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SEASON1 ACT.21

 マルタンさんのしゃべり声で目が覚めた。

 信じられない、わたしのよだれが、レポート用紙に流れている。どうやら眠ってしまっていたらしい。それにわたしの肩に、ブランケットがかけられてある。どう見てもWJがくるまっていたのとおんなじだ。だからこれは、WJがかけてくれたってことになる。

 すっかり起きているWJが、テレビのアンテナを設置していた。わたしがのっそりと顔を上げると、WJは眼鏡装着顔でこちらを向いた。

「どんな夢見てたの?」

「夢? 覚えてないけど」

「そう? ぐずぐず泣いてたから心配したよ。起こそうかなって思ったけど、そのうちに今度はふふって笑ってたから、面白いなあと思って、ほうっておいたけど」

 くすくす笑う。レポート用紙はよだれじゃなくて涙らしい。たぶんWJ関連の夢だろう。でも、だとすれば、笑うって、なんで? 夢は謎だ。

 床に置いた段ボールから、マルタンさんがボードゲームを出した。WJはテレビのスイッチを入れる。とたんに生活感のある空間に早変わりだ。

「少し早いけど、ぼくはそろそろ行よ」

 WJがクローゼットを開ける。パンサーのコスチュームが、ずらりとかけられてあった。

「気をつけろ。ヴィンセントの最新アジトがわかればそれでいいんだ。それ以外は手を出さなくていいからな。あとはニュースになりそうな派手なパフォーマンスをしてくれ。近頃、ニュースにあまりパンサーが出てないから。昨日のことも流れていないしな」

 ボードゲームをいじりながら、マルタンさんがいった。

「わかった。それよりも、マルタン。今日ストアで、ジョセフ・キンケイドっていうジャーナリストが、ニコルに話しかけたんだ。顔はイタリア系で、けっこう若いよ」

「ジョセフ・キンケイド?」

 キャップのつばを後ろに回して、マルタンさんがパパそっくりのつぶらな瞳をわたしに向ける。それからうつむいて、

「……ドン・キンケイドの息子の中で、ファミリーから抜けたやつがいた気がするな。もしかしたらそいつかも。ちょっと調べてみよう」

「頼むよ」

 コスチュームを抱えたWJが、リビングを出て行く。テレビが流れているので、ブランケットにくるまったわたしは、のろのろとソファに近づいて座る。

 ひとり掛けソファは窓際に寄せられて、ローテーブルの上にテレビが置かれてあるので、ソファに座るとテレビが真正面だ。

「あとでモノポリーでもやろうか?」

 床にゲームを広げながら、マルタンさんがウインクする。でもちょっと太っているマルタンさんのウインクは、ウインクではなくてただのまばたきだ。パパそっくり。くすっと笑うと、マルタンさんが片眉を上げて

「なんだい?」

「ごめんなさい。マルタンさん、わたしのパパにちょっと似てるの」

「きみもおれの姪っ子にそっくりだよ。まだ五歳だけどね」

 それから家族の話で盛り上がる。テレビで保安官シリーズが流れたとたん、マルタンさんはテレビの音量を上げた。床であぐらをかいたまま、見たことあるかとわたしに訊く。うなずくと

「マジでクールなドラマだぜ。おれの命中さばきは……」

「……神からの贈り物だ!」

 意気投合した。いや、わたしはそこまで保安官のファンじゃないんだけど。

 わたしはソファから腰を上げ、床に放置されたモノポリーの前にしゃがむ。ほかにも段ボールの中には、ゲームがたんまり入っている。ううん、これは楽しそうだ。

「オーケイ、ミス・ジェローラ、ドラマが終わったらゲーム開始だ」

 テレビに釘付けのままマルタンさんがいう。ああ、ジェローラが定着しちゃってる。まあいいけど。

「やりましょう、やりましょう!」

 そこでパンサーが登場する。マスク装着のパンサーは、窓に向かって歩きながらわたしを指して

「ゲームの前にレポートを仕上げた方がいいと思うよ」

 にやっと笑う。

 窓にパンサーが手をかけた時だ。玄関から物音がして、マルタンさんはすぐにテレビを消し、背中に腕を回した。トレーナーの下にピストルを隠している。ただのおじさんだと思っていたのに、身のこなしが素早くて驚く。わたしをかばうようにしてしゃがみ、唇に指をあてて、背後で縮こまるわたしを見る。

「大丈夫だよ、マルタン」

 ドアが開けられてもいないのに、パンサーはそういって、窓を開け放った。と同時にリビングのドアが、思いきり開けられた。

 立っていたのは、ぜいぜいと肩で息をしているスーザンさんだ。

「ほらね」というパンサーの声に振り向けば、もうそこに姿はなかった。わたしは心の中で、気をつけて、と何度もつぶやく。

 マルタンさんはほっと息をつき、ピストルから指を離す。テレビをつけてから舌打ちをした。

「ああ、くそっ! しょっぱな見逃した! なんだよ、スーザン?」

 腰に手をあてたスーザンさんの髪は、ひどくぼさぼさだった。昨日と同じスーツで、化粧も取れかけている。ドアを手でおさえて戸口に立ったまま

「……うすぼんやりとした仮眠は差し引いて、わたし、いったい何時間起きてるのかしら」

「……なんだよ、愚痴りに来たのかよ。おまえの職場はここじゃないぞ? ここから南へほんの二ブロック先だ、思い出せ」

 マルタンさんははあっとため息をついて肩を落とす。スーザンさんはマスカラの取れかけた目を細めると、

「その二ブロック先から逃亡して来ただけよ。あなたはいいわよねえ。そこのお嬢ちゃんのお守り、ですもんねえ。そこのお嬢ちゃんはきっと、きちんと眠ってくれるでしょうね。だからあなたも眠れるのよ。それにわがままもいわないだろうし? いいわよねえ。ほんとうにうらやましいわ!」

 マルタンさんがわたしを見て、失笑しながら肩をすくめた。

「いつものヒステリーだ」

「わかってるわよ、ただのヒステリーよ。カルロスとあの女はしょっちゅう無線か電話でしゃべくってるし、ちっともわたしを相手にしてくれないし、デイビッドは眠らないし、ヴォーグ紙の取材は断るし、カルロスがそこのお嬢ちゃんのことをしゃべったとたん、なんでかデイビッドのむっつり度数がマックス超えて、いまやビッグバンを引き起こしかねないほどの静寂。嵐の前のなんとやらよ。この恐怖、わかるでしょ、マルタン」

 マルタンさんが、トレーナーの中に両腕を引っ込めて震えはじめた。

「……聞いてるだけでおそろしくなってきたぞ」

 わたしにはさっぱりわからない。

「静寂よ、静寂。ものすごい静けさ」

「わかった。もういわないでくれ。おまえには同情するから」

 ふっとスーザンさんが笑った。ここは平和ね、とかなしげにささやいてから、いきなりわたしを指して

「なぜだかわからないけど、そこのビートルズ・メンバーみたいなあなた。いますぐわたしに着いて来て」

 え?

 なんでですかとわたしがいうのと、なぜだとマルタンさんが訊くのは、きっちり同じタイミングだった。

「知らないわよ。核爆弾があなたがいないと眠れないっていうんだもの!」

「核爆弾?」

「デイビッドのあだ名だ。おれたちの」とマルタンさん。

 ……めまいがしてきた。

「おいおい、ちょっと待ってくれ。じゃあいったいおれとWJは、なんのためにここにいることになるんだよ?」

 そのとおりだ。マルタンさんは正しい。

「文句ならわがまま王子にいうことね。悪いけどわたしたちは眠りたいのよ。ね・む・り・た・い・の! だけどあの核爆弾が起きていて、睡眠薬なんて飲まないし、飲まそうとしたことがばれたら、それこそ暗殺されるわ。それにしょっちゅうなにか命じてくるから眠れないのよ! わかる? だけど核爆弾を凍結したら、わたしたちも少しゆっくりできるのよ。眠らないと人は発狂するの。だから悪いけど、そこ! いますぐ立つ!」

 勢いに押されて立ってしまった。つかつかと近づいて来たスーザンさんはわたしの腕を取って引っ張る。

「あ、すみません。バックパックと教科書とレポート……」

「一分一秒をあらそっているの。あなたの荷物のことなんて考えてられない精神状態なわけ。一刻も早く眠りたいって、わたしの脳みそが叫んでいるのよ!」

 にらまれた。

「わかった。おれも行くよ」

 テレビを消して、マルタンさんがうなだれた。

「WJが」

 玄関を出る時にわたしがいうと

「その前に戻ればいいだけだ。おれにもわからないけど、核爆弾凍結の役目をあたえられたんだろ?」

 わたしを指して

「……きみが」

 ……なんで?

★ ​★​ ★

 

 スーザンさんの運転する車の中で、学校でのデイビッドはさわやかで、たしかに駄々っ子みたくなる時もあるけれど、ちょっとわがままをいう程度だとわたしが話すと、助手席のマルタンさんが笑い出した。それにつられたのか、スーザンさんも乾いた笑い声を上げる。

「……あなたたちは知らないのよ。ほんとうの核爆弾を」

 すごいあだ名だと思うけど、つっこまないでおこう。

「落ち着いた精神状態ではそうさ。だけど少しでも気に入らないことがあったらすごいぞ。学校ではイメージもあるから我慢してるんだろうな。そういうストレスが全部あとで」

「わたしたちに降り注ぐのよ。地獄の雨が」

 スーザンさんが引き取って答えた。はあ、とふたり同時にため息をつく。

「ほんのさっきまでは、ちょっと機嫌がもちなおしてたのよ。リビングを観葉植物でしきつめて、熱帯雨林みたいにしたから」

 ……なんだろう、それは。

「で、そろそろ寝るかもって雰囲気になって、髭もじゃになっちゃったカルロスが、あなたの」

 スーザンさんが後部座席のわたしを、バックミラー越しに見る。

「名前をいったとたん、どこにいるんだって。だからカルロスは、大丈夫だ、マルタンもWJも一緒だしって、さらっといったのよ。ほうら、安心でしょ? って感じになったのに、なぜだかいっきに空気が凍ったのよ」

「……それは南極並みか?」とマルタンさん。

「……いいえ、月の裏側並みでしょうね。行ったことないけど」

 それほど寒い、ということだろうか。

 昨日デイビッドにいわれたことや、あれやこれやがいっきに脳裏を過っていった。たんなる気まぐれと思ったし、それどころじゃない難題がわたしを襲ったので、すっかり忘れかけていたけれども、どうにもややこしいことになってきちゃってるのかも。いや、わからない。

 あっという間にマンションの前に着いてしまった。ドアマンにキーを渡したスーザンさんとマルタンさんに挟まれて、ロビーを通り、エレベーターに乗る。

 豪勢なフロアの一番奥。デイビッドの部屋の前には、昨日見かけたSPが立っていた。部屋の前に立ったスーザンさんは、背後のわたしを振り返り

「頼むからおとなしく寝かしつけてちょうだい」

 シッター先の母親がよくいうセリフをいわれた。

 ドアが開けられる。なんてことはない、昨日アーサーと訪れた状態と同じだ。

「そういえば寝室って?」

「とっくに修理済みよ」

 書斎のドアも寝室のドアも浴室のドアもきっちり閉まっている。ただし、廊下つきあたり奥のドアは開け放たれてあって、すでに意味不明な緑の植物が、アマゾンみたいに茂ってるのが見えた。その葉のすき間に立っているカルロスさんの顔が、ぼうっとこちらを眺めてる。ああ、ゾンビタイプのままだ。

 リビングから出て来たカルロスさんのハンサムな顔には、髭が生えはじめていて、あきらかにやつれていた。ほんとうに一睡もしていないらしい。

「悪かったね、こんな時に。うろうろしてほしくはないんだけど」

 そこでマルタンさんが、ジョセフ・キンケイドの話題を持ち出した。ふたりは書斎に入ってしまい、わたしはスーザンさんに背を押され、アマゾン突入の指令をくだされる。

「ちょっと待って。寝かしつける前に、いくつか頼みたいわ。ムービー雑誌の取材と、ウィークエンドショーの出演と、ヤング・アイドルのパトリシア・リーとの対談、来年の春・夏コレクションのモデル撮影が押し迫ってるの。了解させて」

「え。えええええ?」

 覚えきれない。断ろうとした直前、背中を押されてリビングに入ってしまった。

 趣味のいいインテリアのすき間をびっしり、植物がおおっている。窓すら隠れるいきおいで、むしろアマゾンに家具を置いちゃった、みたいな状態になっている。なんの植物なのかわからない枝葉のすき間から、足を投げ出してソファに座っているデイビッドを発見した。気分としては、探検隊が珍しい生物を発見した時の感じに似ている、かもしれない。

 グレーのパーカーのフードをすっぽりかぶり、両手をポケットにつっこんで、むっつりとうつむいている。このままそうっとしておけば、眠るような気もする。子守歌をハミングするべき? だけどたしかに、妙な緊迫感が漂っているのはたしかだ。

 どうしたんだろう、と身を乗り出した時、葉っぱが揺れて、デイビッドがのろりと顔を上げた。寝不足なうえに不機嫌という最悪な状態らしい。目が合ってしまった。

 ……なるほど、核爆弾かも。

「……誰?」

 わたしに気づいてないらしい?

「わ、わたし、だけど?」

「いや、それはわかってるさ。誰がきみを連れて来たの?」

 怒ってるみたいな声音だ。もしかして、わたしは来なかった方がよかったのでは……? 戸口を見ると、スーザンさんは「失敗した!」とでもいいたげな顔になった。おののいた表情で、ぶんぶんと首を横に振りはじめる。自分の名前をいわないで、ということだろうか。

「マ……、マルタン」

 スーザンさんがうなずく。

「さん、だけど?」

「そう」

 デイビッドが立ち上がった。

「彼は昇給させるよ」

 あ、よかったんだ……。スーザンさんが自分の髪をわしづかむ。

「あ、いや、スーザンさん。スーザンさんだよ」

「どっちでもいい」

 訂正が遅かったらしい。こちらに向かって歩いて来る。スーザンさんは浴室のドアを開けると引きこもった。

 デイビッドもゾンビみたいになってる。

「どうしちゃったの? ゾンビみたいだよ」

 今朝のわたしも人のことはいえない。それに、書斎にこもってるカルロスさんもゾンビだ。

 わたしに近づいたデイビッドは、

「眠たいのに全然眠たくないんだよ」

 なにそれ。

「眠ればいいのに。寝室は修理したんでしょ? それともなにか、おっかないこととかあるわけ?」

 すっごい間近で見下ろされた。眠そうな瞳でじいっとわたしを見つめてから

「……ヘンな顔」

 うん、それっていまさらだよね。うなだれたわたしは

「わかってるよ。それいわなくてもいいから」

 デイビッドはわたしのギンガムチェックのシャツの右袖をつまんで、ゆるゆると引っ張る。

「でもずっと見てたい顔だよ」

 リビングを出る。よろよろとデイビッドのうしろを歩いていると、寝室のドアが開けられた。浴室のドアのすき間から、スーザンさんの片目が見える。書斎のドアからも、マルタンさんとカルロスさんの顔半分が見える。よほど眠ってもらいたいらしい。

 ちょっと心配だけど、パンサーはパトロールへ出ていて、ギャングはまだ静かだ。キャシーも彼女のパパも警察に守られて病院にいる。このすき間にみんな、休息したいのは間違いない。

「あ。キャシーは病院で元気だったよ」

「そう。良かった」

 ふっとデイビッドが笑った、ような気がする。寝室は見事に修復されていた。モスグリーンの絨毯の上には、ガラスの破片も落ちていないし、窓もきっちり元のまま。ブラインドがおろされてあり、キングサイズのベッドも、きちんと整えられてある。

 ぼうっとした照明の灯りが、いますぐ眠れとささやいているかのようだ。デイビッドをベッドに寝かせて、窓際のオットマン付きソファにわたしが座って、昔話でもすればいいのだろうか。それよりも、そろそろ袖を離してもらいたいところだ。

「眠たくなってきた?」

 試しに訊けば

「全然」

「あったかいミルクとか飲めばいいんじゃない?」

「つくってくれるの?」

 まるで子どもだ。眠さもあるのか、昨日よりもずっとぼうっとしている。

「つくるよ」

「……いや、いい」

 どっちなの?

「……どうしてわたしがいないと眠れないの?」

 ゆっくりと袖を離す作戦に出たけれど、デイビッドは意外な力で袖をつまんでいる。

「いままでだってちゃんと眠ってたんだよね? それを思い出せばいいんじゃないかな?」

「思い出せないね。というか、ちゃんと眠ったことなんてないさ。ねえ、なんで袖を引っ張るの」

「あなたがつまんでるからじゃない。いいから指を離して、あなたはそこに横になって。そしたらわたしが……なんかしゃべるから。あそこで」

 ソファを指す。でも、デイビッドは指を離さない。わたしの前に立ったまま

「なんで?」

 はあ?

「なんでって、なにが?」

 デイビッドがベッドとソファを交互に指し、

「なんできみはあそこで、おれはこっちなの?」

 一緒に眠れということだろうか。女の子としての魅力にかなり欠けている自覚があるとはいえ、さすがのわたしでもそれは避けたい。たしかに昨日、ソファで一緒に座ってはいたけれども、あの状況とこの状況では、かなりな差があるような気がする。よし、話をそらそう。

「どうしてアマゾンみたくなってるの? あそこ」

 リビング側の壁を指す。

「……暇だったからだよ」

 わたしには理解不能な理由。うーん、凍結は難航しそうだ。

 眠れないのは身体を動かしていないからかも。もしくは、そうだ。一歩も外へ出ていないからだ。いまやギャングの、というかヴィンセント・ファミリーの、超宿敵になっちゃったパンサーで、わたしよりもうろうろするのは危険な位置にデイビッドはいる。取材やらなにやらで予定が立て込んでいるだろうけれど、それ以外は好きな場所へも行けないはずだ。SPやカルロスさんがそばにくっついているとはいっても。

「学校にはいつ来られそうなの?」

「あさってには行くよ。おれもそんなに休めないし」

 スーザンさんはなんといっていたっけか。わたしは左手の指を折りながら

「ええっとう……。なんかの雑誌の取材と、テレビの出演と、パトリシア・リーとの対談と、コレクションの撮影をどうするかって、スーザンさんがいってたよ」

 デイビッドは眉をひそめて、

「パトリシア・リー……。誰とでも寝るビッチ女」

 えええええ!? ……ショックだ、清純な感じでけっこう好きだったのに。 いや、そんなことはどうでもいい。問題は、わたしの袖口を離さないデイビッドと、まだ戸口に突っ立ったままだということだ。このまま朝を迎えるつもりはない。急がないとパンサーがあの部屋に戻ってくるだろうし、そこにわたしもマルタンさんもいないとわかったら、きっと心配するに決まってる! ……とそこでわたしの脳裏に、段ボールに詰まったゲームの山が過った。

「わかった。デイビッド。ええっと……じゃあ、なにかゲームしよう」

「ゲーム?」

 デイビッドがわたしを横目にして、片眉を上げた。

「わたしが勝ったらあなたは静かに眠る。で、あなたがちゃんと眠るまで、わたしがなにかしゃべりまくるから。あそこで」

 もちろんソファを指す。やっとデイビッドが袖を離してくれた。

「なにか持ってるでしょ? カードとかボードゲームぐらい」

 誰の家にもトランプぐらいはあるはず。

「あるよ」

「……もしかして、カルロスさんとかと、よくやったりする?」

 相手のゲーム慣れを調査しておくことは重要だ。

「いいや。最近は全然やってないね」

 勝ち決定! わたしはカードもゲームもしょっちゅうやっているし、かなり得意だから、全然やっていないデイビッドの負けは確実!

「じゃあ、おれが勝ったら?」

 デイビッドは両手をふたたびポケットに入れて、わたしの正面に立ち、にやりと笑った。

「いいわよ。なんでも」

 デイビッドが寝室を出て行った。よかった、これでなんとかなるだろう。はあっと安堵して息を吐いた時、デイビッドが戻って来た。ベッドの上に、かなりな年代モノと思われる、豪勢な木製の木箱を置く。パーカーのフードをうしろにはらいながら、ベッドに乗っかり、あぐらをかいて、

「おれが勝ったら、ひと晩添い寝してくれるんだろ?」

 ちょっと待って。

「……そ、それしかないの?」

 デイビッドが笑みを浮かべた。

「ゲームといったら、これだろ?」

 まずい、まずい、まずい!

 どうしよう。わたしは顔面蒼白で木箱を指した。

「ぜ、前言撤回してもいいかな?」

 ルールだけは知ってる。いつかWJとやろうと思って、彼にルールを教えてもらったことはある。でも、それだけでやったことはまるでない。

「ダメだね。いいだしたのはきみだろ?」

 市松模様のボードに、白と黒の陶器製と思われるご立派な駒。

 あきらかにどう見ても……、チェスだ。

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