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SEASON2 ACT.05

 おかしい。

 どうして? どうしてわたしの胸のあたりに、WJの頭があるんだろ。

 ぼんやりと意識が覚醒する間際、テレビの音がかすかに鼓膜にとどきはじめて、そうか、昼寝をしちゃったんだとまぶたを開けた。ぼやけた視界のすみに、くしゃくしゃの寝癖が見えて、一瞬なにかのぬいぐるみかと思った。でも、この部屋にそんなものはないし、一度まぶたを閉じて、ふたたび開けてから、すんごい間近にWJの頭があるのだと確認するに至る。

 WJは床に足を投げ出して座り、わたしが横になっているソファに頭をのせている。顔はわたしの足のほうへ向けられているので、頭しか見えないけれど、眠っているようだ。たぶんここでテレビを見ていて、そのまま眠ってしまったのだろう。

 窓にはブラインドが下がっているので、景色も見えないし日射しも遮断されたままだ。だからテレビ画面の灯りだけが、リビングを照らしている。いまが何時なのかわからないけれど、数時間は眠ってしまったはず。顔半分をブランケットに隠したまま、WJの寝癖をじいっと見つめていると、のろりと頭が動く。起きたらしい、と思ったけれど、まぶたは閉じられていて、その顔がこちらに向いてしまった。

 大変だ。眼鏡なしモードだ。埋葬直前の死体さながらな、わたしの片思いが、ゾンビのごとく起き上がろうとして暴れはじめる前に、一刻も早くこの危険ゾーンから離れたほうがよさそうだ。なのにわたしの視線が動いてくれない。ううううう。あたりまえだけれど、まつげと眉毛と髪の色が同じなんだなと、観察して納得している場合ではない。もう、あなたの顔はおそろしいほど、整いすぎています……って、そんなことはどうでもいい。本当はどうでもよくないけれど、どうでもいいことにしておかなければ。

 ともかく、起きよう。

 WJの頭がブランケットにのっかっているので、起き上がるためにそうっとそれを引く。ところがその時、WJの眉根が寄った。WJも目覚めの時間らしい。眠っちゃったね、とかなんとかいって、互いに起きれば済むことだ。それなのにわたしはその瞬間、じいっとWJを観察していたという自分自身の気まずさも手伝って、なぜだかまぶたを閉じてしまった。

 まあいい。WJが起きて、ここから離れてくれたら、そのあとでわたしが起きて、夕ご飯をどうするかとかてきとうな話題をふり、リビングの照明を灯し……デイビッドが来るのを待てばいいだけ。

 ああ、デイビッドか……。デイビッドね……。どうか神さま、マルタンさんがサタンの申し子から開放されて、今夜は絶対に、この部屋で夜を明かしてくれますように……と願う時間が過ぎても、WJが起き上がった気配がない。また眠ったのかも。仕方がない、わたしは起きよう。そう思って、まぶたを開けようとした直前に。

 直前に、それが起きた。

 起きたので、パニくる。

 パニくったまま、眠っているふりを続けるわたしは起き上がれない。WJが立ち上がる。離れたあとで、わたしのまぶたの裏が明るくなる。リビングの照明を灯したようだ。それから、なにごともなかったかのように、キッチンから物音が聞こえはじめる。

 わたしは起きるタイミングを完全に失った。というか、どうすればいいんだろう。

 それともいまのって、わたしの妄想? そんなはずはない。感触がしっかりと残っているから! でも大丈夫、唇じゃないから……って、そうじゃあない、全然大丈夫なんかじゃない!

 ……どうして? どうしてわたしのまぶたにキスしちゃうの?

 寝返りをうってみた。

 大変だ。でも、意味がわからない。思いきって起きるべき? でも起きてどんな顔をしたらいいのかわからない。よし、あと十分だけこのままでいよう。

 それにしても、うーん待てよ。落ち着けわたし。いまのは指かも。じゃあどうしてわたしのまぶたを指で触るの? ああ、わかった、わたしのまぶたにゴミがついていたのだ。それをつまんで捨てた……って感じじゃなかったけれど、とりあえず試してみよう。というわけで、自分のまぶたにゴミがあると想定して、つまんでみる。

 ……困った。どうしよう。感触が、全然違う!

★​ ★​ ★

 

 ……わ、わからない……。

 ソファで横になったまま固まっていたら、突然電話が鳴った。数回鳴ってもWJが受話器を取る気配がない。起き上がってリビングを見まわしたけれど、浴室にでも行ったのかWJがいないので、わたしが受話器を取る。

「WJ?」

 声はマルタンさんだった。

「うおあっと。ニコルです」

 てんぱっているので、おかしな返答になってしまった。するとリビングのドアが開いて、眼鏡モードのWJが入って来る。大きなランドリーバッグを手にしていて、それをテーブルのそばへ置き、ちらりとわたしを見てからキッチンへ行く。

「デイビッドとカルロスから無線で連絡があって、マスコミを巻くのに苦労してるみたいだ。もうすぐ着くと思うんだけど、遅れるかもな。それから今朝のこと、大丈夫だったかい?」

 大丈夫だったことを伝えると、マルタンさんが安堵したように息を吐く。

「すまなかったな。あんなこと、このあたりで無かったのになあ。おれもびっくりしたぜ。けが人はいなかったみたいだけどな。それから今夜は帰れそうだ。というか意地でも帰るから、みんなで今夜こそゲームをしよう」

 おおお! 神さまにわたしの願いがはじめてとどいたらしい。マルタンさんがいたらデイビッドがいてもWJがいても、きっと場が和むはず。にやけながら受話器を置くと、

「マルタン?」

 キッチンからWJの声がした。

「う。うん。デイビッドとカルロスさんが、マスコミから逃げてて、もう来るかもしれないけど、もしかしたら遅れるかもって」

「ああ、やっぱりね。それで?」

「あと、マルタンさんが今夜は帰れそうだって」

「そう。ねえ、洗濯物があったら、テーブルのそばに置いたバッグに入れて。ロビーのカウンターに渡せば、クリーニングに出してくれるから」

 なんでだろ、べつになんにもしてないですみたいな、ものすごく普通の声だ。声しか聞こえないので、ようすはわからないけれど、近づいて確かめる勇気もない。というか、あれはやっぱりわたしの勘違い?

 そうかも、と、ソファを振り返ってみる。横に照明があるので、それを灯けようとして腕を伸ばしたついでに……うっかり……あたった? よし、自分で試してみよう。ブランケットを丸め、わたしにみたててソファの上に伸ばす。WJの座っていた位置に腰をおろして、身体をねじ曲げ、照明に腕を伸ばしてみると……。

「なにしてるの?」

「えっ!」

 おそるおそる肩越しに振り返れば、WJがテーブルのそばに立っていた。じいっとわたしを眼鏡越しに見ていて、それからうつむく。わたしが試そうとしていたことがバレちゃった?

「し、し、照明を……」

 しどろもどろになっていうと、うつむいたままWJが眉根を寄せる。そしていきなり、ゆっくりとひとさし指を口元にあて、視線を左右に動かす。静かに、ということみたいだ。

 沈黙したまま動かない。しばらくしてからわたしに向かって歩いて来る。テレビを消し、ブラインドのすき間に指を入れて外をのぞく。それからリビング中の壁という壁に手をつきはじめた。

「どうしたの?」

「……なんだろう、なにかが動いている」

 なにが?

「ネズミ?」

 WJがふっと笑う。違うみたいだ。

「配線ケーブル……」

 北側の壁へ歩いて行き、手をついて黙り込んだ。そして、飾られてある大きなポスターの額縁のうしろへ右手を入れる。そこから取り出したのは……ピストルだ!

「ほっ」

 本物じゃないよね?

 WJはなにもいわずに、それをテーブルの上に置く。キッチンへ行くと、細長い小型の懐中電灯を手にしたまま、クローゼットを開けた。登校の時に使っているバッグではなく、キャンバス地の黒いバッグを斜めに背負う。着替えを入れてあるバッグから、黒いパーカーを取り出して、クローゼットを閉めた。

 動きには迷いがない。おっかないピストルはバッグへ詰め、懐中電灯を持ったままわたしに黒いパーカーを差し出して

「すぐに着て。フードで顔を隠して」

 まったくわけがわからないけれど、いわれたとおりにしたほうがよさそうだ。のろのろと羽織ればぶかぶかで、袖が長い。フードで頭をおおった時、バチンと部屋のライトがいっきに落ちた。

「あれ? 停電?」

「たぶん、この建物だけ」

 電灯を照らしたWJが、ぐいとわたしの腕をつかんで、迷いなくリビングのドアを開けて廊下を過ぎ、ドアを開けてフロアへ出る。フロア全体が真っ暗だ。

 最上階に近いこのフロアには、デイビッドの隠れ自宅以外に二件の部屋がある。でも住人は不在なのか、誰も出て来ない。

 暗闇に浮かぶ光の円が、フロアの先にある非常用の出口を照らした。

「急ごう」

「な、なにが……」

 起きてるの?

「きみだけなら飛びたいところだけど」

 意味深なことをいって口をつぐみ、わたしの手を握ったまま、WJが急ぎ足で左へ曲がる。またあのかすかな刺激を感じたけれど、我慢できないほどではない。というか、今朝のことといい今といい、わたしはWJと手をつないでいる。そのうえ抗争目撃の時は、背後からぎゅうっと抱きしめられた。そのことに意味はないだろうけれど、でもさっきの感触は気になる。いや、気にしている場合ではないけれど。

 ないけれど……、なんなわけ!?

 WJがエレベーターの前で立ち止まった。わたしから手を離して、ドアに右手をそえ、耳を寄せるように顔を近づけて、

「……デイビッドがいる」

「う。え?」

「この中だと思う」

 非常用の出口方向を気にしながら、

「そばにいてね。絶対に」

 もちろんだ。懐中電灯を口にくわえたWJが、エレベーターのドアに両手をついた。それから二歩退いて、両手を前にかかげる。まぶたを閉じて、く、と顔をゆがませると、かかげた両手を左右へ広げる。同時にエレベーターのドアが、ゆっくりと、じわじわと開いた。

 すっごい。

 わたしはシャフト内へ電灯を照らす、WJのそばへ行く。おそるおそる中を見下ろせば、ケーブルにつられて停まっている乗り場が、ずいぶん階下にあった。真っ暗闇の空洞、落ちたらそれこそ地獄へ真っ逆さまだ。

「あの出口から誰か来そうだ」

 ふたたび電灯をくわえて、ぐいとわたしの身体を引き寄せたWJが、非常用出口の方へ視線を向けると、有無をいわさずわたしを抱きかかえて、シャフトの中へ飛んだ! ……というよりもこれ、落ちてるっ!

 ひゃあっと叫ぼうとして口を開けたとたん、ふわりと浮遊して、鉄の上に着地した。乗り場の天井だ。しゃがんだWJが電灯を照らして、取っ手のついた救出ハッチを開ける。中を照らせば。

 顔を隠すためなのか、キャスケットを目深にかぶり、黒いフレームの眼鏡をかけて、地味なジャケットを羽織っているデイビッドが、げんなりした顔で目を細め、ジーンズを履いた足を投げ出して床に座っていた。中にはデイビッドしかいない。光がまぶしすぎて、わたしたちの姿がきちんと見えていないらしい。額に手をかざして

「……朝から最悪なことばかりだ。とうとう悪魔のお迎えか」

「ぼくとニコルだよ」

 一瞬だけデイビッドの顔がむっとしたように見えたけれど、そんな場合じゃないと察したのか、息を吐いてから腰を上げた。

「それって変装したつもり?」

 苦笑まじりでわたしがいえば

「まあね。なんとかここへたどり着いたとたんに、このありさまってわけ。なんだよこれ」

「この建物だけ停電してるんだ」

 WJが中へ入る。両腕を伸ばしてわたしをうながすので、

「大丈夫!」

 自身満々でジャンプしたのに、着地にまずって床に尻餅をついた。わたしにアクションは無理らしい。

「きみってときどき、滑稽な動きのブリキ人形みたいなことするよね、ほんと」

 笑いをこらえるデイビッドに腕を引っ張られて立ち上がる。WJがちらりとわたしたちに視線を送る。でも、すぐに背を向けて、エレベーターのドアに右手をあてた。

「カルロスは?」とWJ。

「おれだけ降ろしてマスコミを巻くために、まだ車を走らせてる。この建物だけ停電って?」

「ぼくらの部屋へ押し入るために、この建物のブレーカーを落したんだと思うよ」

 びっくり。

「そうなの? 誰が?」

「どこかのファミリーのギャングじゃないかな。いまごろ地下のブレーカーを、ここの作業員が調べてると思うけど、その作業員に化けてるかもね」 

「え! それって、わたしのせい?」

「そういうわけじゃないだろうけど。グイードだとすれば、きみが耳にまだくっつけてるピアスのせいかも。もしくは今朝の一件で、アーサーかきみがやっつけたはずの仲間の誰かに、尾けられていたのかもね」

 はあ? とデイビッドが顔をしかめた。

「アーサー? アーサー・フランクル? あのクソ警官気取りがなんなんだ?」

 どうしても犬猿の仲らしい。というわけで、WJが短く、今朝の出来事をデイビッドに語った。ただでさえ不機嫌きわまりないデイビッドの表情が、いっきにサタンの申し子みたいに変貌していく。

「……きみは学校にいないし、WJが授業の途中でいなくなったから、妙だと思ってたんだよ。いきさつはさっきマルタンに聞いたけど、警部気取りと仲良しだったなんて、おれはまったく知らなかったね」

 そしてわたしはにらまれる。

「べつに仲良しなわけじゃないけど、けっこういい人だよ?」

 墓穴を掘ったみたいだ。デイビッドはわたしの腕をつかんだままなので、ぎゅうっと指先に力を込められた。

「うう、痛い!」

「どうしてすぐに、誰とでも仲良くなるんだよ」

「だあって、それって、悪いことじゃないでしょ?」

 悪い時もあるんだ! と、デイビッドが叫んだ。わたしはうなだれる。しゃべりかけられても無視しろといわれるし、もうわたしは、誰ともしゃべっちゃいけないらしい。

「ああ、そうですか」

「ふくれないでもらえる? ほっぺをすっごくつねりたくなってくるから」

 つねるってどういうことだろう。誰だったっけ、わたしのことを好きみたいにいってた人って? これもわたしの妄想? いや、妄想って、期待することを想像するってことだと思うから、そんなわけない。

「つねられないようにひっこめるよ」

 きゅうっと頬をひっこめたら、くすっとデイビッドが笑った。笑わせるつもりなんかなかったのに、なんで?

「ちょっとごめん。悪いけど、これ持ってて」

 懐中電灯をデイビッドに渡したWJが、エレベーターのドアに両手をつく。デイビッドとしゃべくってる場合じゃなかった。

「でも、だとしたら、アーサーは大丈夫かな?」

「頭がキレるから、大丈夫だとは思うけど」とWJ。

「おい、あいつをほめるなんてどうかしてる。たのむからあいつの名前をおれの前で口にしないでくれよ」

 ややこしいことになってきた。

「なんにしても、あの部屋はもうダメだよ。少し離れて」

 WJが眼鏡をはずしてバッグへ押し込み、かわりに黒いグローブを両手にはめて、バッグを床に置いた。パンサーのグローブだ。

「どうするの?」

 わたしが訊くと、WJが笑った。

「さあ」

 わたしたちに背中を向けて、

「できるかな」

 右手をドアにつけたまま、一歩退いてまぶたを閉じる。

「ここにいるのが、きみたちだけでよかったよ」

 エレベーターの中に熱がこもっていく。じりじりとした熱は、WJから放たれている。わたしの身体の中の血流が、逆流しているみたいになっていく。髪が逆立っていって、自分が風船にでもなって、ふくらんでいくみたいな感覚にとらわれた。うわあ、と叫びそうになった瞬間、ブン、と青白い閃光がWJの手から放たれる。同時にWJの髪が強風にあおられたようになびいて、ガタンとエレベーターが揺れた。瞬きながらライトがつき、音をたててエレベーターが下降しはじめた。

 絶句ものの出来事だ。下降するエレベーターが一階に着く。ドアが開くと同時に、WJが手を離す。すると、静かな振動とともにふたたび停止してしまった。

 一階のロビーも停電していて、カウンターにろうそくが灯されていた。停電しているのにどうしてこのエレベーターだけが動いたのか、わからないのだろう、ロビーにいる人が、ぽかんとした顔でわたしたちを見ていた。

 デイビッドがキャスケットのつばに指をかけて顔を隠す。暗さのおかげで誰も気づかないようだ。

「……す、すごいね」

  WJはバッグをふたたび背負い、眼鏡をかけるとロビーをつっきって、まっすぐドアへ歩いて行く。

 外はすでに夜だ。通りを走る車、シャッターの閉じられたデパート、ホテル、すべての建物、街灯から、まばゆいライトが放たれていた。直後、見覚えのある黒い車が、歩道脇に寄せられる。運転席にいるのはカルロスさんだ。車へ駆け寄り、滑り込むみたいにして後部座席にわたしとデイビッドが座る。助手席にWJが乗り込んで、

「とりあえず出して」

「マスコミを巻いたから、車を停めるつもりだったのに。どうしたんだい?」

 ハンドルを握ったカルロスさんが、周囲を気にしながらアクセルを踏んだ。デイビッドがキャスケットに手を置いて、座席に深く身を沈める。WJはラグランシャツを脱ぎ、ジーンズを脱ぎ、コスチューム姿になる。

「いつの間に着てたの?」

「二人が遅れると思ったから。すぐに出られるように着てたんだ」

 バッグをまさぐってパンサーのマスクをつかみ、ぐ、っと、顔半分をおおうようにそれで隠した。

「ニコルのピアスをグイード・ファミリーが欲しがってるみたいなんだ。それはキャシーがくれたもので、彼女のパパがキャシーにプレゼントしたものなんだよ。ヴィンセントに渡った物質は、C2U以外の場所にも保管されていて、たぶんその一部。昨日のパーティで、グイード・ファミリーの誰かが、そのことに気づいたんだと思う」

「誰かって?」とカルロスさん。

「売れないアーティスト? だっけ?」

 パンサーになったWJが振り返る。わたしがうなずくと、カルロスさんが眉根を寄せた。パンサーが洋服を突っ込んだバッグを、デイビッドに向けて放る。

「リボルバーが入ってる。ぼくは行くよ。きみは」

 わたしを指して

「絶対にうろつかないでよ。ほんとうに、絶対に、絶対にだ!」

 もちろんだ。深くうなずいて見せると、はあ、とパンサーがため息をつく。

「できることなら永遠に、芋虫でいてほしかったよ。ものすごく心配だけど行くしかないね。追っ手がいたら止めるから、三件目に移動して」

 三件目? まだ隠れ家があるの?

「き、気をつけて。うろうろしないよ」

 ふ、と口角を上げて、パンサーが笑った。

「たのむよ」

 スピードの落ちない助手席のドアを開けて、片膝を折り曲げた恰好で地面に着地し、すぐに飛ぶ。

 バッグからピストルを取り出したデイビッドは、弾倉を確認して、なぜかげんなりする。

「……なんの安全措置だよ、マルタンが抜いちゃってるぞ。装弾一発でなにをしとめろっていうんだ?」

「つ、使えるの?」

「使いたくないけど、かなしいことに使える。父親の射撃趣味に、うんざりするほどつきあってきたから。というか、もうきりがないね。カルロス、首をつっこむしかないとおれは思うけど」

 ミラー越しに見えるカルロスさんの表情は険しい。

「夜の間だけ能力を発揮する、ブランドのイメージキャラクターを廃業するっていうのかい? 安全で健全なゾーンを超えて?」

「いままではそれで良かったさ。でもこのとおり、ギャングが暴れまくってる。それにキャサリン・ワイズのことで、すでに片足つっこんでるだろ」

「キンケイド・ファミリーのボスが決まれば、ギャングは落ち着くんじゃないのかい? ぼくの希望的観測だけれどね」

「指をくわえてそれを待ってるのもいいけど、マスコミはもっと騒ぎはじめるさ。パンサーはなにをやってるんだって。そうだろ?」

「考えてはいるよ。例えば、きみにスーパーな能力がなくなったから、海を超えたどこかの国へ、転校させることにする、とかね」

 え。

 ピストルをベルトへ押し込み、デイビッドがにやりとしてわたしを見た。

「ほらね、いっただろ。こいつは自分の給料が心配なんだよ」

 数日前にあの部屋で、デイビッドがわたしに話したことが過った。みんなはお金のために自分のそばにいるのだと、デイビッドはいったのだ。

 カルロスさんは冷静だ。微笑みもせず、ゾンビモードでもない、真剣な表情を浮かべたまま、スピードを上げていく。

「……きみの無茶なリクエストに、答えるようにつとめてきたつもりだよ、デイビッド。たしかにいまの給料は気に入ってる。でも、それだけじゃないさ。これ以上首をつっこめば、予想外の事態になるのは目に見えている。キャシディ家はフェスラー銀行となんのつながりもないけれど、仲良くやっていったほうがお互いのためなんだ。大人のしがらみも視野に入れたほうがいいと、アドバイスさせてもらいたいんだよ、ぼくは」

「ああ、そう」

 デイビッドが黙り込んだ。窓の外に顔を向けて口を閉ざす。

「WJは、無理かもっていってたよ。なんとかするべきだけど、これはぼくらには無理かもって」

「ぼくも賛成だ」とカルロスさん。

 でも、デイビッドの表情は険しい。

「尻込みするのもわかるけどね」

 また沈黙する。でも、しばらくしてから、なぜかにやりとした。

「……ふうん。……オーケイ、カルロス。じゃあこういうのは?」

「……こういうのは、ってなんだい?」

 カルロスさんの眼差しに、けげんな色が浮かんだ。核爆弾発射か? と少々身構えてるみたいな雰囲気が車内にただよう。わたしは小さく縮込まって、後部座席で息を殺し、自分の存在を消すことに集中する。

「自分が引き起こしたとはいえ、マスコミに追われて今朝から気分が最悪なんだよ。キンケイドの内部抗争のことなんてどうでもいいけど、ボスが決まればギャングどもが少しは落ち着くっていうのなら、決めてしまえばいいだろ」

 はあ?

「決めるって、どういうことだい?」

 デイビッドが口の端を上げて笑う。

「なってもらえばいいさ」

「なってもらうって?」

 うっかり声を出してしまった。デイビッドがわたしを見て肩をすくめ、にっこりした。わたしにはそのにっこりが、すごくおそろしいことの前触れだってわかる。というか、わかるようになってしまった自分が嫌かも!

「ものすごくいろんなことにムカついてるんだよ。おれの気持ちがまったくおさまらないから、復讐してやりたいなあと、思ってるだけ」

「復讐?」

 デイビッドのことをわかったような気がしたのは気のせいかも。またもやわけのわからないことをいいだしてる。

「なってもらうって、なんなんだい?」

 冷静だったはずのカルロスさんの顔が、ちょっとだけゾンビモード寄りになってきた。片眉を上げたデイビッドの瞳の奥が、ものすごく楽しげに輝いて見えるのも、わたしの気のせい?

 運転席に手をかけて、前のめりになったデイビッドが、ハンドルを握るカルロスさんに顔を近づけて、

「ファミリーのドンになってもらおう。おれの超プライベートを激写した、ムカつくジョセフ・キンケイドにね」

 いった。

 え?

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