SEASON3 ACT.32
ずるずると大きな紙袋を引きずり、ひとまずいつもの寝室に、ミルドレッド博士と一緒にして置く。
それから、一番奥のデイビッドの寝室まで行き、ドアをノックした。答えがないので、静かにドアを開けると、デイビッドは服を着たまま、こちらに背を向けてベッドに寝転んでいた。うーん、眠っているのか起きているのかは、いまいち不明。かといって近づいて、のぞきこむのも少しおそろしい。それでも声をかけてみるべきか、このまま出るべきか悩んでいたら、もぞりとデイビッドのブロンドの髪が動く。
「……ニコルだろ」
おっと。起きていたらしい。
「あなたはいやみたいだけど、やっぱりいっておきたいから。ありがとうって、いってないと思って」
背を向けたまま、デイビッドがうつぶせになる。それから、ゆっくりと身体を起こして、ベッドの上に起き上がると、うつむいたまま足を投げ出した。
「……なあ、ニコル。どうせおれはさ、たぶん、どっかの金持ちの女の子と結婚させられるよ。もしくは女優かモデル、セレブ。キャシディ家の跡継ぎだし、ダイヤグラムごと引き継いで、結婚相手とうまくいかなくても、愛人囲ってうまくやるような大人になるんだ。離婚を繰り返してる父親は、莫大な慰謝料に嫌気がさしてて、おれの離婚は許さないつもり、みたいだからね」
デイビッドはわたしを見ずに、この場に誰もいないみたいなふんいきでしゃべり続ける。
「社交界で、テキトーに誰かと出会って、まあいいかって感じの子なら結婚する。自分の未来が容易にわかることほど、つまんないことはないね。そんなの、子どもの頃からわかってたし、それでいいと思ってたのに、きみのことが好きになったら、ものすごくつまんないことのように思えてきて、最悪だよ。……なんだかな。きみのことなんか、好きにならなければよかった」
なんとも、いえない。ドアに背中をくっつけたまま、うつむいてしまった。
「社交界にも、素敵な女の子はいると思うな。わからないけど。きっといるよ」
クスッとデイビッドが笑みをもらす。
「アホみたいだな。自分でくっつけてやるとか、かっこつけといて、いざとなると後悔してる。でも、なにか邪魔するつもりは、もうマジでないよ。きみがハッピーなら、それでいいのかなと思う自分もいるし。こんな自分にビックリだ。それに、思いきり女の子を追いかけたことにも驚くね。クソみたいなエロじじいになっても、きみのことは忘れないよ」
「え? エロじじい?」
なにかそこに反応してしまった。いうべきことはほかにもあるはずなのに。すると、デイビッドが笑ってわたしを見た。
「どうせそうなるさ。若い女をはべらせて、にやにやしてる資産家のじじい。その頃きみはなにしてんだろうな。まあ、きみが幸せならそれでいいって、ことにしとくよ。でも、困った時には絶対おれに連絡すること。これだけ約束させてくれ。まあ、理想をいえば独身でいてほしいけど、それは無理そうだから……って。これじゃあまるで、カサブランカのハンフリー・ボガードだな。好きな女の幸せを願いつつ、見送って、きれいに去る。なんだか自分に、泣けてきた」
「その映画は、見てないけど……」
わたしが二人いたら、よかったのになあ。申しわけない気持ちでいっぱいになって、ごめんねといおうとして顔を上げたら、ベッドに座るデイビッドが、謝らなくていいと先にいう。
「おれの輝かしい、一般庶民の通うハイスクールでの日々が、終わったわけでもないし、面白いことはまだ続いてるから、べつにいいさ。まだイライラ感もあるし、もやーっとした感じもあるけど。カサブランカの最後のセリフをきみに捧げとくよ。そのうち映画を見てくれ」
いって、デイビッドはドサッと身体をベッドに投げ出してから、寝返りを打って背を向けた。
「じゃあ。じゃあ、あなたも、なにか困ったらわたしに連絡してね。わたし、イケてないおばあちゃんになってるかもだけど、できることならするから。ええと……まあ、恋愛的、なことと、お金的なこと、以外で」
背中を向けたデイビッドが、はははと笑った。
「……まるきり頼れなさそうだな」
それは、そうかも。部屋を出る前、もう一度ありがとうといってみる。デイビッドが答えないので、静かにドアを開けて、廊下に出たら、デイビッドの声が聞こえた。
「こちらこそ」
それからずいぶん経って、リバイバル上映の映画を見た時に、やっと、渋いハンフリー・ボガードの、最後のセリフを知ったのだった。
新しい友情のはじまりだ。
★ ★ ★
カルロスさんたちが戻らないので、ダイニングで先にディナーを食べてから、デイビッドは一階の浴室、キャシーは二階の浴室へ行った。デイビッドと話すつもりのWJは、ダイニングに残って、学年末試験の勉強をはじめる。わたしも一緒にやるつもりで、教科書の入ったバックパックを取るため、寝室に戻ったとたん、どうにも、ピカピカな毛並みになった着ぐるみを着てみたい衝動にかられ、ドアを開けたままスニーカーを脱いで、洋服の上から着てみた。まあ、この衝動は、WJに提案したミス・着ぐるみが、果たして実際に、可能なのかどうなのか、試してみたくなったからなのだけれども。
頭……はいいだろう。問題はケガをしないかどうかなのだ。というわけで、無事に装着完了。開け放ったドアから軽くいきおいをつけて走り、ジャンプして、うつぶせの恰好で床に倒れてみる。
……ううーん、どうしよう、けっこう、痛い。もうちょっと、なにかこう、肘や膝のあたりに詰めたほうがいいのかも。枕? じゃあ大きい。そうだ、ここはミルドレッド博士に、とりあえず犠牲になっていただこう。
右膝あたりにとりあえず詰めて、もう一度同じことをしてみたら、右膝は痛くない。とはいえ、ほかの部分はさっきと同じだ。やっぱり特注しなくちゃダメみたいだと、床にうつぶせのまま考えつつ、動かずにいたら。
「……おい。なにをしている?」
げ。アーサーの声が廊下から、聞こえた。見られていたようだ。うううーん、うまく説明できる、気がしない。
「……う。うん。まあ」
のっそりと起き上がる。
「けっこう、痛いなって」
はあ? とアーサーが顔をしかめた。
「WJの暴走を止められたらいいなあと、思ってるだけだよ。ほら、グイードに捕まった時、わたしがタックルしたら止ったでしょ? だから、ああいう感じでいけば、WJはそのうち暴走しなくなくなるかもなあって。で、着ぐるみを着てたら痛くないかなと思って、試してるだけ」
絶句したアーサーは、ぽかんと口を開けてわたしを見た。やがて呆れたみたいな顔になると、眼鏡を上げつつため息をついた。
「……なんというか。すさまじいアイデアだな。着ぐるみじゃダメだろう? 関節部分が守られた、アメフトのユニフォームみたいなモノじゃないと」
なるほど、素晴らしいよ、アーサー!
「そうかも! あれって、注文できるのかな?」
アーサーがげんなりした。
「……というよりも、そういう問題でもないと思うけどな。しかしまあ、なんというか」
わたしの肩を叩く。
「がんばれとしか、おれにはいえない」
フフフと含み笑いしながら、ドアを閉じてしまった。ううーん、なんでだろ、なにか、とても同情されたみたいな気がする。
「まあ。でも、アメフトっていうのはいいかも」
じゃあ、ネーミングも違うのを考えよう。そもそも「ミス・着ぐるみ」案も仮なのだ。キャシーがシャワーを浴び終えたら、相談にのってもらうことにしよう。きっとセンスのいいネーミングを考えてくれるはずだ。ただし、闇の騎士シリーズ的な、ファンタジックでロマンチックな方向以外を希望しなければ!
気分が落ち着いたので、着ぐるみを脱ごうとして、背中のジッパーに手をまわした時だ。カーテンで閉じられた窓が、ガタンと揺れた気がした。風だろうかと首を傾げれば、ふたたびガタンと、今度は大きく揺れる。奇妙に感じて、部屋のライトを消してから、音のたった窓のカーテンをつかむ。そして、引いた。
ずっと安心していたのだ。
この場所はきっと誰も知らないし、もちろん誰にも見つからない。ここはアップタウンの端で、ずうっと向こうにはフェスラー家の豪邸があるきり。幽霊屋敷さながらなこの豪邸の、裏にはたしかに、車が停まっていたりするけれど、わざわざ気にする人なんて、いないような場所なのだ。まさに隠れ家にはうってつけ。そして明日が過ぎたら、わたしは自分の家に戻れる。
……でも、戻れる、気がしない。だって。
着ぐるみを着たまま、わたしはその場に尻餅をつく。窓の鍵は閉められているけれど、もちろん、彼には容易に開けられる。開けた人物は外にいて、手をかざしただけで、カチリと窓の鍵は開けられ、心地よい風が入り込む……とか、冷静に観察している場合ではない。いますぐに絶叫すべきだ。なのに口がこわばって、声が出ない。
夜空を背景にして、黒い輪郭を浮かび上がらせる人物は、窓を開け放つと、軽くジャンプして部屋に入る。
「そろそろゲームオーバーだ、お嬢さん」
きっちりと整えられた黒髪、アイパッチ、コートをひるがえすミスター・マエストロが、わたしのそばにしゃがむ。
「こそこそとかぎまわるネズミを、一掃するにはどうすればいいのか、ゆっくり考えていたんだがね」
わたしは動けない。声も出ないのだ。マエストロが、わたしの両脇に腕を入れる。ぐいっと荷物を抱えるみたいにして立ち上がると、窓枠に足をかけて、いった。
「さあ、フィナーレだ」