SEASON3 ACT.23
ダイヤグラムの会社のあるビルの前で、ボブがライトバンを歩道に寄せた。ミスター・スネイクは、点滅する発信器の位置を見つめていなければならないし、ボブは運転席で待機していなければいけないので、わたしがカルロスさんを呼んでくるはめになった。
バンを降り、周囲を見まわしながら、ビルの回転ドアに身体を滑り込ませ、ロビーにかかげられてあるプレートで、階数を確認する。以前ここへ来た時は、いまみたいに確認なんてしなかったけれど、ダイヤグラムはこのビルの、七階分ものフロアを占めていた。そんなにたくさんの人が働いているだなんて、思いもしなかった。ともかく、ひとまずは、受付になっている階まで行ってみよう。
ビジネスマンに混じって、エレベーターに乗り込む。受付のフロアで降りれば、ダイヤグラムのロゴマークを背に、カウンターを前にして、モデルみたいな男性が立っていて、わたしを見て顔をしかめた。緊張と焦りのせいで、しどろもどろになりながら、カルロスさんを呼んでくださいと伝えると、男性は眉根を寄せたまま、
「カルロス・メセニは退職いたしました」
う!
「で、でも、ここにいるって」
「おります。なぜか」
「と、ともかく! ともかく、呼んでください!」
しぶしぶ内線電話の受話器を持ち上げて、男性が面倒くさそうにしゃべりはじめる。受話器を置くと、感情のないロボットみたいな声で告げた。
「……元社員のカルロス・メセニは、なぜか会議中です」
ううう!
「き、緊急事態なんです! そこをなんとか!」
さらに男性が、けげんな顔をする。と、そこで。左側の通路から、ものすごい叫び声とともに、ドアが開いた。あらわれたのは、シックなスーツ姿のアリスさんで、たばこをくわえたまま通路で、持っていた書類をめりめりと破り宙に放った。アリスさんの背後から、スーツ姿の男性が飛び出してきて、げっそりした顔のまま、床に落ちる書類をかき集めるためか、しゃがむ。すると、アリスさんがたばこを指でつまんで叫んだ。
「まるっきり使えないね! 豚だよ! こんな企画書はこうだよ!」
ハイヒールで……踏みつぶした。あああ、と男性がその場にくずおれる。すごすぎる。ぽかんと口を開けて、そのようすを見ていたわたしとアリスさんの目が合ってしまった。すると、アリスさんは即座に、大股で近づいて来て、わたしに声をかけた。
「……ミニミニじゃないか。どうしたのさ?」
書類を集めながらうなだれる男性を気にしつつ、アリスさんに説明すると「ちょっと待ってな」と、エレベーターに乗ってしまう。しばらくしてから、エレベーターのドアが開き、カルロスさんがあらわれた。ただし、身長のさほど変わらないアリスさんに、襟首をつかまれた恰好で。
アリスさんがカルロスさんを、ぐいっとフロアへ押し出す。
「んで? あたしはどーすればいいわけ、無給男?」とアリスさん。
「……とりあえず、きみは仕事をしてくれ、アリス」
ふう、と息をついてカルロスさんが答える。あ、そ、と肩をすくめたアリスさんは、エレベーターに乗ったままフロアから去った。久しぶりに強烈な、アリスさんを間近で見たため呆然としていると、カルロスさんはわたしを見下ろして苦笑する。
「……すまないね、電話がパニックにおちいっていて、つながらなかったんだろう。なにしろパンサー関連の問い合わせが殺到していて、広報部がすごいことになっているから。それで? アリスに聞いたよ。デイビッドが?」
わたしは大きくうなずく。すると、カルロスさんの表情が、いっきにこわばった。
「わかった、行こう」
一階まで降りたカルロスさんが、ロビーの一角にある電話ボックスで、電話をかけはじめた。待っている間、わたしはボックスの隣に設置された、小さなお土産ショップをなにげなくのぞく。このビルにはダイヤグラムのほかにも、有名な出版社や、映画製作の会社が入っているので、そういった会社の関連グッズが、観光客向けに売られてあるらしい。ただし、観光客が気軽に立ち寄れる雰囲気ではないから、売れているとは思えないけど。
パンサーのマグネットを発見してしまった。それから、シティの絵はがきに雑誌、たばこやお菓子。そしてわたしはひとつだけ、ピエロのキーホルダーを見つけた。黄色にピンクの水玉模様の衣装を着ていて、なんだか小さな自分みたいだ。じいっとそれを見ていると、キャップをかぶった若い男性の店員が、売れ残っているのだという。
「これ、なんのキャラクターですか?」とわたし。
雑誌を読んでいた店員が、ちらりと視線を向けて笑う。
「キャラクターなんかじゃないさ。シティといえば大道芸人、という感じなんだろ、あちこちに出没するからね。三ドルだ」
全財産が戻ってこないせいで、いまのわたしに、三ドルは高額すぎる。それに、のん気に買い物をしている場合ではない。あきらめようとしたら背後から、にゅうっと手が伸びる。
「買ってあげるよ。三ドルかい?」
振り返ると、通話を終えたカルロスさんが立っていて、店員にお金を渡してしまった。
「ああ! いえいえいえ、いいんです。なんとなく見てただけで」
カルロスさんがくすりと笑った。
「命の恩人にこのギャラは安すぎると思うよ? ほら、もう買ってしまった。まるで小さなきみだね。はいどうぞ」
紙袋に包まれたキーホルダーを、素直に受け取るわたしもどうかと思うけれど、二十ドルが戻ったら、返すことにしよう。
「ありがとう、カルロスさん。お金を取り立てたら、三ドル返しますね」
カルロスさんが苦笑した。
「取り立て?」
わたしはうなずいたまま、がっくりとうなだれる。うううーん。問題は、いろんなことがありすぎて、そのきっかけが、いまだにつかめないということだ。
★ ★ ★
空が藍色に染まりはじめていた。街灯がともり、ネオンやビルのライトがまたたきはじめた中心街から、港へ向かって、ライトバンが疾走……できない。なぜなら渋滞しまくりの時間帯だからだ。けれども、ボブがいきなりハンドルをきる。ガッタンとバンが軽く傾いて、いきなりスピードが上がった。すばらしい、どうやら抜け道を発見したようだ。
ミスター・スネイクの背中越しに、カルロスさんが画面を見つめた。デイビッドの位置をしめす、点滅する「11」は、いまやクラークパークから少し南の港界隈で、動くこともなく静止している。ちなみに、マルタンさんとWJは一緒らしい。車に乗っているのか、ふたつの番号が仲良く同じスピードで、画面の地図上を港に向かって移動していた。南東へ向かっているわたしたちとの距離が狭まる。
カルロスさんが、バンの中にあったアルミケースをつかんで、開けた。中にはホルスターと、ピストルが二丁もおさまっている。それを確認してから、画面を指でしめし、
「合流できそうだ。頼むよ、ミスター・スネイク」
うなずいたミスター・スネイクがボブに行き先を伝える。するとさらに、バンのスピードがいっきに上がったので、わたしはうしろにのめって、ドアに頭をぶっつけた。うっ。
カルロスさんは、慣れた手つきで一丁をつかみ、装弾すると、ジャケットを脱いでホルスターを肩に下げ、ピストルを突っ込んだ。
「学校に電話をしたら、WJが出たよ。なにか激しく不自由を強いられてるみたいでね、気づいたらデイビッドがいなくなっていたといったんだ」
激しい不自由……って、なに?
「会社の電話はあんな状態だったし、何度も電話をしたけど、連絡ができなかったといわれたよ。すぐに捜すつもりだったらしいけど、邪魔をされて学校から出られなかったみたいだよ」
不自由のうえに邪魔……ってなに?
「じゃ、邪魔?」
カルロスさんが苦笑した。
「女の子がくっついていて、うまく逃げられなかった、といっていたけど」
それは……最悪だ。さまざまなよろしくないことを考えてしまいそうだけれど、そんな場合ではないので、とりあえずこの項目は、脳内のすみっこに押しやっておこう。
「マ、マルタンさんは? ずうっと学校の近くで静止してたんだけど……」
「WJもわからないみたいだったよ。学校を出たいまなら、事態が判明しそうだけれど、なにしろ連絡が取り合えない。キンケイドの誰かに薬品でも嗅がされて、意識を失っていた可能性もあるね。もしくはマルタンも疲れているから、うっかり眠ってしまったのかもしれないし。……誰も責められないし、責めても仕方のないことだよ、いまとなっては」
おっと、そういえば、学校の駐車場にはリックがいたはずだ!
「ア、アーサーとか、リックとかもいたはずです!」
カルロスさんがうなずいた。そして少しばかり、げんなりした顔でいった。
「そうだね。でも、連絡が取れないんだ、そうだろう、ミス・ジェローム?」
そ、そのとおり、です……。
WJはあきらかに、サリーにくっつかれて学校を出られなかったのだろう。マルタンさんはわからないけれど、無線で連絡を取り合えないので、どこで、誰が、なにをしているのか、互いにわからない状態で動いているのだ。もちろん、このバンに乗っているわたしたちには、それぞれの位置が見えているけれども、残念なことにそれを伝える術が、ほかにない。
「兄貴! 双眼鏡をくれ!」
いきなり、運転席のボブが叫ぶ。ミスター・スネイクがシート越しに、双眼鏡をボブに渡す。ハンドルを握ったまま、片手で双眼鏡をのぞいたボブは、すぐにそれを放って、クラクションを鳴らす。すると、こちらに向かってくる反対車線の白い車が、ライトをまたたかせた。白い車に乗っているのは、マルタンさんとWJだ。ボブがハンドルをぐるんとまわし、反対車線にバンを乗せた。無事に合流できたところで、デイビッドがいるであろう港界隈を目指す。急がなければ、屋敷を出てから一時間以上は経過しているはずだ。
「デ、デ、デイビッド。大丈夫かな!」
わたしが叫ぶと、カルロスさんが無精髭をなでて、そのまま髪をかきあげてうめく。
「……ううう、さあ、どうかな。いちおう、こういった場合の対処方も相談済みではあるけど」
「こういった、場合?」
「ジョセフに激しく恨まれているみたいだからね。もしも、最悪な状況になったら、ジョセフに会うまでおとなしくしているように、昨日伝えてはあるんだ。兄弟に引き渡すまでは殺さないだろうし、渡す前にジョセフは必ずあらわれる。そうすれば、こちらも取り引きができるからね」
「取り引き?」
カルロスさんがうなずいた。
「向こうはデイビッドの命と引き替えに、自分の身の安全を確保したいんだろう。だけどジョセフはすでに、かなりの人間を警察に引き渡してるよ。持ち前の情報力とコネを使ってね。つまり、すでに彼の兄弟の組織力は弱ってきてるんだ。それでもデイビッドに固執してるのは、自分の野望をとげたいためだろう。彼の野望は金でもないし、ドンとして君臨することでもない、ジャーナリストとしての栄誉なんだ」
そうかもしれない。一面のトップ記事を署名入りで飾りたいと、さんざんわたしにいっていたのだ。
「じゃあ、パンサーはデイビッドじゃないって、ぶちまけちゃうっていうこと? ええとう……、デイビッドの命と引き替えに」
それが取り引き、という意味なのだろうか? すると、カルロスさんがにやりとした。
「違うよ、ミス・ジェローム。ぼくはきみにいったはずだよ。使えるモノは使う、ってね。そろそろぼくも本気を出さないと、いつまでも無給の元社員、っていうわけにもいかないからさ」
画面の地図がミスター・スネイクの操作によって拡大され、デイビッドの位置を確実にしめす。そこで、港の手前、薄暗い倉庫街に建つビルの小路で、バンが停まる。なにしろ港界隈は、もともとキンケイド・ファミリーの仕切っている区域だ。あちこちに停められている車が、暗がりのせいとはいえ、すべてシボレーに見えてくるのは……わたしの気のせい、と思いたい!
バンの背後から、車の停まる音がした。コツンと窓が叩かれて、ボブが窓を開けると、マルタンさんが顔を出す。
「……すまない、カルロス。WJに起こされるまで、爆睡しちまってた!」
……あああ、やっぱり寝ちゃって、たんですね……。でも、激務なうえのこの業務。カルロスさんのいうとおり責められない。
「ミス・ジェローム、きみのお友達は、リックと一緒に警察へ向かったとWJに教えられたよ。安心してくれ、屋敷で集合予定だ。で? デイビッドはどこだ?」
「あのビルにいる」
シート越しに身を乗り出したカルロスさんが、港近くのビルを指した。マルタンさんはかぶっていたキャップをはずし、もじゃもじゃの髪をなでて息をつく。
「……下手なことして、銃撃戦にはしたくないぞ。会話が聞ければ、突っ込むタイミングがわかるんだけどなあ」
おおっと! それなら最適な物がある!
「シ、システムナインがありまっす!」
わたしが叫ぶやいなや、ミスター・スネイクがパチンと指を弾く。
「そのとおりだぜ、ちっちゃいの! 盗み聞きのための装置がある」
というわけで、ミスター・スネイクが例の箱を開ける。鉄製の傘を組み立てはじめた時だ。
「どうするの?」
マルタンさんのそばから、とっても素敵な声がそそがれたので、わたしはうっと息を止める。声の主はWJだ。ちょっと前までは恋人だったはずの男の子を、いまやまともに見ることもできない。サリーにくっつかれて嬉しかったのだろうか、それとも嫌だったのだろうか。もうわたしのことなんて、きれいさっぱりで、どうでもいい感じになっちゃってるのかも? ぐるんぐるんとくだらない考えにとらわれながら、無言でうつむく。
アンテナを組み立てたミスター・スネイクが、装置のスイッチを入れながら、
「そういや午後、テリー・フェスラーの会話をキャッチしたぜ? その声を録音してあるから、あとで聞いてくれ」
「テリー・フェスラー?」とカルロスさん。
「弟の婚約者と、豪邸まで歩いて来て、内緒話をしていたの」
わたしの返答に「なるほど」とカルロスさんがつぶやく。ミスター・スネイクが、アンテナをあちこちに向けはじめると、じりじりとした電波の向こうから、ぼそぼそと声が聞こえはじめた。
マルタンさんが助手席に乗る。当然、WJもバンに乗った。カルロスさんがミスター・スネイクの隣に移動してしまったので、わたしの隣にWJが座った。すぐそばにいる元恋人を、全然見られない。意識しすぎて、話しかけることもできない! ここでおならをしてみるべき? いや、それは場違いだし、その作戦は落ち着いてから決行すべきだ。それに、いまおならとかできる余裕も、それをもよおす身体的予感も、わたしにはない。
『……ってるのよっ! あなたが浮気してるってこと!』
アンテナが、おかしな女性の声をキャッチしたようだ。
『うるっせぇなあ、またその話か!』
ん? とてもじゃないけど、ギャングの会話とは思えない。どちらかといえば、夫婦げんか、みたいな会話に思える。すると、ミスター・スネイクが苦笑した。
「悪いな、こいつにはかなしい欠点があるんだ。アンテナの方向の会話は、なんでもキャッチしちまうんだよ」
ああ、ああああ。そうか、内緒話の時には、邪魔をする物も人もいなかったのだ。だけどここには、たくさんの人たちの会話が、建物の向こうに存在している。
持っていてくれとミスター・スネイクに命じられたわたしは、同じ方向でアンテナをかかげる。装置にくっついたつまみをいじりながら、ミスター・スネイクがしゃべる。
「修正するぜ。さあ、来い。どこだ? どこにいる?」
静まったバンの中で、さまざまな声が混じり合う。
『……と思うけどね?』
おっと! これは絶対にデイビッドだ!
「ちっちゃいの、そのままだ! オーケイ、キャッチしたぞ」
『べつに逃げないから、これ取ってくれない? 犯罪者になった気分になって滅入るからさ』
デイビッドの声だ。
『ボスが戻るまで待て』
これは……ギャングの誰か。デイビッドは手錠でもされているみたいだ。だけど、まだ生きている。安堵して息をついたとたんに、アンテナをかかげている腕が震えてきた。
「ニコル、ぼくがやろうか?」
う! WJがわたしの名前を呼んだ! それだけで挙動不審になりそうなので、背中を向けたまま「大丈夫!」と答える。まったく大丈夫ではない。腕とは違う方向で。
バッタン、とドアの閉められる音がたった。全員が装置を囲んで前のめりになる。マルタンさんとボブも、シート越しに顔を向けた。
『デイビッド・キャシディ。テリーのパーティではうまく逃げたな。昨日は駅でとんだ目にあわされた。まあ昨日は、元ヒーローのせい、みたいだけど? さて、と』
元ジャーナリストで現ギャングのボスの声がする。
『兄どもにきみを引き渡す時間の相談をしなくちゃな』
『……それで? おれはあんたの兄どもに、なぶり殺されるわけ?』
『さあ? それは彼らの自由だ』
少し間があく。いよいよ腕が辛くなってきた。小さいとはいえ鉄製なので、けっこう重いのだ。すると、背後から手が伸びる。わたしがつかんでいるアンテナの柄の上から、大きな手が伸びて、
「代わるよ」
頬の横でWJにいわれて、ぼうっと顔が赤くなっている……場合ではないのに、わたしったら! まるで背後から軽く抱きしめられる、みたいなこの体勢に、まったく耐えられない。
「お、お願い、しまっす」
うううう、返答からしてすでに挙動不審だ。わたしはすぐさま手をよけて、WJからすり抜けるみたいにして、椅子から降りる。WJがわたしの座っていた位置に移動したところで、会話がふたたびはじまった。
『……あ、そう。でもさ、ドン・キンケイド、テリー・フェスラーと親友、だったんだっけ?』
『それが?』
『……べつに。ただ、それってあんたが思ってるだけなんじゃないかなあと。いやまあ、おれにはどうでもいいんだけど。だけど、もしもそんなに仲良しじゃないなら、ものすごく面白いことができそうなのに、もったいないなと思ってね』
デイビッドは、なにをいっているのだろう。カルロスさんを見れば、ちょっとばかしにやけている、ように見える。
『……どういう意味だ?』とジョセフ。
『……そのままの意味だよ、ドン・キンケイド、というか、ミスター・キンケイド。ずっとゴシップ記事担当で、苦労してたのは知ってる。ああいうのって、大変だよね。おれを追いかけまくってた記者はたんまりいるから、よくわかるよ。だからおれは、一度も邪見にしたことない。逃げることはあるけどさ、だけど捕まったら、ちゃんと笑顔で対応していたつもりだし』
そう、ひきつった笑顔で。たしかにああいう場面のデイビッドは、尊敬にあたいする。
『なにがいいたいんだ、デイビッド・キャシディ?』
『ミスター・キンケイド。昨日突然駅にあらわれた、ミスター・マエストロの存在を、どう思う? 新聞にも掲載されていたけど、彼がなにをするつもりで、いきなりあらわれたのか、誰も知らない』
無言。ジョセフが考えをめぐらしているのだろうか。するとジョセフがいった。
『席をはずしてくれ』
この言葉で、カルロスさんの口元に笑みが浮かんだ。その場にいるであろう下っ端たちが、出て行く物音がする。
「のったな」
マルタンさんがいった。カルロスさんがうなずく。わたしにはもちろん、なにが「のった」なのか、さっぱりわからない。
『ずっと死ぬまで、ファミリーを背負っていくんだろ、ミスター・キンケイド。そこから逃れたかったはずなのに、……おれのせいだ。悪かったよ。でもさ、キンケイドのボスが決まって、いろいろ落ち着いたのは本当だろ? さらに、ヴィンセントは銀行強盗でへまをやらかしたし、グイードはドンごと刑務所行き。まあ、出てくるだろうけど』
『……なにがいいたいんだ、デイビッド・キャシディ?』
『おれはまだ、あんたからすればガキだろうけど、これでもキャシディ家の資産を背負ってる……まあ、元パンサーだ。フツーの高校生が知らなくてもいいようなことを、知っていたりするしね。だからまあ』
だからなんだとキンケイドがいう。デイビッドが答えた。
『おれを解放してくれるなら、元パンサーの死亡記事なんか吹っ飛ぶような、最高の特ダネを渡すよ。激写付き、トップ記事確実、さらにジョセフ・キンケイドの署名入り。あんたはいっきに有名人だ、そのあとで本でも出せば? 出版社ぐらい、いくらでも紹介するよ』
沈黙が続く。カルロスさんがマルタンさんに視線を向けた。わたしは前のめりになって、装置に釘付けだ。デイビッドが続ける。
『ちなみに、元ギャングにキャシディ家から資金を提供してもいい。きちんとした仕事をはじめたいならね。ただし、そのためには親友を裏切らなくちゃいけないかも』
デイビッドの声のあとで、カルロスさんがささやいた。
「親友と呼べるほどの仲じゃないのは、調べ済みだよ。テリーはキンケイドから、汚れた資産を引っ張りたいだけで近づいてるんだ。ジョセフだってわかってるはずだ。さあ、どっちに転がるかな。たぶん値踏みしてる」
すると、ジョセフがいった。
『……なるほど。まいったな』
マルタンさんがパチンと指を弾く。カルロスさんが笑った。
『……自分の命欲しさの、もしもこれが嘘なら、こっちにも考えがあるぞ、デイビッド』
『わかってるよ、ミスター・キンケイド。嘘じゃない。のるならすぐに書面にして渡すよ、おれのサイン入りでね』
『いっている意味がわかっているのか? こちらと手を組む、という意味なんだぞ、デイビッド』
もちろん、とデイビッドがいう。
『……おそろしいガキだな、まったく。きみにその知恵をさずけているのは、元CIAのカルロス・メセニか?』
う、えっ! カルロスさんがCIA? 元CIA? FBIじゃないけど、なにかのつながりがあって、それでローズさんと知り合いだったのかも? 目を丸めてカルロスさんを見れば、肩をすくめて、
「……学生時代にスカウトされただけだし、あっちはいろいろ、面倒くさいんだよ。地味だし、給料も仕事のわりには安いし、デートの相手に自慢話もできない。ソ連に飛ばされる前に辞めたんだ」
ソ連に……飛ばされるのは怖そうだ。それは正解、かもしれない。
『それとも、元海軍のマルタン・ロドリゲスか?』
……自分のまわりにいる人間は、普通じゃないとデイビッドがいっていたことを思い出す。大変だ、ダイヤグラムにいる社員は、みんな元・な・に・か、なのかも。マルタンさんと目が合うと、にっこりされた。
「……だからアリスに耐えられる」
なるほど……いや、すごすぎます。ああ、それで寝袋で眠るほうが落ち着くのかも? うううーん、つっこんで考えるのはやめておこう。
『どうせおれについてのいろんなことも調べ済み、なんだろう』とキンケイド。
『……かもね』とデイビッド。
長い沈黙のあとで、キンケイドが静かにいった。
『……オーケイ、いいだろう。すぐに書面を手配しろ』
カルロスさんがジャケットを脱ぐ。ホルスターをはずすとピストルごとケースにおさめて、
「さあ、大変だ。キンケイドを味方につけたぞ」
ちっとも大変そうじゃない、満面の笑みで、いった。