ジョセフをキンケイド・ファミリーのドンにするため、催眠術師をローズさんから紹介してもらったのはカルロスさんだ。電話のやりとりで、催眠術をかけられた、のだろうか？

　いや、その前に。

　デイビッドを助けに、ミラーズホテルのトイレへ行った時、カルロスさんはたしか、誰かを始末しろといっていたはず。始末しろって、だ、誰を？

「う。ううううーん。わけわかんなくなってきちゃった」

　わたしがつぶやくと、マルタンさんは薄暗い路地裏に車を移動させて停める。すると、おもむろにわたしの頭（もとい、着ぐるみのイヌの頭）を両手でつかみ、すっぽりと取ってしまった。

「え？」

「教えてくれたことには感謝するよ、ミス・ジェローム。だけど、この着ぐるみはおれに貸してくれ。きみはここで、おれたちが戻るまで姿勢を低くして隠れていること、いいな！」

　いわれたとおりにしたほうがよさそうだ。わたしはうなずいて、もぞもぞと背中のジッパーを下げ、着ぐるみを脱ぐ。周囲を気にしながら車から降りたマルタンさんは、小さめサイズの着ぐるみの中へ、自分の身体をねじこんだ。キャップを脱ぎ、頭をかぶって、キャンディ入りの籠を持つ。

「無線機はオープンのままにしててくれよ」

「オープン？」

　そこではじめて、使い方をきちんと理解した。スイッチを入れたままにして、特定の周波数にしておくと、すべての無線機の会話が聞けるらしい。もちろん、念のために予備の電池はすでに用意済みだ。わたしったら素晴らしいとしかいえない。こうして人は、学んでいくものなのだろう……って、自画自賛している場合ではない。

「……おれの健闘を祈っていてくれ！」

　もちろんだ。大きくうなずいたわたしは、狭い路地を走って行くイヌの姿を見守る。ほんとうはわたしも行くつもりだったし、そのためにマルタンさんに迎えに来てもらったのだけれども、考えてみたらわたしにできることなんて、ジャグリングぐらいだし、妙な邪魔をするよりも、場数を踏んでいそうなマルタンさんに任せたほうがいいに決まっている。

　ニセケリーを探りに行ったＷＪが心配だ。それにアーサーやキャシーも。もちろんデイビッドとローズさんも。

　ひとり残された車内で、運転席の時計を見れば、夜の七時をまわったところ。ダッシュボードに書類がはさまってあり、なにげなく見ればレンタル会社の書類だ。マルタンさんの車はまだ、市立図書館の駐車場にあるので、この車はどうやら、レンタルされたものらしい。……申しわけない……と書類をもとに戻したところで、前方から一台の車が、ゆっくりとこちらに向かってくるのが見えた。ライトが眩しくて、車種も乗っている人もわからないけれど、わたしはとっさに姿勢を低くする。

　車が横を通り過ぎる。ちょうどその時、運転している人物の横顔が、はっきりと見えた。

　どう見ても、カルロスさんだ。

　車が停まる。カルロスさんが降りて、周囲を見まわしながら、無線機でしゃべりはじめる。その無線機は、ミスター・スネイクの発明したものではなく、普通の大きさのものだ。いったい誰としゃべっているの！　

　わたしは額を窓にくっつけ、窓を開けたい衝動に耐えながら、まばたきも忘れるほど見入る。と、そこで。歩きだしたカルロスさんの足もとがおぼつかなくなり、まるで酔っぱらった人みたいになり、ふらりと身体が揺れた瞬間、ばったりと後ろ向きに倒れてしまった！

「えっ。えええええ？」

　倒れたまま動かない。も、もしかして、し、死んじゃった、わけじゃないよね！

　ドアを開けてカルロスさんのもとへ走ってしまったわたしを、どうか誰も責めないで欲しい。そばにしゃがんでカルロスさんの胸をたたいてみる。名前を呼びながら、胸に耳をあてれば、鼓動はある。生きてはいるらしい。

「カ、カ、カルロスさん！？」

　しばらく揺さぶっていると、うううとカルロスさんがうめく。うっすらとまぶたを開けて、わたしを見上げると額に手をあて、

「……ミス・ジェローム？」

　自分がどこにいるのか、わからなくなってる人みたいに、横たわったまま視線を動かして、

「……ここは？」

　つぶやいた瞬間だった。カルロスさんの眼差しが一点を見つめたまま、大きく見開かれる。天をあおいでいる視線をたどって、わたしもぐいと顔を上げ、見上げる。そしてそのまま、地面に尻餅をついてしまった。

　高級アパートと高層ビルの間の路地。石造りのアパートから張り出した、鉄製の非常階段の手すりに、コートをひるがえして立つ人影が、あった。

　ミスター・マエストロだ。

　十階ほど上のそこから、すうっと空中に身体を投げ出し、地面に着地したマエストロは、コートの中へ手を入れると、のんびりした足取りで近づいて来る。

「……これは、これは。懐かしのお嬢さん。港で見逃してやったというのに、またもやこのありさまか？　きみはほんとうに、わたしのことが好きなようだな。わたしの行く先々にあらわれる。サインでもしたほうがいいのかな？」

　サインは欲しかった、十年前に。

「う！　うううううう」

　自分がどこにいるのかもわからないカルロスさんは、起き上がるどころかわけがわからないのだろう、横たわったままマエストロの動きに視線を合わせて、ぽかんとしている。と、マエストロがピストルを取り出し、横たわるカルロスさんの額に向けてしまった。

「彼の役目は終わりだ」

　カルロスさんはまだ、夢うつつといった顔をしている。いっそ夢だったらいいとわたしもまぶたを……閉じて祈っている場合ではないんだってば！

「や、や、役目って」

「きみたちはよくやっていたよ。それは褒めよう。警察よりもいい動きを見せてくれた。ただし、無線の周波数というのは自由なものでね。かしこい人間なら、誰にでもキャッチできるものだ。もちろん、かしこいのはわたし」

　……無線の会話を聞かれていた、ということのようだ。と、いうことは？

「カ、カ、カルロスさんは」

　どもりすぎて、いいたいことがまとまらない。カチリ、と音をたてて、マエストロが引き金に指をかける。

「きみたちがなにをしようとしていたのか、すべてわかっていたといっておこう。素晴らしい、キンケイドのボスを決めてしまったのだから。だからその状況を、少しばかり利用させてもらうことにした。ややこしいギャングどもを落ち着かせるにはうってつけだったから」

　マルタンさんの考えが正しかったのだ。

「さ、催眠……」

　わたしがいいかけると、マエストロがにやりとする。アイパッチに隠れていない、左目の視線がわたしにそそがれる。

「ほう、なかなかかしこいお嬢さんだ。闇の存在、ミスター・ブラックホールは、この世にもういない。わたしがなりすまし、存在を消したから」

　催眠術師に化けて、本物のミスター・ブラックホールを殺したということだろうか。そうだろう、そういうことだ！

「それも無線からの、わたしのひとことで消えたはずだ。ビビディ、バビディ、ブー！」

　アニメの魔法の呪文を使うなんて、ふざけすぎてる。それでカルロスさんがばったり、倒れてしまったのだ。

「わ、わ、わたし、あなたをフェスラー銀行の屋根で」

　ふ、とマエストロが笑う。

「……空から眺めるアホどもの慌てぶりは、楽しいものだ。いまごろヴィンセントは警察に捕まっているだろう。さて、他愛ないおしゃべりもこのぐらいにしておこう」

　訊きたいことはやまほどあるのに、カルロスさんの額に向けられたピストルのせいで、頭の中が真っ白だ。　

「……妙だなとは思っていたよ。朝からぼくが髭をそるはずがない」

　カルロスさんがぼんやりした口調でいう。消えかけている催眠のせいで、意識がもうろうとしているのだ。

「パンサーを辞めようとしているデイビッドを、止めるつもりが、ほかのことを口走る。まるで別人がのりうつったみたいにね」

　苦笑する。いや、苦笑している場合ではない、といいたいけれど、そんな場合でもないのだ！　ど、ど、ど、どうしよう！

「カ、カルロスさんのこと、偽者なんじゃないかなって！　だって、始末するとか誰かにしゃべってたし」

　マエストロがにやりとした。

「わたしの思考タイプをそのまま、彼に伝授しただけのこと。もうひとりのわたしとなって、指示を出してもらっていたからな。始末というのはヴィンセントのことだよ、お嬢さん」

「や、やっぱり、ヴィ、ヴィンセントを裏切っちゃったのね？」

　マエストロは答えない。そして引き金にかかる指に、力がこもるのがわかる。わたしはまぶたをきつく閉じて、両手で顔をおおった。その時、マエストロがいった。

「わたしは誰も裏切らない。そもそも誰も信じない」

　カルロスさんが殺される！　そう思った直後、激しい発砲音がこだました。同時にドスンと、なにかが着地する音が聞こえる。

　ぐっと身をちぢめて、両腕で頭までおおい隠したわたしは、おそるおそる腕のすき間からのぞく。目の前が暗い、と思ったけれど、どうやら誰かが、わたしの前に立ちはだかっているらしい。

「……きみはほんとに、手紙が好きだよね」

　ＷＪだ！　泣きそうになりながら見上げれば、ＷＪが普段着のまま、両腕を前に突き出している。ＷＪの足に隠れるようにしてカルロスさんをうかがうと、額から血が……出てはいなかった。代わりにマエストロの身体が、ビルの壁に大の字になって、身動きできないようすで張り付いている。

「ぼくも手紙は大好きだけど、きみからの手紙にはハラハラするようになってきたよ」

　エドモンドさんの部屋の置き手紙を見て、来てくれたのだ！　声の調子は、かなり厳しくて、怒っているのはあきらかだったけれど、嬉しさのあまり涙声になってしまう。

「ご、ご、ごめん。だけどデイビッドが」

「いまはいいよ。おかげでここに来られたし」

　カルロスさんが、マエストロの手から落ちたらしいピストルをつかんで、立ち上がった。

「……本物のパンサー登場か。おもしろい、とてもおもしろい」

　壁に張り付いたままのマエストロが、にやついている。ＷＪの表情は見えないけれど、わたしの髪まで逆立つほどの刺激が、路地裏に充満している。風もないのに、ＷＪの髪がかすかになびいていて、

「でも、これだけはいわせてくれない？」

　マエストロに近づきながら、

「……じっとしてろって、いっただろ！」

　右腕をふりかぶる。すると、マエストロの身体が壁から離れて、宙に飛び、アパート側の壁にたたきつけられる。

　……そうとうに怒っているようだ。その怒りがまさに、マエストロにぶつけられているといえる。申しわけないよ、マエストロ……いや、この場合はいいだろう。

　起き上がったカルロスさんが、わたしのそばに近づいて、車に乗ろうといった時だった。路地からイヌの着ぐるみが走って来る。その背後にデイビッドとローズさんもいた。

「デイビッド！」

　わたしが叫んだとたん、ＷＪが振り返った。そのせいでマエストロの身体が自由になってしまい、あ、と思った瞬間、空に向かって飛び去ってしまう。顔をしかめたＷＪが、軽く身をかがめて追いかけようとするので、とっさにわたしは飛びつく。

「いいよ、ＷＪ！　行かなくていいから！」

　気絶するほどのすごい刺激だ。でも、パンサーのコスチュームもなしで、ひとりで行ってほしくはない。マエストロにはたぶん仲間がいるだろうし、ともかくカルロスさんもデイビッドも無事だったのだ。

「なんだかわからないが、ともかくひとまず乗ってくれ！」

　マルタンさんが叫ぶ。こちらを気にするデイビッドの背中を、ローズさんが押し込める。助手席にカルロスさんが乗ったところで、ＷＪは有無をいわさずわたしをぐっと抱え、

「悪い、マルタン。説教タイムをもらうよ！」

　叫び、ガツンと地面を蹴って、飛んでしまったのだった。

　……す、すみませんでした……って、許してもらえる気がしないのは、わたしの気のせい？　と、思いたいです。あああああ。

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