いシャツにタイを締め、黒いベストを羽織ったウエイターが、忙しなく行き交っていた。ものすごくいいにおいのオンパレードに、うっとりしている……場合ではない。
今朝、ここを通り過ぎた時には、おそるべき装置が隠されてあるはずと思っていたのに、そんな気配はみじんもない。というか、そんな物体すら見あたらない。もしかすれば、この上の二階か三階にあるのかも? そう思って、ばかみたいな顔で、ライトの埋め込まれた天井を見上げていたら、
「ここから動くな」
マノロにいわれる。わたしの腕から手を離したマノロが、色とりどりのドレスをまとう女性や、正装した男性のすき間をぬうようにして歩き、デッキへ向かっていく。もしやもう、テリーを発見したとか!? だったらいますぐ船から脱出できる!
期待しながら背伸びして、マノロの行方を見守ってみたら、会話の相手は誰だかわからないけれど、なにかで見たような気がする、小太りの中年男性だった。というか、わたしにとってはここにいるすべての人が、誰だかわからないけれど、なにかで&どこかで見たことのある人たち、ばかりだ。
マノロがギャング顔を封印して、ゆったりとした笑みを浮かべている。そこでわたしははっとした。フェスラー家のパーティに、どうしてヴィンセントファミリーの次男坊が、堂々と仲間入りできてしまっているのだろう? だって、マエストロに騙されたとはいえ、フェスラー銀行へ強盗に入ったのは、ドン・ヴィンセント率いるファミリーの手下、なのだ。
マノロに直接訊けばすむことだけれど、あまりしゃべりたくはないので、この疑問に答えてくれそうな人物に、いますぐ訊ねたくなってきた。だけどこの隙に、デイビッドを捜すべきかな? うーん、どうだろう、やっぱりその前にアーサーへ連絡してみたほうがよさそうだ。船に乗ったという連絡ついでに、WJのようすを確認して、マノロの疑問に答えてもらうのだ。ようし、いますぐそうしよう!
とはいえ、セレブだらけのこの場で、堂々と無線機で会話する勇気はない。そんなことをしちゃったら「それはなに?」的視線に耐えなければならないし、あげく目立って、変装しているマエストロに身バレする可能性もあるからだ。
すごい、わたしったら、とっても賢くなってるじゃない!
トイレを捜そうと思ったけれど、会話を終えたマノロが戻って来そうだったので、とっさにかがみこみ、壁際のテーブルの下へ滑り込む。テーブルクロスの中でしゃがんでいたら、永久にここで隠れているべきだ、みたいな思いにかられてきた。だけど隠れていたら、マノロが任務完了になってもわからないかも? そう気づいてうなだれつつ、ジャケットのポケットから無線機を出す。
「お、応答せよ、応答せよ。こちらニコル・ジェローム」
ジャズの生演奏が聴こえる中、こそこそと声を発してみた。もう一度、同じ言葉を繰り返したところで、じりじりとした音に混じり、
『……おれだ。乗ったな』
アーサーがいう。
「うん、乗ったよ。それで、デイビッドとはぐれちゃった。あと、WJはまだ眠ってる?」
『いや、だいぶ前に起きたぞ。きみの手紙に顔をしかめて、二日酔いの酔っぱらいみたいに、よろよろしながら部屋を出て行った』
「ええっ、うっそ! どこに行ったの!?」
『うっそ! じゃない。たぶん、ホテルのどこかにいるミスター・メセニに、文句をいいに行っただけだろう。とてもじゃないが、そっちまで飛んで行くなんて、できるとは思えないようすだったからな。まあ、生きているから安心しろ。それで? さっそくギャングの次男坊は、盗聴器をくっつけたのか?』
「……う。ええとう、まだわからないな。わたし、いま、隠れてるところなの」
『どこに?』
「……おいしそうな料理ゾーンの、テーブルの下」
一瞬、沈黙が流れた。
『……ずっとそこに、いるつもりじゃないだろうな』
「う……うん。出なくちゃいけないよね。でも、とっても落ち着くんだよ。ほら、子どもの頃とか、ブランケットかぶって懐中電灯照らして、夜更かしとかしたでしょ? あれってなんとなく秘密めいてて、でも落ち着く感じじゃなかった? なんだかああいうのに似てるなあって。だからできれば、パーティが終わるまで、ずうっとここにいたいんだけど、ダメかな?」
呆れているのか、アーサーからの返答がない。ダメのようだ。すると、アーサーのため息が聞こえた。
『……きみのその、とりとめのないおしゃべりを聞いていると、いますぐ死にたくなってくるのは、なぜだろうな。切るぞ』
「え! もうちょっとしゃべらせて! 気取っていなくちゃいけないから、すっごく辛いんだもの。キャシーに変わってくれないかな?」
『忠告してやろう、ニコル。きみは大量の電池を持っていない。この無線機を満足に活用するつもりなら、三十個の乾電池を必要とするんだぞ、忘れたのか? 次の重要な連絡を待つ。以上だ』
「ああっと、待って! なんでマノロがここにいても、誰も変な顔しないのか、意味がわからないから教えてくれない?」
『……やれやれだな。招待状は、父親がアホな強盗をしでかす前に、届いていたんじゃないのか? マノロもファミリーの一員だが、シティじゃ見過ごせない存在になってしまってる。ファッショナブルかつ、オシャレなお店のオーナー、だからな。それに直接、マノロが悪さをしでかしたわけじゃない。くっついて行くはめになったついでに、ちゃんとやつを見張れよ、ニコル。根まわしに必死になって、盗聴器をしかけるのを忘れないようにな!』
「根まわし?」
『その場にマエストロがいるのは、わかっているはずだから、多少はにごしてしゃべるだろうが、重要人物に、悪いのはファミリーではない、とかなんとか、しゃべくるってことだ。女性が苦手でもけっこうなやり手、みたいだから、アホではないという事実を信じるしかないがな。以上だ、息切れがしてきたぞ、もういいな!』
ブツッと、切られた。
なんだか納得がいかないけれど、大人の世界の人間関係は、わたしには計り知れない、もやもやとした面倒くささに満ちているらしい。というか、お金さえあればシティでは、善悪の境目があいまい、ということなのかも。嘆かわしいことこのうえないけれど、まあいい(全然よくもないけれど)。とりあえず、WJが目覚めた、ということがわかって、ひとまず安心だ。
無線機をポケットへ押し込み、マノロに胸を触らせてしまったことについて、WJにカミングアウトするタイミングを、間違わないようにしなければ……と思った瞬間、音楽が止んだ。汽笛が鳴り、華やかな曲が流れはじめ、大音量の拍手喝采に包まれる中、ごうん、と船が動き出す。同時に、マイクを叩く音がこだました。
「美しい夜空のサタデーナイトです、紳士&淑女の皆さん! 本日はジェイク・フェスラー氏とジョージア・レスター嬢の婚約パーティへようこそ! わたしは本日の司会を務める、ロバート・マッコイです!」
え! ウイークエンド・ショーのズラ司会者が、どうしてここにいるの!?
「ええ、そう、今夜のウイークエンド・ショーはどうするのか、という疑問が聴こえますよ」
どっと笑い声が上がる。
「大丈夫、実はわたし、二人いるんです……というのはジョークで、今夜の番組は録画済み。ただし、もしも面白いなにかが起きたら、わたしは海へ飛び込んで、収録現場へ直行するはめになるでしょう。ともあれ、わたしの仕事はさておき、今夜の主役をご紹介しましょう!」
ドラムの音とともに、ものすごい拍手が巻き起こったので、あわててクロスを持ち上げ、顔をのぞかせてみた。と、すぐそばに、真っ黒なドレス姿の女性が立っていて、わたしに気づき、目を丸める。
うおっと!
「……あらやだ、大変。いたずらっ子くん発見」
くすりと笑い、身体をかがめてわたしを見下ろしたのは、あろうことかパトリシア・リー、だった。そんなわたしの視線方向に、パトリシアの胸の谷間が、バッチリ至近距離だ。ああ、このくらいの胸があれば、マノロはわたしを避けたはずなのに。どうしよう、とっても、ものすごくうらやましいボリューム感! そのうえ、甘くていい香りがする。ううー、完璧なセレブが間近にいるという興奮と、甘い香水のせいでクラクラしてきた。わたしと大人っぽいパトリシアの年の差が、たったの一歳だなんて、まるきり信じられない。
「見つかっちゃって、びっくりしちゃってるのかしら? かわいい方ね。あたし、あなたを見かけたことないんだけれど、なにをなさってるのかしら? モデル、ではないわよね、身長が高くはないし? それにあなた、男性? 女性? ちなみにあたしはパトリシア・リー。たぶんご存知よね?」
はい、存じております。
口調や仕草から察するに、たぶんパトリシアはわたしのことを、中性的な男の子だと、思っているのではないだろうか。しかもそんなわたしを、気に入っちゃった……わけはないだろう。だけど、どうにもそう思える。まあ、どちらにしても、わたしが女の子だと伝えたら、すぐさまそっぽを向くはずだ。
「ええっとう。女性、です」
あら! とパトリシア。そっぽを向くかと思ったら、ちょっと身を引きつつも、なぜだか、四つん這いになっているわたしに、手を差し伸べてくれる。あれ?
とりあえずその手を握って立ち上がれば、ヒールのせいか、わたしよりも少し背の高いパトリシアが、わたしの耳元に唇を寄せた。
「……なぜかしら。あなた、とっても危険な香りがするわ。知っていて? この船、二階は客室なの、素敵でしょう? あたし、最近新たな挑戦をこころみてみたいって、思ってたところなの。あなたならバッチリだわ。なんならパーティが終わってから、ホテルでもいいのだけれど。そうね、クリスも誘ってみる?」
……なにをいっているのか、さっぱりわからない。わからないけれど、クリスという名前には反応した。まさか、もしかして、それってロルダー騎士役の俳優?
「ク。クリスって、クリス・カーター?」
「そうよ。彼も来てるの。二週間ほど付き合ったんだけれど、てんでつまらない方よ。でも、違う意味ではつまらなくないの。だからまだ続いちゃってるわけ。わかるでしょ?」
ウインクされたけれど、ごめんなさい、まったく理解できない。
「近頃見かけないけれど、本音をいえばデイビッドがいいのよね。彼、いないのかしら」
ん? それはもしかして……。
「そ、それは、まさか。ラストネームはキャシディ?」
そうよ、とパトリシアが、かなりセクシーな雰囲気で、わたしの唇に流し目をそそぐ。
「彼のキス、最高なの。腰がくだけるのよ」
わたしの耳元でささやいたパトリシアに、ふう、と、息をかけられた。あああ、どうしよう、意味もなく叫びたくなってきちゃった! この場にデイビッドがいたほうがよかったのか、いなくて正解なのか、というか、めまいのせいで、その場に倒れそうになったけれど、なんとかアーサートラウマを思い出し、ポーカーフェイスを装う。
「そ、そう……ですか」
うう、わたしが憧れていたパトリシア・リーはどこ? ドラマや雑誌のイメージでは、本をこよなく愛する知的な文学少女、っていう感じで、美人なのに、男の子としゃべるだけで、顔が真っ赤になっちゃう雰囲気だと、思ってたのに!
ほんとにまったく違う、みたいだ……。
呆然としていたら、主役二人の紹介が終わってしまい、拍手にまぎれて、ふたたびジャズの演奏がはじまる。パトリシアに口説かれて(そうなの? いや、わからない)いる場合ではない。マノロの姿は見えないし、テリー・フェスラーらしき人物も見あたらない。そのうえ、デイビッドも!
パトリシアから離れるため、さりげなく一歩しりぞけば、誰かにぶつかってしまう。
「おっと。やあ、ハーイ!」
ぶつかった相手が、わたしの背後から、かなり能天気な声を発した。おそるおそる振り返ると、まったく知らない男の子だ。この隙に、わけのわからないセレブゾーンからの脱出をこころみる、つもりだったのに、パトリシアに腕を取られて、またもや動けなくなる。
……いっそピエロの恰好で、来るべきだった。そうすれば誰も、わたしを気にしたり、引き留めたり、耳に息をかけたりなんてしなかった、だろうから!
「パティ、クールな子を連れてるじゃん。誰?」
そういうアナタは誰ですか? ブラウンの髪は長めで、前髪もろとも無造作に耳にかけるという、グイードの自称アーティスト的、ロックスタイル。瞳もブラウンで、ハンサムというよりも、個性的な顔立ちの、ものすごく軽そうな雰囲気の男の子が、わたしに右手を差し出した。
「クリス・カーターだ。きみ、誰?」
とっさにわたしは、こう思いながら、握手を交わした。ここにキャシーがいなくてよかった。いたら間違いなく、髪を振り乱して発狂していただろうから。だって、憂いのある陰を背負った、孤独な騎士のエッセンスが、どこにも、ひとつも、加わってないんだもの! なるほど、これは異議を申し立てたくなっても、無理はない。
それとも、演技でカバーするとか? いいや、ありえない。演技がよくても、見た目が違う。だいたい、ロルダー騎士は大人の設定だ。もうそこからして、ぜんぜん、まったく違いすぎる!
「チャック・スミス。ただの高校生」
脱力のあまり、ぶっきらぼうな声音になってしまった。
「へえ、どこ?」
「……カーデナル」
あらやだ、とパトリシア。クリスがにやっとした。
「ごちゃ混ぜハイスクールか。パワーを失ったヒーローがいるじゃん。きみ、会ったことある? あいつって、金持ちなのに、カーデナルに通ってるんだよな。わけがわかんないね。なんだ、じゃあきみはフツーの子ってわけだ」
イヤミたっぷりに聞こえたのは、庶民であるわたしの気のせいなのだろうか。うーん……、なんだかクリスの首を、絞めたい衝動にかられてきた。
「そう、フツーだよ。あなたって、全然ロルダー騎士、っぽくないけど、どうしてロルダー騎士役になったの?」
ふふ、とクリスが髪をかき上げるけれど、まるきりかっこよく思えない。
「プロデューサーと作家の父が親友なんだ。同年代の女の子に人気のコミックだったら、同年代の俳優のほうがウケるだろ? だから設定をちょっと変えて、新しい感じにリニューアルするんだよ。おれのデビュー作としては、アホな役だけど、ヒットは間違いないっていうから」
コミックを知らない大人のマノロが「アホ」呼ばわりするのは、仕方ない。でも、演じる本人がアホな役だと思ってるなんて知ったら、キャシーは絶対、気絶しちゃう! ううーん、うううーん、珍しく殴りたいと思う人に出会ってしまった。ぎゅうっとクリスの手を、力いっぱい握ってから離したところで、セレブだらけのおめでたい婚約パーティで、お金持ちのバカ息子に平手打ちをくらわせるべきか否か迷う。いいや、ここは我慢すべきだ。なにしろマエストロが、どこに潜んでいるのかわからないのだから、目立つようなことはやめよう。静かにその場から去ろうとしたら、パトリシアがわたしのジャケットを引っ張る。
「クリス。ほら、この子どうかしらと思って」とパトリシア。
「ああ、ああ、いいね。うん、いいよ」
アルコールと思われる液体の入ったグラスをあおり、クリスがにやにやする。なにが「どうかしら」で、なにが「いいよ」なのか、わたしにはさっぱりだけれど、とってもよろしくない予感がする。いますぐ逃げよう、と思った時だ。
クリスの視線が、わたしの背後へそそがれる。同時に、うしろから、
「おれの友達を、狂ったセレブプレイに巻き込まないでくれ」
デイビッドの声だった。
「デイビッド! 捜してたんだよ?」
メデューサでも見るみたいな苦い顔で、デイビッドがパトリシアに視線を向けた。すぐにわたしの腕をつかんで、背を向けると、クリスがいう。
「庶民派気取りのキャシディ。ステッドンの入学金も払えないのか? パンサーを辞めたから、ダイヤグラムが倒産するぞ?」
決定、やっぱりこの人のほっぺを、思いきりひっぱたくことにした! 右手を上げたら、その手をデイビッドにつかまれる。
「心配してくれて優しいな、カーター。父親のくだらないポルノ小説が、そろそろ下火だぞ。有閑マダムの情事なんて、いまどき流行んないから気をつけろって、伝えておいてくれ。それからミス・リー」
パトリシアににっこりして、
「知ってるか? 付き合ってる相手のレベルで、自分のレベルが査定されるんだ。売れっ子でいたければ、安っぽい男なんか相手にするなよ。おっと、だからって、おれはゴメンだけど」
いい放ち、ぐいぐいとわたしを引っ張って、デッキへ続く通路へ向かう。
「クリス・カーター、知ってるの?」
「残念ながら知ってるよ。父親はポルノもどきのベストセラー作家。クリスはたまにモデルとかやってる。まったく売れてないけどさ」
デッキへ出たデイビッドは、わたしから手を離し、はあっ、とうつむきながら息を吐いた。
「おれがいうのもなんだけど、セレブなんか相手にするなよ、ニコル。あいつらの頭の中は、いかに快楽を追求するかで満載なんだからな。男女混合レスリング、みたいなさ」
「男女混合レスリング?」
「裸で、ってやつ」
……聞かなかったことにしよう。というか、裸のレスリング大会に、うっかり参加するはめにならなくて、よかった、としかいえない。
「う。あ、相手にするつもりはなかったのに、よくわからないけど、パトリシアにつかまっちゃったんだもの。それに、耳に息までかけられて、なんだかもう、すごくがっかり」
だろ? とデイビッドはわたしを見て、片眉を上げた。
「……さっきの。ローズの受け売りだって、バレた?」
付き合ってる相手のレベルでうんぬん、というのは、ずいぶん前にカルロスさんへ向けて、ローズさんがいった言葉だ。
「うーん、わたしにはバレたけど、わたし以外にはバレてないと思うな」
肩をすくめるわたしに、デイビッドが微笑む。
「さっき、なにしようとしたんだよ。こうやって」
右手を上げる。
「だあって! あいつムッカつく! 久しぶりに誰かをひっぱたきたいって、本気で思っちゃった。イヤミたっぷりで、かっこつけちゃって、しかも自分の演じる役のことを、アホ、なんていうんだもの。キャシーが聞いたら怒りのあまり、心肺停止になっちゃうよ。それにあなたにも、いやーな感じのこというし」
腕を組んだデイビッドが、くすくすと笑った。
「向こう見ずなビッチめ。でもドウモ。マジで嬉しかった」
二人で並んでデッキの通路に立ち、闇夜に伸びる摩天楼の灯りを眺めた。無数の灯りは、そこに息づく人たちの証だ。
「いっぱい、あそこに住んでる人がいるって思ったら、なんだか不思議な気がしない? なんていうか、遠くから見るとスノードームみたい。その中にいっぱい、ちっちゃな小人が住んでる、みたいな気がしてくるの」
デイビッドが苦笑した。
「そういうきみも住んでるだろ」
「まあ、そうだけど」
捜していたんだよとデイビッドにまたいうと、それはこっちのセリフだと呆れられた。
「きみだけロストクラブに入って行ったあとで、裏手からわらわらと、ギャング野郎が集まってきやがって、ひとり殴ったけど、押さえ込まれたあげく、こっちは車に押し込められたってわけ。車の中におかしげな機器類が積んであったから、スネイク兄弟の車だってわかったけど、心配したんだからな、ほんとに。しかも、週末のあの時間帯。渋滞にハマって、でかいリムジンを見失って、やっと見つけたきみは、セレブの問題児に囲まれてるんだからな」
まったく、と苦笑された。
「あいつはどうしたんだよ? いないな」
「誰かとしゃべってるうちに、わたしが隠れちゃったから、どこかに行ったのかも」
いっそのこと永遠に、いなくなったままでいていただきたい。ああ、でもダメなのだ。盗聴器を仕掛けるのは、マノロの役目なんだから。なんだかマノロ、いなくてもよかったんじゃないかな、と思ったところでもう遅い。
デイビッドがわたしを見つめていた。なにかいいたいけれど、いうべきではないと迷っているような、ちょっとさみしげで、でも、どことなく優しい雰囲気の眼差しだった。
「そうだ。デートの相手を捜さなくちゃ、デイビッド」
パトリシアとのキスにまつわることは、訊ねないでおこう。もしかするとデイビッド的に、うっかりしちゃった、または、トラウマ、かもしれないから。
「……デートの相手か。デートね。まあ、今夜はやめとくよ」
顔をそむけたデイビッドが、軽く手を握り、わたしの肩をぽんぽんと叩く。デイビッドとのんびり、夜景を眺めている場合じゃないのに、ジャズの流れる海上からのロマンチックすぎる景色に、気持ちがのまれてしまう。おかしな目的なんてなくて、ここにキャシーとアーサーと、そしてもちろんWJがいたら、最高に素敵なのになあ。
しばらくぼんやりと夜空を見上げていたら、白髪まじりで、ものすごく品のよさそうな紳士が、船尾のデッキ方向から、デイビッドに近寄った。
「キャシディ青年。お父さんは元気かな?」
デイビッドが紳士と握手を交わす。
「ええ、海の向こうで元気ですよ、ミスター・カイル・フェスラー」
テリーでもジェイクでもない、フェスラー? それはまさしく、フェスラー家のトップに君臨するお人なのでは……。そんなミスター・フェスラーにつられてか、やがてデイビッドのまわりに、人だかりができていく。遠ざかったわたしが、なにげなく進行方向に視線を向けた時、船首の操縦室あたりを、すっと横切る人影が視界に飛び込んだ。
まさかマエストロ? それとも、テリーかも?
後を尾けてみるべきだろうか。尾けたくないけれどその先に、あやしげな例の装置がありそうだ。そうっと隠れるようにして行けば、大丈夫なはず……と、一歩足を踏みしめた瞬間、ぐいっと左腕をうしろに引っ張られてしまった。
今日はずいぶん、腕を引っ張られる日らしい。一生分の、腕を引っ張られる的経験をしたら、この先誰もわたしの腕を、引っ張ってくれなくなるかも。WJですら、引っ張ってくれなくなっちゃうかも!?
「見つけたぞ、チャック。ずいぶん捜した」
かなしいけれど一瞬だけ、飛んで来たWJかも、と期待してしまった。現実とは妄想よりもシビアみたいだ。まあ、あたりまえだけど。
「も、もしかして、もう?」
マノロに向かって、設置したかという意味を込めて訊く。
「そのターゲットが見あたらない。それよりも、クリス・カーターを見つけたぞ。こっちだ」
にやっとしたマノロがわたしを連れて、ずんずんと料理&歓談ゾーンを過ぎ、デイビッドのいる通路とは反対側の通路へ出る。そこには、二階へ続く階段があった。いや、だから! だから、クリス・カーターはどうでもいいんですってば! だけど、殴られるくらいはアリかな? ……って、いいや、わたしにひっぱたかれるならまだしも、本気のギャングが相手だなんて、手に負えないことになってしまう。絶対にダメだ、どうしよう!
……ん? というか、ちょっと待って。
いまさらだけれど、すごい考えがいま、過ってしまった。
もしかして、テリー・フェスラーは、この船に乗ってなかったり……して?