SEASON3 ACT.07
助けてくれ?
「ど、どうしたの、デイビッド?」
椅子から立ち上がって、おろおろしながら訊ねる。だけどデイビッドはなにもいわず、じりじりとした電波に混じって、泣いてるみたいな嗚咽が聞こえた。こ、これって、わたしの気のせい? それともほんとうに泣いちゃってるわけ!?
「どこにいるの!?」
ソファで眠っているキャシーが寝返りをうったので、起こそうかと思ったけれど、ふたたび寝息をたてはじめたのでやめておく。
『ミラーズホテル、一階のトイレの個室』
「個室にたてこもってるの? どうして?」
『……くだらない。なにもかもマジでくだらないね。どうでもいいことに人が群がるんだ。……ロスは……を……に行かせるって。それはべつにいい……ど、あいつは』
弱りまくっているみたいなデイビッドの声が、途切れがちになる。電波がうまくとどいてないのだ。
「助けてって、どうすればいいの?」
そこでブツッ、と無線機が切れた……って、またもや電池切れだ、くそう! テーブルに無線機を放ってからおろおろしつつ頭を抱える。アーサーを待つべき? それともWJを……って、デイビッドのようすはあきらかに、尋常ではなかった。意地悪されたことや、意味不明なことを押しつけられたことが過るけれど、わたしに助けを求めるなんてよっぽどのことだろう。いや、わたしじゃなくてもよかったのかもしれないけれど。
まあ、ともかく。いまや、カルロスさんには悪玉の仲間疑惑がかけられていて、デイビッドの身近にいる大人で信用できるのが誰なのかも、わからない状況なのだ。
テレビの上に、パンサーの人形がぶら下がっているキーホルダーがある。パパの車(つまり、元パトカー)の鍵だ。助手席にパパを乗せて運転したのっていつだったっけ? えええい、わたしもいちおう免許保持者だ。それにミラーズホテルはここから近い。車の鍵を握りしめ、キャシーを起こそうかとまた思う。だけどすっかり眠っていて、起こすのも気が引けたので部屋を見まわし、ペンをつかんで、雑誌の裏表紙に行き先を殴り書きした。それで、三分だけアーサーかWJを待ってみることにする。待ってみたけれど来ないので、意を決してエドモンドさんの部屋を出た。
ビルの裏手にまわり、駐車されている黒い車を発見する。乗り込み、エンジンを……ええとう、右がブレーキ? 左がアクセル? ヘルメットをかぶって運転したい気がしてきた、とかいっている場合ではない。大丈夫、落ち着いてわたし! 大きく息を吸い込んでエンジンをかけ、アクセルを……、いやこっちはブレーキだからこっち、を踏んだ。
通りに出てから信号に出くわす。ブレーキを……って、だからこっちはアクセルなんだってば、わたし! おっかない! ああ、どうか神さま、二度と運転はしないから、今日だけ事故にあわないように、ニコル・ジェロームを守ってください!
平日の午前だ。車が渋滞している中心街でイライラしながら、ハンドルを握りしめ、のろのろと車を走らせる。やがて地上四十五階建ての、ミラーズホテルが見えてきた。
カメラをかかげた人や、マイク片手に大げさな身振りをする人の群れがロビーの前に押し寄せていて、警備員らしき人たちが、必死になって彼らを押しのけている。列になって歩道に寄せられた車の数がすごすぎる。その中に真っ赤なパンサー号もあった。わたしたちを追いかけるのは、断念したらしい。ハンドルを握ったわたしは、前のめりになる。
泣き叫んでいるデイビッドファンらしき女の子たちもいる(見えないけれど、あの中にはジェニファーもいるはず)。うううーん、助けてくれって、ここから連れ出してくれってことだろうか? だけどそれは、すでにカルロスさんが手配しているのでは……? いや、たぶん、そんなカルロスさんからも離れたい、という意味かも。どちらにしても、連れ出すのは無理そうだ、と考えながらため息をつき、ふと思いあたる。この車のトランクには、もしかすればパパの荷物があるかも。
ピエロ用の荷物が、あるかも!
ホテルの前を通り過ぎると、ちょうどブロックの角に、駐車場をしめすプレートを見つけた。やじるしの方向をたどれば、地下駐車場の入り口がある。なんとか車をすべりこませ、これまたなんとか駐車し、車を降りる。事故らず、車をどこかにぶつけることもなく、無事に着いたことが奇跡だ。あああ、もうこれだけで、人生の運のほとんどを使い果たした気がする。
トランクを開ける。ほうら、あった、わたしって天才! 荷物の中には派手な衣装が三着にカツラがふたつ、化粧道具と小道具がぎっしりだ。荷物ごと背負ってトランクを閉め、地下からホテルの中へ入れる通路を探す。しばらくすると、まるでお城の両面扉みたいな、重厚な木製のドアを見つけた。金ピカなドアのプレートには「ミラーズホテル入り口」の文字が掘られてある。まさに素っ気ないコンクリートの地下世界から、お金持ちの世界への招待状といった風情だ。ドアを開けるとそこには、ミス・ルルみたいな男性が、ワインレッドのジャケット姿で、立っていた。しかも彼が、わたしを見下ろしてにらむ。う!
高級ホテルなのだ。誰でも入れるわけではない。とはいえ、せっぱつまった人間には、アーサーみたいな悪知恵が働くらしい。わたしは荷物を床に置き、中を開ける。
「……げ、げ、芸人協会から来ました。こ、ここに宿泊している方に呼ばれて」
うーん、まるで通じる気がしない。ジャケット姿の警備員が、片眉を上げた。手には無線機を持っている。ミスター・スネイクが発明した物よりも、大きな通常サイズの物だけれど。
「何号室の誰だね?」とおっかない声で、ミスター・ワインレッドがいう。
「そ、そ、それはそのう。こ、個人情報ですので!」
わたしとしてはうまいきりかえしだ。しゃがんだワインレッドは、バッグの中をまさぐりはじめる。もろにピエロ用の道具しかない。すると、色とりどりのボールをつかみ、
「ジャグリングか?」
わたしが何者なのか見極めたいらしい。というわけで、ボールをつかんでジャグリングをするはめになる。こんな時になって自分に感謝したい。嘘じゃなく、ジャグリングは得意なの! ボールをみっつ放る。そこにワインレッドが、よっつめのボールを放ったので、それもついでに、かろやかにぐるぐると、宙に投げつつキャッチを繰り返し、すべてのボールを抱え終え、くるりと回転しておじぎをしてみた……って、こんなことしてる場合じゃないのに!
ワインレッドが笑った。軽く拍手をしてくれて、やっと通路に通してくれる。つきあたりのドアを開けると、赤い絨毯敷きの階段があり、のぼって一階のドアを開ける。ここはエレベーターゾーンだ。
こんなにしてまで来てみたけれど、ほんとうにデイビッドはトイレにいるのだろうか。すでに三十分は過ぎているし、もういないかも。まあいないのならそれでもいいけれど。
というか、宮廷みたいなロビーに出て、場違いな自分にやっと気づく。それにトイレがどこなのかもわからない!
ご立派な調度品や巨大な花瓶の影に隠れながら、こそこそとロビーを歩き回る。正面にあるロビーの前には、さっき見かけたマスコミと女の子たちの人だかり。幸いなことに、着飾った泊まり客やホテルマンの意識が、すべてそちらに向いているので、誰もわたしを気にしない……はずだ。
カウンターの向こうに通路が見えた。トイレはあそこにありそうだ。荷物を背負いなおし、前のめり気味になって、そこまでいっきに突っ走る。いきおいがつきすぎて壁に体当たりしそうになったけれど、踏みとどまる。やはりダウンライトの灯るトイレゾーンだった。
これから男性トイレに突撃するので、出来るかぎり男の子っぽく見えたほうがいいだろう。いったん女性用のトイレに入り、鏡で髪をととのえる。そして突撃、する前に、男性用のドア越しに、聞き覚えの声がして躊躇した。
カルロスさんの声だ。
どうやらデイビッドは、まだ籠っているらしい。説得しているカルロスさんの声がする。その声が近づいて来たので、とっさに女性用トイレに引き返し、細くドアを開けて出てくるのを待つ。無線機を手にしたカルロスさんが、
「……まあ、いいさ。もうここまできたんだ。ああ、わかってる。そろそろ誰かが気づくだろう、まかせる。始末しろ」
ため息まじりに誰かとしゃべりつつ、トイレゾーンから去っていく。始末……って、誰を? う、うううううう!
カルロスさんがいなくなったのを確認してから、わたしには信じられないほどのスピードで、男性用トイレに足を踏み入れ、閉まっている個室をこぶしで叩く。
「デ、デイビッド!」
即座にドアが開いた。モード感たっぷりのスーツ姿で、便座に座っているデイビッドはわたしをみとめると、ほんのり赤みをさしている瞳を見開く。
「……嘘だろ」
「嘘ってなにが? というか、逃げるなら早くしなくちゃ。これに着替えて!」
荷物を差し出すと、わたしの腕をつかんだデイビッドが、荷物ごとぐいとわたしを引き寄せる。結果わたしは、力いっぱいに抱きしめられるはめになる。というよりも、デイビッドは便座に座っているので、わたしのお腹あたりにブロンドの髪が押しつけられてしまっている。
「デ、デ、デイビッド!」
「……来ないと思ってた」
なにがあったのかはわからないけれど、かなり弱っているらしい。こんなデイビッドははじめて見た。
「と、と、とにかく、急いで!」
そこで、男性用トイレのドアが開きそうな気配を見せたため、わたしは個室のドアを閉めた。入って来たのはカルロスさんではなく、泊まり客らしい。う、うううう。高級ホテルのトイレで、わたしったらなにしてくれちゃってるの! じいっと声を押し殺し、鼻歌まじりの男性が去るのを待つ。その間もデイビッドは離れてくれない。やがてドアが開き、男性の鼻歌が消える。
「と、とにかく。早くこれに着替えて……」
背中にまわしたデイビッドの指が、わたしのTシャツを握りしめている。
「……きみはいないし、WJはムカつくし、だけどWJに半分頼ってるみたいなダイヤグラムも腹がたって、なにもかもどうでもよくなっただけだ」
「……ごめん」
「頭ではわかってるんだ。だけど、ムカつくんだからどうしようもない。それでもきみは来てくれたわけだ。期待するなっていうほうがおかしいだろ」
期待されても困る!
「や、約束? みたいなこと、したし……」
デイビッドの腕がゆるんだ。頭を離すと、わたしを上目遣いに見る。
「約束?」
「あ、あなたになにかあったら、助けるって。それって、いまかなあって」
ふ、とデイビッドが苦笑した。わたしから身体を離し、両手で顔をなでつけると、荷物を指す。
「着替えろって、なにが入ってるわけ?」
荷物を抱えたデイビッドが、中を開けた。とたんに顔をしかめる。
「……これをおれに着ろ、っていうのかよ」
そのとおりです。
「だって、あなたここから出たいんでしょ? そのまんまじゃすぐに見つかるじゃない。だから」
そこでふたたび、トイレのドアが開いた。またもや息を殺すはめになり、デイビッドが険しげな顔になる。
「……さあ、デイビッド。会見は終わったんだ。もう出てくれないか?」
カルロスさんだ。デイビッドがドアをにらむ。狭い個室で、わたしは壁に背中を押しつけ、うっかり声や息がもれないように、両手で口をおおう。
「わかったよ、カルロス。あのさ、会見場に指輪を忘れてきたみたいだから、取って来てくれない? あのシルバーのやつ。会見の最中、いじってて、外したりしていたから、どこかに落したみたいなんだよ。おれはここにいるから。本気で下腹の具合がよくないからさ」
「指輪?」とカルロスさん。
「そう、指輪」
カルロスさんが息をつく。そして出て行った。同時にデイビッドがピエロの衣装を取り出す。
「あなた、アクセサリーなんてしてた?」
「嘘に決まってるだろ。しかたがないから着替えるよ」
げんなりした顔でデイビッドがいう。パパの横幅サイズは、スーツの上からでも十分着れる大きさだ。ただし、くるぶしは丸見えになるけれど。わたしも、一着抱えて隣の個室に入り、洋服の上から羽織るみたいにして着た。次に化粧道具だ。時間がないので、鏡でてきとうに自分の顔を塗りたくり、カツラをかぶり、それからデイビッドの顔に化粧をほどこす。思いきり口を大きく描いちゃおう。これはわたしの復讐なのだ!
「ふ。ふふふふふふ」
どうしよう、笑っている場合ではないのに笑える。
「……自分の顔がどうなってるのかわからないけど、あんまりひどくするなよ。したらここで押し倒してやる」
よし、復讐はこのぐらいでやめておこう。
「逆に目立つんじゃないのか?」
個室を出たデイビッドが、鏡を見て絶句した。
「いまがチャンスだから大丈夫! ロビーの外にわんさかマスコミがいて、みんなそっちに意識が向いてるから」
荷物を背負ったデイビッドと、トイレゾーンからロビーのようすをうかがう。人波が途切れるのを見計らって、いっきにカウンター前を突っ走る。ホテルマンに呼び止められたけれど気にしない。というよりも、気にしていられない。エレベーターゾーンにある地下世界への扉を開けて、階段を駆け下りる。またドアを開ければ、通路の向こうにワインレッドが立っている。仲間ですと嘘をつき、さらに、着替えたけれどホテルを間違えたと嘘をつく。肩をすくめたワインレッドは、駐車場へのドアを開けてくれた。
「……運転して来たわけ?」とデイビッド。
「そうだよ。人生のほとんどの運を使っちゃって」
運転席にまわろうとしたら、わたしの運転は心配すぎるとデイビッドに訴えられたので、助手席に乗り込んだ。デイビッドがエンジンをかける。そして車はすんなりと、高級ホテルから離れることに成功したのだ。……たぶん。
カツラを取ったわたしは、安堵して背もたれに身体をあずける。
「そういえば、スーザンさんとかは?」
「アリスもマルタンも会社。スーザンはカルロスになにかいわれて、先にホテルを出たんだよ」
「……とうとうパンサー、辞めちゃったね」
デイビッドはなにもいわない。と、いきなりアクセルを踏み、車のスピードを上げた。
「ど? どうしたの?」
笑えるピエロの化粧をしたまま、デイビッドがバッグミラーをにらんだ。
「……気づかないと思うほうがおかしいんだ」
なぜかにやりと笑うのだ。
「なに?」
「ニコル。あのカルロスはカルロスじゃない」
う。え!
「え?」
「いつから違うのかわからないけど、たぶんね。どこかで本物のカルロスと入れ違ってる。すきがないんだ」
ハンドルを握って、デイビッドがいった。前を走る車を、器用に追い越すデイビッドのハンドルさばきに、ぴったりと尾いてくるシルバーの車が一台、ミラーにしっかりと映っている。
「おれの知ってるカルロスは、頭はキレるけれどすきだらけ。だけどあいつにはすきがない。……誰なんだ」
それで助けてくれと、いったのだろうか。そこでわたしは、おそろしい言葉を思い出した。もしもあのカルロスさんが偽物だとすれば、本物のカルロスさんはどこへ行ってしまったというのだろう。それに、だ。
「……始末しろって、いってたよ。あの、カルロスさん」
それって、本物のカルロスさんのことだろうか。だとしたら、どうしよう!
車がフェスラー銀行の前を通る。警察が押し寄せているその光景を見ていた時、一瞬だけ、銀行の屋根に人影が見えた、ような気がした。そんなことができるのは、黒いコスチュームのパンサーと、もうひとりしかいない。
風にひるがえるコートが、悪魔の羽みたいに見えた。あれは。
あれはミスター・マエストロだ。