SEASON FINAL ACT.06
わたしはいま、クローゼットの中にいる。
奥行きはあまりないのに、やたら細長いクローゼットは、寝室の壁みたいに作り付けになっていて、アコーディオン式の両面扉で開閉できる。クローゼットのドアはきっちり閉じられているけれど、天井にライトが設置されてあり、寝室にライトを灯すと、この中も明るくなるという、一般庶民の考えからすれば、なんとも無駄な装飾がほどこされてあるので、中のようすは丸見えだ。
ともかく、わたしはいまその中にいて、うっとりするような肌触りのガウンのうしろに隠れ、脇の下から片目をのぞかせ、こちらに視線を向けている魔界のしもべ……ではなくて、マノロ・ヴィンセントを牽制して（ようするに、近づくな的空気を発して）いるところだ。
どうしてこんなことになったのかというと、リックを追いかけて（尾行ともいう）きてしまったフランクル氏が、いまから数分前に登場。さんざんわめき散らしながら歩きまわっているようすが、寝室のドア越しにも察知できたので、わたしは浴室へ駆け込むつもりだった。ところが、身を隠したほうがよいと判断したジョセフが、ベッドの上の無線機をつかみ、先に浴室へ突進してしまったので、残されたわたしはベッドの下へ潜り込むべく、マノロの横を通り過ぎて、点数稼ぎの俊足な野球選手さながら、滑り込みセーフを決めるかのごとく、突っ走る、つもりだった。つもり、というのはその前に、わたしの腕がマノロによって、がっちりとつかまれてしまったからだ。
マノロはそのままずるずると、わたしを引きずってクローゼットの中へ入り、結果、こんな状態になってしまった、という具合だ。
フランクル氏の叫び声が、遠ざかったり、近づいたりしている。いまにもこの寝室へやって来て、あちこちひっぺはがしてみたり、のぞいてみたりしながら、あやしげなモノを隠してはいないだろうかと、捜査をはじめそうでおそろしい。
それよりももっとおそろしいのは、狭苦しくも細長い、この空間にマノロと二人ぼっち、ということだろう。かといって、ここから出た瞬間に、フランクル氏がドアを開けて入ってきちゃうかもしれず、そうすると、「そこにはなにがあるんだね！」ということになり、マノロが見つかって「どうしてギャングがいるんだね！」になって、マエストロを捕まえるという作戦を決行するどころか、パンサーチームもろとも、市警に引っ張られて行きかねない。
まあ、なにも悪いことはしていないのだし、たっぷり事情を説明すればわかっていただけるとは思うけれど、事情を説明しているうちに、朝日が昇る、なんてことになりそうな……気もしなくもない。
ううううう、ううううう。誰か、いっこくも早くフランクル氏を外へ連れ出してくれないかな、アーサーとか、リックとか、アーサーとかアーサーとか！
「……面倒くさいな」
ぐっと顔をしかめたマノロが、ぽつりとつぶやいた。う。マノロは「面倒くさい」ことが嫌いだった、ということを、いまになって思い出してしまった。ガウンを握りしめ、息を殺しつつ、自分の気配を消すことに集中する。ただし、依然、脇の下から右目だけをのぞかせて、ドアに向かって立っているマノロの観察は続ける。すると、横顔のマノロの視線だけが、ゆっくりとわたしにそそがれた。ああ、あああああ、とってもおっかない！
「てっきり死体になってるかと思ったけどね、生きていたとはびっくりだ」
優しいみたいな甘い声でいってから、にやりとする。
「あの夜は妙なことだらけだった。パーティの最中に、きみの仲間の芸人カップルがいなくなって、パンサーが動きまわってると客が騒ぎだし、シナトラの歌を聴くどころか、店から客が出る始末。なんとか無事に終わったものの、死体の処理をさせるために、手下に調べさせたらそんなものはないというし？」
ドアに手をつき、ゆっくりと顔をわたしに向けて、口端を上げる。
「パーティの手配にいちいち文句はいわないんだ、おれは。すべて下の者に任せているし、失敗すればクビにするだけ。簡単なことだ。面倒なことはひとつもない。だけど、あの夜はまさに面倒なことだらけだった。そしてさらに、面倒なことが続いているというわけだ。それもこれもいったい誰のせいなんだ？」
わたしに訊かれても困る……っす！ いっそジョセフと二人きりのほうがまだマシだったかもと、後悔してもすでに遅い。ハンガーにかかっているガウンを引き寄せ、ずずずとうしろにのけぞれば、ぺったりと壁が背中にあたった。オーケイ、落ち着いてわたし。ここで首を絞められるとか、そんなことにはならないはず。かなり楽観的な予測だけれど、殺されるようなことはしていないし、万が一そうなったら、ドアを蹴破って市警部長の名前を叫べばいいだけのことだ。
「……パンサーはいけ好かないが、マエストロのほうが憎い。やつを捕まえるというのなら、加担させてもらうが、それにしても、きみはいったい、なんなんだ？」
え？
「は、はい……？」
ドアについた手を動かしながら、一歩マノロが近づいた。それだけですでに、至近距離になって、しまった。
「ポールじゃなくて、ニコル・ジェローム。父の残した要注意人物リストに、きみの名前と写真もあったぞ。あの夜、おれを騙して、なにをしようとしていたのか、いますぐいうんだ」
ああ、やっぱり。わたしはギャングの要注意人物リストに、載ってしまっていたらしい。つかんだガウン越しに、マノロの顔が近づく。
「な、なにを、といわれても、なんというか、なんというか」
わたし、落ち着いて！
「わ、わたしの友達を誘拐したから、あなたが居場所を知ってるんじゃないかと思って……それで、そのう、訊き出すつもりだったというか……」
それはアーサーの役目だったのだけれども。マノロの片眉が、くいと上がった。
「それで、おれに目をつけられるように、振る舞っていたというのか？」
そんなつもりはまるでない。口元はにやついているのに、眼差しはソーダ味のアイスバーみたいに光っている。ごっくんとつばを飲み込んだ瞬間、ガウンをつかんだマノロは、わたしからそれをはぎ取って、わたしの頬すれすれの壁に手をつく。この体勢を、わたしはどこかで、すでに経験済みだ……って、それはＺＥＮでのパーティの夜、エレベーターで、だ！
「わ、わ、わたしはあなたをだ、だ、騙すつもりはなかったんで……す」
あ、この「す」は正しい使用法だ。よかった、とか思っている場合ではなさそうだ。どうしよう、いますぐ逃げるべき？ だけど、この体勢で逃げるとすれば、マノロを殴って気絶させ、ドアを開けるしかないだろう。というか、フランクル氏はなにをしてるの？ 声はまだ聞こえているので、いなくなったわけではなさそうだけれど、だったらいっそいますぐに、この寝室をぐるんを見まわして、このクローゼットを開けて欲しい、本末転倒だけれど！
ど・う・し・よ・う。
どうしよう、どうしよう、いや、どうすることもできない、せめて水鉄砲を持っていたら、どうにかなったのかもしれないけれど。ぎゅうっとまぶたを閉じたら、マノロがいった。
「きみはあの、デイビッド・キャシディと付き合っているんだと、ジョセフに聞いたぞ、ほんとうなのか？」
いまだに、そういうことになっていたとは、初耳だ。否定するべきだろうか、それとも素直に受け入れておくべきなのか。迷っているとマノロが続ける。
「答えがないということは、事実なんだな。だからあの夜、パンサーに助けてもらったというわけか。なるほど、シンプルな答えだ。まあいい、どうでもいい」
なにがいいのかわからない。薄く目を開けてみる。にやついているマノロの顔が、超至近距離すぎる衝撃に耐えられず、ふたたびまぶたを閉じたら、
「……女の子でもいいか」
という、ものすごく小さな声が鼓膜にとどく。もちろん、これはわたしの空耳だ、間違いなく空耳だろう……と思っていたら、ぺったんと、冷たい手の感触が頬にあたる。う、とさらにまぶたを閉じて顔をしかめれば、なんというヘンな顔だとマノロにいわれた。余計なお世話だけれどそのとおりなので、うっかりうなずきかけたら、頬の手がすすすとあごへ伸び、ぐいっとあごをつかまれる。それで、ミス・ルルがするみたいに、わたしの顔を左右に振って、
「なるほど、昔飼っていた犬に似てるんだな。ジョセフも昔はそうだったんだ。それが大きくなるごとに、どんどんかけ離れていって、いまじゃただの同業者だ。久しぶりに会っても、なにも感じなかった自分が、おかしくなったのかと思ったけれど、違うな。そうじゃない」
なにか、ひとりで納得していた。
「女は好きじゃない。キツい香水のにおいも、あの胸も、吐き気がする。でもきみは……なさそうだ」
それは、わたしの胸のことだろうか？ どうにもそんな気がしてきた。なすすべもなく両手を前に組んで、縮こまっていたら、なんて似てるんだとマノロが、ものすごく嬉しそうな声音で、いう。どうやらわたし、マノロの飼っていた犬に似ている、みたいだ。
「そ、そ、その犬は？」
訊いてみる。
「子どもの頃に死んだよ。自宅の庭で、空き缶に発砲する兄の弾があたって」
すごい遊びだ。かわいそうな犬に同情しつつ、まぶたを閉じたまま、クローゼットのすみっこで、壁になりきるために凍っていたら、わたしの両手が力まかせに引っ張られる。う、と短い声を発したとたん、なにかに抱きかかえられている感触に、さらに凍る。「なにか」というのはあきらかにマノロだし、そしてわたしはパニくる！
マノロはわたしの耳もとで、ふうん悪くない、と納得してるみたいにささやく。わたしはヘンな顔で、犬に似ていて、女の子なのに、いまやクローゼットの中で、女性が苦手なはずのギャングの次男坊に、なぜか抱きしめられていた。妙な汗が、額に浮き上がる。これはとってもマズいし、ありえないし、どうにかしなければいけない体勢だ。どうしよう、どうしよう、ど・う・し・よ・う！
「ここはなんだね！」
そこで。フランクル氏の声がいっきに、鮮明になる。暴れようとしたとたん、フランクル氏が寝室へ入ってきて、しまったようだ。あああ、ああああもう泣いてもいいかな？ もぐもぐと口を動かしていたら、しゃべるなといわんばかりに、マノロが自分の肩に、わたしの頭を押し付ける。その力がすごすぎて、もがけないし、なにしろおそろしすぎて、さっき身体的予感を解消したばかりだというのに、いますぐ同じことをしたくなってきた。
「……なんだ、寝室かね。ライトが点きっぱなしだぞ、誰かいるのだな！」
フランクル氏が歩きまわっている。クローゼットの前で、足を止めた気配がした。いっそ開けていただきたい。いや、いまはマズい！ いや、どっちなの、わたし！
「さっきまでおれが寝ていたんですよ、父さん」
ぐったりしたアーサーの声がする。
「なんだと？ 電気を無駄にするなといってあるだろう！」
「ああ、はい。消します、消しますから、もう気が済んだでしょう？ ミスター・メセニがさっき話したとおりですよ。いますぐ市警に戻って、私服の警官を手配して、ホテルに配させてください」
とん、とクローゼットのドアが叩かれる。
「……よかろう、作戦変更か。それにしても気に入らんな、アーサー！ おまえがいるというのに、なぜわたしに報告せんのだ！ ただでさえ時間がないというのに、手間をかけさせるものだな！ まったく……」
声が遠ざかると同時に、ライトが消されて、ありえないことにクローゼットの中が、真っ暗闇になってしまった。そして、寝室のドアの閉まる音がたつ。はあ、と息を吐いた直後だ。クローゼットのドアが、いっきに開け放たれた。
そこに立っていたのは、ＷＪだった。
★ ★ ★
「……出てください。猛スピードで帰りましたよ、ミスター・フランクルは」
両腕を伸ばし、ドアをつかんだまま、ものすごく冷ややかな声で、ＷＪがいう。浴室のドアが開いて、姿を見せたジョセフは、こちらを見てぎょっとした。
「おい、なにをしてるんだ？」
「覚えていないか？ 犬のチャックだ、ジョセフ」とマノロ。
ＷＪがにらんでいる。眼鏡越しにわたしをにらんでいる。しかもドアをつかんだ指に、力が込められているのがわかるほど、指の関節が浮いている。
「……離れてください」
ＷＪがいった。
「連れて帰る」
マノロのことばに、
「ダメです」
あと数秒このままの体勢だったら、窓からマノロを突き落としかねない声色で、ＷＪが返答する。
「あなたがたも帰ってください。もう用は済んだでしょう？」
ジョセフが、ふ、と笑った。その笑みの意味は、わたしにはわからないけれど、元ジャーナリスト的な勘を働かせているのか、ＷＪの背後からＷＪを見て、わたしを見て、またＷＪに視線を戻す。
「パンサーに殺されるぞ、マノロ」
その発言で、わたしはぎくりとする。デイビッドがパンサーではないことを、ジョセフは勘づいている。でも、本当のパンサーが誰なのかは知らないはずだ。だけど、もしかして、すでに目星をつけている？
「新聞が喜びそうなネタになるだけだ。まあいい」
ゆっくりとわたしから離れたマノロは、軽くわたしの頬をたたき、それから犬を撫でるみたいに、わたしの髪をくしゃくしゃと撫でて、連れて帰りたいともう一度、誰にいうでもなく訴えた。年齢的に犯罪だぞというジョセフに、それがどうしたと肩をすくめたマノロは、わたしを指でさし、
「必ず飼ってやる」
名残惜しそうな眼差しをわたしに向けたまま、いい残し、ドアから顔を出してようすをうかがったのち、二人は寝室から去った。
飼う……って、なに？ これも空耳だ、そういうことにしておきたい。
わたしはクローゼットの端でしゃがんだまま、両手を組んだ恰好で、ＷＪを見上げる。ＷＪは動かない。まるきり動かずに、ドアを握りしめてから、深く息を吐いた。
「……ひとつ、忠告してもいい？」
怒っているのが、ひしひしと伝わってくる。
「う、うん。あのね、わたし」
「黙って。いわなくていい」
はい。口を閉じると、ＷＪは軽くうつむいてから、わたしを上目遣いにした。
「……きみは、隠れなくても、いいんだ」
あ。……そ、そのとおりだ……。
「う」
ＷＪが右手の指で、イラついているのかとんとんと、ドアをたたきはじめる。
「……理解はしてるよ。とてもね。きみは悪くない。どのみち腕でも引っ張られて、ここへ入れられたんだと思うから。それにぼくはきみに、さっきすごくいいやつみたいなことを告げたばかりで、そのまま大人っぽく、余裕があるみたいな感じで、怒りたくもない。ぼくのせいで、きみにいろいろ辛い思いをさせてたこともわかってるから、子どもみたいに意味不明なことをいって、きみを困らせたくもないんだ。……建前は」
まだ指で、ドアをたたいている。眉を寄せたまま顔をしかめて、わたしをじいっと見つめる。
「……前にぼくはいったよね？ きみはすきがありすぎるって、覚えてる？」
口調はとっても優しい。だからこそ、おそろしさは二割増だ。わたしはこっくりと、うなずく。
「きみがデイビッドに、どんな魔法をかけたのかはわからないけれど」
「ま、魔法？」
「魔法だろ。デイビッドはきみと、いい友達になろうとしてる。だからぼくは、そのことについて、気に病むつもりはないんだ。デイビッドのことも好きだからね、もう、済んだことだからって。それに、きみがぼくを好きでいてくれることにも、感謝してる。ぼくはやっかいなやつだし、自分勝手だし、普通じゃない。いまだって、あと少しでマノロを吹っ飛ばしそうだったよ。いろんなことを考えて、我慢したけれど」
「う。……ごめんなさい」
「謝ってほしいわけじゃない。ぼくはきみに、自覚をもってほしいだけなんだよ、ニコル」
「え、自覚？」
くそ、と珍しく、ＷＪが汚いことばを小さく吐いた。まだドアを指でたたいている。うつむいて、視線を自分の足元へ落してから、ドアから手を離して顔を上げた。
「ぼくみたいなやつばかりじゃないんだよ。ぼくみたいに、奥手なやつばかりじゃないんだ。きみのことがかわいいと思ったら、すぐに手を出すようなやつもいるんだよ、わからない？」
「わ、わ……」
わかるようなわからないような……。考えながら首を傾げる。
「わたしはヘンな顔だって、マノロはいってたよ？ わたしもそう思うし、アーサーはいつもげんなりしているし」
まいった、といわんばかりのようすで、肩を落としたＷＪは、両手で自分の顔をおおってしまった。わたし、いま間違った発言をしたのだろうか。どうしよう、ものすごく不安になってきた。
「……ニコル。頼むよ。きみの美意識が、なにを基本にしているのかわからないけれど、そのヘンな顔っていうのは、たぶん悪い意味じゃなくて、それにきみはすごく、キュートなんだよ」
それは、喜ぶべき発言だ！ 自分の好きな相手からの発言だとなれば、なおさら！
「ほんとう！？」
「喜ばないで！」
わたしを指してＷＪが叫んだ。
「喜ばなくていいから、自覚してよ。きみは雑誌に載るような女の子じゃない。背が高くて、すらりとしてて、セクシーな感じのね。だけど、わかってもらいたいのは、そういう女の子に惹かれるやつばかりじゃないんだってことだよ。デイビッドだってそうだっただろ？ なんていうか、きみは、うまくいえないけれど、どこかに閉じ込めておきたい感じなんだよ。そういう気分にさせられる感じなんだ。それで」
はっとして、口ごもる。ＷＪは思わずいってしまった、みたいに、自分でもびっくりしているのか、眼鏡越しの目を見開くと、口元に手をあててそっぽを向いた。みるみる顔が赤くなっていく。耳まで染まっていって、自分の髪をくしゃりと握ると、もういいよと告げて、寝室を出てしまった。
「それで」の続きはなんだったのだろう。わたしには謎だけれど、ともかく、わたしは犬みたい、ということを、ＷＪはいいたかったようだ（それでなぜ、あんなに赤くなったのかはわからないけれども）。閉じ込めたいというのはたぶん、そういう意味だろう。ただし、その犬はキュートな犬だから……、ううーん、キュートな犬の種類をそのうちに調べてみよう。わたしに似ているってこと、みたいだから。
フランクル氏もギャングチームも、たぶんいなくなったはず。なのにわたしはなんだか疲れて、クローゼットでしゃがんだまま、ほっとしながら壁に頭を寄せる。すると、寝室のドアが開いた。あらわれたのはアーサーで、わたしを見ると、酸っぱいレモンをかじったみたいな顔で、告げた。
「……いっておくが、きみは隠れなくてもいいんだぞ？」
うん、それ、ＷＪにもいわれたし、もっと早くに忠告しておいてほしかった……です。