SEASON3 ACT.26
髪をわしづかんだ恰好で凍るわたしの背中を、キャシーが押して階段を上らせる。廊下に立っていたデイビッドを指したキャシーは、女の子同士の会議があるの! と叫び、寝室のドアを開けてわたしの背中を優しく押し、ドアを閉めて鍵をかけた。
デイビッドとのチェス対決を回避できたのは喜ばしい。けれども、全然喜ばしくないWJのおかしなようすが気になって、落ち着かない! 向かい合う恰好で、わたしとキャシーはツインベッドに腰を下ろし、おしゃべり開始の体勢を整える。そこでわたしは「幻滅作戦」をカミングアウトし、キャシーに呆れられ、さらにWJにあげたキーホルダーのことも伝えた。キャシーは落っこちそうなほど目を見開いてから、腕を組んで首をかしげ、まるきり両思いなのに、なにをやっちゃっているのかと困惑する。とはいえ、わたしとWJの間には、超えられない分厚い壁(WJのスーパーな能力)があるので、いちゃつける関係には戻れないということも、キャシーは知っている。まあ、そもそもそんなに、いちゃついていたとも思えないわけだけれども。
さらにサリーという、新たな魔女(とキャシーはいう)の出現によって、騎士WJは惑わされてる……みたいな方向に、キャシーの妄想がふくらみはじめたので、なんとか落ち着かせながら、これも女の子特有の、答えの出ないおしゃべりを数時間続けた。
洋服を着たまま、ベッドに横たわったキャシーは、同じくベッドに眠るわたしに、
「幻滅させちゃったら、サリーと付き合っちゃうかもしれないじゃない」
「そうだけど。でも、仲良しではいられるかもしれないでしょ?」
キャシーはブランケットを頭まで引っ張り上げて、
「……まるで悲恋だわ。あなたったら、屋敷の貴族に恋する召使いみたいだわよ、ニコル! 好きだけど、召使いでいなきゃ、みたいな!」
「……う、うーん。それだと、わたしの相手はデイビッド、みたいじゃないかな?」
「実際の関係性についていっているわけじゃないわ! なんていうか、そういうもやもやした感じがあるっていうことを、わたしはいいたいのっ」
もやもやは正しい。
ブランケットをかぶったまま、キャシーはもぞもぞとしゃべり続け、わたしはそれについて返答を繰り返す。そうしているうちに、キャシーの声が小さくなり、やがて寝息になった。サイドテーブルのライトを消して、わたしもベッドの中へ潜る。システムナインをかかげた腕が、軽い筋肉痛になっているし、それなりの疲労を感じていたからか、考えたいことは山ほどあるのに、わたしはあっけなく、そのまま眠ってしまった。でも、眠りは浅かったらしく、あっさり目覚めて起き上がり、手探りでライトを灯せば、隣のベッドにキャシーがいない。
ぼうっとしたまま寝室のドアを開ける。ライトで明るい廊下を見まわしながら、耳をすます。うううーん、キャシーの行方がわからないし、いまが何時なのかもわからないけれど、おしゃべりの時間と眠った時間をざっくり足せば、深夜なのは間違いないだろう。
のろのろと階段を下りて、エントランスに立った時、ぼそぼそとした話し声がリビングのドア越しに聞こえた、ような気がしたので、近づいてドアに頬をくっつけてみる。
「そろそろ来ると思うんだけどね」
カルロスさんの声だ。
「わたしも同席させていただくわよ、カルロス! 女の催眠術師だなんて、お・ん・な・の・催眠術師だなんて! あなたたち、ちちくりあうに決まってるじゃないの!」
これはスーザンさんの声。
「落ち着けよ、スーザン。男を呼んだら、マエストロが化けてるってことになるかもしれないだろ? ミスター・ブラックホールよりもおとるが、退行催眠にかけちゃ本も出してる有名人だ。アリスの手配に感謝しようぜ」
マルタンさんがスーザンさんをなだめる。なるほど、どうやら大人チームの間では、カルロスさんの「どっかにいっちゃった記憶」を戻すための相談が、なされていたらしい。それで、そのために必要な人物が、これからやって来るのだ。
「アリスがローズに会いに行ってる頃だぞ」とマルタンさん。
「パーティで仕掛けたテリー・フェスラーの盗聴が、うまく録音されていればいいんだけど、どうなんだろうな、FBIの盗聴装置をキャッチできる範囲は、そんなに広くないはずだよ」
カルロスさんの疑問に、マルタンさんが答える。
「デートの相手に見張らせてるって、ローズが電話でいってたぜ? ZENで一緒だった元FBIとかいう男だ。いまはシティで会計士の仕事をしてるとかいってたけど」
「あら! あの女、新しい男がいるの?」
喜んでいるのか、スーザンさんの声が高くなる。
「いるんだろうな、あちこちに。女の武器もためになるってやつだ。それよりもカルロス、ダイヤグラムに引っこ抜いた、フィリップ・ザッパデザインの、パンサーの新しいコスチュームが、イギリスからぎりぎり土曜日に届くみたいだぜ? アリスがいってたけど、どうする?」
おっと、びっくりだ。パンサーに新しいコスチューム? カルロスさんが口笛を鳴らす。
「……あれは最高にクールだ。そうか、もうそんな時期になるんだな。やれやれ、ぼくがクビになるはずだよ。三か月前にバージョンアップの会議を開いて、やっと仕上がったと思えば、今度はパンサー引退。マエストロのせいだといったところで、会長が激昂するのもムリないね。まあ、復活させるけど。間に合えばそっちでいこう。柔軟性が強化されているし、デザインも若い世代のカルチャーにマッチしていて斬新だ。WJが試着してないから、なんともいえないけど、タイミングとしては悪くない」
やっぱり、カルロスさんはパンサーを復活させるつもりなのだ!
「ヘリの手配はしたわよ」とスーザンさん。
ヘリって、ヘリコプターのことだろうか。
「あとはやりとりをどうするかだね」
「警察の無線機の周波数にお邪魔できるよう、いまいじくってるぜ、ミスター・メセニ」
ミスター・スネイクがいう。
「……その前に、電池切れについてなんとかしてもらいたいわよ!」
スーザンさんが叫ぶ。
「大丈夫だ、上乗せしてもらったギャラで買い込んだ電池を、たんまり袋に詰めたからな。そいつを持ち歩いてくれ!」
一瞬、沈黙がただよった。……いや、そういうことではない気がする。
ようし、ギャラを手にしたミスター・スネイクから、朝にでも二十ドルを取り立てよう。
それにしても、新しいパンサーのコスチュームに、ヘリコプター。それに土曜日を気にしているカルロスさんの「パンサー復活作戦」が、どうやって進むのかまだわからない。ぐぐぐとさらに耳を押し付けたところで、はっとする。
わたし、またもや内緒話的なことを、聞いてしまっているのでは……。むしろドアを開けて入って行ってもいいはずなのに、泥棒みたいに盗み聞きしている自分があやしすぎる。こんなことをしていないで、キャシーがどこへ行ってしまったのか捜すべきだ。
というわけで、ダイニングをのぞいてみたけれど、キャシーはいない。厨房でオレンジジュースを飲み、コップを洗ってから階段を上る。男の子たちは眠っているのだろう、と考えてから、ものすごく奇妙な同居生活を過ごしていることに、あらためて気づく。まあ、もとはといえば、ギャングに追いかけられるはめになったからだし、同じ高校の同級生と一緒に、寝起きするだなんて、キャンプみたいだといえなくもない。キャンプだなんて、デイビッドにまたもや呆れられそうだけれど。
二階へ上がった時だ。クスクスとした笑い声が、書斎の方向から聞こえた気がして、突進する。この豪邸は大きくて立派だけれど、古いのだ。書斎のドアは、閉めても自然に開いてしまうのか、アーサーとキャシーがWJをのぞいていた時と同じく、ほんの少し開いていた。
書斎に、その二人がいた。キャシーはソファに座っていて、テーブルを挟んでアーサーが座り、二人でチェスをしていた。
とっても楽しそうだ。というか、幸せそうだ。ここから見えるアーサーの横顔が、いつになく穏やかに見えるのは気のせいではない。キャシーの相手がアーサーということに、いまいち納得がいかないけれど、キャシーの笑顔が眩しすぎて、嬉しそうなので、わたしもにんまりしてきた。邪魔をしないように一歩しりぞいたところで、ふいに肩をたたかれて振り向く。デイビッドが立っていたので、驚きのあまりひゃあっと声を上げそうになり、口をふさいだ。
「い、いつの間に……」
二人の邪魔をしないよう、ものすごく声を低めて訊く。デイビッドは寝起きみたいな顔で、棒付きキャンディーを口に入れたまま、
「ドアを開けたら一直線。書斎の前にきみがいたからさ」
まるで気づかなかったのは、二人に視線と意識が集中していたせいだ。なにしてるのとデイビッドが、わたしの肩に手を置いて身をかがめる。ドアの向こうを見て、
「……ああ、チェスね。きみがミス・ワイズに拉致されたから、ダイニングでマルタンとやってたんだよ。飽きてやめたけど。テーブルに置きっぱなしだったから、フランクルが見つけたんだな。それにしても、まあ、うらやましい絵図らだね」
ささやく。そろそろアーサーに気づかれそうだ。そうっと、音をたてないようにドアを閉めると、デイビッドがルームパンツのポケットに手を入れて、キャンディをわたしに差し出す。
「食べる?」
「う、うん。というか、いまちょっと思ったけど、あなたって、わりとジャンクなもの食べるんだね。ほら、ピザとか」
「それって、金持ちなのにってこと? 身体に悪そうな食べ物は大好きだけど、使用人を雇うわけにもいかないだろ。こんな生活してるんだからさ」
身を隠しているのに、という意味だろう。それはそうだ。
「ありがとう」
キャンディは満月色、きっとバナナ味だ。それで、あの夜のことが過ってしまった。パンサーに助けられた満月の夜のことが過って、しょんぼりする。あれからずっとWJのことが好きなのに、まるきりなにも、うまくいかない。駅でもWJに助けられて、なのにわたしはなんにもできない。WJのためにできることといえば、幻滅作戦をなんとか遂行することぐらい。間抜けすぎる。
「キャンディを眺めてしょんぼりする女の子を、はじめて見たな」
「……わたし、キャンディを見ると、思い出す男の子がいるの。ほら、これ、満月みたいでしょ?」
デイビッドが、目を細める。
「おどろいたな。誰だよ、それ。きみってけっこう、浮気者?」
そうではない。わたしはうなだれる。
「どうしてそうなっちゃうの? そんなんじゃないのに」
誰だよとデイビッドがあまりにも食い下がるので、アランのことをしゃべってしまった。というか、わたし、どうしてデイビッドにしゃべっちゃってるんだろ。うつむいて、話し終えると、後悔のしすぎは間違ってるとデイビッドがいう。
「え?」
「きみのことをうらんでたら、手紙なんか送らないさ。そいつもきみのことが好きだったんだろ、たぶんね」
わたしの持っていたキャンディを、デイビッドがつかむ。強引に包装紙をといて、わたしの口にぐいっと差し出し、
「食えよ」
素直に口を開ける自分もどうかと思う。キャンディをなめると、やっぱりバナナ味だ。甘くておいしいのに、なぜだかわたしは泣いてしまった。たぶん、無力すぎる自分が情けなくなったからだ。ぐずぐずしながらうつむいて、キャンディを頬張る。わたしを見下ろすデイビッドの視線を感じた時には遅かった。背中に腕がまわされて、抱きしめられる。同時に涙も引っ込んで、もがくどころか突然すぎて凍る。
「うっ!」
……またやってしまった。対デイビッド的に、注意すべきだと駅で誓ったはずなのに!
「こ、こ、好青年!」
としか叫べない自分の頭を、壁に打ち付けたい! デイビッドはなにもいわない。ぎゅうっと、わたしを抱きしめるので、キャンディがつまりそうになる。う、うううーん、デイビッドったらとってもいい香りだ、とかうっとりしている場合でもない! この思考方向は危ないし、危険すぎる。ど、ど、どうしよう……と思ったところで、書斎のドアの開く音が聞こえた。
「おっと」
背後でアーサーの声がする。しかも若干、半笑いの声音のような気がするのは、わたしの気のせいではないだろう。
「なんだよ」とデイビッド。
「……しかしがんばるな、キャシディ」
はあ、と息をついたデイビッドが、腕をゆるめたすきにしりぞく。それにしても、WJはどこにいるのだろう。眠っていると思うけれど、もしかすれば、まさか屋根で?
「いいだろう、べつに。おれはニコルが欲しいだけだよ」
す、すごいセリフを、さらっといいきられた……。なんとかしようとさんざんしてきたのに、どうしてそうなるのか本当に理解できないし、もはやわたしにはなんともできない。う、ううううう!
アーサーがげっそりした。
「……かわいそうに。だんだん同情したくなってきたな。きみもあれだな、催眠術でもかけられてるんじゃないのか?」
そうかも!
「そうだよ、デイビッド! きっとそうだと思うな!」
デイビッドがわたしをにらむ。
「……で? じゃあいつ、誰が、おれにそういう催眠術をかけたんだよ。あ・の・時・点・で」
たしかに、ずいぶん前からこんなことになっていたのだった。わたしはうなだれる。
「……う、うん、そうだね。いろいろ、そのお、なんだかごめんなさい」
もうあやまるしかない。なんだかにらまれた瞬間、好青年モードが撤回されそうな予感におそわれて、焦りながらいうと、デイビッドがわたしの腕を取ろうとする。でも、それを制したのは、チェスの箱をかかげたアーサーだ。
「おれのほうが強いだろうな、そう思わないか、キャシディ?」
デイビッドが動きを止めて、くいっと片眉を上げ、アーサーを見る。
「はあ? なにいってくれちゃってるんだ? おれのほうが強いに決まってるさ、フランクル」
アーサーがにやりとした。
「そんなわけはないな。ありえない」
デイビッドがわたしを見て、それからアーサーに顔を向け、舌打ちする。
「……いいさ。だったらおまえをねじふせてやる」
書斎に入った。アーサーがキャシーに目配せし、書斎に入るとドアを閉める。もしかして、わたしを助けてくれたのかも? キャシーがわたしの手をつかみ、階段を下りはじめる。
「な、なんだかわからないけど、ありがとう」
「あなた知ってた?」
エントランスに立った時、ダイニングと洗面所、厨房に挟まれた廊下の向こうを指す。そこはドアで閉じられてあり、誰も行き来しないので、てっきり物置だと思っていたのだけれども?
「WJがあそこに入るのを見たの」
「え? 物置でしょ?」
「ここって、かなり大きいのに、一階がこれだけの広さなんて妙でしょ? 鍵がかかっていたから、物置かもしれないけれど、あの向こうにはまだまだ部屋があるんだろうって、アーサーがいったの。大きな家って、使わない空間は、閉じちゃうんですって」
いわれてみると、たしかにそうだ。しかも、WJは鍵を開けられてしまう。
「キャシー、アーサーとチェスしていたんだね?」
キャシーがちょっと肩をすくめた。
「のどがかわいたから起きちゃったの。そうしたらアーサーにばったり。それで、まあ……」
キャシーの頬が心なしか赤くなる。キャシーもアーサーが好きなのだ。微妙な気分はぬぐえないけれど、ロルダー騎士にぞっこんだった、二次元世界から現実世界へと、キャシーを引き込んだアーサーの手腕には、学ぶべきものがある。
「行ってみたら?」
キャシーがドアをしめしたままいう。
「え? わたしひとりで?」
「邪魔はしたくないもの。デイビッドはアーサーに任せておいて! わたしも監視しておくから、あなたたち、ちゃんとおしゃべりしたほうがいいわよ。明日は学校だし、魔女もいるのよ!」
キャシーの中で、サリーがすっかり、魔女になってしまっている。
「わ、わかった」
うなずいて、わたしはドアに手をかける。キャシーを振り返ると、ウインクされた。口の中にはまだ、バナナ味のキャンディが残っている。なにをしゃべったらいいのかもわからないのに、いまだに気まずい感じなのに、ともかくわたしは、ドアを開けた。