SEASON3 ACT.04
たっぷりふて寝したのだから、眠れるわけがないのだ。うつぶせ気味になって、カバーに頬をくっつけた格好で、そうっとWJを盗み見る。たしかにしばらくの間は本を読んでいたけれど、そのうちに本を閉じ、窓の外を眺めはじめた。なにかを考えているみたいな顔つきで、かすかな皺が眉間に寄る。とたんにわたしは不安になる。
考えてみたら、WJが自分から学校をサボる提案をしたことだって、おかしいのだ。デートといえなくもないけれど、なんだかまるで、焦ってわたしと一緒に過ごそうとしているようにも思えてくる。豪邸を出た時から、WJはもはや、アーサーいうところの「オシャレ国」を、敵にまわしたも同然(わたしもだけれど)。もしもいま、ミスター・マエストロが目の前にあらわれたら、WJを手助けしてくれるはずの大人チームは、もともとデイビッド側の人たちなので、無視をきめこんでしまうかも。
もしかしてWJは、ひとりきりでなにかをしようとしているのではないだろうか。その前にわたしと過ごそうとしていて、それで学校をサボる提案をしたのでは?
そうかも。……そうなのかも!
それはとってもよろしくないので、起き上がってわたしの懸念を訴えようとした直前に、WJがくしゃりと髪を指でやって、うつむき、眼鏡をはずしてわたしのほうへ顔を向けてしまった。だけどわたしはまぶたを閉じて、いつもみたいな狸寝入りができない。というよりも、うっかりそうすることを忘れてWJを見つめてしまう。でも大丈夫、いまのWJにはわたしが眠っているのか起きているのか、ぼやけまくりではっきり見えていない、はずだから。
大きな瞳がほんの少し、苦しげに細められて、またうつむく。WJは軽く息をついて、カウチから立ち上がりキッチンへ行く。それから冷蔵庫を開けた、気配がした。カップに液体がそそがれる音。飲みながら歩いて来て、カップをテーブルに置く。
WJが近づいて来る。わたしは額をカバーにくっつけて、とうとう眠っている、ふりをする。とはいえまぶたはきっちり開けたままだけれど。WJがしゃがんで、ベッド下の引き出しを開けた。中に詰め込まれている大きなバッグを取り出し、その中へ黒い衣服を押し込める。それはパンサーのコスチュームだ。バッグをカウチに放ると、今度はショートブーツを脱いだ。右足のそれをつかんでから眼鏡をかける。カウチに腰をおろして、指を入れる。発信器を取り外そうとしているようだ。いや、外してしまった。指でつまみ、しばらく眺めてから宙に放って、キャッチし、握りつぶしてしまう。
なにをしているのかわからない、というよりも、なにをしようとしてるのかがわからない。発信器を外したからって、わたしと一緒なら居場所は特定されてしまうのに? それとも、どこかの時点で、わたしと離れて行動するつもりなのだろうか。
「……う」
いよいよこの体勢でじっとしていることに絶えられなくなり、思わず短い声を発してしまった。わたしってほんとうに間抜けだ。
「……ニコル? 起きてるの?」
わたしは寝返りをうって、WJに背を向ける。
「……う、うん。じつはずっと起きてました。……なにしてるの?」
ベッドのきしむ音とともに、へこみを感じた。WJが座ったのだ。
「なにって?」
これってオトボケのつもり? ありえない。
「発信器外したり、バッグにコスチューム詰めたり……」
わたしの髪に、WJの指がからまる。
「となりで、横になってもいい?」
答えになっていない。わたしの髪に触れながら、WJが横たわる。背中ごしに、ものすごい間近に、WJの息づかいを感じて、デイビッドにされたことのトラウマがいっきによみがえり、さすがに硬直した。もちろん、相手がWJなら大歓迎……という心境にはまだなれない。ううーん、これって、いちゃついてるってことになるのだろうか。もしもここに、透明人間化したジェニファーがいてくれたら、こっそりとなにかアドバイスしてくれるのかも……とか考えている場合ではない。
わたしの肩に、WJが手のひらを軽く置いたので、ビクつく。すると、安心して、とでもいうかのように、そのまま腕を、優しく撫ではじめた。なんだか猫でも撫でてるみたいな他意のない感触だ。それはそれで、なにかガッカリ……とか思ってる場合でもないんだってば、わたし!
「……答えてないよ、WJ」
「なにが?」
「なにがって。あなたがしてることの意味」
「ぼくはいま、きみの肩を撫でてるよ。それで、どうしようかなあと思ってるところ」
信じられない、WJは話をそらす天才かも。
「ど、どうしようかなあって?」
「うん。どうしようかなあって」
ん? それって、発信器を外してどうしようかなあってこと? それとも、バッグにコスチュームを詰めてどうしようかな? もしくは明日(というかすでに今日だけれども)どこへ行こうかなあの、どうしようかな?
わけがわからなすぎてふたたびうつぶせになり、頭だけWJへ向けてみた。
う。近い!
眼鏡を外しているから、わたしがどんなふうに見えているのかはわからないけれど、わたしの鼻先がWJのあごあたりにくっつくほど超至近距離になっちゃってる。それはベッドがシングルサイズのせいだ、ということにしておこう。
照れすぎてWJの顔を見られない。だから視線がのどぼとけにいく。ううううーん、どうしよう……。
「おっかない目にはあわせないよ。大丈夫、ぼくを信じて」
もちろん信じたい。だけどわたしが心配しているのはわたしのことではなくて、あなたのことだ。
「なにをしようとしてるかだけ、教えてくれない? すごく心配だから」
ふ、と笑ったWJの息が額にかかる。
「……やっつけなくちゃいけない相手が、増えたなあと思ってるだけだよ。ねえ、ちょっとだけ」
どこか眠たげな、かすれてるみたいな低い声で
「このまま抱きしめてもいい?」
わたしがうなずき終える前に、カバーとわたしの身体の間に腕を入れたWJが、ぐいっとわたしを抱える。わたしはぎゅうとまぶたを閉じて、WJの肩に額をくっつける。背中にまわされた腕の力が強まって、WJの胸に自分の身体が押し付けられてしまい、それでなくても酸欠寸前だというのに、さらに息苦しくなってきて、しかも緊張とてんぱりは最高潮、額に妙な汗が浮いてきた色気のないわたしを、誰も責められないだろう。というよりも、責めるような人物は、いまこの空間に皆無だけれども。
「や、やっつける相手が増えたって、誰?」
自分の照れを隠したいのが半分、純粋な疑問が残り半分で訊ねる。だけどWJはわたしを抱きしめたまま無言だ。
「あ、明日……というか、今日だけど。どこへ行くの? 映画?」
間抜けすぎるわたしの問いに、それでもWJは答えない。WJの肩越しに見える窓の外の空が、黄金色に染まりはじめた。通りを挟んだ向こう側のアパートが、はっきり見える。
WJの腕の力が弱まったので、身体を離すと、WJが寝息をたてていた。わたしみたいな眠ったふりではなさそうだ。そういえば抱きしめられた時、いつもの刺激は感じなかったから、リラックスしていたうえに、やっと安心して眠った、ということだろうか?
そうっと起き上がり、冷めたココアをひとくち飲む。本棚にある小さな置き時計は五時を少しまわったところだ。カウチのそばにあるサイドテーブルの上にラジオがあったので、音量を小さくしてからスイッチを入れる。ぐりぐりと周波数のつまみをまわしていると、音楽番組にあたった。最新のヒットチューンを一曲流し終えたあとで、ディスクジョッキーがしゃべりはじめる。
『こんな早い時間から起きてるのは、シティの金融街で働く仕事大好き人間かおれだけだろうな。おっと、てことはおれも仕事大好き人間ってことになるのか? だけどおれの口座の残高ったら、最悪このうえないぜ、まったく。給料上げろ、クソプロデューサー! さて、いま入ったニュースだ』
番組を変えたほうがよさそうだ。カウチに座ってつまみに触れたところで、ダミ声ジョッキーがいった。
『コンピューター技師の女性はまだ行方不明、警察が捜査中らしい。見かけたら警察まで通報すべし。金がもらえるかもしれねえぜ? つっても、ラジオじゃ写真も出せねえな。名前はページ・ホランド、二十八歳、知的な美人だけどおれの好みじゃねえ』
あなたの好みはどうでもいいの! わたしはラジオに耳をくっつける。
『それから次のホットなニュースだ。おっと、昨夜未明、フェスラー銀行に盗みに入った強者がいるぜ。マジかよ、すげえな!』
え。
『パンサーも気づけないほどの早業か? 新型の防犯カメラにはなにも映ってないらしい。こっちも警察が捜索中、と。これを聴いてる暇人どもは、知ってるかもしれないが、おれはフェスラーに同情するね。週末、御曹司のド派手な婚約パーティがもよおされるはずだったのにな。まあ庶民のおれには関係ないけど、天国から地獄だ。声がにやけてるなんていうなよ。ああ、そのとおり、いい気味だと思ってるぜ、おれは金持ちが大嫌いだ、じゃあ次の曲!』
WJがもぞりと寝返りをうつ。ラジオの声で起きたのか、うっすらとまぶたを開けると、ラジオに耳をくっつけて凍っているわたしに視線を向け、
「……どうしたの?」
ゆっくりと起き上がって、髪をかきあげた。ラジオを消して、うまく説明できる自信がないので、すみにある小型のテレビのスイッチを入れてみる。ニュース番組にはまだ早いらしい、砂嵐ばかりなので消す。
「ニコル?」
しどろもどろになってなんとか伝えると、WJの顔に険しさがにじんだ。
「……ぼくがケリーを家に送っていた頃だよ、たぶんね」
「え?」
WJがベッドから立ち上がって、キッチンへ向かうので、あとについて行く。
「どういうこと?」
WJは蛇口をひねって、カップに水をそそぎ、いっきに飲み干した。口元を手の甲でぬぐうと、わたしを振り返っていったのだ。
「あれはケリーじゃないんだよ、ニコル」
★ ★ ★
ケリーを名乗った女の子はケリーではなく、フェスラー銀行には強盗が入り、防犯カメラとかいうものには、犯人らしき人影もなにも映っていなかった……ということの意味がまるっきりわからない。
フェスラー家は警察とつながっているはずで、そのフェスラー家の所有する銀行に、透明人間さながらな強盗が入ってしまったのだ。ということは、その犯人はあの日のイベントに呼ばれていた、ヴィンセント・ファミリーでも、ミスター・マエストロでもない、ということ?
……わたしの頭では理解不能だ。
部屋を出る前、WJはわたしのパパを装って、学校に電話してくれる。その数分後に、自分で学校に電話を入れた。それから軽くシャワーを浴びて、アパートをあとにする。ちなみにわたしのお休みの理由は、アイスの食べ過ぎの腹痛だ。
WJの運転する車が北上していく。早朝には晴れていた空の雲行きがあやしい。垂れ込めた灰色の雲からは、いまにも雨が降り出しそうだ。どこへ行くのかとWJに訊ねようとしたところでなんと、どこからかアーサーの声がした。びっくりして助手席で飛び上がったのと同時に、WJがデニムのポケットに手を入れ、無線機を出す。
『逃げたな』とアーサー。
「そう、なるよね」とWJ。
『……オシャレバカが静かに激昂していたぞ。ミスター・メセニがパンサー引退会見の手はずを整えるために、朝から奔走している。ちなみにおれはいま、学校のトイレだ』
……たしかに、アーサーの声の背後から、始業を知らせるベルの音が聴こえている。それでもかまわず、アーサーがいう。
『どうするんだ?』
WJがなぜか、にやりとした。
「さあ。自分でもうまく説明できない感じだよ」
ニュースを見たかとアーサーが訊くので、見てはいないけれどとWJが返答する。
『市立図書館に来い』
本物の警官みたいな口調でアーサーがいった。
『おれも行く。合流したい。ちなみにきみらは、金を持っていないだろ?』
……そのとおりだ。でも、WJはデニムのバックポケットから財布を出した。そしてちらりとわたしを見る。
「ごめん、アーサー。ニコルと二人でいたいんだ」
『……暴れる前の気休めか? あとにとっておくんだな、ジャズウィット』
WJが驚いた顔で無線機を横目にした。アーサー、なにをいっちゃってるの? だけどそれってまるで、今朝方わたしが思ったのと同じことだ。そしてWJは、図星、といわんばかりの表情になっている。
『……やっぱりか。さすがとしかいいようがないな』
WJから無線機を取ったわたしは、
「さすがって、WJが?」
するとアーサーは、ため息まじりに断言した。
『お・れ・が・だ。おれの人間観察力が、だ!』
……ああ、そうですか。
『で?』とアーサー。
「でって?」とわたし。
『……きみじゃらちがあかない、ジャズウィットに変わってくれ』
ふたたび無線機をWJに渡す。するとアーサーがいったのだ。
『……オシャレバカは知らないぞ? ただ個人的感情から、パンサーを辞めるといってるだけだ』
あきらかにそれはわたしのせい。というよりも、わたしとWJが約束をやぶったせいだ。
「……それでアーサー、きみは?」
『知っているわけではない。ただ、そうなるとつじつまがあうような気がしていただけだ。そうか、きみも勘づいたのか。いつ?』
「昨日、かな。ケリーを助けた時に、違和感を覚えたんだ」
『それでニコルを連れて逃亡したのか?』
WJが少しだけ笑みを浮かべた。
「それは違うかな。ぼくも個人的感情からだよ」
一瞬沈黙が流れたので、アーサーが絶句しているらしい。どうしてもわたしに好意を抱く異性の存在が、奇妙に思えてならないからだろう。まあ、ある意味、わたしもそれには同意をしめすしかないけれども。
『……まあいい。ともかく、そうだな。三十分後に市立図書館のリーディングルームで』
有無をいわさず、そこでブチっと無線機が切れた。
「……ジョセフ・キンケイドはびっくりだね」
にやりとしながらWJがいう。にやりとしている場合ではないはずなのに。
「まあそうだけど。でもこれで、ほんとうにデイビッドが、パンサーじゃなくなっちゃうのかな」
WJはまっすぐ前を向いたまま、静かな声でつぶやいた。
「カルロスはそれを望んでるんだ」
……え?