SEASON3 ACT.20
……も、もしかしたらわたし、留年するかも。だって、学年末試験、どころの騒ぎじゃない事態におちいってきているから。できることなら、いまわたしをおそっている悪夢みたいな出来事が、もうちょっと時期をずらして、サマーホリディ中に起きてくれたらよかったのに! まあ、だからって、わたしの精神状態が、正常でいられないのは同じだけれど。なんて脳内でぐるぐる考えて、凍っている場合ではない。
WJを、追いかけなければ!
「ええええっ!? ちょっ!」
おかしな叫び声とともにあわててドアを開けると、廊下にしゃがむデイビッドがいた。どうしてその場にしゃがんでいたのかは不明だけれど、デイビッドはちょっとさみしげな眼差しでわたしを見上げると、しゃがんだままひとさし指で階段をしめす。WJが下りて行った、という意味だろうか?
「下だよ」とデイビッド。
「う、うん。ありがとう」
親切だ。なにか不気味な気もするけれど、好青年モードが続行中なのだろう。気にしている余裕なんて、いまのわたしにはこれっぽっちも残されていないので、階段を駆け下りて、エントランスをぐるぐるまわり、ダイニングをのぞいて、厨房をのぞく。そこに、WJがいた。
WJは水を飲んで、グラスを置くと、フードをうしろにはらって、わたしに顔を向ける。向けても、笑ってくれない。眼鏡をしていないWJは、ただでさえ完璧な容姿なのだ、それでも、いつもなら微笑んでくれるから、わたしは安心して話せたし、近づくこともできたのに。
「……なに? ぼくは全部、きみにいったよ」
にこりともしてくれない。
WJは本気なのだ。本気で、わたしから遠ざかろうとしているのだ。わたしはぎゅうっとこぶしをにぎって、勇気をふりしぼる。
「そ、それって。あなたがさっきいったことって、ようするに、マエストロとかがいなくなったら、駅で起きたことみたいなのは、気にしなくてもよくなるって、ことなんじゃないかな……って。わたしは思うんだけど?」
WJが顔をそらす。壁に背中をつけると、うつむいた。
「……そうかもね。だけど、今日のことは、忘れかけてたことを思い出すきっかけになったから。ぼくはこういう自分から、絶対に逃げられないんだよ」
またわたしに顔を向ける。もちろん、無表情のままで。無表情のWJは、完璧すぎて威圧的な印象をわたしに与えてしまう。だからわたしは、なおさら悲しくなる。こんな人知らないと、無意識のうちに思ってしまうからだ。
ちょっとでいいから笑ってほしい。ほんの少しでもにこっとしてくれたら、わたしはきっと冗談まじりに、そんなこと気にしないでとか、元気を出してとか、いえるのに。
「ニコル」
ふいに名前を呼ばれたので、うつむいていた顔を上げると、WJはわたしを見てはいなかった。視線を自分の足下に落して、告げた。
「ぼくらは距離を置いたほうがいいよ。しばらくしたら、前みたいな友達に戻れるかもしれないから」
「前、みたいな?」
WJがうなずく。
「……そ、それで。それで、友達にも戻れない、感じだったら?」
WJは答えない。
「こんなのって、とってもおかしいと思わないかな? わ、わたしは、あなたがびりびりしたりすることも知ってるし、いろんなことができるのも知ってるけど、全然嫌じゃないのに」
沈黙が続いて、なにかいわなくちゃと焦る。焦って、目を泳がせながら、どう伝えたらいいのか言葉を探していると、WJがいった。
「……ぼくはいままで、誰も殺したことなんてない。パンサーになっている時もね。だけどマエストロの前に立った時、一緒に死んでもいいと思ったんだ。冷静になってから思い出して、すごく怖かったよ。いまもね」
顔を上げて、わたしを見る。
「……ぼくはそう思うだけで、誰かを殺せるんだよ。そんなやつと、付き合ってほしくないんだ、きみに」
思わず、一歩あとずさってしまった。それを見たWJが、自嘲気味な笑みを浮かべる。そんな笑い方をしてほしくはない。ただにっこりしてほしいだけなのに。
「……わたしは。わたしはあなたが好きなのに。まだデートもしてないし、付き合ってるみたいな感じに、なれそうでなれなくて、だけどわたしは、いま起こってることも全部がおさまったら、どこかに出かけたり、映画を観たり、できると思って楽しみにしてたのに」
「……ぼくもだよ。でも、いっただろ? ぼくは普通じゃないって」
「普通じゃなくてもWJはWJでしょ?」
なんとか涙をこらえる。だけどまたもやぼやぼやと、視界がぼやけてきてしまった。もうこんなんで、いつ学年末試験のことを気にしろっていうわけ?
WJが、わたしに右手を差し出した。
「眼鏡をくれる? マルタンになおせるか訊いてみるから」
おずおずと眼鏡を渡すと、それを握ったWJは、わたしの横を通り過ぎようとして、わたしの横に立ち、ふと足を止めた。うつむくわたしの頭上から、WJの声が静かにそそがれる。
「いっただろ。ぼくはきみの幸せを願ってるって。それに、友達ならずっと仲良しでいられるんだ。そのままでいるべきだったのに、焦って気持ちを伝えたことを、いまは後悔してるよ。だけど……うまくいえないけど、きみの相手はぼくじゃなかったってだけのことだよ」
「そういうことは、ひとりで決めることじゃないって、思うけど?」
「……うん。きみの相手が、普通ならね」
わたしは両手で顔をおおってしまった。これって、つまり……なんだか、付き合う前にふられた、みたいな感じの気分だ。
「……ど、どうやっで、どうやっで、あ、あだだどごどどっ」
最悪すぎる。鼻水も止らないし、涙も止らない。あなたのことを、どうやって、いまさら友達だと思えばいいわけ? そんな意味のことをなんとか伝えれば、WJがいった。
「……きみになんとも思ってもらえないように、努力するよ」
う。え?
「だ、だに、ぞれ?」
WJは答えずに、厨房を出てエントランスを横切り、リビングのドアを開けると、マルタンさんを呼びながら入って、ドアを閉めた。
教訓その6。男の子って、さっぱりわからない。
★ ★ ★
この場にアーサーがいたら、わたしをゴースト扱いしたはず。いまやわたしは生きる屍、ではなくて屍そのものと化した。
WJはとっても優しかったし、わたしにうろうろ禁止令を発令して、心配したり、怒ったりしてくれたし、やきもちまでやいてくれて、そのうえキスまでしてくれようとしたのに、その数時間後には一変、自分のことをなんとも思わないでくれというムチャぶりだ。
……ムチャぶり、すぎる、のでは……?
一刻も早くふて寝すべきだ。そう思って、階段を上っていると、段に腰掛けたデイビッドが、わたしを見て苦笑した。
「ゾンビ発見」
「……じゃなくて屍。デイビッド。わたし、もう生きていく気力すらないかも」
「友達カテゴリートークの開始って感じだな。耳が腐りそうだけど、どうぞ」
自分の隣を手でたたいて、わたしをうながす。デイビッドに恋愛相談なんて、デイビッドにとって残酷きわまりない行為に、およぼうとしている自分が許せないけれど、ひとりで抱えているとよろめいて、よろめいたまま倒れて、二度と起き上がれない気がするから、甘えてしまいそうだ。ううう、ううううう!
数日前にはこんなこと、想像もできなかった、そんなことがいまや事実となっている。きっとこの世に神さまなんていないのかも。というよりも、神さまがわたしで、遊んでいるのに違いない!
「……なんとも思うなっていわれちゃった」
ふ、とデイビッドが笑う。
「だからいっただろ。あのさ、おれはきみが好きだし、邪魔するつもりもあったけど、嘘はなんにもついてないんだよ。さんざん忠告してやったのに」
わたしはうなだれる。
「で? その、なんとも思うなって、なに?」
デイビッドに訊かれる。階段に座った自分の膝に額をくっつけると、うめくみたいな声になってしまった。
「WJは自分のことがおっかないの。それ、わたしもわかってたし、だけどわたしはべつに、なんにもおっかなくないのに。だからいろいろいってみたけど、もうダメみたい。決めちゃった、みたいな感じで、わたしになんとも思ってもらえないように、努力するっていったの。意味がわからない」
はあ、とデイビッドがため息をついた。
「……おれって最高にかわいそうだな。きみが相手だと、どうしてこんな道化師役になるわけ? きみこそがピエロなのにさ。呆れすぎてキレる気力もない」
「……ごめん」
「いいけどね、もうべつに。まるっきり慣れないし、慣れたくないけど、とりあえず友達カテゴリートーク的に答えれば、最低な男になるってことだろ」
え?
膝から顔を上げてデイビッドを見る。デイビッドは、にやりとした顔をわたしに近づけて、
「最低なヤツ。それはつまり、来る者こばまず、去る者追わず」
「どういうこと?」
「さあね。明日学校へ行けばわかるかも」
……わかりたく、なくなってきた。んもう、もう、もう! 誰かマエストロを、一刻も早くやっつけてくれないかな! ……って、その可能性を秘めているのは、かくじつにパンサーしかいないのだけれども。
階下から、デイビッドを呼ぶカルロスさんの声がした。立ち上がったデイビッドは、わたしの髪をくしゃっと手でかき混ぜて、
「いまこそきみのすき間に、入るべき時って感じだな」
いい残して、階段を下りて行った。心なしか、スキップ気味で。わたしは地震が起こりそうなほどのため息をつき、ひとりうなだれる。わたしにもスーパーな能力があったら、WJとなにかをわかちあえたのだろうか。一緒に悪玉どもと戦ってみたり? まあ、悪い絵図らではない。でも、わたしにできることといえばジャグリングか、子どもを笑わせることぐらいだ……って、こんな妄想をしている場合でもない。
デイビッド的にいえば、いまこそがその時だ。
「……勉強しよう」
そう、学期末試験について、頭をいっぱいにすべき時が、どうやらいま、らしい。ああ、ああああああ。
★ ★ ★
ダイニングで、教科書を広げて勉強をしているうちに、いつの間にか眠ってしまったようだ。お腹が空いているはずだけれど、わたしの知能指数をはるかに超える出来事のせいで、まるきり空腹を感じない。
リビングから、まだ話し声が聞こえているので、深夜というわけではなさそうだ。寝ぼけながら、テーブルから顔を上げてから、自分の肩にブランケットがかけられていることに気づく。そこで、厨房へ行こうとするマルタンさんが通ったので、ぼうっとしながら眺めていたら目が合った。
「ミス・ジェローム。デイビッドにいろいろ聞いたぜ? 無事でよかったな」
はい。無事じゃない部分もありますけれども。
「マルタンさんが、これかけてくれたの?」
ブランケットをつまんで訊けば、マルタンさんは肩をすくめて、WJだろうという。びっくりしたのと同時に嬉しくなったものの、わたしを気にしないといったくせのこれは、どういうつもりなのかともやもやしてきた。
うううーん、もやもやする、ものすごく!
「あ。マルタンさん、WJの眼鏡、なおりそう?」
もじゃもじゃの頭を、さらに指でもじゃもじゃさせて、マルタンさんは顔をしかめる。
「うーん。レンズが壊れちまってるからな。ほかの部分はなおるけど、どっちにしろ修理に出さないとあれはダメだ」
そうですか。
「今日。すまなかったな。SPがSPとして機能しない事態になってしまったみたいだから。明日はおれがしっかりはりつくよ。カルロスもあんまり身動きとれないし、あっちもこっちもなんとかしないとな」
アーサーと、キャシーとキャシーのパパは、まだ警察にいるらしい。どんなことになっているのかは、明日わかるとしても、わからないのはマエストロの居場所だ。それに、マエストロには仲間もいそうだ。そのうえキンケイド。
「キンケイドは、みんな警察に捕まる?」
いいや、とマルタンさんが苦笑する。
「デイビッドを追いかけてたのは下っ端だろ? ヴィンセントみたいに、銀行強盗なんてでかい悪さをしなければ、ファミリーごと捕まることはないんだ。それにキンケイドは、ボスがジョセフになってから、警察に捕まってるのは、やつの兄弟の下っ端ばかり。ボスなのに、ジョセフが警察にタレ込んでるんだろう。新聞の記事も小さいが、数日の間にわりと目についてきたぜ。だけど、テリー・フェスラーのパーティで、うろついてたやつらのことは、ジョセフが圧力をかけたのか、新聞に載ってない。あいつは元ジャーナリストだし、顔の広さが末恐ろしいぞ」
やっかいな人をボスにしてしまったようだ。いまさらだけれど。
「……マエストロは、捕まるかな?」
するとマルタンさんがいった。
「捕まえるさ。大丈夫。どうせダイヤグラムの広告ボードを、逆さまにしたのだってヤツしかいないし、できない。こっちもそのつもりで、宣戦布告を受けるしかない。じゃなきゃ、いつまでたっても落ち着かない、そうだろ?」
そのとおりです。
「でも、どうやって捕まえるの?」
マルタンさんはウインクする。でも、マルタンさんのウインクは、ウインクではなくてただのまばたきだ。
「罠をしかけるんだ」
罠?
わたしが訊き返すと、マルタンさんはフフフと笑いながら去って行った。ああああ。あああ、こっちももやもやしちゃうからもうやめて!
その時。にゅうっとダイニングに、ミスター・スネイクが顔を見せる。右手を差し出して、にやりとすると、わたしにいった。
「ちっちゃいの。発信器をつけるからスニーカーをよこせ。今度は捨てるなよ!」
その前に、わたしが貸した全財産の二十ドルは、返してもらえるのかな? もう、もう、もうううう! 今夜のわたしはもやもやだらけだ。あっちも、こっちも!