SEASON3 ACT.02
落ち着いてわたし……って、落ち着けるわけがない！
「なにしてるんだ？」
背後から声をかけられて、振り返ればアーサーとキャシーがいた。
「ケリーが。ケリーが、わたしに間違えられてヴィンセントにつかまった、ような気がするの！」
突然あらわれた黒い車と、後部座席の窓から見えた人影、そしてケリーらしき姿のことをアーサーにまくしたてると、「落ち着け」といわれてしまった。
いや、だ・か・ら！
「お、落ち着けない！」
アーサーが自分のバッグから無線機を出す。一緒にいたジェニファーが「なにそれ」と眉をひそめたけれど、説明するのが面倒だ。アーサーが無線機に向かってしゃべる。相手はどうやら、ミスター・スネイクのようだ。どこぞへ隠れていたらしいパンサー号は、すでにカルロスさんたちと共に、この界隈から離れているので、現在こちらに向かっているというアリスさんへ連絡をつなげ、追いかけてもらう手はずになった。とはいえ。
わたしならまだしも、ケリーには発信器なんて取り付けられていないのだ。別人だとヴィンセントの仲間が気づいて、ケリーが車から降ろされるのならそれでいい。でも相手はギャングで、なにをされるのか想像もつかない、というよりもしたくない。それに、黒い車なんてたんまり走ってる。アリスさんがこの界隈から北東方向へ去っていったその車を、めでたく発見……できる気がしないのはわたしだけ？
「……あのさ。さっきからなにしゃべくってんのかわっかんないけど。なんだかあんたら、ギャングと戦ってるみたいに思えるんだけど、マジ？」
アーサーは生真面目顔でジェニファーを見つめると、
「マジだ」
それをジョークと受け取ったらしいジェニファーが、声を上げて笑い出す。
「ははははは！ ああ、アホらし。わけわかんない。デイビッドがなんとかしてくれるんだから、そんなの任せときゃいいじゃない」
うっかり忘れかけていたけれど、そのとおりだ。というよりも、正確にいえばＷＪが……って、それってつまり、パンサーがケリーを助けるということだ。そんなことになっちゃったら、パンサーを間近にして、ＷＪを永遠の魔法使いと命名してるケリーは、気づくかも。パンサーはＷＪだって、気づくかも？ そうしたら過去の恋が再燃……したらどうしよう。
もちろん、ＷＪは昔のことだし、恋とか好きとかじゃないといっていた。だからこんなことを気にするわたしが間違ってるって、頭ではわかってる。だけど気持ちが理性に、まるで追いつかないのだ。ケリーの命がかかってるかもしれないというのに、バカげた考えにおそわれているわたしったら最悪。こんな自分がものすごく嫌なのに！
「……ニ～コ～ル～」
げっそりした顔をしていたのだろう、目を細めたキャシーがわたしを見つめて、ぐいっと顔を近づけるといった。
「あなたの考えてること、手に取るようにわかるけど、それってすっごくくだらないって、アドバイスさせてもらってもいい？」
う。さすが入学以来の親友。わたしの一挙手一投足が、キャシーにはすべてお見通し。そんなわたしとキャシーの間に、無理矢理顔を押し込めてきたのは、ガムを噛みはじめたジェニファーだ。んもう、あなたは一刻も早く帰って！
「……そっか。あんたに訊けばいいのよね、キャサリン・ワイズ。あんた、こいつがデイビッドを好きなのか知ってる？ つーか、デイビッドがこいつを好きなのか！」
はあ、とキャシーがため息をついた。ややこしいことになっているのは、ジェニファーが帰ってくれないせいだ。
「い・い・え。ニコルはデイビッドを好きじゃないわ」
「そうだ、オシャレバカが邪魔してるだけだぞ、パーキンズ」
アーサーは黙っていて！ ほうら、頭が蛇のメデューサみたいな顔になったジェニファーが、射るようにわたしを見つめてるじゃないの！
「邪魔ってなによ」
こんなことをいい争っている場合ではないはず。だからわたしは叫んだ。
「あーもう！ わたしはＷＪと付き合ってるのよ！」
デイビッドに押しつけられた「おしゃべり禁止令」のせいで、実感がまるでわかないのが哀しいところだ。ぽかんと口を開けたジェニファーは、沈黙の間をおくと、いきなり肩（と胸）を揺らして、大声で笑った。
「ははははははは！ すっごい最高、お似合いじゃん！ なら好きにすればいいわ……って、ちょっと待ってよ。じゃああんた、さっきのあのケリーとかいう子に、どうしてそういわなかったの？ あの子も冴えないジャズウィットを好きみたいだったのに」
「そこなのよ、ジェニファー。ニコルったら、ケリーの登場で自信ないみたいな感じになって、ネガティブ思考にやられているの。ケリーはＷＪの幼なじみ、っぽい感じだから」
考えられないことだけれど、キャシーがジェニファーと普通にしゃべっている。キャシーの言葉に目をむいたジェニファーは、いきなりわたしの胸ぐらをつかんで、キスするぐらいに顔を近づけた。
さ、刺さる！ ジェニファーのまつげが額に刺さりそう！
「はあ？ よくわっかんないけど！ くっだらないこと心配してんじゃないわよ。付き合ってんならいちゃいちゃすればいいじゃん！ あんたがジャズウィットといちゃいちゃしないから、デイビッドが邪魔してんじゃないの？」
すごい論理だ。
「いちゃいちゃしたい、んだけど！」
「けど？ けどってなによ！」
ぱっと手を離したジェニファーは、わたしの顔近くでガムをふくらませると、パチンと弾かせてから腰に手をあてた。
「ジャズウィットになんて興味ゼロだから、どんなやつかわっかんないけど、外見だけ見てればどー考えたって、器用なタイプじゃないじゃん？ 一途に相手を思い続ける男の代表選手って感じ。だけどさ、あんたに忠告しとくけど、ああいう男はモテたことなんかないんだから、押しに弱いって相場が決まってんの！ あんたがもじもじしてたら、あの押しの強そうなケリーとかいう女に取られるんだからね！ そんでデイビッドによろめくとかしたら、あんたを魔界に葬ってやる！」
「……さすがだ。いいこというな、パーキンズ」
完全に楽しんでいるらしいアーサーが、にやけ顔でつぶやく。
「あったりまえでしょ！ あたしを誰だと思ってるわけ？ まあ、いいわ……って、よくもないけど。わかったわよ、デイビッドはなんでかあんたを好きなわけね。だけど要するに、あんたがジャズウィットといちゃつけばあきらめるってことなんじゃないの？ だったらあたしが」
ジェニファーはなぜかわたしを指して、
「ケリーとかいう女の邪魔してやる！ だからあんたも、ジャズウィットに飛びつきゃいいのよ。ステディならトーゼンじゃん、ったく。「けど」とかいいわけしてんじゃないわよって！」
やってらんない、そういい残して、ジェニファーは大股で校門を出て行った。味方なのかなんなのか、わかりかねる意見だったけれど、妙に励まされたのはたしかだ。ただし、わたしがＷＪと無言のままいちゃつきまくって、デイビッドがすんなりあきらめるのかは神のみぞ知る、だけれども。
「……なんだ。いい人だったのね」
去って行くジェニファーの背中に向かって、キャシーがいう。
「いや、あれはいい人というより」
アーサーが腕を組む。
「なんとしてもオシャレバカを手に入れたいがゆえの励ましだろうな。それよりも」
校門から顔を出し、外を見まわしていった。
「デカ女は来ないぞ。おれたちはどうやって帰ればいいんだ？」
★ ★ ★
三十分後。カルロスさんが手配してくれたＳＰ付きの車が、校門の前に停まった。あっちもこっちも手一杯すぎて、大人チームもてんてこまいなのだ。中心街からアップタウンへ、フェスラー家の前を通らないように遠回りして、豪邸に着く。外を見張るといい残し、二人のＳＰはわたしたちをエントランスへ押し込め、扉を閉めた。
「……化けてるギャング、じゃないわよね？」とキャシー。
「大丈夫。あの人たちのこと、わたし知ってるよ」
デイビッドの二件目の隠れ家でも、ウッドハウス家でパーティへ向かう車の中でも、見かけたＳＰチームに間違いない。
アーサーが無線機のスイッチを入れる。案の定、アリスさんは車を探せず、デイビッドはもう少しで取材を終えるという情報が、ミスター・スネイクによってもたらされる。アーサーから無線機をひったくったわたしは、
「ミスター・スネイク！ 朝、スタンドで洗車していたでしょ？ あの時、女の子のスタッフになにかいった？」
『ああ、いったぜ。ミスター・メセニがいえっていうから、そのまんま伝えただけだ』
うーん、やっぱり。アーサーのいったことは正しい……らしい。
『おっと。ナンバー４の発信器が、すげえ勢いで北東に向かってるぜ』
いきなり、ミスター・スネイクの興奮気味な声が鼓膜にひびいた。
「ナンバー４？」
わたしが訊くと、
『パンサーだ。あの小僧のだよ、ちっちゃいの！ おっと、ミスター・メセニたちは、いまそっちに向かって……』
ブチ、とそこで無線機が切れた。何度スイッチを押してもつながらないので、アーサーを見ると、
「……性能に難ありだな。また電池切れだろう」
難ありすぎ！ というわけで、自分の無線機を出して、スイッチを入れてみる。周波数とか仕組みがいまいちよくわからないけれど、じりじりとした電波音のあとで、声を発したのはなぜかデイビッドだった。
『ニコル？ ＷＪは飛んで行ったよ、パンサーになって』
……なぜだろう、声がとっても楽しそうだ。軽いめまいにおそわれて、うっかりアーサーの肩によろめきそうに……なったけれども踏みとどまる。そこで、キャシーが無線機をつかみ取り、叫んだ。
「デイビッドの意地悪！ なにもこんなに邪魔しなくったっていいでしょ！」
『……わかってるけどおれも必死なんだよ、ミス・ワイズ。いっておくけど、ＷＪの幼なじみが学校へ来るなんて、おれは知らなかったんだ』
キャシーに手を差し出して、無線機を受け取ったアーサーは、にやりとした。
「お・れ・は？ じゃあ誰が知ってたんだ？」
しばしの沈黙のあとで、
『……さすが警官気取り。誘導尋問にはひっかかりたくないね』
ブ、と無線機が切れる。今度は向こうが切ったのだ。ふう、とため息をついたアーサーは、げんなりしてうなだれるわたしに同情の視線をそそぐと、軽く肩を叩いてくれた。
「……ミスター・メセニの加担は明白だ、あきらめろ。きみはオシャレ国を敵にまわしたんだ」
「……みたいだね。こんなことで悩んでる場合じゃないのに、ジョセフとかヴィンセントとかよりも、ＷＪとケリーのことが、頭の中でぐるんぐるんしてる」
「んもう！」
叫んだのはキャシーだ。
「どうかしてる！ ＷＪはあなたを好きなのよ？ あ・な・た・を・好・き・な・の！ 助けに行くのは当然よ。じゃあ、どうなの、助けに行かないＷＪを、あなたはどう思う？ 尊敬できる？」
わたしは首を振る。
「誰にだって仲良しだった子ぐらいいるわ。あなたにだっているんでしょ？ その子が大きくなって、あなたの前にあらわれたからって、あなたはそっちによろめいちゃうわけ？」
考えたこともない。なにしろもう、どこにもいないのだから。でもキャシーのいうとおりだ。もしもいま、アランが生きていたとして、わたしの目の前にあらわれたからといって、気持ちが揺らぐことはないだろう。懐かしいし、たくさん謝りたいし、子どものころの話しで盛り上がるかもしれないけれど、それだけだ。
過去は過去で、いまはいまなのだ。
ＷＪを信じて待とう。それで、そうだ。その間に。
「手紙を書くよ。授業中も余裕がなくて、書けなかったから」
キャシーがにっこりしてくれる。ため息をついたアーサーが、肩をすくめてふっと笑った。
「まあ、がんばれ」
★ ★ ★
ダイニングで、スーザンさんがテイクアウトしてくれた大量のピザを目の前にして、昼間学校にあらわれたジョセフ・キンケイドのことを、アーサーがカルロスさんに告げた。リックはまだ市警にいて戻らない。マルタンさんは会社にいて、アリスさんも戻らない。そしてＷＪももちろん不在だ。
カルロスさんの顔をまともに見られないし、テーブルを挟んだ真正面に座っているデイビッドからも、わたしは視線をそらしまくっている。ＷＪに書いた手紙はデニムのポケットに入ったままで、今日中に渡せるのか不安になってきた。
大変な目にあってたらどうしよう。それよりも、帰って来なかったら？ ＷＪの安否が心配だし、ケリーとのことも心配で、ピザなんて食べる気になれない。
「そこのガールズ、着替えと下着を用意したから、シャワーを浴びたら使って。とくにそこの没落伯爵令嬢」
スーザンさんがキャシーを指した。没落伯爵令嬢……って、なに？
「今朝は教科書もろもろを用意したけど、あなたはその服以外に着替えなんてないでしょ？ ダイヤグラムのカジュアルラインのものを、あとでアリスが持ってくるはずだから、適当に選んで使ってちょうだい」
「没落伯爵令嬢？」とアーサーが眉を寄せる。
スーザンさんはたばこに火をつけ、煙を吐くと、
「たんなるイメージよ」
……なんのイメージなんだろ。
カルロスさんが席を立つ。無線機をつかみ、上下真逆にディスプレイされた巨大広告について、誰かにしゃべりながらダイニングを出て行く。スーザンさんもカルロスさんのあとを追うようにいなくなってしまったので、気まずいことこのうえない四人が、テーブルの上の食べかけのピザを、じいっと無言でにらむはめになってしまう。
さっきからデイビッドの視線を感じているわたしは、居心地の悪さに耐えられず、席を立ってエントランスへ向かった。おろおろしながら扉をそうっと開けてみれば、ＳＰの姿がどこにもいない。すっかり暮れた闇夜を飛ぶ、鳥みたいな影も不在。
「叔母夫婦が」
いきなり背後でデイビッドの声がした。だけどわたしは振り向けない。
「ＷＪを引き取りに孤児院へ行った時、おれも車の中にいたんだ」
妙な沈黙が流れる。デイビッドに背を向けたまま言葉を待つと、
「泣きじゃくってる女の子がいて、ＷＪはその子に顔を近づけて、ずっとなにかしゃべってたよ。それから車に乗り込んで、窓に顔をくっつけて、ずっと手を振ってたね。仲良しなのかと叔母が訊いたら、ＷＪはうなずいて、車が走っても手を振ってた。おれにはそんな、仲良しの女の子なんていなかったから、妙に覚えてる。からかいたくなって、好きなんだろと訊いたら、ＷＪは手を振るのをやめて「大事なだけ」だって」
……うううーん、デイビッドのいっていることを信じるべき？ それともこれは心理作戦かなにかだろうか。
「だからきみを見たとき、誰かに似てるなあとおれは思ってたんだ。で、それってあのと」
「ストーーーップ！」
我慢しきれず、わたしはいよいよ振り返って、いいかけたデイビッドの口を両手で塞ぎ、
「わーかった！ わかったからそれ以上はいわないで！」
無駄だと知りつつ訴えてみる。デイビッドはわたしの手をつかんで、自分の口元から離すと、口角を上げて意味深な笑みを浮かべた。
「……こういうのはどう？ きみが彼らの邪魔してる、ってのは？」
「……はあ？」
「だってそうだろ。きみがいなければ、彼らは再会を果たしてハッピーエンド。でも、きみがいるからＷＪは、いまごろ悩んでいるかもね。もしくはまずった、と思ってるかも？ 早まった、って」
……デイビッドすっごい。強力な爆弾をわたしの心にいま、間違いなく落した。凍りついたわたしの両手を、右手でつかんだデイビッドが、扉を静かに閉める。そしてわたしの前に立ち、のぞきこんでくる。
「きみはＷＪを悩ませたくないだろ？ だったら身を引くことをおすすめするね、おれは」
わたしはＷＪに幸せになってほしい。だけどわたしって、邪魔してるの？ どうしよう、混乱してきたかも。蝋人形みたいにつっ立っていたら、無線機で誰かとしゃべりまくっているカルロスさんが、リビングからあらわれる。スイッチを切ると、わたしとデイビッドに向かっていった。
「目隠しされたケリーが、港のはずれで見つかったみたいだよ。ミス・ジェロームじゃないってわかって、放置されたみたいだ。パンサーが見つけたから、彼女の家まで送って行くから遅くなるって。良かったね」
なんとかカルロスさんに視線を向ける。にっこり微笑んだカルロスさんが、いまのわたしにはサタン以上の悪魔に見える。
「とはいえ、ヴィンセントが動きはじめてるね。まだ油断はできないな」
しゃべりながら、デイビッドの肩を叩き、階段をのぼって二階へ去る。そしてデイビッドは、きわめつけの一撃をわたしに与えた。
「……帰りは朝かな」
あ、めまいが……って、倒れている場合ではない。混乱が頂点に達し、てんぱったわたしは、つかまれている両手をデイビッドの手から離し、すぐさまデイビッドの両頬をつねってやった。
「そーいうこといわないでほしいんだけど！ あなたって、あなたって」
まずいことに涙がぼわっとこみあがる。
「あ、あだだっで、ずっごいいじわるじゃだい？ どーじでぞういうごどいうど！」
デイビッドは頬をつねられてびっくりしたようだ。ブルーの瞳を見開いて、ふいに困惑している表情になる。かまわずデイビッドを突き飛ばし、階段を駆け上がって女性チームの寝室のドアを開ける。シャワーを浴びているのかキャシーはいない。アーサーはどこにいるのか不明。わたしはベッドの中へ潜り込み、デニムのポケットに入れた手紙を、ぎゅうっと握った。
渡せないかも。永遠に渡せないかも。
デイビッドの爆弾発言が、頭にこびりついて離れない。こんなことなら、ただの仲良しな友達でいればよかったのだ。そうすればケリーの登場を、心から祝福できたはず。
キャシーやジェニファーの励ましが浮かんでは消えていく。身体はあちこちまだ痛いし、眠りに逃げたくなって、ぐうと鳴るお腹を抱えたまま、そのままわたしは眠ってしまった。
★ ★ ★
ぼうっとした頭で目覚めて、ベッドから起き上がると、隣のベッドでキャシーが眠っていた。ずいぶん眠ってしまったようだ。そうっとベッドから離れて、ドアを開けてみる。ほんのりと廊下のライトが灯っていたけれど、物音ひとつしない、妙に静かだ。
のどが乾いたので、厨房へ向かう。誰の声も聞こえないし、ダイニングにも人影はない。深夜かもしれないと思いながら、コップに水をそそいでいっきに飲み干す。……あああああ。
なんとなく、淡い期待を抱いて、リビングのドアに手をかける。音をたてないように開けてみると。
ブランケットにくるまってソファに眠っている、人影があった。だけどそれはマルタンさんかも。そう思ってピアノの下を見れば、芋虫が転がっている。深く安堵して、ドアのすき間からもれる、エントランスのほの暗い灯りをたよりに、ソファに近づく。時間を刻む針の音だけが、広いリビングにこだましていた。
クッションに頬をくっつけて眠る、ＷＪを見下ろす。眼鏡をはずしているから、まぶたを閉じて熟睡しているＷＪの素顔が、ゆっくり観察できて嬉しい……って、嬉しがっている場合でもないだろう。わたしはため息をついて、その場にしゃがむ。子どもっぽいばかみたいな手紙の文面を思い出して、渡さないほうがいいような気持ちになってきて、何度もため息をついていたら、ふいにブランケットから腕が伸びる。ぐい、と力強く右腕をつかまれて、びっくりしてＷＪの顔に見入る。まぶたを閉じたままＷＪが、口角を上げて微笑んだ。
「ねむっ……」
声を発したら、ＷＪがまぶたを開ける。頬をクッションにつけたまま、片目でわたしをとらえながら、もぞりとブランケットから右手を出し、ひとさし指を口元にあてた。それからわたしの腕をつかんだまま、静かに起き上がる。
リックが使っていたホワイトボードが、リビングのすみにある。ソファに座ったＷＪがボードを指すので振り返れば、なんと黒いマーカーが浮き上がり、勝手に文字を書きはじめたのだ。
（たぶん、盗聴器がしかけられてるよ）
……そんなにまで？ 半分呆れてＷＪを見れば、くすりと笑って肩をすくめた。
（今日はごめん）
うなずいたわたしは、なぜだか泣きたくなってくる。しゃべれないのが辛いし、ケリーのことも気がかりで、デイビッドにいわれたことも胸につかえていて、最悪に冴えない気分を引きずりまくっているから、ボードの短い文面に、わたしに対する思いやりみたいなものを感じてしまい、プツリとなにかが切れてしまいそうだったからだ。
ＷＪが、わたしのデニムのポケットを指す。そして。
（なにか入ってる？ ずっと手を入れてるよ）
仕方がない。渡さないほうがいいかもと思ったけれど、おずおずと手紙を差し出す。ＷＪが手探りで、テーブルの上の眼鏡をつかんだ。手紙を開いて読みはじめると、穏やかだった表情が微妙にこわばっていく。なにしろ文面には、ケリーを気にしまくっているわたしの心情が、あれこれとしるされているわけで、読み終わったＷＪは眉根を寄せると、わたしを見下ろした。
……五歳児って、思ってるかも。やっぱり渡すべきじゃ、なかったかも！
後悔先にたたずだ。恥ずかしすぎて髪をかきむしりたくなってきた時、ボードに向かって手の平を広げたＷＪが、その手を左右に動かす。すると、スポンジが浮き上がって文字を消していく。
手紙を折ってデニムのポケットへ突っ込んだＷＪは、わたしの腕をつかんだまま、なぜかピアノの下に眠るマルタンさんに近づく。それから、ピアノの上に置かれた車のキーを見つけて、握り、ぐいとわたしを引っ張って、リビングを出た。
え？
エントランスに立って周囲を見まわす。険しげな表情のままわたしを振り返って、扉を開けてしまった。
「どっ……」
こへ行くの？
駐車されている車にキーを入れ、運転席のドアを開ける。ぽかんとしているわたしにＷＪが、
「乗って」
あ、しゃべっちゃった！
「ＷＪ、しゃべっちゃって」
る、といいきる前に、運転席に乗り込んだＷＪが、身体を助手席に伸ばしてドアを開け、また声を発した。
「いいから乗って」
有無をいわせないいきおいに押されて、もぞもぞと座る。車の時計は深夜三時をしめしていた。そんなに眠っていた自分がびっくりだけど、びっくりしている場合ではなさそうだ、あきらかに。
エンジンがかけられて、ＷＪがアクセルを踏む。
「……あんまり運転したことないんだけど」
いいながらハンドルを動かし、豪邸からいっきに車を引き離す。
「ど、どうしたの。というか、どこへ行くの？ というよりも、あなた飛べるのに？」
「この恰好で飛ぶわけにいかないからね。それにちょっと疲れているから」
ぐんぐんと豪邸が小さくなっていく。ＷＪの横顔が、怒ってるみたいに思えてきて、不安になって、
「ばかみたいな手紙、だったかな？」
「……そうだね。なんだかまるで、きみはぼくのいうことよりも、デイビッドのいうことを信じてるみたいだし」
眼鏡越しにちらりとわたしを見て、
「しゃべれないなんてうんざりだ。くだらなくて吐き気がするよ」
「デイビッドはすっごく怒って、パンサーを辞めちゃうか」
も、とわたしがいい終える前に、ＷＪが引き取った。
「いっただろう。辞めてもいいんだ、ぼくは」
え！
「でもＷＪ。パンサーでいることが好きだってわたしにいったのに？」
ありんこみたいな眼差しが、最大限に見開かれてる。ということは、眼鏡の奥のあの瞳は、すごいことになっているのかも。
「……もしかしてニコル。そのこと気にして、こんなくだらない賭けにのったの？」
それもある。
「まあ、そうだけど。でも、デイビッドはわたしをあきらめるっていうし、だからいっきに落ち着くかもって」
はあ、とＷＪが息を吐いた。
「はじめはぼくもアリかなって思ったけど、今日一日過ごして最悪な気分だよ、きみは？」
まあ、わたしもだ。ＷＪはむっとしてるみたいな口振りで、
「きみはニック・カートンといちゃついて」
「いちゃついてないよ。ただ、プロムに行かないかっていわれただけだけど。でもそのあとにデイビッドがあらわれて」
……まあ、あんなことに。
「だけどあなただって、そのお。ケリーと」
ＷＪの表情に険しさが増す。
「姉みたいな人だよ。ぼくにとってはそれ以上でも以下でもない。デイビッドにもう、聞いているだろうからいうけど、ぼくは孤児院で育ったんだ。家族みたいな人だし、ぼくはなんとも思っていない。だからきみが不安に思うようなこともない。きみが優しいってことはわかってるけど、妙な気を起こして、ぼくから離れようとしてるんなら許さないからね」
……キャシー並みにお見通しのようだ。
アップタウンを一周して、しゃべり終えたら豪邸に戻るのだろうと思っていた。けれども車はずんずんと北へ向かい、とうとうブリッジを渡ってしまう。
「どこへ行くの？ それにギャングがあちこちに」
「そうだね。でもきみが一緒にいるのは誰？」
そのとおりだ……って、納得していいとは思えない。
「思いきり朝までしゃべれるところ」
うーん、それってこの車の中だろうか。スピードを上げたＷＪは、まっすぐ前を向いたままいった。
「ぼくの家」