SEASON1 ACT.23
ゾンビからゴーストへ。いまやわたしは生きる屍。自分じゃどうすることもできない難題ばかりが降り注いでくるから、できることなら平穏に暮らしていた数日前に戻りたいと、マルタンさんの運転する車の助手席に乗って、念じているところだ。
「凍結完了だ。どうやってデイビッドを寝かしつけたんだい?」
いいえなにも。むしろわたしに意味不明なことを押し付けて、本人はすっごくすっきりしたみたいになって、ベッドに入って眠りはじめただけです、とはいえない。というか、うまく説明できそうもない。
「パンサーに悪いことをしたな」とマルタンさん。「戻ったらおれもきみもいないから、かなり焦ってあっちに来てくれたみたいだった。おれが説明したら、珍しく難しい顔をしてたよ。心配させちゃったなあ。やれやれだ」
そのうえわたしとデイビッドの、おかしげな場面も見ちゃったわけだ。WJはそのことを、誰にもいっていないらしい。誰にもいわずに、マルタンさんとわたしの乗っているこの車が、無事にあのマンションへ着くまで、小雨の降る中空から見守ってくれている。
デイビッドのいったことが本気なのかどうなのか。計るような経験値もないので迷う。自分がパンサーをやめたら、本物のパンサーが見せ物になるだなんて、なんておそろしい提案を思いつくんだろ。本気とは思えないけれども、おっかないのはたしかだ。
「マ、マルタンさん。デイビッドって、こう、自分が思いついたみたいなことは、絶対に守るタイプ? それとも、その時の気分で、朝になったら忘れちゃうタイプ、かな?」
どうか後者であってほしい。ああ、とマルタンさんはため息をついて
「そりゃ決まってるさ」ハンドルを握りながら肩をすくめて「なにがなんでも、絶対に守るタイプだよ」
……そうですか。決定。わたしはゴースト行き。
「おっと、そういえば、ジョセフ・キンケイドは、やっぱりキンケイド・ファミリーの末っ子だったよ」
「そうなんですか?」
「とはいえ、ファミリーからは抜けてる。縁を切ってる状態だ。だからファミリーには関係ないだろうな。あそこのファミリーはいま、ドンが脳溢血で倒れて、意識不明の重体で、ぼろぼろだ。ファミリーの中に派閥ができていて、今夜も港の倉庫街の裏で、銃撃戦があったみたいだよ。パンサーが目撃して警察に通報したといってた」
マルタンさんは、はあっと息を吐いて、キャップ越しに頭を撫でる。
「……さすがにこのあたりの中心街じゃ、そんなことも頻繁じゃないけれど、たしかに夜、きみをうろつかせたのはマズかったな。そのためにおれとWJが一緒にいるんだもんな。明日、カルロスもデイビッドにやんわり説教するとはいってたけど、どうだか」
ええ、無理でしょう。きっと聞こえないとかいうに決まってる。
「明日、か……。明日……、まずい。すっかり忘れてた!」
いきなりマルタンさんが叫んだ。ハンドルをぺしりとたたいて
「アリスにポスターのプレゼンする日だ! ああ、くそっ、今夜ラフ案を考えるつもりだったのを忘れてた!」
そうか、マルタンさんだって、カルロスさんの部下で、そもそもはブランドの広報チームの一員なのだ。今夜仕事に支障をきたしてしまったのは、核爆弾のわがままと、わたしを守る役目のせいかも。
「よ、よくわからないけれど、ごめんなさい」
マルタンさんが笑った。
「ああ、いや、きみのせいじゃないさ。おれのうっかりのせいだ。いいさ、少し眠って早朝会社へ行くよ。……ああ、アリスか。おっかねえなあ」
「怖いんですか?」
マルタンさんは苦笑する。
「超怖いぜ。カルロスはパンサーのイメージ戦略のトップだけど、アリスはブランドの戦略を仕切ってる。会社じゃいくつものチームにわかれていて、おれの普段の職業は、これでもグラフィック・デザイナーなんだ。で、明日はアリスに新シーズンのポスター案を見せる日ってわけだ」
すごい! とはいえ、マルタンさんはげんなりした顔で、
「……目に見えるようだぜ。こんな豚みたいなデザインは地獄に落ちてしまえとかいって、ラフを切り裂くアリスの姿がな。胃腸薬を持って行かないと、ストレスで下痢になっちまう」
それは怖そうだ。そしてわたしも怖い。WJの「ああそう」っていう顔を見るのが。
はあっとわたしがため息をついたのと、マルタンさんが吐息をついたのは、きっちり同じタイミングだった。
★ ★ ★
部屋へ戻った時、シャワーの音が廊下にかすかに響いていた。パンサーの玄関から先に帰ったWJが、浴室にこもっているらしい。
リビングに放り出されたままのゲームを、マルタンさんが片付ける。わたしはテーブルの上に放置されてあるレポート一式を抱えて、窓に視線を向ける。パンサーの玄関は、きっちりと閉められてある。腹が減ったといったマルタンさんは、キッチンでスープを温めはじめ、わたしは自分にあてがわれた部屋へ向かう。やたら天井の高い廊下の、右側にはふたつのドア。マルタンさんのいっていた、お客さん用の部屋だろう。左側にもふたつのドア。リビングと隣り合わせの、わたしが眠るための部屋と、その隣が浴室みたいだ。
WJは出て来ない。わたしは部屋に入って電気を灯す。ホテルみたいなシンプルな部屋だ。ベッドにソファに小さなテーブル。だけど、この部屋にはもうひとつドアがある。光沢のある黒いドアの向こうから、シャワーの音が聞こえている。浴室につながっているドアらしい。
ドア一枚隔てた向こうに、WJがいる。でも、わたしが部屋へ入ったとたん、シャワーの音が途絶えた。浴室から人の気配は消え、やがて静まり返る。心臓に悪すぎる配置だ。
「……はあ」
レポート一式をテーブルに置いて、窓のブラインドを下げた。そうっと浴室のドアに近づいて、とりあえずノックしてみる。返事がないので開けると、電気が消えていた。
バッグからパジャマとガウンと下着を出して、まだ熱気のこもってる、やたら広い浴室に入る。ガラス張りのシャワー室、趣味のいい洗面台、それからトイレ。鏡がうっすらと曇っていて、洗面台にはきちんと数本の歯ブラシ、ふかふかのタオルがセットされてあった。ほんとうにホテルみたいだ。その中の一本が、カップに入ってる。WJの使った歯ブラシだろう。
服を脱いで、シャワーを浴びながら、デイビッドにいわれたことをぐるぐると考えてみる。
マルタンさんによれば、デイビッドは自分で決めたことはなにがなんでも守るらしい。ということは、わたしはデイビッドと「友達カテゴリー圏外」で、仲良くしなければならないらしい。そうしなければ、デイビッドはパンサーでいることを放り出し、WJの正体を明かしちゃうつもりになっちゃった、ようだ。
「……なにそれ」
意味不明。だけど押し付けられてしまったんだから仕方ない。もうほんとうに、わけがわからなくなってきちゃった!
回避する方法はあるんだろうか。
シャンプーで泡だらけになりながら、がしがしと髪を洗う。ううん、なにがなんでも回避したい。ということは、ようするに、わたしがデイビッドに嫌われればいいわけだ。そうすれば「もういいよ!」ってなるはず。
すばらしい。でも、どうやって嫌われればいいんだろ。
ともかくわたしは断った。それが全く通じてない。だから嫌われるしかない……とまで考えて、パトリシア・リーのことを思い出す。泡を流し、身体を洗い終えてから、最高な方法を思いついた。
簡単だ、わたしがビッチになればいいのだ!
デイビッドはあからさまな女の子が嫌なのだ。だから、わたしがそういう女の子になれば全て解決! と、タオルで身体を乾かし、着替えてから鏡を見てうなだれた。
……もう、どうやってビッチになれるというわけ? このお子さまみたいな顔と身体で?
「うん、無理」
ジェニファーみたいな感じの服を着てみる? いや、首から上が完璧に浮いちゃう。それに胸はないし……って、そういうことじゃない!
いったい誰に相談すればいいんだろう。キャシーはパンサーの正体を知らないし、WJにいえるわけない。カルロスさん? そうしたらカルロスさんはデイビッドにそのことを伝えちゃって、デイビッドはもっと駄々をこねて、ますます悪化しそうだ。もしくは、いうとおりにしてくれとかいわれちゃうかも。ああ、ああそうかも! ダメだ、これもダメだ。
そこで気づく。わたしはまたもや、誰にもいえない状態になっている。大人の悪巧みを聞いてしまった時と、おなじようなことになっちゃってる!
「……お、落ち着けないけど、落ち着いてわたし。ともかく明日もデイビッドは学校へ来ないし、だから……、わかった。いや、わからないけど」
よし、とりあえず明日は、ジェニファーの観察をしよう。ビッチになる以外に、やっぱり方法はなさそうなのだ。このわたしのまんまで、ビッチに昇格(?)できる方法が、観察によってなにか見つかるかも。
……というか、どうしてわたしがビッチにならなくちゃいけないわけ? それはデイビッドに嫌われるためよ、わたし!
「……はあ」
歯を磨きながら、WJの使ったであろう歯ブラシを見下ろす。わたしとデイビッドのおかしげな場面を見ても、WJは静かにドアを閉めて、誰にもそのことを伝えなかった。それって、興味がないから、なのかも。べつにどうでもいいから、なのかも。むしろ気まずく思ってるかもしれない。その気まずさを解消させる方法も浮かばない。
もう眠ろう。
もうわたしの思考をはるかに超える出来事に、脳内もパンク寸前だ。リラックスさせなければ、いいアイデアも思い浮かばないはず。まあたぶん、目覚めたところで「ビッチ作戦」しか、残されてないような予感はするけれど。
「……最悪だ」
浴室の電気を消して、部屋へ戻る。サイドテーブルの電気だけを灯して、レポート一式を抱えながらベッドに入り、数行ペンを走らせただけで眠気におそわれ、わたしは眠ってしまった。
★ ★ ★
水の流れる音が聞こえる。うっすらをまぶたを開けると、サイドテーブルの照明が灯されたままになっていた。教科書もレポート用紙もベッドから落ちている。拾おうとしたとき、軽く咳き込む声が浴室からとどく。
照明の横のデジタル時計は午前三時をしめしていた。また水の流れる音、そして咳き込む声だ。早朝会社へ行くといっていたマルタンさんが起きたのかもしれない。心配になってドアをノックする。答えがないので、ゆっくりとドアを開けながら
「マルタンさん?」
いや。洗面台に立っていたのは、WJだ。白いTシャツにストライプのラフなパンツ姿。眼鏡は洗面台の棚にある。鏡越しに顔を上げたWJが、眼鏡をかけずにこちらを振り返った。手探りで蛇口をひねり、水を止めてから、
「起こしちゃった? ごめん」
視界がかなりぼやけているんだろう、きれいな瞳の眼差しが、どこかぼうっとしている。
「せ、咳が」
近づこうとすると
「ああ、いまはダメだ。近づかないで」
WJがわたしに背中を向けたまま、右手を伸ばして制した。
「え?」
肩越しに顔を向けているWJが、一瞬にやっとする。伸ばした手の指をぱちんと鳴らしたとたん、浴室の電気がじりっと消えかかった。
「……こういうこと」
また手探りでタオルをつかむ。顔を拭きながらこちらに身体を向けて、
「いまのぼくは静電気だらけ。雨が降っていたからね、いつもよりも妙なパワーを使ったみたいだ。まだおさまらない」
「咳をしてたみたい、だったから。気になって」
さっさと自分の部屋に戻るべきだ。でも戻れない。WJはタオルを放って、洗面台に腰をつけ、腕を組んだ。
「それは平気。風邪とかじゃないよ」
WJの視界には、きっとわたしは肌色のゴーストみたいに映っているはず。だけどわたしにはくっきりと、間近にたたずむWJの姿が見えている。神秘的な瞳、ほどよい筋肉の腕、骨っぽい指先。眼鏡を取ったWJを見ると、どきどきしてしまう。それは男の子なんだと、意識させられてしまうからだ。だから苦手だ。この姿はすごく苦手。
「眠れないの?」とWJ。
「……そういう、わけじゃないけど」
WJがふいに微笑んだ。
「……デイビッドのことを考えてた?」
え。
「ごめん。まずい時にドアを開けたみたいだったから」
どうして微笑むの。全然気まずいみたいな感じじゃない。全然、なんとも感じてないみたいに見える。うつむくと
「……わたしは、べつに」
WJが軽く首を傾げる。
「……よくわからないけど、デイビッドはきみを好きみたいだよ。キャシーからどうしてきみになったのかはわからないけど」
わたしにも全然理解できない。
「……そう、みたいだね」
「きみは?」
上目遣いにWJを見る。WJの表情はおだやかだ。にっこり微笑んでいて、まるで親戚の小さい子どもに、訊ねてるみたいな雰囲気。
好きな人はほかにいるのだと告げたい。だけど、わたしと一緒の時、WJはいつも平静だ。落ち着いていて、顔が赤くなることもない。告げたところで無駄なのだ。答えずにいると
「きみがハッピーなら、ぼくも嬉しいんだけど」
全然ハッピーではない。むしろ表のパンサーと、裏のパンサーにはさまれて、息苦しいことこのうえない。
「こ、今夜。あの。デイビッドがわたしがいないと眠れないっていって」
WJはちょっと目を細めて苦笑する。
「マルタンに聞いたよ。正直ちょっと焦ったんだ。こっちに戻ったら誰もいなくて。だけどスーザンが来たのを思い出して、行ってみたら、やっぱりって。きみに会いたいのはわかるけど、夜は勘弁してもらわないとって、カルロスにはいったんだけど。うろつくのは、ちょっと危ないからね」
わたしはうなずく。でも、うなずいたわたしを、ぼやけた視界のWJが、きちんととらえられているのかはわからない。
「ぼくでよかったら、相談にのるよ。デイビッドのことは、それなりに知ってるから」
すっかりわたしも、デイビッドのことが好き、みたくなっちゃってる。誤解をといたほうがいいんだろうか。できることならいますぐときたい。だけど例の提案のことを思い出して躊躇する。もしも全部ぶちまけてしまったら、WJは「いいよ」といいそうだ。いいよ、べつに。見せ物になってもって。
そんなの耐えられない。これこそ、自分の胸におさめておくべき、重要項目だ。だからわたしは顔を上げる。
「うん。そうする」
これ以外の返答を思いつかなかった。WJはにこっと笑う。
「……だけど、なんでわたし」
本音のつぶやきがもれてしまう。口を手でふさぐと
「そう? どうして?」とWJ。
「あ、ああ。いや。そのお。デイビッドがわたしをって、おかしいでしょ?」
「べつにおかしくないよ。むしろぼくは、本気かもって思ってるよ」
「え?」
「彼がデートしてる相手はだいたい知ってる。きみを傷つけるつもりはないけど、キャシーも。……うまくいえないけど、その……」
美人、といいたいのだ。
「うん。わかるよ」
WJはちょっとうつむいた。でも視線はこちらに向けられたままで
「……うん、まあ。そう。……でも、きみにはそうじゃないところで、惹かれたんじゃない? きみとしゃべるのは楽しいし。一緒にいると」
口ごもる。視線を落してから、ふたたび顔を上げて
「安心する、感じなんじゃないかな。わからないけどね、ぼくには」
あなたは、と訊きたくなる。あなたもそう? だけど訊けない。まずい、これ以上しゃべっていたら、WJに好きだといいそうになってきた。いってしまったら、WJは絶対に困るだろう。困って、どうやって断ったらいいのか迷って、悩んでしまうに決まってる。そしてわたしたちは気まずくなって、友達でもいられなくなるかもしれない。
それは避けたい。絶対に避けたい。うう、もう胸が苦しすぎて吐きそうになってきた。いますぐここから去ろう。一刻も早く!
「……眠るよ。ねえ、まだ、バチバチする?」
WJは組んだ腕をゆるめて、洗面台に手をつく。笑ってから、わたしに背を向けた。蛇口をひねり、水で軽く顔を洗い、タオルをつかむ。わたしがドアを閉めようとした時、
「学校では、あまり一緒にいないほうがいいかもね」
いわれて、びっくりする。
「え? どうして?」
タオルで顔を拭くWJの表情は読み取れない。だって、という。だって、デイビッドがやきもちをやくかもしれないからね。
「と、友達なんだから、べつにいいでしょ? そんなことないと思うよ」
「ぼくはデイビッドをわかってるよ。大丈夫だよ、きみのことはちゃんと見ているから」
タオルをまた放る。うつむいたまま洗面台にある眼鏡を、手探りでつかむ。眼鏡をかけてから、まっすぐ廊下側のドアに向かい
「おやすみ」
口元に笑みを浮かべていう。そして浴室の電気を消した。
取り残されたわたしはパニック寸前、呆然としながらWJのことばの意味をぐるぐると反芻する。
ちょおっと待って。どうしてそうなっちゃうの? どうしよう、どうすれば?
いやもう、わかってる。デイビッドに嫌われるしかないってことを! もう貴様の顔なんて見たくない、みたいに、いますぐ思ってもらわなければ!
「……オーケイわたし。もうこうなったら、なにがなんでもなるしかない」
……ビッチに。