SEASON1 ACT.25
……ほんとうに最悪。
授業を終えて校門へ向かう。昨日のようにマルタンさんが、車で迎えに来てくれているけれど、げっそりとした顔をしていた。後部座席にわたしが乗ったところで、WJが校門から出て来る。助手席のドアを開けて、
「どうしたのマルタン、すごい顔だよ」
「おれは地獄からの生還者だ。いや、まだ地獄は続いているけどな」
わかる。その気持ちはすごくわかる。状況は全然違うけど。
マルタンさんは車を発車させて、
「おれは今日、たぶん戻れないと思う。徹夜になりそうだ」
例のプレゼンとかいう仕事が、うまくいかなかったみたいだ。WJがうなずく。
「今日はデイビッドのオフ日だから、いいだろう、WJ?」
「いいよ」
あれ? ちょおっと待ってください? ということはパンサーもお休み? それって、ずうっとWJとふたりきりってことかも。いや、かもじゃなくて、そうなのだ!
昨日と同じ道順で、まずは芸人協会のビルへ行き、わたしはパパに肩甲骨を指でつつかれ、ママにはアーサーのようすを訊かれた。エドモンドさんと少ししゃべり、みんな忙しそうだったので、WJとすぐにビルを出る。病院に着いたところで、マルタンさんはまたもやわたしたちを残して去ってしまった。
WJはさっさと先を歩いて行ってしまう。なんだか避けられているみたいに感じて、どん底につき落された気分になってくる。たったの一日でこんなことになるなんて、どうかしている。それにここはもう学校じゃない。このあとあの部屋に帰っても、ずっとこのままなんて耐えられない。こんなの絶対に間違っている。一緒に住んでいるのに、学校では仲良くできないなんて。
エレベーターに乗った時、いよいよ我慢の限界に達したわたしは
「あの、さ」
WJはわたしに背中を向けて、ドアを向いて立っている。後頭部に、くしゃりとした寝癖がある。数日前のわたしだったら、あの寝癖を手でおさえて、もっとちゃんとした身なりをしてと、いっていたはず。
「なに?」とWJ。
いまはそれができない。意識したとたん、できなくなったのだ。わたしはうつむいて
「なんかこういうの、気まずくないかなって。学校で今日みたいな感じ、とか」
そうだね、とWJがいったとたん、ドアが開く。わたしを振り返ることもせず、廊下を歩きはじめて
「ぼくも気まずいと思ってるよ。だけど学校へ行ったら、きみはデイビッドと話したいよね?」
「え?」
べつにしゃべりたくはない。挨拶くらいならいいけれど。
「ぼくはその邪魔をしたくないんだよ」
並んで歩いてくれない。前を歩いて肩越しにわたしを見ようともしない。
「アーサーとはしゃべってるし、なにかの用事があれば、ほかの男の子ともわたしはしゃべるよ。それに絶対、邪魔なんかじゃない」
くすりとWJが笑った、ような気がする。
「……うん、まあ。たしかにそうだけど」
じゃあいいじゃない! といおうとした時、警官が立っている病室に着いてしまう。病室にはすでにアーサーがいて、なんとなくわたしを見る目の奥が、面白がってるように思えるけれど、気のせいということにしておきたい。
「聞いて、ニコル! アーサーも映画のロルダー騎士役は絶対反対だって意見なの」
ええええ? 映画雑誌も読んだということ? すごい徹底ぶり。どうしよう、なにかもう、アーサーにデコピンしたくなってきた。
キャシーの右腕からは点滴がはずされている。昨日よりも頬に赤みがさしていて、元気そうだ。WJはまたもや窓際へ立つ。わたしはキャシーの枕元に椅子を引き寄せて座った。
「ねえ、ニコル。実はわたし、まだ学校へ行けそうもないの」
わたしはキャシーの右手を握ったまま、しゃべりたくてもしゃべれないあんなことやこんなことの出来事を、必死に呑み込む。キャシーは左手で枕をまさぐりはじめ
「それで、ちょっと早いんだけど」
ピンクのリボンが結ばれた、手のひらサイズの小さな箱を取り出した。
「これ、あなたに。もうすぐ誕生日でしょう? まだ先だけれど」
包装紙はお菓子のものだ。
「そんな! いいの?」
きっと高級なチョコだ! 嬉しくなって、開けてもいいかと訊ねると、キャシーはもちろんと微笑む。
「ほんとうは、学校へ行ってからあげようかと思ったんだけど。しばらく行けそうもないし、こういうことって、遅れるのが苦手なの」
ゆっくりとリボンをほどき、包装紙を開ける。お菓子でもないし高級なチョコでもなかった。指輪ケースみたいなものに入っていたのは、星をかたどったプラチナのピアスだ。
「……すっごく嬉しい!」
「あなたピアスの穴開けていたでしょう? 最近はなにもつけていないみたいだったけど、髪を切ったし、似合うかなって」
友達って最高だ。キャシーにしがみついたら泣きそうになってきた。
「実をいうと、これ、パパにもらったものなの」
「え?」
「前に食事した時、ネックレスとセットでもらったの。でも、わたしはピアスの穴を開けていないし、だからあなたにあげたら、わたしのネックレスとお揃いで、ちょっといいかなって。買ったものじゃなくてごめんね。気に入ってくれた?」
もちろんだ。
「大切にするよ。こんなプレゼント、はじめて!」
それでお菓子の包装紙とリボンだったのだ。キャシーのママが用意してくれたのだという。嫌なことがあっても、いいことがある。今日一日いろんなことに耐え抜いたストレスと嬉しさで、わたしは泣いてしまった。
「どうしたの? なにかいやなことでもあった?」
しゃべりたいのにしゃべれない。アーサーもWJも無言だ。自分の身の丈に合っていない出来事が多すぎて、てんぱってるといいたいのにいえない。
「……あなたがいなくてさびしいよ」
子どもみたいにぐずぐずと泣く。キャシーは笑ってわたしの頭を撫でてくれる。わたしよりもおっかない目にあったはずなのに、わたしの誕生日のことなんか気にして、プレゼントまで用意してくれて、わたしを気遣ってくれる。キャシーは強くて優しい。WJが好きなのも当然だ。
「早く学校へ来てね」
「もちろん。ああ、でも、ミセス・リッチモンドからの、たんまりなレポート攻撃を考えると、少し行きたくなくなるのはたしかだわ」
カットソーの袖口を引っ張って、涙をぬぐいながらわたしが笑うと、キャシーも笑った。と、わたしの腕をさすりながら、顔を近づけたキャシーが、微笑んだまま意味ありげに瞳を細めて
「……ねえ、妙なこと訊いてもいい?」
「なに?」
「……あなた、好きな人できたんじゃない?」
ベッドを挟んでわたしの正面に座っているアーサーが、ふ、っと息をもらして顔をそらし、苦笑した。う。
「え?」
「……わかんないけど。雰囲気が変わった気がするの。昨日会った時から。それで、もしかしてそうなのかなって。わかるでしょ? 勘よ、勘!」
「女性の勘はあたるからな」とアーサー。
お願いだから、あなたは黙ってて!
窓際のWJは静かだ。腕を組んで、日射しが傾いていくクラークパークの景色を見下ろしている。
「違う?」とキャシー。違うよと答えようとした。でも、
「デイビッドだよ、キャシー。つきあってるんだよ」
いったのは、WJだった。
ちょおっと待って! わたしはひとこともつきあってるだなんていってない。いつの間にそうなっちゃったの……って、そういう意味にとれることを、昨日わたしがWJにいったんだった……。それにあんな場面を見たら、そう考えるのがあたりまえかも。わたしが硬直せずに、暴れていたら違ったのかもしれないけれど、されるがままになっていたわけだし。
だって、おっかなかったんだもの!
ベッドに両肘をついてわたしが頭を抱えると、え、とキャシーがWJに顔を向けた。WJはのんびりしたようすで微笑んでいて、わたしたちに視線を向ける。
「うっそ。ほんとう?」
キャシーのただでさえ大きな瞳が、落っこちそうなほど見開かれる。わたしはうなだれた。
「……ああ、なにか、ね。もう、そう、みたいだね」
世界の裏側まで通じる穴があったら、いますぐ入って、自分の存在をここから消したい。
★ ★ ★
「あなたの素敵な部分に気づくなんて最高! デイビッドのこと誤解してたわ!」
といったキャシーは、よくわからないけれど、わたしに人生初の恋人(とは思いたくない)ができたということを、心から喜んでくれた。いや、誤解したまんまで正しいんですなんていえないし、全然嬉しくないとも告げられないわたしは、プレゼントを必死に握りしめて、ひきつる笑みを浮かべて耐え抜く。そのうえデイビッドに嫌ってもらうために、小悪魔っぽい見た目で、あばずれではすっぱな行動をとる女の子になるために、その方法を探っているところだなんてなおさらいえやしない。
アーサーは顔をそらしたまま、笑いをこらえているし、WJの耳も顔も赤くなるわけもなく、根掘り葉掘り訊かれる前に、うなだれたわたしは病室を出た。嫌われなければ、いますぐに、とまで考えて、雑誌を買っていないことに気づく。
まあいいか。今日はもう、レポートを仕上げることに集中しよう。明日のことは考えない。いや、準備不足な明日はともかく逃げまくろう、それしかない。ああ、もう、どうしてくれよう、あの核爆弾を!
タクシーでマンションへ着き、部屋に入る。WJはソファに荷物を放って、キッチンへ行ってしまう。その間のわたしたちの会話はゼロだ。わたしはテレビのスイッチをひねり、ソファに座る。たあいのない子ども向けアニメをぼうっと見ていたら、キッチンから音が聞こえてくる。
こんなの間違っているし絶対に耐えられない。わたしたちは友達だったのだ。毎朝挨拶を交わして、一緒にランチをして、いろんなことをしゃべる仲良しだったのに。たったのひと晩でこんなことになっている。
わたしの片思いは、この際ほんとうに、もうどうでもいい。WJはキャシーが好きなのだし、わたしのことをなんとも思っていないことも、痛いぐらいにわかってる。だからわたしに妙な気遣いなんて無用だし、デイビッドのことなんて無視してもらいたい。
意を決して、腰を上げた時だ。いきなりリビングで電話が鳴り響き、わたしは一瞬身構える。もしやまた、呼び出し? もしも呼び出しなら、今日は勘弁してほしい。レポートのこととか告げて、なんとか絶対に断るべきだ。いや、パパかも。それともママかも?
WJはキッチンから顔を出さない。だからわたしが出るはめになる。ドアのそばにあるサイドテーブルの電話を見下ろし、深呼吸してから受話器を握る。
「ハーイ。スーザンよ」
ほうら、来た……。
「あのう。今日は」
「その声はちびっ子ビートルズね。あなたの意見なんて聞こえないのよ。ああ、でも、昨日のお礼はいっておくわ。あなたのおかげで家に帰って眠れたわよ、三時間だけだけど」
「ええ……。ああっと、でも、今日はレポートがあって」
「あなたの意見は訊いていないの。悪いけれど数分後に、ミス・ルルとレベッカチームが向かうから、いわれたとおりにしてちょうだい」
はあ?
「なんですか、それ」
スーザンさんが深いため息をついた。
「今夜アップタウンでパーティがあるの。ギャラリーをいくつも経営しているウッドハウス家が、新しくギャラリーをオープンさせるから、それを祝うためのものよ。デイビッドは行かないっていうから、キャンセルしていたのに、なにを思ったのかいきなり行くっていいだしたのよ」
ああ、いやな予感がしてきた。
「だからカルロスが急いでモデルを用意したのよ。ひとりぼっちにさせるわけにいかないから。だけどデイビッドは、あなたと一緒がいいんですって。いっておくけど、わ・た・し・の・カルロスは何度も断ったわよ。だけどそしたらあの核爆弾が、パンサーじゃないことバラすっていいだしたのよ。もうこんな最強な駄々、はじめて。あなたは一般人だし、やっかいなことがいろいろとあるから、デイビッドとは別で行ってもらうわ。WJに変わって」
「え?」
「は・や・く・変・わ・っ・て・!」
そこでやっと、けげんそうなWJの顔が、キッチンからのぞく。わたしはおろおろしながら受話器を差し出す。受話器をつかんだWJはうつむいて
「ジャズウィットです。ええ。ああ、はい。……でも危険では?」
そばに立っているわたしを、小さな目で見下ろし、すぐに視線をそらす。ため息をついて
「……わかりました。いいえ、大丈夫です。多少疲れますけど、いつものように識別しますから」
受話器を置いた。無言のまますぐにクローゼットを開ける。パンサーのコスチュームをハンガーごとつかんでからしゃがんで、下の引き出しを開ける。真っ白なシャツに黒いタイ、ハンカチ、ベルベット素材の小さな小物入れを取り出して抱えた。それから隣のクローゼットを開ける。そこには高級そうな黒いスーツが下がっていた。
タキシードだ。
「な、なにが……?」
……はじまろうとしてるわけ?
WJはジャケットとスラックスもハンガーごとつかんで、腕にかける。
「ぼくはきみを、今夜は一歩もここから出したくないんだ。……危ないからね」
その下に積まれた靴箱を抱え、クローゼットを閉じて
「でも、きみは嬉しいんじゃない?」
わたしを見下ろして、微笑む。
「え、なにが?」
なにが起きてるのかさっぱりわからない。
「パーティに行くことだよ」
「え?」
スーザンさんがあまりにも早口だったものだから、わたしはなにをどうすればいいのか、まったく理解できていないのだ。
「あ、あなたも行くの?」
「もちろん。それにぼくはよく行くんだ。パーティの最中に何かあったら、パンサーのぼくと入れ替わらなくちゃいけないからね。まあ、いままでそんなことは一度もなかったけど」
着替えるために、WJはリビングを出て行こうとする。やっと会話が再開されたいまが、さっきいおうとしたことを告げるチャンスだ。
「……あ。あのう、さ」
わたしが声をかけると
「なに?」
ドアノブに手をかけたWJが振り返った。
「デイビッドのこと気にしてほしくない。あなたはわたしの友達だし、やきもちとかやかないと思うし、もしもやくみたいだったら、わたしが絶対ねじふせてやるから」
できるかどうかは不明だけど。WJはふっと笑って視線をそらし、少しうつむいた。間をおいてから静かな声で
「ぼくらは友達だけど。……もしもぼくがデイビッドだったら、自分の好きな女の子が、ほかの男の子としゃべってるのは嫌だと思う、気がするんだ。相手が友達でもね」
その時になってやっと、わたしは気づいた。
WJはキャシーとアーサーが病室で、盛り上がっているのを見てしまったから、それでいろいろとかなしくなっちゃったのだ。WJは優しいから、それでデイビッドの気持ちになって考えてしまったのだろう。わたしはしょんぼりとした気分になってうつむいた。アーサーがあんなにわたしのアドバイスを、隅々まで活用するなんて、思いもしなかったのだ。この責任はわたしにもある。
わたしはWJが好きだけど、WJがかなしむのは見たくない。まるで無理なこの片思いは、胸の奥にひっこめると決めたのだ。
「……うう。ごめん」
「え? どうして?」
「病室で。アーサーがキャシーとすっかり仲良くなっていて、それでいろいろ考えちゃったんでしょ? まさかアーサーがあそこまでがんばるとは、わたしも思わなかったんだもの。やっぱりコミックのことしゃべらなければよかったなって」
WJが笑った。わたしが顔を上げると、WJは肩をすくめて
「……ああ、まあね。でも昨日もいったよね? それはべつにいいんだって。ぼくの問題だよ、気にしないで」
十分気になる。いまさら自分のしたことの重さが身にしみてきた。とはいえ、なんとなくアーサーも応援したいし、この妙な板挟みはなんなの?
「アーサーもがんばってるから、あなたもなんとかその間に割って入らなくちゃ……って、アーサーにアドバイスしちゃったわたしがいうのも、なんなんだけど」
WJはくすりと笑みをもらして、ドアを開けた。リビングから出て
「……そうだね。わかってるよ」
ドアを閉じた。
デイビッドは嘘つきだ。WJは誰も好きにならないわけじゃない。たぶん不器用で、だからデイビッドの目には、そう映ってしまっただけなのだ。
……というかわたし、また今夜会わなくちゃいけないはめになっているのでは……? 準備不足すぎるのに、まさに逃げきれないこれぞ蟻地獄! しかもレポートをどうすればいいの?
あああ! 髪をわしづかんで叫びたくなってきた。そこで部屋のチャイムが鳴る。
慌ててリビングから出て廊下を走り、玄関ののぞき穴を見ると、ようく覚えているあの姿が、同じように男女を引き連れて、こちらをにらんでいた。その隣に立っていたのは、あの、銀髪ベリーショートの女性だ。
おそるおそるドアを開ける。ミス・ルルは片眉を上げて
「二日ぶりね、二次元ちゃん」
このドアを、いますぐ閉じたい。