SEASON3 ACT.31
警察に連行されたキンケイド兄弟の仲間は、たったの二名。ほかの仲間たちに逃げられて、フランクル氏の激昂は頂点に達し、手に負えないことになりそうだったので、オフィスで部下に、怒りのすべてをぶちまけはじめたフランクル氏から離れるべく、静かに、空気のごとく気配を消して、なんとか市警をあとにした。その間中デイビッドは、ものすごいしかめ面で、車に乗り込んだとたん、うーんとうなる。
「デイビッド。ど、うした」
の? と訊こうとしたのに、後部座席に乗ったわたしの隣で、腕を組んだデイビッドが、
「……なんだろうな。おれはすごく自分を好きになりかけてたんだよ。他人を思いやれるおれってすごい、みたいなさ」
眉間に皺を寄せてまぶたを閉じる。
「それがこう、もやっとしてるんだよな。なんていうかさ、うまくいったらいったで、気に食わないっていうかさ。だからって、なにかするつもりもないんだ、ただ、ものすごくひっかかってる感じがあるんだよ。なんだろうな、これ。なんなんだろうな」
フランクル氏みたいな険しい顔でまぶたを開け、細めた眼差しをわたしを向ける。デイビッドがもやっとしているのは、他人(この場合は、たぶんわたしだろうか?)を思いやった行為をしたのに、わたしがお礼を告げていないせいかも。そのことに気づいてすかさず、ありがとうといおうとしたら、むぅっとデイビッドは、さらに顔をしかめ、
「いわなくていい。ありがとうとかいわれたくない」
そっぽを向かれた。なにか複雑な感情に、おそわれているようだ。
キャシーのパパとリックは、市警の中にある宿泊室にいたと、マルタンさんに教えられた。ミスター・マエストロから死守したバックファイヤーという名の物質も、キャシーのパパが持っているので、明日の作戦(どういう作戦なのか、詳しくは知らないけれども)が成功し、無事にマエストロが捕らえられたあかつきには、やっと解放されることになる。
そしてわたしも、自分の家に帰れるのだ! ただし、その作戦がうまくいけば、だけれど。
昨日、リビングのドア越しに盗み聞きした内容を整理すると、パンサーには新しいコスチュームが到着、さらにヘリコプターまで飛んで(?)という、かなり派手なことになりそうだったのだ。とっても不安だけれど、わたしはあの屋敷でじっとしているしかない。なにが行われたのかは、すべてが終わってからたっぷりと、WJから訊くことにしよう。前もって訊いてしまったら、もうそれだけでハラハラして、落ち着かない感じになってしまいそうだから!
ダイヤグラムのビルの前に、マルタンさんが車を停めた。すぐに戻るといい残して、エンジンをかけたまま車から降り、ビルの中へ入って行く。微妙な沈黙がただよう中、わたしはミルドレッド博士をなで続ける。子どもっぽいかもしれないけれど、わたしはいまでもぬいぐるみが大好きだ。自分の部屋のベッドまわりには、テディベアもあるし、スヌーピーのぬいぐるみもある。この優しい手触りはなんともいえない。まあそのうちに、このミルドレッド博士も、ほかのぬいぐるみたちと同じように、わたしのよだれまみれになるんだろうけど。
「……デイビッド。大丈夫?」
WJが軽く振り返って、静かにいった。デイビッドは窓に顔を向けたまま、むすっとして答える。
「……息はしてるよ。とりあえず」
「……よくわからないけど、ありがとう」とWJ。
「ああ、ああ、もう、頼むからそういうこといわないでくれよ。うまくいったんだみたいな感じに、さらにイライラしてくるからさ」
WJがわたしを見た。ちょっとだけ笑みを浮かべて、肩をすくめると前を向く。すると、デイビッドが続けた。
「……なんだろうな。ニコルが必死すぎるから、なんだかかわいそうな気がしてきたんだよ。でも、どっかでは、それでもきみは拒否するんじゃないかと、期待してた部分もあったんだよな。それがまあ……。べつにいいけど。いや、よくもないけど」
わたしとWJから顔をそむけたまま、窓に頭を寄せたデイビッドがいう。
「それで? パワーのコントロールはなんとかなるわけ?」
前を向いているWJは答えない。なんだか、とってもハラハラしてきた。「そうだよね、冷静に考えたら、やっぱり無理かもね」なんて、WJがいっちゃったら、ジェットコースターで気絶する人さながら、有頂天から真っ逆さまに転落、二度と浮上できなくなっちゃいそうで、そんな自分がおそろしい! あまりの恐怖に、ミルドレッド博士の耳をくわえて、噛んでいたら、WJがいった。
「……なにも解決してないけど、なにかわかったような気はするんだ。なんとなく、だけど」
え、といいたそうな顔つきで、デイビッドがこちらを向いたとたん、わたしに気づいて苦笑をもらす。
「て、ちょっと。なにしてるんだよ、ニコル。それ、食えないと思うけど?」
わかってます。ただ、WJの答えにドキドキして、なにかにかぶりつきたくなっただけ。ミルドレッド博士の耳から、ゆっくりと口を離したところで、右手に巨大な紙袋を下げたマルタンさんが、やっと戻って来た。車のトランクを開けてそれを押し込み、運転席に乗り込んでアクセルを踏む。
あの紙袋の中身は……もしかして、予定よりも早く届いたパンサーの新しいコスチュームかも! にしてはかなりの大きさだったけど。と、バックミラー越しにわたしと目を合わせたマルタンさんが、にっこりした。
「クリーニングに出してたのが届いたよ、ミス・ジェローム」
「え?」
あれ? パンサーのコスチュームではないらしい?
「きみに借りたイヌの着ぐるみだ。クリーニングに出してたんだ」
テリー・フェスラーのパーティから、デイビッドとローズさんを助けるために活躍してくれた着ぐるみのことだ。
「ええ? そんなのぜんぜんよかったのに。一度もクリーニングに出してない着ぐるみも、いっぱいあるのに」
マルタンさんが笑った。
「そいつはほっとする情報だ。かつてないほどのありえない汚れを除去するには、内臓移植並みの技術を要したって、伝票にメモされてて、てっきりおれのせいかと思って焦ったからな」
……なんというか、ジェローム家のアバウトさが露呈されたみたいで、恥ずかしい。
「毛並みはピカピカ。野良犬が血統書付きのビーグルに変身したぜ。ともかく、ご両親に返しておいてくれ。おれからのお礼つきで」
マルタンさんがいったあとで、クスリと笑ったWJが、ミス・着ぐるみ、とささやいた声が、わたしには聞こえたような気がした。
★ ★ ★
屋敷に、ミスター・スネイクとカルロスさん、スーザンさんの姿はない。マルタンさんが、会社にもいなかったというので、もしかすれば、ミスター・マエストロのアジトらしき場所を、ボブと一緒に探っているのかも。
エントランスに入ってすぐ、デイビッドは階段を上っていく。マルタンさんは厨房へ向かい、わたしとWJがリビングへ行くと、キャシーとアーサーはテレビを見ていて、ソファから立ち上がったアーサーがいった。
「遅かったな」
「キンケイドに追いかけられてたんだよ、アーサー。それから市警に行ったんだ。きみたちを送ってくれたのはアリス?」
WJがいうと、キャシーがびっくりして腰を上げた。
「大丈夫なの!?」
「キャサリン、落ち着け。大丈夫だから彼らはここにいるんだ」とアーサー。
そのとおりだ。キャシーはわたしのママみたいに、目をぐるんとさせてからソファに座って、大きく深呼吸をする。
「さっきまでデカ女はいたが、会社に戻って行ったぞ。おいニコル、それはなんだ?」
わたしの持っているミルドレッド博士を、アーサーが指す。フランクル氏にもらったいきさつを話せば、アーサーはうなだれた。
「……父の心を穏やかにする方法を、リックは日々探っているんだ。とうとうぬいぐるみに手を出したのか。それも結果的に、きみに渡ってるということは、この方法もダメということだな」
「ウサギは好きだっていってたよ? 捨てられないっていってたから、これもほんとうは気に入ってたんじゃないかな。でも、部下にしめしがつかないからって、わたしにくれたの」
「なるほどな。じゃあ、ウサギのセンは悪くないってことだな。次はバックスバニーのマグカップを、すすめる提案をしてみるか」
……フランクル家、いろいろと苦労が多そうだ。
「そうだ、ジャズウィット」
アーサーがWJを見る。
「さっきニュースで、テリー・フェスラーのことをまたやっていたぞ。コンピュータを小型化するシステムの開発に成功したとあったが、少し気がかりなことがあるんだが」
アーサーは眼鏡を上げて、腕を組んだ。
「行方不明中の、ミスター・ホランドの姪御さんも、たしか開発者だったはずだ。マエストロに拉致されて、時間を止める協力を強いられているとすれば、いろいろつながりそうな気がしないか?」
WJがうなずく。
「うん。ぼくもそのことを考えてたよ」
アーサーとWJが、テレビのチャンネルを変えながら、男の子同士の会話をはじめると、ソファから立ったキャシーが静かに近づいて来て、それはなにかと紙袋をのぞいた。
「マルタンさんに貸してた着ぐるみなの。ほら、デイビッドとローズさんを助ける時に使ったやつ」
ビニール袋に包まれた着ぐるみが、素晴らしい毛並みになっている。名もなきイヌのキャラクターの頭が、のっそりとこちらを向いて、紙袋の中におさまっていた。
「……それで? WJとはどうなの?」
キャシーがずずずと顔を近づけるので、のけぞる。キンケイドに追われてから市警に行って、そこからのあれこれをこそこそとしゃべると、キャシーは息をついて、胸をなでおろした。
「……わたしったら、あなたたちのことで、いちいちざわついちゃって、まったく落ち着けないんだもの。でも、まあよかったわ。だけど、デイビッドの心変わりが謎ね」
「うーん。でも、わたしが必死すぎて、お手上げみたいになったんじゃないかな」
とはいえ、もやっとしている宣言はされたので、きちんと話したほうがいいような気もする。WJと仲良しに戻れたのは、なんといっても、あの時二人きりにしてくれた、デイビッドのおかげなのだ。アーサーとしゃべっているWJに近づくと、アーサーが会話を止めた。WJが振り返る。
「わたし、ちょっとデイビッドとしゃべろうと思うんだけど、いいかな?」
WJの片眉が上がる。でもすぐに、小さくうなずいて、にっこりした。
「うん。いいよ。ぼくもあとで、ちゃんと話すよ」
ミルドレッド博士を抱え、紙袋を持ってリビングを出る。エントランスを過ぎようとした時、うお! という叫び声が厨房から聞こえたので、あわててのぞく。すると、マルタンさんの手にしたフライパンから、ぼわっと炎が上がっていた。
「うわ! マルタンさん!」
床に紙袋と博士を放って、駆けつける。すると、マルタンさんが声を上げて笑った。
「いや、いいんだ、白ワインをかけただけだ。慌てさせて悪かったな、ミス・ジェローム。これはおれのいつもの癖なんだ」
フライパンの中は魚介類。今夜のディナーは魚介のパスタみたいだ!
「残りの食材も最後になってきたからな。今夜はテキトーにすましちまおう」
マルタンさんのテキトーレベルは、わたしの家の豪華版かも。ぜひともママに、料理の手ほどきをしていただきたい。
床に転がるミルドレッド博士を拾い、厨房を出ようとした時、マルタンさんがいった。
「ずいぶん大人になったものだと、おれは感心してるんだ、ミス・ジェローム」
「え?」
振り返ると、マルタンさんは、フライパンを器用に動かしている。
「核爆弾さ。もやもやしてるといってるけど、我慢することを覚えてる。思いどおりにいかないこともあるって、学んでるんだ。きみのおかげだよ、ミス・ジェローム」
ちらりとわたしを見て、ウインク、ではないウインクをする。
「たいがいの女の子は、デイビッドにあんなに追いかけられたら、いい気分になって、ほかに好きな子がいても、すぐにふらつくはずだろうな。でも、きみは違った。だからきみはとっても、素敵な女の子だとおれは思うぞ。WJは幸せ者だな」
褒められたことがあまりないので、妙に照れて、むずがゆい気持ちになってしまった。エヘヘと照れ笑いしていたら、マルタンさんも笑う。
「……料理はセンスだ。手順はどうでも、仕上がりがうまければそれでいい。でも、慣れてなければ、センスを発揮するチャンスもない。生まれてはじめて料理する人間が、宮廷料理なんか作れない。作れるセンスがあってもな」
それは、わたしも思ったことがある。まあ、恋愛的なことに関して、だけれども。だから、わたしはうなずく。
「料理なんか作れないって思っていたら、せっかくのセンスも水の泡だ。作れると思うからこそ、センスも発揮されるんだ。怖がらずに、自分のセンスに身を任せる。おれにとってセンスっていうのは、才能、って意味でもある。WJは、自分のセンスを信じてないだけなんだと、おれは思う。ついていけてないんだ。でも、そいつが合致したら、コントロールもできるようになるさ」
「ほんとう? マルタンさんは、そう思う?」
もちろん、とマルタンさんは微笑んだ。
「それ、WJにいったほうがいいかな?」
「いいや」
首を軽く振る。
「自分で気づけなければ意味がないさ。知ってるか? 料理の最後のスパイスはこれ」
フライパンの上に左手をかざしたマルタンさんが、ひらひらと、目に見えない調味料をかけるみたいな仕草をする。
「ロドリゲス家の魔術だ。こいつでさらにうまくなる」
「それはなに?」
マルタンさんが満面の笑みで答えた。
「愛情だよ」