SEASON3 ACT.06
叔母が所有しているビルがあるの、とキャシーがいった。八階建ての小さなビルで、空いている部屋があり、管理事務所の人にいえば、少しの間なら貸してくれるのだそうだ。住所が市立図書館から近かったため、わたしたちは隠れるように身を低くして車から降り、二手にわかれてそこまで行くことにした。そのほうがパンサー号から、うまく逃げられると考えたからだ。
案の定、パンサー号は動かない。いまごろミスター・スネイクは、じいっと居場所をしめす画面の動かない光に、見入っているはずで、運転席のミスター・モヒカンも、走り出すマルタンさんの車を追いかけるために、ハンドルを握りしめていることだろう。ううう、なんだか裏切っているみたいで気分が悪いけれど、状況がはっきりするまでは仕方がない。
わたしの手を握って、バッグを背負ったWJが走る。図書館の裏手にまわり、そこから通りに出て、キャシーのいっていたビルを目指す。ううーん、それにしても。
「……ねえ、WJ。ほんとうにケリーはケリーじゃないの?」
……というか、文通しているの!?
「すごく似ているし、ぼくもうっかり騙されそうになったけど違うよ」
「だけど、すごく一生懸命生きてる感じの手をしてたよ?」
「手?」
足を止めて、WJが振り返った。わたしはうなずく。
「売れないアクターならバイトの掛け持ちぐらいするよ、ニコル。それに彼女はたぶん、もっと年上じゃないかな」
ぐ、とわたしの手を引っ張って、周囲を気にしながら、WJがまた歩き出す。
「じゃあどうして、わたしの手紙を読んだ時、あんなふうにあの家を出たの?」
WJを見上げると、眼鏡越しにわたしを横目にする。
「ケリーのことを気にしていることよりも、デイビッドのいうことを信じてるみたいな文面がひっかかって、頭にきたからだよ。それにしゃべれないってことにも腹がたっていたから」
ぎゅうとわたしの左手が握られる。そしてなぜかWJは、口元をにやりとさせた。
「どうせきみはまた、文通ってなに? とか思ってるんじゃない?」
う、図星だ。
「ケリーからの手紙には、シティに行ってみたいって書いてあったからね。だからぼくも、すぐには違うと思えなかったんだ。でも、ニセモノケリーは長い間住んでるみたいなことをいうし、妙だなと思って。さすがにカルロスも、ぼくらが文通しているとまでは調べられなかったのか、まあ、ぼくにはわからないけど。ともかく」
立ち止まる。わたしを見下ろすと、ふいに真面目な顔をつくった。
「きみは他人を気にしすぎるよ。いや、他の人の気持ちを、かな。考えすぎて自分の気持ちを押し込めるくせがついてるだろ? そういうの、ぼくには不要だっていいたかっただけ」
「不要?」
「そうだよ。あの手紙だと、まるでぼくがケリーを好きで、自分が邪魔なんじゃないかみたいな感じで書かれてあったからさ。それにも正直イラついたよ。どうしてそうなるのか、ぼくには理解できないからさ。まったくもう、きみは……」
はあ、と息を吐いて歩き出す。
「う、ううう。ごめん」
「いいよもう。ニコルのおバカさん」
数ブロック超えた先のビル街、とはいっても市立図書館やフェスラー銀行のある界隈とは違い、小さなビルの密集している地区で、しかもなぜだろう。なんだかものすごく見覚えのある光景の場所を歩いている、ような気がしてきた……って、あれ?
「……キャシーはここだって、いったよね?」
灰色れんがのビルの前で立ち止まり、WJがいった。
「うん。ほら、壁にプレートがかかってるから、ここだけど……」
WJが、通りを挟んだ真向かいのビルを指した。
「もしかしてあそこにいま、きみのご両親がいるんじゃない?」
そう。目の前はなんと、芸人協会のビルだったのだ。
★ ★ ★
まさか通りを挟んだビルの一室に、学校をサボっている娘がいるだなんて、パパもママも思ってもいないだろう。会いたいのは山々だけれど、いまは避けたほうがよさそうだ。それになにしろ、パンサー引退宣言を知って、間違いなくパパは泣き崩れている。これ以上面倒なことにかかわり合うのは、ごめんこうむりたい。
キャシーとアーサーと合流し、管理事務所でキャシーが鍵を受け取った。事務所からあらわれたのは、警備員の制服を着た、気のよさそうな赤ら顔のおじさんで、キャシーは顔見知りらしい。ただし、学校はどうしたんだねと訊かれるはめになり(あたりまえだ)、アーサーが表情も変えずにいった。
「開校記念日です」
「なるほど、それは素晴らしい。部屋を使うのはいいが、使用目的を教えてくれんかな、キャシー? きみの叔母さんに、いちおう伝えなくちゃいけないからね」
「中心街の人口密度を調査する研究課題のチームなの、ヘッケルさん。それで、ここを借りられるとちょっと助かるなあと思って」
にっこり笑ったキャシーが返答した。どうしよう、アーサーみたいな悪知恵がキャシーに伝線しはじめている! けれどもこれは、アーサーの仕込みだったらしく、階段をのぼっている時にそう教えられて安心した。よかった、キャシーにはアーサーみたいになってほしくはない。なんというか、賢すぎるザ・警官、みたいには。
弁護士事務所に経理事務所、個人事務所ばかりが入っているビルのようだ。人もまばらで静かだし、階段をのぼっている時、誰とも出くわさずにすんだ。四階の一番端のドアに、キャシーが鍵を入れてまわす。事務所に使うにはかなり狭い部屋で、デスクがふたつ、椅子が五脚あるのみ。そして窓は西向き、目の前の芸人協会のビルが丸見えだ。
「デジャヴか? あのビルには見覚えがあるぞ、ニコル」
親指で窓をしめし、アーサーがいった。
「うん、あそこは芸人協会のビル」
なるほど、とアーサーはつぶやき、即座に窓の、ぼろぼろのブラインドを下ろしはじめた。賢明な態度だ。そしてアーサーはバッグをデスクの上に置く。
「……かなしいお知らせがひとつある」
神妙な顔つきでいわれたので、わたしはゴックンとのどを鳴らした。
「な、なに?」
「きみらの荷物はあの屋敷にまだある。朝方持って来ようとしたんだが、オシャレバカに邪魔されたため、持ち逃げできなかった」
ああ、アーサー……、たしかにかなしいお知らせだけれど、ミスター・マエストロがあらわれたみたいな顔で、いわないで欲しい。心臓が止まりそうになるから!
「まさかあなたがサボるなんて」
先週の午前に市立図書館で会った時も、午後から学校へ戻ったアーサーを思い出して、つぶやいてしまった。アーサーはバッグから新聞を取り出し、デスクに広げながら、にやりとした。
「デートのためにはサボらないぞ。これは調査のためだ。しかしやっぱり……テレビかラジオが欲しいな」
「ラジオならヘッケルさんが持ってるわ」
キャシーとアーサーが、事務所へ行くため部屋を出た。わたしは新聞を自分のほうへ引き寄せて、一面の記事に見入る。銀行の写真がモノクロで、大きく掲載されていて、すみに小さく、ハリウッドスターみたいな美男美女の写真があった。囲み記事で、それがフェスラー家の御曹司と、その婚約者だとしるされてある。
「フェスラー家の息子が婚約してたなんて、知らなかったなあ」
ここのところ新聞はおろか、テレビもまともに見れていないのだ。パパやアーサーには苦笑されてしまうけれど、ゴシップネタ大好きのわたしとしては、悔しいところでもある。というよりも、先週からまさに自分が、ゴシップネタの主人公に、なってしまっていたともいえる、……パンサー関連で。もちろん、顔は出ていないし、謎の美少女は謎のままで、シティ庶民の関心は、ほかの話題にうつっているのだ。目下の話題はこの強盗と、そしてたぶん、パンサー引退だろう。
デイビッドがどうしているのか、気になってきた。
「ぼくも詳しくはないけど、フェスラー家にはもうひとり息子がいるはずだよ。写真の彼の弟なのか兄なのかは、わからないけれど。あとは娘かな。彼女はもう結婚していて、子どももいる。その子のイベントに、ジェローム家が呼ばれたんじゃないの?」
大人も子どもも入り乱れていたので、誰がなんなのか覚えていない、自分のあいまいな記憶を呪いたい。WJが背負っていたバッグをデスクに置いた。中にはパンサーのコスチュームが入っている。
「……デイビッド、どうなるのかな」
新聞をめくりながらいってみる。WJは答えない。だけど、少し苦しげな表情を浮かべた。
さすがにパンサー引退の記事は、まだ掲載されていない。昼頃号外で、ばらまかれるような気がする。代わりに、ダイヤグラムの広告ボードが、真逆に設置されていた記事があった。巨大ボードを設置するだけでも数日を要するのに、たったのひと晩で誰がどうやったのか、現代の魔術だとかなんとか、書かれてある。
「……ほんとうにもう、小刻みに時間が止められているのかな」
「どうだろう。わからないけど、だとすればすごく怖いよ。なんだってできる、そうだろ?」
たしかに。どんなことでもできてしまうだろう。デイビッドの自宅からの帰りに、ミスター・マエストロに奇襲をかけられた時のことが過った。
「時間が止まっても、自分だけは動けるって、ミスター・マエストロはいっていたの。なんでだろ」
「それって、アーサーとやんちゃなことをした時のこと?」
やんちゃなことをしたつもりはないが、結果的にそうなってしまったといえる。WJがかなり険しい顔つきになる。それはミスター・マエストロのことを考えてなのか、わたしとアーサーのやんちゃぶりに、げんなりしたためなのかはわからないので、あえて訊ねないでおこう。お説教されるかもしれないから。
ドアが開いて、ラジオを抱えたアーサーとキャシーがあらわれた。デスクに置いて音量を低くし、アーサーがつまみを回す。どのチャンネルも強盗とパンサーネタを、繰り返し流している。
「そもそもフェスラー家のイベントに、ミスター・マエストロとドン・ヴィンセントがいたということが、あやしすぎるな。資金がどうのとか、いっていたんだろう、ニコル?」
立ち聞きしてしまった記憶をたどりつつ、うなずく。
「うん。ええとう……あと、ミスター・マエストロが、ドン・ヴィンセントに、あなたはきれいな仕事をしようとしてる、とかなんとか、いっていたかも。それで、ドンがいい気分みたくなって、笑ってた」
「いや、気分とか笑ってたとかはどうでもいい」
アーサーに拒否された。ああ、そうですか。
「そのあとキャサリンが誘拐されて」
レポート用紙をバッグから出したアーサーが、自分なりに整理するためか、数式みたいな文字を書いていく。
「そこで物質のありかが判明する。この流れはすべて、時間を止める装置、みたいなものを開発するために、必要な行為だな」
「目的がわからないね」とWJ。
「謎だな。とはいえ、コンピューター技師の女性が行方不明ということと、これはあきらかにつながる」
グイード・ファミリーにえらい目にあわされ、ベッドでわたしが眠っていた間に、アーサーはWJとキャシーに、彼女がホランド先生の姪御さんだと、伝えていたようだ。違和感なくうなずいたキャシーが、
「……難しいことはよくわからないけど、だけど、彼女がヴィンセントかミスター・マエストロに捕らえられていて、その装置? みたいなものを造らされるはめになっていたとしても、そんな短期間でできてしまうものなのかしら。だって、きっと、すごい機械だと思うから」
「もともと設計図、みたいなものは手に入れたか、持っていたか、していたんじゃないのか? どこから手に入れたのかはわからないが。それを実現させるために必要な資金を、ヴィンセントに出資してもらって、物質を、きみを誘拐して、きみの父親から聞き出し、知識を、ミス・ホランドに頼っているんだろう、多少無理矢理に。とはいえ、用済みになったら彼女こそヤバいぞ」
そうかも。キャシーは助かったけれど、ホランド先生の姪御さんは、悪玉の超極秘計画にどっぷりと加担してしまっているのだ。すべてが終わったら、それこそ。
「う、う、海に?」
「ドボン、だ」
アーサーがうなずいた。
「ねえ、もうドボン……じゃないわよね? だって、ダイヤグラムの広告ボードだとか、強盗だとか、その装置のせいだとしたら、完成してるって、ことになるような気がするんだけど……」
キャシーがかわいい小動物みたいに、小刻みに震えながら口を両手でおおった。
「そうではないと祈りたいな。それにしてもややこしいことだらけだ。この際、ジョセフ・キンケイドの件はほうっておいて、ミスター・メセニとミスター・マエストロのつながりを検証しよう」
「カルロスさんはパンサー戦略チームのリーダーだよ。ケリーのことはわたしとWJを仲違いさせて、わたしをそのお……まあ、デイビッドと仲良しにさせたかったから、ケリーを装ってくれそうなアクターを雇った? んじゃないの? それにカルロスさんは、いろいろあっても親切にしてくれたじゃない。隠れ家を提供してくれたり、ギャングから助けてくれたり。それがどうして、そうなっちゃうのかわからないんだけど」
男の子の発想は、疑問だらけ。
「こういうのはどうだ? ミスター・マエストロはヴィンセントとも、ミスター・メセニとも手を組んでいる。ヴィンセントはミスター・メセニとマエストロが手を組んでいることを知らないが、ミスター・メセニは彼らの存在を知っている」
どういうこと? とキャシーが前のめりになる。
「ミスター・マエストロとミスター・メセニが最初に手を組んでいて、ヴィンセントは資金面で利用されているだけ、というのは? さすがにダイヤグラムの資金をそっちへは流せないだろう」
アーサーがいった。うううーん、いよいよ人間不信におちいりそうになってきた。
「そもそもどうして、そう思っちゃったの?」とわたし。
「ドン・キンケイドの件で、うまくいきすぎるなと思っただけだ。ずいぶん前から計画していて、それをやっと実現したといってもいいほど、すんなりだったじゃないか。手をまわすのが早いといっても、早すぎる。まあ、アイデアはおれだが、ミスター・メセニひとりで手をまわしたとは思えない。協力者が必要だ。あそこにいるほかの大人よりも」
「……頭がキレて、資金は十分。そういう人間だよね?」
アーサーの言葉を、WJがひきとった。アーサーがうなずく。それがミスター・マエストロだと、いわんばかりだ。
「結局、パンサーは引退したぞ、ニコル。職を失ったミスター・メセニはこれで自由の身、違うか?」
それはそうだ。だけど、デイビッドのことを心底心配しているようなことを、わたしにいっていたのに、納得がいかない。
「責任をとると見せかけて辞職した彼は、いまや海を渡って逃亡も可能。なにかでかいことをやらかすつもりかもしれないぞ。そのプロローグがフェスラー銀行の強盗、とはいいたくないが。……待てよ」
アーサーの顔が渋面になる。眼鏡を指で上げると、
「……ミスター・マエストロの得意技を、なにか知らないか、ニコル」
そりゃあ長年のファンだ。両手から風を巻き上げて起こすトルネードのほかにも、もちろん空を飛べるし、身軽。
「トルネードにはやられたよ」
WJがいう。ほかには? とアーサーがいうので、わたしは肩をすくめた。……ごめん、それしか知らない。
「……先週発売されたテレビのガイドブックは、マエストロの特集だったから、ほかの技も載っているかも」
アーサーが椅子を引いた。バッグを背負い、ブラインドに指を挟む。
「きみのご両親はあそこにいるんだったよな。そういえばミスター・メセニが手配した見張り役は、まだいるのか?」
「わからないけど。それって、いたほうがいいの、それともいないほうがいいの?」
「いないほうがいいな。あのビルには警備員もいるだろう?」
振り返らずにアーサーが答える。そう、あなたが睡眠薬を飲ませた警備員が、といいそうになったけどやめておく。
「ぼくが調べてみようか、アーサー」
WJもバッグを抱えて席を立った。
「ジャズウィット、頼む。おれは本屋をめぐってマエストロ関連の本を買ってくる。迎えに行くから少しの間、きみらはあそこに避難しててくれ。嘘は思いつくだろう?」
アーサーが芸人協会のビルを指した。
「む、迎えに来てくれるの? 大丈夫?」
ママの大好き攻撃を避けられないだろう。アーサーは、できることなら避けたいがといわんばかりの顔でため息をつき、無言のまま新聞を丸めて抱えた。
★ ★ ★
芸人協会のビルへ入り、エレベーターに乗る。エドモンドさんの部屋と事務所のある階でわたしとキャシーは降り、アーサーとWJはエレベーターに乗ったまま降りて行った。エレベーターが閉まる前、気をつけてとWJにいわれたけれど、ひとつだけ素晴らしい考えが浮かんだので、自信満々でわたしはうなずいて見せた。
物質はもう渡ってしまっている、とすれば、わたしはもう誰にも追いかけられないはずなのだ! 渡ってしまったことはよくないことだけれど、もう誰もわたしなんか気にしないし、追いかけられないに違いない……って、まあ、ケリーが捕まったことはよくわからないけれど。でもそれは、アーサーやWJいうところの、フェスラー銀行に押し入りたい悪玉を、パンサーが見つけて邪魔されないように仕組まれたことだとすれば、わたしは関係ないのではないだろうか。
ともかく。ドアを開けたエドモンドさんの部屋には、エドモンドさんしかおらず、幸いにもパパとママは不在だった。
「やあ、ニコル! どうしたんだい? パパとママはいまいないんだ」
ママのおかげか、部屋は片付いているように見えたけれど、戸口に立ったエドモンドさんは、以前よりも少し痩せていて、頬がげっそりして見える。こんなに狭い部屋に三人暮らしは、エドモンドさんにとってかなりなストレスのはずだ。
わたしはキャシーを紹介し、アーサーの真似をして嘘をつく。だけどこの嘘、パパとママに通用するだろうか……不安だ。
「エドモンドさん、ごめんなさい。もう少しでパパとママは家に帰れると思うから」
そしてわたしも。いいんだよと微笑んでくれるエドモンドさんの優しさが染みる。さぞかし落ち着きのない日々のはずだ。ほんとうに申しわけない気がしてきた。
「そういえばすごい車が、この前きみのパパにプレゼントされたよ」
部屋に足を踏み入れると、コーヒーカップを手にしたエドモンドさんがいった。
「え?」
「ええと、ほら。きみのお友達の男の子が、きみのパパの車をダメにしただろう? それで、黒い車がプレゼントされてね。どうやら中古のパトカーを、きれいにしたやつみたいだったけど」
それはすごい。これでアーサーの株はまた上がっているはずだ、ママの中で。
「きみのパパとママは事務所の人間と面接に行っているんだ。新しく登録したいっていう芸人の面接で、もうすぐ帰って来るはずなんだけど」
いや、できればアーサーが迎えに来るまで、戻って欲しくはない。そこで、事務所のドアから女性があらわれ、エドモンドさんを呼んだ。エドモンドさんはカップを片手に、好きにして待っていてといい残し、ドアを閉める。
テーブルにバッグを置いて、ソファに座ったキャシーは、ふうと息をついて背もたれに身体をあずけた。わたしはキッチンで湯をわかし、ココア……はないみたいなので、コーヒーの用意をする。おっと、ママが作ったらしきサンドイッチの残りを発見。食べてもいいのだろうか……いいことにしよう。戸棚を開けてカップをつかみ、ドリップ式のコーヒーを入れる。サンドイッチの皿とカップをトレイに載せて、対面式キッチンから狭いリビングをのぞくと、小さく唇を開いたキャシーが、まぶたを閉じていた。
「キャシー?」
名前を呼ぶと、うっすらとまぶたを開ける。
「……なんだかここ、狭いけどわたしの家みたいで落ち着くわ。ずうっといろんなところを点々としていて、あのお屋敷は広くて落ち着かないし、実はここのところ、全然眠れていないの」
わたしもキャシーも、お金持ちの暮らしにはなじめない貧乏性らしい。まぶたをこすりながら、無理に起きようとするので、少し眠ったほうがいいと提案する。キャシーはうなずいて、クッションを抱え、そのままゆっくりとソファに横たわった。肘掛けにブランケットがたたまれてあったので、それでキャシーをほっこりとくるむ。
「ううーん、あなた、ママみたい」
キャシーはくすりと笑ってから、すぐに寝息をたてはじめた。
テレビをつけようかと思ったけれど、ニュースの内容はわかっているからやめておく。ドア一枚へだてた芸人協会の事務所から、騒がしい気配がしているけれど、朝方曇っていた空は晴れて、窓から優しい日射しがもれていた。キャシーが眠くなるのも当然だ。
わたしはサンドイッチにかぶりつき、椅子に座って、テーブルに積まれてある新聞と雑誌を手にする。そんな場合ではないのに、ハリウッドスターとジャズシンガーのゴシップ記事を読んでいたら、どこからともなくじりじりとした音が流れはじめた。ラジオ、ではない。ということはこれは。
キャシーのバッグのポケットがかすかに開いていて、中に無線機が入っていた。スイッチが入れっぱなしになっている。ミスター・スネイクが心配して、連絡してきているのかも? まあ、いままで連絡が来ないほうがおかしいのだ。スイッチを切るべき? 迷いながらそれをつかむと、
『……誰?』
デイビッドだった。
「デ、デイビッド?」
ブランケットにくるまったキャシーは目覚めない。
『……ああ、ニコル?』
どうしたのだろう。ずいぶん気弱な声だ。
『……誰がどの周波数か、いまいちわからないな』
「デイビッド。あのう、……そのう」
『ニコル』
じりじりと電波が邪魔をする。そしてデイビッドがいったのだ。
『……助けてくれ』