SEASON2 ACT.21
堂々めぐりとはまさにこのこと。前進もしなければ後退もしない。ただし、複雑な悩みだけはふくれあがっている。
夜になって雨が上がったので、パンサーとなったWJは、今日もパトロールへ出かけたようだ。みんながダイニングでディナーをとっている時、部屋にがんじがらめのわたしは、いっときもそばを離れてくれないデイビッドに、見られ続けるというストレスに、耐えるはめになる。
眠くもないのに眠いと嘘をついて、ベッドにもぐりこんだまではよかった。でも、デイビッドはわたしの足先へ頭を寄せて、ベッドの上で寝転がり、じいっとわたしを見張っているのだ。
まるで罪人と看守のようだ……って、おっと、そうだ。
「昨日のこと、教えてくれない? なにがどうなって、ああなっちゃったの?」
「なにがどうなってって、なにが?」
「ウイークエンド・ショーよ。ドン・キンケイド」
ああ、とデイビッドがあくびをする。
「もともと弱ってたんだ。見舞いにも一度ジョセフが来ただけで、ほかには誰も来ない。しかも病室の前には誰もいなかったみたいだし」
「ドン、なのに?」
「ほかの兄弟は抗争で忙しいだろ。それで、カルロスがボランティアを送り込んだんだよ、金曜日に」
デイビッドによれば、いろんな施設や病院で、本を読んでいる学生のグループがあって、その中のひとりをドン・キンケイドのもとへ行かせ、ゲーテの「ファウスト」を読ませたのだそうだ。
「タイトルは知ってるけど、どういう内容?」
「悪魔と契約を交わして、いろんな経験をする男の話しだよ。最後に悪魔に引きずられそうになって、でもめでたく天に召される、そんな内容だね。さすがに長いから、あらすじを伝えて、ラストをいっきに読ませたみたいだけど」
その物語に自分の人生を重ねたのかどうなのか……はわからないけれど、ドンは涙したらしい。
「……悪さしてきたギャングのドンなのに?」
「しょせんは人間だよ。しかもほかのファミリーのドンよりも、老いているし、身体も自由がきかなくて、病み上がり。精神分析医のアドバイスらしいけどね、物語の選択は」
カルロスさんが、いろいろなところへ手をまわしたというのは、ほんとうみたいだ。
「その夜看護士に、眠っているドンの枕元で、静かに賛美歌のテープを流してもらって、翌日、だから昨日だけど、昼ごろにボランティアに化けた催眠術師を送り込んだんだよ。それでオーケイだ」
……催眠術師まで出ちゃった。
「そ、そ、それって、どういう」
「ファウスト、っていう単語で、善人になるとか、ジョセフにまかせたい気分になる、みたいなことだ。こいつはローズの紹介だ。似たようなことをFBIだってやってる。ファウストを読み聞かせたのは、催眠がかかりやすくするための、暗示の意味もあったわけ」
……なぜだろう、納得できなくもない。
「じゃあ、パンサーは、ファウスト、っていうだけで、よかったってこと?」
そういうこと、とデイビッドがまたあくびをする。このまま眠ってくれたら、わたしは自由になれるはず。少し起き上がって、なるべく優しいみたいな感じの、まったりとした静かな声で、デイビッドに話しかけることにする。
「その時あなたは~、どこにいたの~?」
「……ライトバンだよ。きみと警官気取りの場所を、調べまわってるリックが特定して、連絡してくるのをカルロスと待ってた」
「キャシーは~?」
「スーザンとここで留守番」
番組が終わりそうな頃になって、リックから連絡が入り、パンサー号ともう一台、マルタンさんとアリスさんの乗った車が南下をはじめる。そこでぞろぞろと、おかしな車に尾けられていることに気づいたらしい。
「……気づいたわけじゃない。予想していたから、カルロスたちが」
びっくりだ。
「そうなの?」
「そうだよ。どうせくっついてくるだろうと思っていたみたいだから。きみらのことがなければ、逃げきる作戦をたててたけど、互いに争わせれば、こっちは自由になるし、ちょうどいいから引き連れたまま、突っ走ったってわけ」
猛スピードで南下するパンサー号とマルタン号。邪魔が入りそうになれば、空からパンサーが応戦。というわけで、同時にあのアパートに着く、ことになって、そしてあんなことに。とはいえ。
「……ジョセフはほんとに、キンケイドのボスになっちゃうのかな」
「知らないね。昨日はキンケイドも追いかけてきたけど、シティのほとんどの住人が見ているテレビで、あんなことになったわけだし。兄弟の間がどうなってるのか、おれはまったく興味がないけど、それぞれの下っ端についてるやつらの中には、ドンを絶対視してるやつだっているだろ? そういうやつらがジョセフにつけば、おさまっていく可能性もある。まあ、あとは好きにやってくれってとこだね。……もうどうでもいい」
デイビッドが寝返りをうって、背中を向けた。
「……ドン・グイード、とかは?」
ものすごーく静かに訊いてみる。
「……リックが市警本部に連れて行ったよ」
「牢行き?」
「……さあ。保釈金の資金もあるだろうし、悪い弁護士もくっついてるだろうし、完全にシティから、いなくなるってことはないだろうな」
それは残念だ。
「そういえば、わたしとアーサーって、聴取とかうけなくちゃいけないのかな?」
「……警官気取りの家族のおかげか、それはあとにするとかいってたけど」
そこでわたしは口をつぐむ。デイビッドが寝息をたてはじめた。そうっとカバーをはいで、四つんばいになり、背中を向けているデイビッドに近づく。おだやかなシャンデリアの灯りに照らされたデイビッドは、長いまつげをふせて眠っていた。こうしてずっと、永遠に眠っていてほしい。
そのままベッドから離れようとした時、いきなり右足がつかまれて飛び上がる。え、と思って振り返れば、デイビッドは起きている。
ずるずると右足が引きずられる。しかもまたもや、打撲ポイントにあたってる!
「痛い、痛い。眠ってると思ったのに!」
「そんなわけないだろ。ムカついてるのに眠れるかよ」
どうしよう、完璧に起きてる。
「う、嘘ついたの?」
「演技といってほしいね」
……いまやとってもまずい体勢になっている。これこそ大人モードな体勢といえる……って、冷静に描写している場合ではない。足から手を離したデイビッドは、わたしにおおいかぶさるみたいにして、
「あちこち湿布だらけだね。いくつあるか、数えてもいい?」
数えなくていいの!
そこで救世主がドアをノックしてくれた。デイビッドが開けるなと叫び、わたしは開けてくれと叫ぶ。おずおずとドアが開けられたので、上向きに顔を向ければ、トレイを手にしたキャシーだった。
「うっわ! ごめんなさい!」
ちっがーう、誤解しないで、行かないで! 料理を持って来てくれたのだ、そのトレイを手にしたまま、キャシーは顔を真っ赤にして、ドアをきっちりと閉じてしまった。
信じられない、どうしよう!
「な、な、な、なにするの!」
わたしに馬乗りになっているデイビッドは、にやりとすると、もうどうでもいいといわれた。
「え。ええええ?」
もしかして、やけっぱち?
「ど、どうでもいいって、なに?」
「ことばどおりだよ」
ほらね、やっぱり意味不明。
「こういうのって、なんていうんだろうな。かわいさあまってってやつかもね。どうせおれがなにをしたって、きみはおれを好きにならないんだろ。だったら我慢するなんて、アホらしくてもうやってられない」
顔が近い。のけぞってもベッドの上なのでのけぞれない。うーん、どうしよう、って、どうしようもないみたい? いや、あきらめないで、わたし!
デイビッドの額に両手を押し付けて、ぐぐぐと押しやろうとしても、打撲と筋肉痛だらけのわたしに、そんな力があるわけもない。首筋にデイビッドの顔が近づいて、こそばゆくて思わず笑……ってる場合でもない!
「わたしなんか面白くないのに!」
「べつに面白さは求めてない。昨日の続きをしたいだけ」
昨日の続き? それはわたしが枕と化していたことを意味する。
「それは、それはあなたが勝手に」
おっかない! ぎゅうっとまぶたを閉じてから、身をこわばらせてよじらせると、わたしの背中とベッドのすき間に、デイビッドが腕を回す。それで、ぎゅうと抱きしめられてしまった。
「……なんでおれじゃだめなんだよ」
かすれてるみたいな声で、デイビッドがいう。
「おれだって、きみが好きなんだよ。絶対にいやだね」
デイビッドの大人っぽい香水のにおいが鼻先をくすぐって、しかも息苦しいうえ、混乱しまくっているために、同時に泣きたくなってくる。
「い、い、い、い、い、いやだって、なにが?」
大変だ、わたしのどもりはいまや、聞き取れないほどのレベルになっている。
「きみから離れたくない」
……どうしよう。
と、ノックもなしにいきなりドアが開けられた。この部屋に感謝したい、なにしろ中から鍵がかからないので、誰でも自由に出入りできるからだ。でも、誰が救世主なのかは、身動きできないわたしにはわからない。
「……すごいことになってるな。テディベアに抱きつく三歳児にしか見えない。ミスター・メセニが呼んでるぞ」
アーサーだ。
やっとデイビッドの腕がゆるまる。腕立て伏せをするみたいに、デイビッドは顔をドアへ向けて、
「……ああ、くそっ。なんだよ、警官気取り!」
デイビッドの下にいるわたしは、両手を胸のあたりで組んだままの状態で、まるで死体さながら。衝撃のあまり指一本も動かない。
「見てわかるだろ。あとにしてくれといえよ」
「そういいたいが、いますぐ来てほしいそうだ。どうぞ」
いまだけアーサーに抱きつきたい。いや、カルロスさんかも?
はあ、とデイビッドがおおげさにため息をつく。それからわたしを見下ろすと、ふたたびぎゅうっと右頬をつねり、
「おれは許さないから」
ベッドから降りて、部屋から出て行った。
……許さないって、なにが?
「ア、ア、アーサー、わたしいまに、ま、ま、魔界に引きずられる気がする」
アーサーが歩いて来る、気配がする。
「あいつは悪魔か?」
わたしにとっては、そうなりつつある。
「ゆ、ゆ、許さないって、なんだろう」
わたしと同じく、左頬に小さな湿布を貼りつけたアーサーは、ベッドに横たわるわたしを見下ろして、死体を分析する検死官みたいに、眼鏡を上げると腕を組んだ。
「いっただろう? 男の嫉妬のほうが、じつはおそろしいんだ。しかしなぜだ? おれにはわからない……」
「……わ、わたしにも、わからない、かも……。と、ともかく、助けてくれて、ありがとう」
なんとかどもりレベルを下げていう。アーサーは、またもやげんなりした表情を浮かべた。
「それにしても、なんの色気もない場面だったぞ。キャサリンが顔を真っ赤にしていたから、こっそり訊いて来てみればこのありさまか。礼ならジャズウィットにいうんだな」
「WJ?」
「きみらは恋人同士だが、きみが嫌がりそうなことを、デイビッドがしそうだったら、うまくかわしてくれといわれたんだ。パンサーになる前にな」
じゃあ、もしかしていまのって嘘? そう訊けばアーサーはあっさりと答えた。
「嘘だ。ついでに」
アーサーが、グレーのパンツのポケットから、無線機を出す。じゃあ急いでここから出なければ、デイビッドがすぐさま戻って来るじゃない! なんとか、ベッドから起きたものの、あちこちが痛くて動きがにぶい。最悪だ。
「キャサリンに借りた。こいつで連絡済みだ」
「連絡って誰に?」
アーサーはにやけつつ、肩をすくめる。
「いっておくが、おれはべつに、きみがどっちとどうなろうがどうでもいいんだ。ただし、かなり興味深いことになっているぞ、ニコル」
んもう、アーサーのかったるいいいまわしって、ときどきものすごくイラつく。とはいえわたしに逃げ場所はない。部屋を出ればデイビッドに出くわしそうだし、昨日みたいにイケてない青春ドラマ的方法をとったところで、同じこと。しかもわたしの動きは、たったいまの衝撃と、打撲および筋肉痛のため、生まれたてのポニーみたいにガクガクなのだ。部屋をおろおろと歩きまわることしかできない。
「老婆みたいだぞ」
うううう。
「どうしてデイビッドは、わたしと一緒にいたがるんだろ。わたしなんか相手にしたって、面白くないのに」
「おれはじゅうぶん面白いぞ、オシャレバカとは違う意味で」
このことに関して、完璧に部外者のアーサーがうらやましく思えてきた。
「アーサー、わたしいますぐ、あなたになりたい」
「あきらめろ、ここは魔法の世界じゃない」
わたしは歩みを止めて、うなだれる。
「まあ、理由なんか関係ないからな。誰かを好きになるってことに」
「だけどわたし、デイビッドの気持ちに答えられそうもないのに。どうすればいいのかさっぱりわからない。だってなにをいっても、わかった、しかたないよねって、なってくれないんだもの」
「取り上げられたくないんだろう? 愛着のわいた、お気に入りのぬいぐるみを」
どうして半笑いでいうわけ?
階下からあきらかに、デイビッドとしか思えない足音が聞こえてくる。そしてわたしはどこへも行けない。たぶんデイビッドの怒りは、アーサーの嘘によって頂点に達しているはず。もはやなにをされるのか、想像するのも恐ろしい。
いっそ全裸になって、腰に手をあてて堂々と出迎えるべき? そうすれば、あまりに平坦なわたしの輪郭にげんなりして、やっぱりジェニファーのほうがいいってことになるかも……って、なるかもしれないけれど、そんなことできる気がしない。
「ど、ど、どこに逃げれば……というか、どうすれば?」
壁に背を向けて腕を組んだアーサーは、にやつきながら答えた。
「焦りは人を豹変させるな。なにかがよほど気に入らないんだろう。完全に頭に血がのぼってるぞ、あれは。時すでに遅しだ。もうなにをしても無駄だろう。まあ、おれも、できるかぎりのことはするが、期待はするな」
アーサーがいい終えた時、戸口にデイビッドが立ったので、いっそ泣きわめいてみようかと思った。でも、泣く子も黙りそうなデイビッドの形相に、そんな考えも宇宙の彼方だ。わたしは凍って動けなくなり、デイビッドはわたしを凝視してからアーサーに顔を向け、前に立つ。
「……どうして嘘をつくんだ、警官気取り」
「……依頼があったからだ、オシャレバカ」
依頼? とデイビッドがアーサーににじり寄る。自分につけられたあだ名を、気にする余裕もないらしい。
と、そこで。コツンと窓が叩かれた。
「依頼って、誰だよ」とデイビッド。
ふたたび窓が叩かれる。わたしは窓へ近寄って、カーテンから顔をのぞかせる。そこには、窓枠に手をかけて、柵の上にしゃがむパンサーがいた。
「彼だ」
アーサーの声に振り返れば、窓を指している。デイビッドもこちらを見る。それから近づいて来るとカーテンをつかみ、思いきり開けてしまった。
一マイル先にはフェスラー家の豪邸があって、ここには誰も住んでいないということになっている。カーテンで遮られた光が外へもれるのは、よろしくない状況だ。気をきかせたアーサーが即座に、シャンデリアのスイッチをきる。すると、外にいるパンサーの輪郭が、いっそうくっきりと窓越しに浮かんだ。わたしが窓を開けようとした時だ。
「どうしてデイビッドがいるのに、パンサーが外にいるわけ?」
あきらかにわたしではない女の子の声が、いきなり廊下から放たれて、いっせいにそちらを向く。
ぽかんと口を開けている、キャシーが戸口に立っていた。