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SEASON3 ACT.28

「私服の警官が、あちこちにいるみたいだけどさ、頼むから一歩も、絶対に一歩も、学校の敷地内から出るんじゃないよ! なにがあっても、迎えが遅れても、じいっとして待ってること、いいね!」

 早朝、豪邸にやって来たアリスさんに、車の中でいわれた。いったい何時間眠れたのかわからないけれど、最高に眠くてしかたがない。バックシートに身体をうずめて、うとうとしながらうなずく。

 昨日、催眠術師がやって来たあたりで、わたしは床の上にうずくまったまま、なんと、おもちゃ売り場で駄々をこねる子どもさながら、眠ってしまったらしい。キャシーに起こされた時は、たしかにベッドで眠っていたので、誰が運んでくれたのかと訊けば、アーサーとケンカ中のデイビッド、ではなく、ミスター・スネイクだったそうだ。というわけで、二十ドルを取り立てるという使命はどこへやら、ダイニングでお礼を告げるはめになってしまった。

 ちなみに、その場にいたWJは、アリスさんの持ってきた、修理済みの眼鏡をかけていた。懐かしいその姿は、深夜の人物とは別人みたいに思えて安堵したものの、やっぱり、かつてないほどの気まずさに、幻滅作戦を決行する勇気が出るはずもなく、静かに座って、用意された朝食をのろのろと飲み込むことに、意識を集中したのだった。

「ニコル。明日は土曜日だが、もちろん、イケてない生徒リストに、きみの名前はないだろうな?」

 助手席のアーサーにいわれる。

「火曜日と昨日、休んじゃったけど、無断じゃないから大丈夫だと思うよ……」

 うとうとしながら、キャシーの肩にもたれて答える。火曜日……、いろいろあったし、激しい日だったけど、でも、WJとは仲良しだったし、今よりはまだマシだった、ずうっと、全然マシだったのだ。ううううう! できることなら、あの時に戻りたい。というよりももう、しつこいかもしれないけれど、いっそのこと半年前に戻りたいかも!

「歴史のレポートの提出日は来週よ? ほら、博物館に行った時のやつ」

 キャシーがいう。そうだ、すっかり忘れていた。まあいい、週末やっつけてしまえば間に合うだろう。

 眠さのせいか、疲れのせいかは謎だけれど、だんだんわたしの気持ちが、ささくれだってきちゃっている、ような気がする。

 WJとデイビッドの乗っている、マルタンさんの運転する車が、前方を走っている。それを車窓越しに眺めているうちに、だんだん涙がにじんできた。

「ちょっ、いやだニコル、どうしちゃったの! そんなに涙、流しちゃって!」

「……わ、わがらない、わがらだいの。だげど、ギャジー、わだじ、この街がら、引っ越じじだぐなってぎじゃった」

 アーサーが、シート越しにこちらを向いた。今朝ばかりはげんなりせずに、同情をしめすような眼差しでわたしを見て、

「……いよいよ壊れたな」

「WJとなにかあったみたいなのに、あなたったらなんにもいわないんだもの!」

 キャシーに叱られる。

「ごの世は魔界だんだよギャジー、ぎっどぞうなの!」

 ずずずと、鼻水をすすっていると、花柄のきれいなハンカチを持ったキャシーが、わたしの鼻をかませてくれた。わたし、自分では十六歳だって思ってるし、もうすぐ十七歳になるというのに、もしかすると本当に、脳機能は五歳で止っているのかも……。そういう病気がある? どうしよう、本気でこんな自分が心配になってきた。

 しゃべるつもりなんてなかったけれど、眠いし、かなしいし、なのにどうすることもできない苛立ちのせいで、わたしのささやかな脳機能が、アーサーのいうとおり、破壊されたらしい。WJの幻滅作戦のほうが、一枚上手でショックだった、深夜の出来事をわたしがしゃべると、アーサーがぽかんと口を開けた。

「……それは……、よっぽどだな」

「よっぽど?」

 涙をぬぐいつつ、訊いてみる。

「あえて、きみの嫌がりそうなことをしたってことだろう? 冷静に考えろ、ニコル。ジャズウィットが本気で、そういったたぐいのことをしようとするんなら、きみは身動きとれなくなるはずだぞ? そういうことができるんだからな」

 がっくりとわたしは、頭をたれる。

「……うん。それはわかってるんだよ、アーサー」

「で? 実際きみは、すでに破壊されているし、今朝からジャズウィットと目も合わせない」

「そこまでしなくたっていいのに」とキャシー。

「そこまでしないと、くっつきまくるだろう。そ・こ・の・五歳児が。かわいそうに」

「わたしが?」

 びっくりだ、アーサーがわたしに、同情してくれている! すると、アーサーは、例のげんなりした顔で、

「ジャズウィットが、だ! ミスター・マエストロはまだうろついているし、いつなにがあるかわからないのに、きみがジャズウィットにくっついていたら、さらに危ないと思ってもいるんだろう。それ以外の理由もふくめて、自分がきみにとってマイナス、でしかないと気づいたからじゃないのか? 同じ男として泣けてくるぞ。その相手がきみということに、なおさら涙が出そうだ」

 アーサーは眼鏡を上げて、呆れてる、みたいな顔をさらにげっそりさせながら、前を向いた。

 ブロックの角で車が停まったので、降りようとした時、アリスさんが運転席の窓を開け、わたしを呼び止めたので立ち止まる。

「……はい?」

 アリスさんが、たばこをくわえて火をつけた。

「ミニミニ、あんたらののんきな悩みに、首をつっこむつもりはないけどさ、聞こえちまったんだからしかたないね。詳しい事情なんてわからないけどさ、いいアイデアってのは、思い込みをなくした逆方向にあったりするもんなんだよ」

 すうっと、煙を吐く。

「い。いいアイデア?」

「そうだよ。これは絶対できないしやらない、って思ってるものごとってのはさ、普段は隠れてるもんなんだよ。そいつを引っ張り上げてやって、思考の範囲を広げるんだ。そうすると、見える景色も変わってくる。一方通行しかなかったアイデアが、いろんな視点で見られるようになる……って、あたしはいつも、会社のやつらにいってるってのに、豚みたいな企画書だとか、デザインだとかを上げてくるから、踏みつけたくなるんだよ!」

 ……意味不明だけれど、ものすごく大事なことをいわれているような気がする。

「まあさ。仲良くやんなって。大人になっちまったらさ、たいして仲良しの友達も、できなくなるんだから。ここんとこと」

 胸に手をあててから、

「ここんとこを」

 頭を指す。

「柔軟にすることだね」

 にやりと、真っ赤な口紅の口角を上げて、アリスさんは窓を閉め、車を車道に乗せて、去って行った。

「……柔軟に、仲良く、かあ」

 そうしたいのはやまやまだ。それがこんがらがりまくって、まるきりうまくいかない……とまで考えてから、ん? と立ち止まり、アリスさんにいわれたことを思い返してみる。

 うまくいかない、というのはわたしの思い込みだ。なにかこう、もっといい方法があるような気がしてきた。なんというか、WJと距離を置く、ということじゃなくて、その逆って? うううーん、わたしったら、頭でばっかり考えてる!

 パンサーを辞めたデイビッドを、追いかけるマスコミの数が減っていた。 いつもよりもすんなりと、校門を入ったデイビッドのうしろから、WJが行く。そのあとで、わたしたちが校門をくぐると。

「ハーイ!」

 眩しい笑顔の女の子が、WJに向かって校舎の前で、手を上げた。わたしの腕をぐいっと引っ張ったキャシーがささやく。

「出たわ、魔女よ!」

 WJは無言のまま、サリーの前を通り過ぎて校舎の中へ入る。振り返ったデイビッドはこちらを見て、なにかいいたそうに口を開けた瞬間、どこからともなくあらわれたジェニファーに拉致される。

「人気者は大変だな。いろいろと」

 つぶやくアーサーと、校舎のエントランスで別れた時だ。オフィスから、ミス・モリスンと一緒に、びっくりする人物が姿をあらわしたので、ぎょっとした。

 それはどう見ても、ニセケリー、だったのだ! キャシーも呆気にとられた顔で、ぽかんとしたままわたしにいった。

「ニコル! ちょっと、どうして?」

 偽者ケリーはガムを噛みながら、わたしたちを見て、興味ない、みたいな顔で肩をすくめて、背中を向け、ミス・モリスンのうしろを歩いて行ったのだった。

 

★  ★  ★

 授業が終わってからすぐさま、キャシーとともに、ニセケリー捜索に走る。廊下でばったり出くわしたアーサーに、事情を説明したところで、それぞれ別れて捜そう、ということになった。アーサーは学食に向かい、キャシーは洗面所へ急ぐ。わたしはエントランスを見まわし、オフィスをのぞき、外の敷地へ視線をそそぎまくる。うかうかしていたらチャイムが鳴ってしまいそうだ、と振り返ったら、そこに偽者ケリーが立っていた。

「う、お!」

 変な声を上げてしまった……。はじめて見かけた時よりも、なんだかなげやり、かつはすっぱな雰囲気を漂わせたニセケリーは、ガムを噛みながらわたしを見つめ、

「なによ」

「ええと。あれ? あの、あなたって、落ちた、んだよね?」

「落ちたよ。だけど、受かった人が別の仕事を選んじゃったもんだから、次に印象のよかったあたしに連絡が来た、ってわけ。今日は下見で、明日から仕事。文句あるわけ?」

 文句はないけれど、訊ねたいことはやまほどあるのだ!

「あなた、ケリーって名前じゃないでしょ?」

「ああ、ああ、そのこと? 頼まれただけだし、あたしの役目はもう終わってるから、バレてても平気だけど、その名前で面接受けちゃったんだから、そこんとこは内緒にしといてよ。ここが受かったから、あそこのスタンド辞めちゃってて、こっちは生活かかってんだから」

 帰ろうとするので、シャツの袖を引っ張る。

「なによ?」

「誰に頼まれたの? あなたのいったことって、全部嘘なの?」

 はあ? とニセケリーは顔をしかめた。

「あたしのいったことって、あの冴えない男について、あんたにしゃべくったこと?」

 わたしはうなずく。

「あんたのお誕生日にドッキリを仕掛けたい、とかいって、あんたの親戚とかいう伊達男が、あたしの働いてたスタンドに来たんだよ。あたしを見かけて、似てる、って思ってたとかいって。こっちはいちおう、アクター目指してるし、ギャラも良かったから、引き受けただけ。ついでにここの仕事のほうが、スタンドよりも時給が一ドル高かったし、受かったらラッキーって感じで、ちょうどいいから暇つぶしにオッケーしただけ。そしたら、接触しなくちゃいけない人の写真と、あたしの役柄設定と、絶対しゃべくらなくちゃなんない内容なんかの書かれた、書類一式が渡されたわけ。面白かったよ、あんたびっくりしてるみたいだったし」

 わたしの親戚を名乗る伊達男って、たぶん間違いなく。

「その伊達男って、こう、にやけた感じの顔つきで、とってもハンサムな人でしょ?」

「ああ、やっぱあんたの叔父さんかなんかなんだ? だね。あれはたらしの顔だよ。女たらし。けど、なーんだかぼうっとしてる感じでさあ。マリオネットみたいって思ったな。誰かにあやつられてるっていうかさ、魂抜けてる感じで。かと思えば突然、すきのない男、みたいな感じで、きりっとしたり。あんたの叔父さん、大丈夫?」

 ああ、やっぱり。伊達男の正体は、ミスター・マエストロに催眠術をかけられていた、カルロスさんだ。

「あなた、それで、ギャングに捕まったでしょ!」

「ギャング? ああ、あれも役者だって聞いてたけど? 設定の中にもともとあったんだよ。あたしが拉致られたら、パンサーが助けてくれるっていう設定。あれは超ラッキーだった! あたしパンサーファンだし、それにここには、デイビッド・キャシディも通ってんじゃん! まあ、パンサー辞めた、みたいだけどさ」

 パンサーはWJだと気づいてないみたいだ。ケリーについて詳しかったのは、ミスター・マエストロが調べたからではなくて、イギリスにいるらしい、カルロスさん以外の、パンサー戦略チームの情報なんかを、引っ張り出した、からなのかも? カルロスさんなら容易に可能だ。ただし、そうしちゃった思考回路は、自分のモノじゃなかったんだろうけど。

「あ、あなたのこと、捜してたんだから! ルームメイトに、会ったりとかして」

「はあ? あんたがなんでよ?」

 いいえ、捜したのはWJです。むうっと無言で口をすぼめていると、

「あたしのこと捜しに来るやつがいるかもっていわれてた。わけわかんないけど、しばらく別の友達んとこに泊まってたんだよ。ルームメイトには嘘ついてもらうようにいって。あのさ、あたし帰りたいんだけど? もういいじゃん、あんたのビックリは終わったんだから!」

 ニセケリーは、ヴィンセントともミスター・マエストロとも、まったくつながっていないみたいだ。嘘をついているようにも思えないし、もしも本当に、つながりがあるのなら、受かったところで、来ないだろう。

 シャツから手を離すと、ニセケリーは肩をすくめて、

「パンサーに助けてもらった時、めちゃくちゃわくわくしたよ。せっかくだからあれこれしゃべくって、引き止めるのに必死になったね。まあさ、パンサー辞めたとはいえ、デイビッド・キャシディと仲良しになれるチャンスもあたしにはあるってことだし。そんで、気に入られたら、テレビドラマなんかに出られるかも! あたしったら、マジでラッキー! だからあんた、変なこといったりしないでよ!」

 うきうきしてる、みたいな感じでしゃべり、校門を出て行った。

 ……決定。ニセケリーは悪者とかじゃなく、ただのミーハー、だったみたいだ。

 

★  ★  ★

 授業中、ひっきりなしにキャシーと手紙のやりとりをし、ランチの時間になってから、アーサーにことの次第を伝える。ため息をついたアーサーは、サラダを頬張って咀嚼し、飲み込んでからいう。

「……すばらしくあっけないオチだな。翻弄されたこっちがアホみたいだ。わざわざ彼女の書類まで、手に入れたおれの労力を、誰か返してくれといいたい気分だ」

「自分のしたことが、ヴィンセントの銀行強盗を可能にして、さらに、もしかすれば強盗行為を止められたかもしれないパンサーの邪魔をした、なんて思ってるわけない、わよね……」

 キャシーが頬杖をつく。

「ドッキリパーティーの余興、ぐらいに思ってたんだろ?」

 アーサーにいわれて、わたしはうなずく。

「それを手配したのは、超強力催眠術をかけられていた、カルロスさんなんだもの。いろいろ知ってるわけだよね」

「それをあやつってたのはミスター・マエストロよ? わたしたちったら、彼にとってはまるでおもちゃみたいじゃない?」

 キャシーにいわれて、納得してしまう。そのとおりだ……。

 今朝のダイニングに、カルロスさんもスーザンさんも、あの美人催眠術師もあらわれなかったのが気がかりだ。そのことを二人に告げれば、同時に顔をしかめて息をつく。

「……なんていうか、ぼんやーりした作戦なのよね。そう思わない?」

「マエストロのアジト的な場所を知る手段が、それしかないってことだろう。催眠中の記憶を探るために、催眠をかけるだなんて、ウイークエンドショーも真っ青だけどな。おっと」

 視線をわたしの背後へ向けてから、アーサーがフォークでしめす。

「見ろ、ニコル。あれが噂の二人だ」

 うながされて素直に振り返るわたしって、単純すぎる。WJとサリーだ。デイビッドとジェニファーも来たけれど、ジェニファーはもう、サリーの邪魔をしない。ただし、わたしを見つけると「あんたなにやっちゃってんの!?」といいたげな、ものすごい形相でにらんでくる。う!

 隣のテーブルに座っている女の子たちが、プロムのドレスについて話していた。それを耳にしたキャシーが、自分たちの衣装もなんとかしなくちゃとアーサーにしゃべりかける。アーサーは苦笑しつつ、どこかでレンタルできないのかと提案する。それよりも思い出に、作ったほうがいいかもとキャシーはいう。ほほえましい会話の邪魔をしたくないので、そうっと席を立って、トイレに行くと嘘をついてしまった。トレイとお皿を戻し、学食を出る。出る間際、なんとなくだけど、WJの視線を感じた気がした。だけどわたしは見ないようにうつむいていたので、実際はわからない。わかったのは、デイビッドに呼び止められたことだけだ。まあ、立ち止まらなかったけど。

 いかん、いけない……こんなことでは。だけどなにをどうすればいいのか、ぜんぜんわからないのだ。廊下で立ち止まって、華やかなプロムのポスターをじいっと……にらむ。だいたい、こういう罪なイベントを一番最初に思いついたのって、誰なんだろ。女の子全員が、男の子に誘われて、参加できるわけじゃないのに。

 校舎を出て、気分転換に裏へまわり、敷地内をぶらつくことにする。天気もいいので、生徒たちが木陰に座って、寝転がっていたり、おしゃべりしたりしている。わたしもちんまりとその場に腰をおろし、そんな光景をぼうっと眺めた。

 気づけば仲良しのカップルが、あちこちにいるのは、プロム効果のせいかも。WJがフツーの男の子なら、こんな余分な悩みを抱えて、ややこしくならなくてもいいのになあと思う。だけどWJはフツーじゃない。だからって、おっかないと思ったことは一度もない。そのうえ、モンスターだと、思ったことだってない。

 近づけば傷つけてしまう。かといって、友達にも戻れない。くだらないけれど、わたしにもスーパーな能力があったら、WJを助けることができるのだろうか。いまみたいなややこしい関係にならなくても、いいのだろうか?

「おや、めずらしい。ひとりかね、ジェロームくん?」

 ぼうっとしていたわたしの背後から、声がして振り返れば、ホランド先生が立っていた。先生が、スラックスのポケットから、小さなキャンディをいくつも出す。

「食べるかね?」

「はい。もらいます」

 ホランド先生はにっこりして、わたしの隣に腰を下ろした。包装を解くと、紫とピンク色の混じった、コットンキャンディがあらわれる。

「先生、こんな甘いの食べるんですか?」

「禁煙中に、口がさみしくなるからね。きみがひとりだなんて、めずらしいなあ。いつも誰かと一緒のような気がしたけれど?」

 えへへ、と笑って答えをにごす。うううーん、おいしいけど、最高に甘いキャンディだ。

「みんな楽しそうだ。もうすぐプロムだからね。わたしもひそかに楽しみなんだ。今年はディスコタイムがあるからね」

「え! 先生も踊るの?」

 ほほほ、とホランド先生が笑う。

「わたしの踊りは、教師の中でなかなかのものなんだよ? お気に入りはブラックミュージックだ。クールでヒップ。腰をふってね。妻を家に残し、生徒に混じってひとりで暴れる。ストレス発散だ」

 座ったまま、くいくいと身体をひねらせるので、笑ってしまった。

「……気がかりなことはあるけれど、それでも時間は過ぎていく。その時には、なにかわかっていればいいのだけどね。そうすれば、わたしももっと楽しめるのだけれど」

 意味深な言葉をつぶやいた。それは、まだ行方不明の、姪御さんについていっているのだろう。ちょっとだけさみしげな顔をしてから、思い直すようににっこりして、わたしの肩をたたくと立ち上がった。

「プロムで踊るわたしを見ても、文句をいわないでおくれよ。わたしは瞬間、瞬間の人生を楽しみたいだけだ。年甲斐もなくね」

 ウインクする。小太りの先生のウインクは、パパともマルタンさんとも違って、ばっちりしたそれだった。

「文句とかいわないです。でも先生、ひとりで踊るの?」

「悪いかね? 相手がいないとダメだなんて約束ごとはないんだよ、ジェロームくん? ただ、いるのが当たり前と、みんな思っているだけだ。たしかに、気恥ずかしくはあるがね。けれどもまあ、わたしにとっては毎年のことだ。それに、人生は楽しむためにある。多少の悩みを抱えつつ、それでも自分の思うように生きていいんだ。違うかな?」

「思うように?」

 先生はうなずく。

「そのとおり。自分に正直にね。ただし、プロムの前には試験があるぞ」

 つん、とひとさし指でわたしの頭をつつき、にっこりして去った。

 わたしの思うとおりって、自分に素直になるって、どういうことだろう。いいや、ちゃんとわかってる。ぐるぐる考えすぎて、おかしなことになっちゃってるだけ。

 腰を上げて、大きく息を吸う。そして、学食までいっきに走る。

 学食へ行くと、アーサーとキャシーのテーブルに、デイビッドもWJもいた。もちろん、ジェニファーとサリーもいる。うううーん、こうしていると、いい感じのグループができあがっちゃってる、みたいに見える。そんなグループに突進して、テーブルの前に立てば、みんながいっせいに、わたしを見た。

「長いトイレだったな」

 アーサーがいうと、キャシーがサリーを見て、わたしに目配せする。サリーは肩をすくめて、あなたの席はないわよ、的な笑みを浮かべ、髪をかき上げていう。

「わたし、WJとプロムに行くの」

 と、WJが眉根を寄せた。

「誘ってないよ、サリー。それにぼくは、誰とも行ったりしないよ」

「あら。わたしが誘ってるのよ」

 キュートな笑顔は眩しいけれど、その笑顔に押されている場合ではない。

「サ、サリー!」

 緊張とめまいにおそわれてきたけど、ふんばるのよ、わたし! サリーがわたしを見る。わたしはぎゅうっとまぶたを閉じてから息を吐き、どきどきしながら叫んだ。

「わ、わたしだって、WJが好きなの! ちょっとややこしくなってるけど、わたしたち、つ、付き合ってたし」

 過去形がかなしいところだ。

「わたし、あなたみたく素敵じゃないけど、お、面白さには自信あるし!」

 ……って、わたし! ちょっと待って、これって自慢? 思わずいってしまったので、しかたがない、というか、それしか自分の自慢ポイントが、思いつかなかっただけ。アーサーがふ、と笑ったものの、気にしている場合でもない。

「と、ともかく!」

 サリーを指して叫ぶ。もう、勢いで攻めるしかない。

「あ、あなたに負けていられないし。そ、それにWJ!」

 固い表情をくずさないWJは、眼鏡越しの小さな眼差しをわたしにそそぐ。

「わ、わたし、あなたのややこしいこと、全部キャッチするつもりなの! あなたが逃げたって、追いかけてやるんだから! そ、それで、もしもまた昨日みたいなことするんなら」

 心なしか、学食が静まってるような気もするけれど、気のせいだろう。ええええい、やけくそだ!

 両手を広げて叫ぶ。

「い、いっそ、いつでもどうぞ!」

 これじゃあまるで、デイビッドみたいだ! いや、もう、かまってはいられない。ぽかんと口を開けたキャシーとデイビッドが、視線を交してからわたしを見る。アーサーはミルクを飲み干してから「よくいった」とつぶやく。わけのわからなそうなジェニファーは首をかしげて困惑し、サリーは、

「はあ? ニコル・ジェローム、意味不明よ、それ」

 苦笑した。あなたには意味不明でも、WJに伝わればいいの! と、鼻息あらくWJを見れば、かつてない奇跡のきざしが、そこにあらわれていた。

 なんと、WJの頬と耳が、赤く染まりはじめたのだ。わたし相手にこれはまさに、レジェンドなのだ! 

 万歳! と、両手を上げてしまったら、なぜか学食で、拍手が起こってしまった。どうやらわたしの叫びが、聞かれていたらしい。するとジェニファーがささやいた。

「やるじゃん、モンキー」

 ……まあ、これがわたしの素直な気持ち、というわけだ。ただし、この先どうなるかなんてわからないし、むすっとしたデイビッドの顔をまともに見られない。ああ、あああああ、いっちゃった、というか、わたし、やっちゃった? 

 どうかいい方向にいってほしい。もう願うしかない。で、いつこの万歳を、解消すればいいんだろ。うううーん、タイミングがつかめない!

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