SEASON3 ACT.25
フランクル氏が来て一時間後、マルタンさんが買い物袋を抱えて厨房へ向かう姿が、ダイニングから見えた。マルタンさんを呼び止めて、女の子禁制の会議が終わったのかと訊ねれば、にっこりしてうなずく。だけど、なんとなく、そのつぶらな瞳の下に、一時間前までは絶対になかった、寝不足みたいなクマができている……ように思えるのはわたしの気のせいだろうか?
キャシーと一緒にエントランスへ行けば、リビングのドアが開く。リックとキャシーのパパを連れたフランクル氏があらわれて、ハットを手でおさえながら、
「これから見聞きしたことは、なんでもいいからわたしに報告するんだぞ、アーサー!」
叫ぶ。アーサーはぐったりしながら、
「……わかってますよ」
うなだれる。その姿を見たとたん、わたしはキャシーに教えられた「真っ暗闇の刑」を思い出して、この場にそぐわない笑いをもらしそうになったので、必死になって両手で口をふさぐ。
「パパ、どうするの?」
とってもハンサムなワイズ氏に近寄ったキャシーが訊く。ワイズ氏はキャシーを抱きしめて、ミスター・マエストロが捕まるまでは、リックと一緒に行動すると答えた。
「おまえはここに残りなさい。お友達もいるし、ダイヤグラム・チャイルドの社員たちが、おまえを守ってくれるそうだからね」
それから、わたしに近づいて、笑みを浮かべる。うううーん、ほんとうに素敵だ! わたしのパパも痩せたら、こんな感じに……たぶんならない。
「きみがキャシーのお友達だね。わたしのせいで、危険な目にあわせてほんとうにすまなかった。これからもキャシーと仲良くしてくれるかい?」
もちろんだ! 大きくうなずくと、ゆっくりとわたしににじり寄ったアーサーが、わたしの肩に手を置いた。
「ミスター・ワイズ。あなたのせいではなくて、そもそもは彼女が巻き起こしたことなんですよ。まあ、彼女が立ち聞きしてくれて、たぶんよかった、んでしょうが」
え、とワイズ氏がわたしを見た。それまではわたしのことなんて、スルー対象だったフランクル氏すら、ぐいんと振り返ってわたしを凝視する。ものすごくおっかない顔でわたしを見つめると、ワイズ氏の肩をつかんで軽く押しやり、わたしの目の前に立って顔を……って、近すぎる! ので、わたしは顔をそらしてのけぞるはめになる。
「……なるほど、きみかね! その、騒がしい音楽をかきならす、バカげたミュージシャンみたいな髪型は覚えてるぞ、そういえば昨日もうろちょろしていたな! グイードの青少年に対する監禁容疑について、きみからも聴取しなければならんが、そうかね! さっきからいちいち名前が出ていたのは、きみか!」
……わたしの名前がどういうふうに会議で扱われたのか、内容がさらに気になってきた。のけぞりすぎて後ろに倒れそうになると、アーサーに背中を支えられる。どうしよう、わたしったらいま、前後をフランクルファミリーに挟まれている、ううううう! と、フランクル警部が顔をものすごくしかめた。
「……なんとまあ、詐欺師みたいな顔つきの娘さんだな! その髪型でなければ、わたしにはまるきり覚えられん顔だ!」
あああ、わたし、それと同じ言葉を遠い昔に、どこかで聞いた覚えがある……って、それは先週の出来事だし、いった相手はアーサーだ!
フランクル氏はわたしから顔をそらすと、カルロスさんを指していきなり叫ぶ。
「ミスター・メセニ、失敗は許されませんぞ! いいですな、あくまでも、これは市警の作戦と考えていただきたい。こちらがそちらに協力するのではなく、あくまでも、あくまでも、わ・た・し・の、手中のこと、ですからな!」
ぐん、と扉に身体を向ける。それから思い出したようにわたしを振り返って指を突きつけ、
「おっと、いいかね。きみにはのちほど、市警におもむいてもらわねばならん。わかったかね、……バカげた髪型の娘さん! 行くぞリック!」
ぐったりしたようすで扉を開けたリックを横目にし、大股で外へ出た。キャシーのパパもリックと一緒に去って行く。そしてわたしはうなだれる。なぜだろう、ものすごく疲れた。
「……強烈だろう?」
わたしの背後で、アーサーがつぶやいた。
「……う、うん。なぜだかとっても、疲れた気がする」
「想像するんだ、ニコル。家に戻ればおれは、あの方とひとつ屋根の下、だ」
……おそろしい。
「同情するよ、アーサー」
「その同情、ありがたく受け取っておくぞ。ちなみに」
わたしの耳元でアーサーがささやいた。
「リビングのドアの前に立っている二人の人物が、ずっとおれをにらんでいるんだが?」
え? と思って顔を上げ、ドアを見る。腕を組んだデイビッドと、デニムのポケットに両手を入れたWJが隣り合って、じいっとこっちを見ていた。ただし、あきらかににらんでいるのはデイビッドだけで、WJは焦点がさだまっていないのか、ぼうっとした眼差しだ。
「……にらんでるのはデイビッドだけだよ、アーサー」とわたし。
「いや、おれの目にはジャズウィットのほうが、おそろしい姿に映っているぞ。それはそれとしてどうしたんだ? ジャズウィットと別れたのか? こんな短期間で?」
どうして半笑いでいうのだろう。
「……アーサー。どうしてちょっと面白がってる、みたいな顔でいうの?」
眼鏡を指で押し上げて、アーサーが答えた。
「いっただろう? おれはきみがどっちとどうでも、なんでもいいんだ、好きにしてくれ。ただ、キャサリンが心配するのと、個人的な気に食わなさから、基本的にジャズウィットの肩を持っているだけだ」
わたしはふたたびうなだれる。友達的感覚で応援してくれているのかと思ったら、動機はかなり不純だったようだ。まあいい、それでも、キャシーのことを心配している、ということだから。
サリーの存在はWJにとって、悪くないのかもしれない。だって、わたしとアーサーが顔を近づけて、こそこそとしゃべっているというのに、さっきからまったく、ライトがじりじりしたりしない。ということは、こっちを見ているふうで、実はサリーのことを、考えているのかも! というよりも、考えるようにしているのかも? というかそれよりも、寝室のドアの前で起きたことって、なんだったんだろう? まったくわたしには、わからない!
★ ★ ★
とっても静かなディナーだ。テーブルにはマルタンさんお手製の、サラダにスープ、二種類のパスタにチキンとトマトを煮込んだ料理が並んでいる。パスタは大皿に盛られてあるので、それらをもくもくと自分のお皿にとって、誰もが無言で食べていた。どうして無言なのかは、わたしとキャシーに会議の内容が内緒、だからだろうか。それで、うっかりしゃべらないように、食べ物を口の中へ押し込んでいるということ? ということはアーサーに訊ねても、教えてもらえないということになる。
それともただたんに、強烈すぎるフランクル氏の存在に、疲労しただけ、なのかも。と考えていたら、大人チームがなぜか同じタイミングで、ぐったりしたような深いため息をついた。
ああ……、たぶんそっちだ!
「……超、強烈だったぜ」とミスター・スネイク。
そうだねというボブの隣にはWJが座っていて、トングはつかめたものの、パスタをうまく盛れないでいる。ああ、ああああ、手を貸したいけど、WJは一番端に座っていて、キャシーとデイビッドに挟まれている、わたしからは遠すぎる。
ボブが気づいて、WJのお皿にパスタを盛った。ほっとしたのもつかの間、今度ははっとする。そうだった、わたしには「WJに幻滅していただく」という、とっても大切なミッションが、残されていたのだ!
きちんと食べている場合ではない。だけど、もっとも見ていただきたいWJの視力に、わたしの幻滅的態度がきっちりと映るはずがない。とはいえ、誰かが「汚い食べ方だ!」といえば、WJはわたしに幻滅してくれるかもしれない。
というわけで、わたしはミートソースのパスタを頬張る。あまりのおいしさに、うっかり普通に噛んで飲み込んでしまったので、パンをつかみ、ぽろぽろとこぼしながら食べてみた。すると、左隣に座っていたキャシーが、
「いやだ、ニコル? どうしちゃったの、いっぱいこぼして。赤ちゃんみたいよ?」
そのとおりよ、キャシー! わたしったら、食べ方がよろしくないの!
「ああ、あああ。なにやってるんだよ、手がやけるな。おれが食べさせてやるよ、ほら」
右隣のデイビッドが、フォークに刺したチキンをわたしの口に寄せた。あれ? ちょっと望んでいた展開と違うのでは……などと思って、素直にチキンを頬張っている場合ではない。くそう、汚く食べるのって、難しいみたいだ。
「わ、わたしの食べ方って、汚いでしょ?」
試しにいってみると、前に座っているアーサーに苦笑された。
「汚いというよりも、キャサリンのいうとおり、0歳児だな。どうしたんだ、口の神経が麻痺したのか?」
「どこぞの警部の衝撃のせいかもね。フランクル」とデイビッド。
「……それについては、反論のしようもないな」とアーサー。
WJは!? と見れば、わたしを気にするどころか、サラダを凝視して食べていた。とっても残念だ。だから作戦ナンバー2を決行する。だけど、作戦ナンバー2は、身体的予感がないとできないのだ。なんとかやってみようと力めば、またもやキャシーに、
「ニコル。顔が赤くなってきちゃってるけど、大丈夫? あなたさっきから変だわよ!」
おならが……出る気がしない。いっそいってみるべき? それはいいかもしれない。思いきって、いってみることにしよう!
「ご、ごめん! おならしちゃった!」
えっ! と全員がわたしを見る。WJも顔を上げた。オーケイわたし、これは成功したかもしれない。ただし、十六歳の女の子としては、かなり屈辱的なことだけれど、そんなことを差し引いても、わたしはあなたのそばにくっついていたいんだもの、WJ!
「……べつに、わざわざいわなくていいのよ、ニコル?」
キャシーが苦笑いする。
「……それになにも、まあ、普通だよ」
デイビッドがくすくす笑いながら、わたしを横目にした。におってない、という意味らしい。ただし、アーサーはげっそりした顔で目を細め、わたしを見たもののなにもいわず、呆れたみたいにため息をつく。その態度をしめしてほしい人物は……とWJを見れば。
ボブとなにかしゃべっていた。決定、この幻滅作戦は、WJのそばに座らなければ効力がないのだ。ここであきらめるわけにはいかない。次のチャンスは、明日の朝食だ!
★ ★ ★
カルロスさんがみずからおとりになって、ミスター・マエストロを誘い込むつもりなのだと、食後のダイニングでアーサーに教えられた。なにしろカルロスさんは、催眠術師に化けたミスター・マエストロに、催眠をかけられて、いいように操られ、マエストロにとっては不都合な「なにか」を、たぶん見ているのだ。そのことを思い出す前に、マエストロはカルロスさんを、なんとかしたいと思っているはずなので、警察を配した「どこか」に、マエストロを誘い込んで捕まえる、つもりらしい。
うううーん。だけど、神出鬼没なマエストロが、そんな単純な作戦にひっかかるのだろうか?
ちなみに、ダイニングにはわたしとキャシーとアーサーしかいない。デイビッドはシャワーを浴びに行っていて、WJは、どこにいるのかわからない。書斎で宿題でもしているのかも。
「同時に、装置を破壊する、だそうだ」とアーサー。
「破壊?」とキャシー。アーサーがうなずいた。
「マエストロが時間を止めている装置を、壊す。それにそこには、ミスター・ホランドの姪御さんがいる可能性もあるぞ。彼女がいたら助けることもできる。場所はミスター・メセニが知っているんだろう。まあ、彼の、なんというか、潜在意識が」
「だけど、カルロスさんは忘れちゃってるんでしょ? 思い出せないのに、どうやって思い出すの?」
わたしが訊くと、アーサーが腕を組む。
「人間の潜在意識にはおそるべきものがあるらしいぞ。思い出せないことを思い出すために、さらに催眠で、潜在意識に刻まれた記憶を、外へ出すことができるそうだ」
「それって、さらに催眠術をかけてもらう、ってこと? カルロスさんが」
アーサーが小さくうなずく。
マエストロの目的はいまだに不明だ。とはいえ、マエストロと同じくらいにあやしげな人物がまだいる。
「夕方、テリー・フェスラーが弟の婚約者と内緒話してたの。それ、聞いた?」
「聞いたぞ。警察内部の人間であやしげな者に、リックは目星をつけている。だが、どれもこれも、重要人物を捕まえれば、はっきりすることだ。雑魚をいくら釣ったところで、キャッチ・アンド・リリース止りのうえに、労力の無駄。てっぺんを捕まえなければ意味がないんだ、そうだろう?」
それは、まあそうだ。アーサーが椅子を引いて腰を上げた。
「土曜日にあの豪邸で、フェスラー弟の婚約パーティだそうだから、その場にテリーもあらわれるだろう。探らせるとミスター・メセニはいっていたぞ」
「探らせるって、誰に?」
おっと、わたしとキャシーの声が、見事に重なった。うふ、って顔を見合わせて……微笑んでいる場合ではない。
肩をすくめたアーサーは、ダイニングを出る間際にいった。
「ジョセフ・キンケイドだ」
う! それって、つまり……マエストロを探るのはカルロスさん&元パンサーチームと警察で、フェスラー家のことを探るのは、元(なのかどうなのか、いまいちはっきりしないけれど)ギャングの元ジャーナリストであり現ボスの、ジョセフ・キンケイド、ということになる。
「そういえば、ニコル。あなたって明日は学校へ行ってもいいの?」
キャシーに訊かれるまですっかり忘れていた。カルロスさんに訊ねるため、席を立ったところで、シャワーを浴び終えたらしいデイビッドが、片手にコーラの瓶を持ち、頭にタオルをのせた恰好で、ダイニングに入って来る。がしがしと濡れた髪をタオルで拭きながら、椅子を引いて座った。
「どこに行くの?」とデイビッド。
「明日学校に行ってもいいのか、カルロスさんに訊こうかなと思って」
「ああ、いいんじゃない? 私服の警官が校門のあたりに張り付くっていってたから。それに、きみもそんなに休めないだろ? もうすぐ学年末試験だしさ」
そのとおりだ。というか、そんなことよりも!
「あ、あなた! 今日ギャングに捕まっちゃって!」
ああ、とデイビッドがげっそりしながらコーラを飲む。
「そうなの?」とキャシー。
「そうなんだよ、ミス・ワイズ。きみとフランクルが帰って、おれはジェニファーに引っ張りまわされて、バス停まで送ってくれとかいわれてさ。しかたがないから校門を出たところで勘弁してもらおうと思って、にこやかに手を振って見送ってたら、またもや目の前に停まるシボレー。おれはシボレーに呪われてるな。あの車、もう二度と見たくないね。座れば、ニコル?」
ぐいっと、自分の隣の椅子の背もたれを引く。のろのろと素直に座って……って、どうして素直に座るのか、自分につっこむのがすでに遅すぎた。まあいい。デイビッドは好青年モード続行中みたいだし、あんまり無茶なことをいったりもしなくなった、ような気がするので、安心しておこう。
キャシーが頬杖をついて、コーラを飲むデイビッドを見た。
「ううーん、あなたは嫌がってるみたいだけど、ジェニファーとあなたって、けっこういい感じだとわたしは思うわよ?」
ナイスだ、キャシー! わたしもその意見に賛成したい。とたんにデイビッドはコーラを吹き出し、Tシャツに飛んだ滴をタオルで押さえはじめる。
「……まさかきみにそんなこといわれるとは思わなかったな。マジでよしてくれよ、ほんと」
両手で顔をなでながら、
「セクシーの押し売りはもういいんだ。おれにはもうどうでもいいんだよ」
その指の間から、……どうかわたしを見たいでもらいたい、どうすることもできないのだから! ううううう。目をそらしてうつむくと、デイビッドが顔から手を離していった。
「ニコル。誰かさんのことはあきらめるんだ。彼はもう、サリーといい感じだよ」
「えっ!」
どうしてそういうこといっちゃうの! ……って、それはデイビッドだからだ!
「ランチの時だって、一緒にどこでなにをしてたのかわからないし、放課後だって同じだよ。よく考えてくれよ、ニコル。きみとサリー、どっちが魅力的なのか」
「それって矛盾してない? あなたはそういうけど、ニコルのことが好きじゃない。それに、そういうこというのって、とっても失礼だと思うわ!」
むうっと顔をしかめてキャシーがいう。親友って、素晴らしい。ただし、デイビッドの失礼な発言に怒るべきわたしが、納得しているということに納得がいかないだけ。くそう。だけど、デイビッドのいうとおりなんだもの。
「まあ、失礼発言はあやまっておくよ。でもさ、WJはライトをじりじりさせないし、けっこう落ち着いてるだろ? それって、サリーのおかげかもね。全部とはいえなくても、意識の半分がサリーに向いてる証拠なんじゃないか?」
「そういう努力をしているのよ、WJは! というかWJはどこ行っちゃったのかしら。ちょっと待ってて、呼んでくるわ!」
ダイニングを出て行った。キャシーはわたしとWJの仲を、なんとかしたいと思ってくれている。だからこそわたしも、幻滅作戦をなんとしてでも成功させなければならないのだ。
でも、すでに遅いのかも? あんなにキュートな笑顔の持ち主にくっつかれて、嫌がる男の子なんていないはずだ。でも、だとしたら、寝室のドアの前で起きたことって、なんだったのだろう? わたしの理解の範疇を、あれってすっかりはみ出している行為だ!
わ、わからない……。
髪をわしづかんでいると、ふいにデイビッドがいった。
「心配した?」
「え?」
デイビッドがコーラを飲み干して、わたしを横目にする。
「おれがキンケイドに捕まって」
もちろんだ!
「うん、したよ。ミスター・スネイクが、坊ちゃんの発信器が港に向かってるっていうから、会社まで行ったの。わたしがカルロスさんを呼びに行って、だけど受付のモデルみたいな人が、全然カルロスさんを呼んでくれなくて、わたしったらいろいろてんぱったんだから」
デイビッドがくすりと笑った。
「ああ、ラルフね。あの融通のきかなさがいいんだよ。妙な客をさっさと追い払ってくれるから」
「……うう、わたしは妙な客なんかじゃないのに」
げんなりしていえば、デイビッドが声を上げて笑う。それから真顔になって、テーブルにコーラの瓶を置く。
「……あのさ」
それをじいっと見つめながら、
「スーザンに買ってきてもらったから、またチェスしない? 今夜」
「いいけど、わたしは弱いし、アーサーとやったほうが面白いかもしれないよ?」
「フランクルとなんか、やりたくないよ。そのうちに胸ぐらつかみあって、本気のけんかになりそうだからね」
それはそうだ。思わず笑ってしまったら、デイビッドが椅子を引いて立ち上がり、わたしの腕をつかんで立たせる。
「え? いま?」
なにかよろしくない予感がしてきた。わたしの腕をつかんだまま、デイビッドがエントランスを歩いて、階段を上りはじめる。わたしはよろめきながら、
「むしろマルタンさんとか、ああ、ミスター・スネイクなんかも、いいんじゃないかな?」
「そうだね」
同意したくせに、わたしの腕を離さない。あれ? あれれれれ? なんだか似たような覚えが……ありすぎてどれがどうなったのか、混乱しすぎて思い出せないしあわててきた! けれども、二階へ上がると、キャシーとアーサーが、書斎のドアに張り付いている姿が視界に飛び込み、デイビッドが立ち止まる。
「なにしてるんだ?」
声を上げればアーサーが振り返り、ひとさし指を口にあてて顔をしかめる。キャシーもはっとしたような顔で、わたしに向かって突進して来た。
「……大変、ニコル」
ちょっと失礼、とデイビッドに告げ、わたしの手を引っ張って、キャシーが階段を下りはじめる。わたし、自分で自分の行動を決められない、みたいになっちゃってる!
「ど、ど、どうしたの?」
エントランスに立ったキャシーが、わたしに顔を近づける。
「……ニコル。WJがおかしいの」
え!
「なにそれ?」
「……わたし、WJを捜してたら、アーサーがさっきみたいにして、書斎のドアに張り付いてたから、どうしたのって訊いたの。そうしたら、ドアがちょっと開いていて、そこからWJが見えたんだけど」
「う、うん」
どうしよう。先を聞くのが、なんだかおそろしくなってきた。そんなわたしにかまわず、キャシーが続ける。
「……間接照明は点いてたわよ。で、WJはソファに寝そべってて、じいっと、自分の右手を見てるの。こんなふうに」
自分の右手を軽く握りしめて、キャシーは目を細め、それを見つめた。
ん?
「え?」
「なにか持ってるみたいなんだけど、じいっとそれを見たまま、全然動かないの。ねえ、変よね?」
それは……もしかすると……わたしのあげたアレかも? どうしよう、やっぱり、どうやって捨てたらいいのか、悩んでいるのかも! ああ、ああああ、んもう、わたしったら、あげなければよかった。
どうしよう……すっごく、こ、困った!