SEASON3 ACT.19
ターミナル駅の電気がいっきに落ちてしまったけれど、アーチ状の窓に囲まれたコンコースに、シティのライトが射し込む。藍色の光に包まれて立つ二人の姿が、暗がりに慣れた目に映ったとたん、まるでおとぎ話の魔法使いみたいに、マエストロは両腕を上げて、いっきに前へ突き出した。
マエストロの両手から、ぐん、と爆風のような強い風が巻き起こって、WJの身体がうしろへ弾かれ、飛ばされる。ターミナル駅の入り口から正面の、天井間近の窓まで飛ばされ、身体が背中から窓枠にたたきつけられた。
叫び声とともに、駅から出て行く人たちの足音がこだまする。WJの身体がずしんと、列車が発着する構内に続く階段の上に落ちると、ピストルをマエストロへ向けた警備員が叫んだ。
「う、動くな!」
待て、といわれた泥棒が待つわけはないし、動くなといわれたマエストロが両手を上げてフリーズするとは思えない。WJの名前を叫びたいのに、いま起きていることが怖すぎて、迷子になっちゃった百歳のおばあさんみたいに、あうあうと声をもらしながら、おろおろしているだけの自分が、心の底から情けなさすぎる!
……どうしよう! 死んじゃうかも。……WJが、死んじゃうかも!
誰かが通報したのか、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。同時に、ゆっくりと、WJの起き上がる黒い輪郭が見える。生きていると安堵したものの、これ以上はなにもしてほしくはない。呼び止めようとして口を開きかけた直後、腰をかがめたWJが、本物の豹のような早さで、いっきに壁を駆け上がる。わたしの視線が追いつかないほどの早さで、ぐるりとコンコースの壁を駆け、いきおいをつけてマエストロの前で着地する。そこから波状に、床が振動するのを感じた。
WJは片足を床につけたまま、ぐっと右手を突き出す。今度はマエストロが飛ばされる。それはまるで、マエストロのトルネードみたいだった。
警備員がピストルを、どちらに向けたらいいのか迷っている。明るくはないコンコースで、たしかなターゲットをしぼれずにいるからだ。
マエストロが起き上がる。
「……ほう、わたしの技を手に入れたか」
WJが右手を揺らしながら、マエストロに近づいていく。
「……あなたの攻撃はすべて受けたから」
わたしは、デイビッドの二件目の隠れ家に住んでいた時に、WJがキャシーを助けようとしたいきさつを、話してくれたことを思い出す。あの時、WJは特技があるといったのだ。試したことはないけれど、特技があるといったはず。そのあとで、しゃべりたくなさそうに口をつぐんだので、わたしもそれ以上は訊ねなかったけれど、もしかして。
もしかして、このことなのだろうか。スーパーな能力のある誰かの攻撃をうけたら、それを覚えてしまう、という意味だったのだろうか。
サイレンの音が大きくなる。そしてコンコースの窓が、ガタガタと揺れはじめる。いまやWJの放つ刺激が、空気に混じって痛いほどだ。
WJが怒っているのは、わたしがまたもや死にそうな目にあってしまったから? それとも、マエストロの存在自体に、怒りを覚えているということなのだろうか?
どちらにしても、かなりまずい展開に思える。まるで見えないナイフで、身体が切り刻まれるほどの刺激が充満している。あちこちで、痛いという声が上がり、床にピストルの落ちる音がひびく。警備員が、握っていられなくなったのだ。
暴走するスーパーカー。やっとその時になって、デイビッドのいった言葉の意味を理解する。
窓の揺れがすごい。これでもきっと、WJは我慢しているはずだ。でも、そのたががはずれてしまったら、窓は割れる。まだコンコースに残っている人もいる。窓が割れたら、誰かがけがをしてしまう。なんとしても止めなければ……って、どうやって止めたらいいのだろう!
その時、ありえないことが起きた。
メインコンコースに一台の車が突っ込み、急ブレーキをかけると停まる。車のライトが激しすぎて、輪郭はよくわからないけれど、あきらかにパトカーではない。それに、なんとなくバン……のように見えるのは気のせい?
車のライトを背にしたマエストロは、身体をかがめると、飛んだ。同時に、車のドアが開く。それで、とっても聞き覚えのある声が、コンコースにこだました。
「やんちゃなガキども! いるんだったらいますぐ乗れ!」
ミスター・スネイクの声だ! 直後、ものすごい数のライトが、パンサー号の背後から一列になってあらわれる。
「警察だ! 動くな!」
コンコースに突っ込んだバンの横に、人影が立つ。懐中電灯を下から、自分の顔にあてた男性の顔を、わたしは間違いなくテレビで見ている。その男性は、片手で自分の顔にライトをあて、片手にピストルを持って、叫んだ。
「クレセント・シティ、市警部長のフランクルだ! この騒ぎを起こしている悪魔はどいつだ!」
ミスター・マエストロよ、と叫ぶ女性の声が上がる。懐中電灯を手にした警察がコンコースの中に入り、いっせいに、マエストロの姿を探しはじめる。さっき感じた刺激はかすかにゆるんで、窓の揺れもおさまったことに気づき、わたしはWJを探す。だけど、どこにも見あたらない。
「いたぞ!」
警察が叫ぶ。ライトと銃口が向けられた方向を見上げれば、アーチ状の窓枠に手をかけたマエストロが、いた。
マエストロは、壁を蹴ると一瞬宙に浮き、片手を突き出す。窓を囲う格子状の鉄さくが、みるみる曲がり、わたしがあ、と口を開けた瞬間、窓が割れた。そこから姿を消したマエストロを追うため、警察がコンコースから出て行く。やがて、駅のライトがじわじわとまたたきながら光りはじめて、その場に残っていた人びとの安堵のため息がもれるとともに、ライトバンから顔を出しているミスター・スネイクと、アーサーのパパ、もとい、シティ市警部長のミスター・フランクルが、無言のまま顔を見合わせる。
そしてわたしはびっくりした。パンサー号であるはずのド派手な車体が、地味なグレー一色になっていたからだ。
そこへ、どこからともなくアーサーがあらわれて、近づいて行ったので、わたしもおろおろしながら近寄る。そういえば、キャシーとキャシーのパパはどこなのだろう。
……というよりも、そうだ、デイビッドも!
「フェスラー銀行を調べている最中に、通報が入って来てみればこのありさまだ。アーサー、家に戻らないのはかまわんが、この騒ぎの渦中におまえがいる理由を知りたいぞ、わたしは」
なぜかミスター・フランクルは、コンコースのライトが煌々と灯っているというのに、いまだ自分の顔に、懐中電灯をあてていた。
アーサーがげんなりする。
「……父さん、電池の無駄遣いです」
フランクル氏は、険しい表情をくずさずに、即座に電灯を消す。
「おまえが見たものを説明しろ、いますぐ、簡潔に、だ」
「……ミスター・マエストロがあらわれたんですよ。理由は」
アーサーが一瞬だけ、少し離れて立つわたしを横目にした。く、と眉根を寄せると、
「あとで話します」
フランクル氏は、じいっと、クラシックハットからすさまじく鋭い眼差しをアーサーに向けて、片眉を上げる。それからゆっくりと、自分の横に駐車されている、グレーのライトバンに目を向けて、ドアから顔を出しているミスター・スネイクをにらみすえ、
「……治安の乱れすぎにめまいがしてきたな。大きく駐車禁止とかかげなければ、コンコースにバンを停めるアホもあらわれる始末か! 罰金二百ドル!」
ミスター・スネイクに手を差し出す。ミスター・スネイクは自分のポケットをまさぐりはじめて、じゃらじゃらと小銭を床に落とした。見かねた運転席の弟、ミスター・モヒカンが車から降り、革ジャケットからくしゃくしゃのお札を出しはじめる。お金をかき集めた兄弟が顔を見合わせると、わたしとアーサーに視線を向けて苦笑した。
「……貸してくれ」
……ああ。あああああ。げんなりした顔のアーサーのもとに、どこからかキャシーとキャシーのパパが駆け寄った。すでに顔見知りのキャシーのパパが、フランクル氏としゃべりはじめたので、わたしは周囲を見まわして、デイビッドを探す。
すると、コンコースのすみ、柱のあたりに、ざわついた人だかりを発見する。駆け寄って背伸びをすれば、マエストロに飛ばされて、打ちどころが悪かったのか、いまだ倒れたままのキンケイド・ファミリーに、ピストルを向けて立っているデイビッドが、いた。
まるで映画かなにかの撮影を眺める野次馬みたいに、輪になって集まっている人たちが口々に、あれはやっぱりデイビッドだったのだとささやきはじめる。マエストロはギャングの仲間なんだわ! 能力がなくなったなんて嘘なのよ! パンサーの姿じゃなかったけれど、あの黒い影は彼なんだわ!
「そうなんでしょ!?」
若い女性の声に、そうだ、そうだ、という同意の声が持ち上がり、デイビッドは苦笑まじりに答えた。
「……ああ、まあ。そういうことにしておくよ」
★ ★ ★
アーサーは、フランクル氏にすべてを話すとわたしにいった。警察の内部に、フェスラー家の息のかかっている人間がいそうなことも、ミスター・マエストロがフェスラー家と、つながりがありそうだということも、そして、マエストロがシティの時間を、ときどき止めているということも。
事情を話すために、フランクル氏とパトカーに乗り込んだアーサーと一緒に、キャシーとキャシーのパパも同行することになる。パトカーに乗る前、キャシーはわたしを抱きしめて、勝手に動きまわったことを、何度もわたしにあやまった。わたしは首を振って、キャシーを逆にぎゅうっと、抱きしめる。
「わたしがあなただったら、同じことをしたと思うから、気にしないでキャシー! それに、マエストロとの約束をやぶったのは、わたしだし」
マエストロはキャシーがしゃべったと、勘違いをしていたみたいだけれども。
「カウンターの奥にパパとアーサーと隠れていたら、あなたがマエストロに落されるみたいになるところを見て!」
わたしから身体を離したキャシーが、両手で顔をおおって泣きはじめてしまったので、なんだかわたしも泣きたくなって、二人でぐずぐず泣いていると、早く乗ってくれというフランクル氏の無情な声がそそがれ、そこで別れることになってしまった。
ともかく。アーサーとキャシーには、明日学校で会えるはずだ。ちなみに、デイビッドがピストルを向けていたキンケイド・ファミリーも、無事に捕まった。
フランクル氏は、デイビッドも連れて行こうとしたけれど、とりあえず自分が全て説明するからと、アーサーがそれをさえぎってくれたので、聴取は後日ということにおさまった。アーサーにいわせれば、これ以上ややこしいことにしたくはない、だそうだ。
パトカーが駅から去っていき、超地味な元パンサー号にデイビッドが乗り込むと、なぜか拍手がわき起こる。パンサーは不在ではなくて、ふたたび息をふきかえしたのだ、みたいなことに、いまやなってしまっている。
「ちっちゃいの! あんたも乗るんだ!」
ミスター・スネイクに叫ばれたので、のろのろと乗り込む。やがて元パンサー号も、駅から遠ざかる。
わたしは、自分のデニムのポケットに押し込めた、WJの壊れた眼鏡を握った。
WJはどこへ行ってしまったのだろう。いつ、姿を消してしまったのだろう。
「あんたらを見かけて追いかけてたんだぜ? 見失ったかと思ったら、駅から人がやたら出て来るのが見えて、もしやと思ったら案の定だ。やんちゃども、おれの発信器を捨てたんだって?」
なんにも点滅していない画面を指して、たばこを吸いながらミスター・スネイクが笑う。
「よくわかんねえけど、ミスター・メセニが悪者かなんかで、おれも仲間だと思ったとか聞いたぜ。まあいいけどよ」
「……ごめんなさい」
ぽろぽろと、涙があふれてきた。WJがどこにもいない。WJが、どっかにいっちゃった!
ミスター・スネイクがあわてて、
「ちっちゃいの! 泣くほどのことじゃねえさ。たしかにすげえ高価なもんだけど、まだあるし、今夜あんたにくっつけてやるから!」
ずずずと鼻水をすすりながら、顔を上げてなんとか微笑む。
「で? どこに向かってるの、コレ」
わたしの横に座っているデイビッドが訊く。坊ちゃんの屋敷だとミスター・スネイクが答えた。
「カルロスは?」とデイビッド。
「もう行ってるんじゃねえかな」とミスター・スネイク。
煙をくゆらせながら舌打ちして、
「……無線機が使えねえのは、マジで不便だな。相手がマエストロじゃ、こっちも先まわりして知恵を働かせなくちゃダメそうだ。目立つのはマズいみたいだからよ、ミスター・メセニにいわれて、泣く泣くグレゴリー・ファイのグラフィティを消したんだぜ?」
やれやれ、と腕を組む。ぐずぐずと泣いている場合ではないけれど、涙が止らないので、WJの眼鏡を握った手の甲でぬぐっていると、デイビッドがいう。
「……姿を隠しただけだろ。戻ってくるから、そんな泣くなよ」
わたしを泣かせている理由はなんなのだろう、と考える。WJがいなくなっちゃったこともあるし、心配だということもある。それに。
「もう少しで、すごいことになりそうだったね」
「なにが?」
「駅の窓が全部、割れそうだったから。それに、空気がぴりぴりして、痛い感じだったから」
わたしの脳裏に、グイード・ファミリーのドンを締め上げた、パンサーの姿が過る。
「……それほど怒ってたんだろ」
「それって、ミスター・マエストロに対してだと思う? それとも、わたしが落されそうに、なっちゃったからかな?」
わたしが訊くと、デイビッドはうつむいた。
「さあね。だけど、たぶん、きみだと思うよ」
★ ★ ★
アップタウンにあるキャシディ家の豪邸に、……舞い戻ってしまった。まったく自分の家に帰れないのは、いまやギャングのせいではなくて、あきらかにマエストロのせいだ。
地味なバンが目立つとは思えないし、マエストロにあとを尾けられているとも思いたくはないけれど、そんな心配よりもわたしの頭の中では、デイビッドにいわれたことがぐるぐるしはじめていて、まるきり落ち着かない。
豪邸にはすでに、カルロスさんとマルタンさんとスーザンさんがいて、あとからアリスさんが来るらしい。なにしろ動きながら連絡が取れないので、誰がどこにいてなにをしているのか、お互いまったくわからなくて、不便きわまりない。
リビングで、デイビッドがカルロスさんに、学校帰りから起きたことを伝えると、カルロスさんが小さく微笑んだ。
「……なるほど。まあ、無事でよかったよ。それにぼくのクビが解消される望みがでてきたわけだ。勘違いの噂にはかなりの威力があるからね。ターミナル駅でパンサー復活」
「だけど、喜んでもいられないっていうか……」
デイビッドがいいかけて、わたしを見る。見られたわたしはちんまりと、ソファに座っている最中だ。デイビッドが近づいて来て、わたしの腕を優しくつかむと、
「ちょっとしゃべろう」
意識が遠くに飛びまくっているので、デイビッドに連れて行かれるがまま、リビングを出て、エントランスを通り、階段を上りはじめる。やっとのことで、いろんなトラウマを思い出し、むむむと階段で足を踏ん張ると、デイビッドが苦笑した。
「……べつに妙なことはしないから。キレてもないし、ただ心配なだけだよ」
「心配?」
「きみがね。すっかりしょげちゃって。戻ってくるっていってるだろ」
わたしはうなずく。でも、わたしをしょんぼりさせている理由は、WJがいなくなっちゃったことのほかに、あるように思えてきた。
「……あなたのいったこと。わかってたけど、わかってなかったのかも」
階段で立ち止まったデイビッドに、なにが? と訊かれる。
「……WJのこと。駅で、あなたがいったことを思い出したから。暴走するスーパーカー」
ああ、とデイビッドは、わたしの手を握ったまま、髪をかきあげた。
「わたしがいたら、WJはそうなっちゃうのかもって。前もそう思ったことはあるけど、今度はすごく、……なんというか……いまさらだけど」
言葉に不自由すぎる。もごもごとつぶやくと、デイビッドが、わたしをのぞきこんだ。
「三日前のおれなら、いまのきみの気持ちを利用してたかもしれないけど、最悪なことにいまのおれは、かなり妙なことになってるから、励ますことにするよ」
え?
「妙って、なに?」
顔を上げてわたしがいうと、デイビッドが微笑んだ。
「……まあ。好青年モード続行中ってとこだね。おれがきみを好きなだけだから、きみが誰を好きでも、関係ないかなって、思いはじめてるわけ。だからって、うじうじするつもりもないから、さっき『しちゃった』けど」
わたしがちょっと笑うと、デイビッドもくすりと笑った。でも、すぐに笑みを消す。
「たしかにね。あのまま放っておいたら、けが人が出たかもな。きみのいうとおりに、窓が割れて」
デイビッドがまた階段を上りはじめる。ちょうどその時、エントランスの扉が開いた。見下ろせば、立っていたのは、フードで頭をおおったWJだった。
息がとても荒い。身体全部で息をしているみたいに、はあはあと吐きながら、こちらを見上げる。眼鏡がないので、瞳を細めて、見えるものをたしかめようとしているみたいに、眉が寄った。
エントランスのライトが、消えたり、灯ったりを繰り返す。WJはぐっと顔をしかめて、自分の右腕を左手でつかみながら、階段を上ってくる。まるでパワーを、なんとか押し込めようとしているかのようだ。
デイビッドはわたしの手を握ったまま。でもWJは、わたしとデイビッドの横を、なにもいわずに通り過ぎる。デイビッドの手がゆるんだので、とっさに手を離したわたしは、階段を上ってWJのうしろ姿が、書斎に消えるのをたしかめた。
どうしてなにもいわずに、通り過ぎたのだろう。見えなかった、とか? そんなわけはない。のろのろと廊下を歩き、それから早足で書斎まで行き、ドアをノックしてみる。返事はない。いよいよ心配になって、そうっとノブを回すと、ライトも灯さずにソファに座るWJの姿が、あった。
ライトを点けようとすると、
「点けないで」
うつむいたままWJがいう。ようすがあきらかに変だ。ドアを閉めると、書斎が真っ暗闇になる。わたしは戸口に立ったまま、
「あ。あなたの、眼鏡を」
「……もう使えないな」
「ほ、ほかの眼鏡は持ってないの? アーサーみたいに」
「……ないよ。ぼくの視力はかなりひどいから、それは特注なんだ」
姿はまるっきり見えない。でも、荒い息づかいがまだ聞こえる。
「ど、どこにいっちゃったのかなって」
「……いたよ。駅に。ミスター・スネイクの声にはっとして、我に返ったらマズいことになってるって気づいて。それで、バカみたいに隠れてたんだ。だけど」
言葉が途切れる。わたしは息を殺すみたいにして、続きを待つ。しばらくしてから、WJがいった。
「……またきみは、死ぬみたいな目にあって。ぼくが遅かったら、死んでたんだよ、そうだろ?」
そのとおりだ。
「ご、ごめん」
「きみのせいじゃないよ。ぼくがいいたいのは、そういうことじゃないんだ。……間違ってたって、……思ってるだけだよ」
え?
「ま、間違って、た? って、なにが?」
暗闇に、ものすごく気まずい沈黙がただよう。わたしはもう一度、なにが間違っていたのか訊こうとした。すると、それよりも先にWJがいったのだ。
「ぼくが誰かを好きになるなんて、やっぱり間違ってたんだと、実感してるだけだよ」
瞬時にわたしは凍る。WJの、いっている意味がわからない。いや、ほんとうは、なんとなくわかっている。そのせいでわたしはたぶん、さっき泣いてしまったのだ。
「きみのことが好きだよ。ちょっとの間だけど楽しかったし、たぶんずっと好きなんだ。だけど、ぼくはきみのことを考えると、いままで普通にできたことが、できなくなるんだ。それに、きみが危ない目にあうと、そういう目にあわせた相手に対して、制御がきかなくなる。そのせいで、誰かを傷つけてしまうかもしれない。それにきっといつかは、きみのことも。わかっていたけど、なんとかなるって思っていたんだよ。こんな経験、いままでないからね」
WJが、ソファから立ったような気がする。暗すぎて、暗さに目が慣れても、ひとすじの光も射さない空間だから、まるきりなにも見えなくて、気配をたどることに必死になる。
「……ぼくはもうちょっとで、駅ごと壊すところだったんだ。だから」
声が震えている、ように聞こえた。
「だ。から?」
そしてわたしの声も震えはじめる。WJがいおうとしている言葉の先を聞きたくないけれど、手のひらで耳をおさえる動きすら忘れてしまう。
「デイビッドに、かっこいいことをいったけど。きみを離さないって。でも、ほんとうの自分がどういうやつなのか、やっとわかったから、いまは違う。でも、これだけはわかってほしいんだ。ぼくがもしも普通の人だったら、ずっときみと一緒にいたかったよ」
わたしの頭の中が、真っ白になる。
「そ、それは……。じゃあ、わ、わたしの気持ちは」
いったい、どこへ……?
「わ、わたしも。わたしもあなたのことが、とっても好きなのに。なのに、なんていうか……なんていうか……」
なんていうか……って、なにもいえない。
「無理だよ、ニコル。ぼくはダメだ」
その声が、とてもそばで聞こえて、WJが隣にいることにはっとした。でも、見上げても顔が見えない。暗すぎて、なにも見えないのだ。
「マ、マエストロが。マエストロがシティからいなくなったら、もとに戻れる?」
情けない望みをかけて、提案してみる。WJは答えない。わたしの背後に腕を伸ばしてノブをまわすと、ドアを開けた。それで、廊下に灯ったライトに照らされたWJの顔を、はっきりと見る。
WJはすぐに、ぐっとフードをつかんで顔を隠した。でも、頬が濡れてるのがわかってしまった。
「きみが危なくなったら助けるよ。だけど、ぼくはもう、きみを気にしない。だから、きみもぼくを思わないで。もとに戻るだけだよ。なんにも意識しない、ただの友達」
告げて、書斎から出ると、ドアを閉めた。