SEASON FINAL ACT.08
どう思う? とカルロスさんは、トランクを差し出しながらWJに訊いた。寝室にいたキャシーたちは、ドアから顔を出したまま微動だにせず、アーサーもデイビッドも、カルロスさんとWJを、交互に見つめる。そしてわたしは、とん、と床を軽く踏みしめてから、トランクを床へ置き、ゆっくりと周囲を見まわす、WJのうしろ姿を眺めていた。
WJはいつかの、あの、デイビッドの二件目の隠れ家にいた時と同じように、壁やドアに手をついていく。そして、ゆっくりと手を離す。
「……なんともいえないけど。ないと思うよ」
しゃべりながらテーブルへ近づく。安心したように息をついたカルロスさんは、のん気にたばこをくわえ、火をつける。
「ホテルに脅迫の電話があったそうだよ。パニックになるようなことだから、宿泊客にはまだ伝えていないと、支配人はいっていたんだ。爆発は一時間後だそうだけど、ぼくには目的がわかってる」
肩をすくめて、寝室を見やる。
「もぬけの殻になったこの部屋の機器類を破壊。それから、外へ出たミス・ホランドを奪還したいんだろう、マエストロは。ということは、ぼくらがこのホテルの、この部屋にいるということは、バレているということになるね」
イタリア男性のジゴロみたいな顔で、にやりとしたカルロスさんは、騒がなくてもいいよとわたしたちに伝えてから、WJへ告げた。
「調べるのにはどのくらい?」
トランクを持ち上げたWJが答える。
「十五分」
振り返ったWJと、目が合ってまたビクついてしまった。こんなわたし、最高にイケてない。だけど、アーサーにいわれたことが気になりすぎて、どうしても挙動不審になってしまうのだ。まあ、挙動不審なのはいつものことだけど。
WJが歩いて来る。どうやら、奥まったリビングに面した寝室で、着替えるつもりのようだ。ソファに座ったまま顔をそむけたわたしが、膝に置いた自分の両手に意味もなく見入っていると、とん、と背もたれがたたかれる。同時に、正面に座っているアーサーが、わたしの背後に視線を向けた。そこに誰がいるのかは明白だ。その明白な人物が、いった。
「……いわなかったのは、ぼくにとって重要なことじゃなかったからだよ」
ものすごく不機嫌そうな声音だった。マズい、わたしとアーサーの会話を、WJは聞いていたのだ! はっとして肩越しに振り向けば、WJは寝室のドアを開けて、すぐに閉じた。すると、アーサーが苦笑する。
「おれは殺されるかもな、失言のせいで。とはいえ、事実だが」
マエストロがこのホテルに、時限爆弾を仕掛けたというし、スネイク兄弟もマルタンさんたちも、そのマエストロを捕まえるために、動きまわっているというのに、こんなことを考えている場合ではないのに、なのにわたしの頭の中は、WJとサリーのキス事件のことでいっぱい。こんなの、はっきりいって、最悪としかいえない。
わたしったら、なにがあってもWJが好きだという気持ちは、変わらないって、自分で自分に誓ったばかりだというのに、すねている場合ではないのだ、あきらかに!
ソファから立って、寝室へ急ぐ。ドアをノックすると、返事はない。もしかしてもう着替えて、窓から外へ出てしまった? ためしに、もう一度だけノックすると、どうぞ、と短い声が上がる。そうっとドアを開けて、すき間から顔を出せば、脱いだTシャツをベッドへ放る、WJの背中が見えた。あ、と思って、とっさにドアを閉める。闇色のコスチュームを着たWJは、まだ着替えの途中で、上半身は裸だったのだ。
男の子の裸なんて、まともに見たことがないから(子どもの頃の同級生と、すでに「子」ではないパパをのぞいて)、WJの、ほどよくついた筋肉や、すうっと伸びた肩甲骨が、脳裏にバッチリ焼き付いてしまった。どうしよう、どきどきしすぎてこめかみのあたりが痛くなってきた。このまま心肺停止におちいって、わたしこそERに搬送されるかも……なんて、バカみたいなことを考えている場合でもないのに!
うううう、ともだえつつ、見た映像を消去するため、ドアに額をこすりつけていたら、いきなりドアが開けられる。そのせいで、前のめり気味に寝室へ足を踏み入れる事態になったので、とっさに両手で顔をおおう。
……着替え中のWJを見たくはないし、万が一見てしまって、脳細胞にその映像が刻まれることを避けたいから。
「なにしてるの」
WJの声は、まだ不機嫌そうだ。サリーとのことを訊かなければと焦るのに、マノロとクローゼットにいた間抜けな自分のことや、WJにいわれた意味不明な言葉(アーサーとデイビッドは、そうじゃないという、わたしが犬に似ている、という例の説)についてのあれこれが、いっきに脳裏を駆けめぐり、パニくってしまう。
「あの、あのう……そのう、ですね」
なんで敬語になっちゃうの? うつむいて、手で顔を隠したままもごもごしていたら、
「……アーサーの気配はわかってたよ。見られてるなあって思ってた。でも、あの時はそれでいいって思ってたから」
わたしと距離を置いていた時のことだから、ということなのだろう。
「……でも、その、なんというか、仲直りしたんだから、いってほしかったな」
そのチャンスはたくさんあったはずだ。WJが動きまわっている気配が伝わる。着替えは終わったみたいだけれど、顔から手を離すきっかけがいまいちつかめない。というか、なにも見えない状態って、なんでもいえそうな気がして、ちょっと安心するかも。
「いっただろ、べつに重要なことだと思ってなかったからって」
トランクを閉じる音がたった。
「ほんとう? でも、さっきわたし、ちょっと思ったんだけど」
いうべきなのかいわないでおくべきなのか、どうしても迷う。迷うのはそれが、真実に近いと予感しているからだ。
「なに」
ちょっとイライラしているような、むすっとした声だ。時間がないからだろう。
「……やっぱりいい。こんなことしゃべってる場合じゃないもの。あとにする」
手で顔をおおったまま、くるりときびすを返して、指のすき間からドアノブを視界に入れ、手を伸ばしてノブを引く。すると、握られた黒いグローブが背後から伸びて、ドアが押さえられる。ドアに頬をくっつけた恰好で、指のすき間から上目遣いにすれば、すぐそばに、首から下がパンサーになっている、眼鏡をはずしたWJの、世にもおそろしい顔が、あった。
どうしておそろしいのかというと、大きくて、宝石みたいに光る灰色の瞳が細められ、ただでさえ整いすぎているその顔が、ぐっと険しげにしかめられているからだ。
「きみのいうとおり、こんなことしゃべってる場合じゃないけど、たっぷり五分くらいの時間はあるよ」
押さえたまま、ドアに頭と肩を寄せて、WJはわたしを見下ろす。直視できなくなって、依然、手で顔をおおいつつ、うつむいて意を決す。
「あなた、たぶん、勘違いしてるんじゃないのかなと思って」
WJは無言だ。
「わたしたち、ずっと仲良しだったから、そういうのと、好き、みたいなのをごっちゃにしてるのかもと、思ったんだけど」
「……それで?」
「そ、それで。だから、もしかするとあなたが好きなのは、わたしじゃないのかも。わたしのことは、仲良しの友達で、だけど、デイビッドがわたしのことを好きかも、みたいにいって、友達がとられちゃう、みたいな感じを、好き、ってことに、しちゃったのかもって。そういうことって、あるでしょ ? わたしはあったから。大昔のことだけど」
しゃべりながら泣きたくなってきた。そうかもね、なんていわれたらどうしよう。いや、もう、どうしようもない。手で顔を隠したまま、ぎゅうっとまぶたを閉じて返事を待つ。
「……なるほどね。どうしてそう思ったの?」
ものすごく静かな、低い声で訊かれた。
「……どうして、って。さっき、そう思っただけだけど。でも、たとえばあなたは、わたしとしゃべっていても、恥ずかしそうじゃないし、でも、キャシーとか、ほかの女の子としゃべる時は、すごく照れてるし。前にも、いったかもしれないけど」
寝室に時計はないのに、チクチクと時間を刻む音がしそうなほど、しんと静まり返った、次の瞬間、WJがいった。
「ぼくが好きなのはサリー、みたいなことを、いいたいの?」
「そうじゃ、ないけど」
わたしのそばから、WJが離れた気配を感じた。だからこそ、もう顔から手を離せなくなった。それに、ものすごく不穏な空気が肌にまとわりつく。これって、もしかして、こういうのが、別れ際、みたいなことなのかな。嘘みたいだ、だって、つい何十時間か前に仲直りしたのに、その何十時間かあとにはもう、こんなことになっている。
友達としては相性がバッチリでも、いざ付き合うとなるとうまくいかない、そういうこともあるのかも。あまりにも沈黙が長すぎて、いよいよ耐えられなくなって、この部屋から出ようとした時に、WJの声がした。
「……びっくりだよ。ぼくの内面を透視する能力が、きみにあるとは思わなかったな」
わたしはドアに額をくっつけて、うつむいたまま続きを待つ。
「じゃあ、こういうこともわかってるはずだけど? たとえば、きみに対してだけぼくが堂々と振る舞えるのは、子どもみたいにきみに甘えてるからだってこととか」
え?
「あ、甘えてる?」
「そうだよ。ぼくがどんなことをしても、きみはぼくを嫌ったりしないって、妙な自信にとりつかれているから、きみに対してだけなんでもいえるし、なんでもする。できないこともあるけど。それから」
なにか、わたしの予想した方向とは違う展開に、なってきているようだ。とはいえ、いまや、手と顔が磁石みたいにくっつきまくっていて、手のひらが熱を帯び、汗ばんできちゃった。
「サリーのことはたしかに考えたよ、それは認める。おかげで、きみのことを気にして、妙なことをしでかさなくなった、とも思う。けど、どうかな。サリーのことを考えたから、とはいえないのかも。それに、サリーにキスされたのは、ぼくの落ち度だよ。あの日ぴったりくっつかれて、おかしなことをしないように、こっちは必死だったんだ。眼鏡はなくて視界はあいまい、学校のいろんな気配に香りが混ざって、ものすごいストレスだったから。かといって、完璧に嫌がって、女の子を吹っ飛ばすわけにもいかないだろ」
あ、と思う。WJはがんじがらめだったのだ。むしろ、我慢をしていた、ともいえる。ぴったりくっついていた手が、わたしの顔からやっと離れてくれた。それで、ゆっくりと振り返る。ベッドのそばに立つWJは、マスクを持った恰好で、わたしを見ていた。と、マスクを両手に持つと、わたしから顔をそむけて、でも、少しだけ口角を上げた横顔を見せて、マスクを頭からぐい、と下げた。
「ついでにいえば、ぼくがこう思っていたことも、透視能力のあるきみには、バレてるってことになるよね」
「え?」
全身パンサーになってしまったWJは、わたしに顔を向けた。
「いまこんなキスしてる相手が、きみだったらよかったのに」
わたしに背中を向ける。そして、天井から床まで伸びる窓へ近づく。
「アーサーのいってたことは正しいよ。そのとおり。ぼくはときどき、ものすごくいやらしいことを考えてる」
バルコニーへ通じる、ガラス製のドアのノブに手をかけた。
「そういう時は、すごく照れるよ。そういうのがきみに知られたと思ったら。さっききみにいったのは、そういう意味だよ。べつにきみが犬に似ているとか、そういうことをいいたかったわけじゃないんだ、ニコル・ジェローム」
ドアを引く。
「きみに嫌われてもいいと思って、この前そういうことをしたけど、本音をいえば、頭のどこかでは、このままっ……て。ぼくは最低で最悪、きみをどこか、狭いところに押し込めて、たっぷりすごいことをしたいと思ってるようなやつなんだ。でも、それ以上に、きみと手をつないで、きみのとりとめのないおしゃべりを聞いて、笑っていたいんだよ。もしもこういうぼくが嫌なら」
バルコニーへ足を踏み出してから、肩越しに振り返って、パンサーはいった。
「きみをプロムには誘わないよ」
いい残して、ドアを閉め、バルコニーから姿を消した。
いっきにWJにいわれた言葉が、耳に残って、頭がガンガンしてきた。よろめきながらバルコニーへ近づいて、ドアを開ける。少し肌寒い風が、わたしのほてった頬をなでる。高層ビルの景色と、快晴の空、それから、ビルとビルの狭間の向こうに、水面の輝く海が見える。うっかりマエストロのことも忘れ、バルコニーへ飛び出してからフェンスにしがみつき、パンサーの姿を捜したけれど、すでにどこにも見あたらない。
すごいことを、聞いてしまったような気がする。聞いてはいけないことを聞いてしまったような。いま聞かされたのはWJの本音だ。そしてわたしは、その本音を受け止めるために、見つからなくても空を見上げて、パンサーを捜し続ける。
やっぱり、ERに搬送されるかも。いまにも口から、自分の内蔵全部が飛び出してしまいそうなほど、心臓がバクバクしていて、どうにもできなくなってきた。
「部屋に入れよ」
声にびっくりして振り返る。ぼうっとしすぎていたから、デイビッドがいつの間にか、バルコニーのドアのそばに立っていたことにも気づかなかった。ちょっと複雑そうな顔のデイビッドは、でも片眉をくいっと上げて、皮肉っぽく笑う。
「盗み聞きしてたわけじゃないけど、友達として提案するよ」
なにか、いっきに気力を使いきったみたいな気分におそわれて、脱力してその場にへたり込むと、デイビッドが両手を広げた。
「とりあえず、練習する?」
うう。それは……、遠慮します。