SEASON1 ACT.20
マンションの部屋の前に、SPはいない。鍵を開けたWJのうしろにくっついて、すっかり記憶にやきついた部屋へ、ふたたび足を踏み入れる。昨日はデイビッドが前を歩いていて、今日はWJが先を歩いている。わけがわからなくなってきた。
やっぱりリビングには、マルタンさんの姿がない。なるべくなにも考えないようにしなければ。
WJはソファに荷物を置くと、一面木目のクローゼットを開ける。すると、キッチンがあらわれた。
「クローゼットかと思ってた」
「入り口側の半分はクローゼットだよ。こっちを開けるとキッチンなんだ。開けっぱなしにしておこう」
絶対一度も使われていなさそうなキッチンだ。そこに材料を置いて、冷蔵庫に野菜や果物、肉類を、慣れた手つきでWJが入れていく。まずいことにわたしの脳が、勝手に妄想をはじめてしまった。WJと結婚したら、こんな感じかな~なんて、考えているこの思考回路を、べつな方向へ向かわせなければ!
「て、手伝いたいけど、歴史のレポートを仕上げたいから、いいかな?」
キッチンに背を向けて、テーブルを前にして座る。
「提出は明日?」
「……ううん、今日、でした」
「え? きみ、レポートを忘れたの?」
「……忘れたよ。それで、たっぷりミセス・リッチモンドにお説教されたわけ」
WJが声を上げて笑った。どうしよう、かなしいけれど、すっごく楽しい。
「そうだ。ぼくもきみにお説教をするつもりだったんだ」
かたかたと、料理をはじめるために道具をそろえる音が、キッチンから聞こえてくる。
「……でもまあ、いいか。無事だったし。でももう二度と、無茶なことをしないでよ」
「わかりました、ミスター・ジャズウィット」
またWJが笑ってくれる。
肩越しに、ちらりとキッチンを振り返る。ナイフを使って、器用にタマネギの皮をはぐ、WJが見える。パンサーが料理をしている。あのパンサーが料理をしている! 特ダネものの場面に直面しているわたしは、ぽかんと口を開けて見入る。と、WJがこちらを見た。で、目が合う。
「なに? 大丈夫だよ、手は切らないから」
わたしは視線をそらす。わかってるよ、そうじゃない方向で見てただけです。
白紙のレポート用紙に、ぐるぐると意味のない落書きをしていると、鍋の煮立つ音がしてくる。野菜を洗っている音もする。わたしは料理なんてまったくできないから、すごいねといおうとして口を開けた時、
「キャシーが元気そうでよかったよね」
WJがいった。わたしは落書きの手を止める。
「……うん。でも、ほんとはすんごく怖かったと思うよ。そういうのって、あとでおっかない夢とかになって、うなされたりしないかな?」
「そうだね」とWJ。「でも、キャシーはけっこう、強い女の子だよ」
わたしも知ってるよ。だけどそのことにあなたが気づいていたなんて、知らなかった。
キャシーのことを、ちゃんと見ている証拠だ。やっぱり、きっと、本当に好きなのだ。
なんだか、わたしの片思いなんて、どうでもいいような気がしてきた。かなしいし、せつないけれど、生きていると、自分じゃどうにもならないこともある。アランに返事を書きたくても書けない、みたいなことだ。
いやな女の子にだけはなりたくない。自分の恋をつらぬくために、誰かを傷つけるみたいなことだけは、絶対にしたくない。それが大事な友達ならなおさらだ。まあ、わたしの場合、そんな労力を費やしたところで、行き着く先は見えているわけだし。
……まあいいか。もう、いいや。
WJに好きになってもらえなくても、友達として仲良しでいられるならそれでいいじゃない。すぐにはうまくわりきれないけれど、自分の気持ちをおさえるくらいはできるだろう。だってわたしはピエロのパパの娘だもの。ピエロで上等、もう芸人一家のプライドにしがみつくしかない。
仲良しの友達のふりを続ければ、そのうちにわたしの気持ちもおさまってくるかもしれないし。
ふうっと、息をつくと、ほんとうに落ち着いてきた。それで、おだやかな気持ちで話しかけることにする。
「あなたがデイビッドの家の寝室に飛び込んで来た時、すっごくびっくりしたんだよ。キャシーを助けに行って、ミスター・マエストロにやられたの?」
肩越しにキッチンを振り返ると、WJが鍋をかき混ぜていた。眼鏡が真っ白に曇っていて、笑える。だからわたしが声を上げて笑うと
「いまの質問が、どうしてそんなに面白いの?」
「あなたの眼鏡が曇ってるから」
「いつもこうなるんだよ」
指で眼鏡を拭いてWJも笑う。
「質問の答えはイエスだよ。きみがキャシーの家に行ってみてくれっていうから、そのとおりにしたんだ。彼女のママがアパートの前でおろおろしていて、どうしたのか訊ねたら、ランドリーに行ったきり戻らないって。あそこは一階がランドリーになってるし、しょっちゅうパトロールカーが行き来してるポイントだから、洗濯物はいつも頼んでたっていうんだ。それが、ランドリーにもいない」
それでパンサーは捜しまくる。途中、ちゃちなスリを、パトロール中の警官に引き渡し、覚えのあるギャングのいそうなビルやアパートを捜しまくった。その時あらわれたのがミスター・マエストロだ。もう、朝日がのぼる寸前のことだったらしい。
「ミスター・マエストロが助けに来てくれたのかと思ったよ。だってそうだろ? 超有名なヒーローだったんだ。でも、ぼくのことを邪魔に思ってるような攻撃をしかけてくる。ぼくは敵と判断して、なんとか応戦したけど、笑えないほど強いんだ。なんとかやりとりしているうちに、だいたいの検討がついてきてね。ミスター・マエストロがヴィンセントと手を組んでるらしいこととか、目的はキャシーのパパをおびき寄せるためだってこととか。つまりキャシーが誘拐されたってことも予想がついた。だからぼくはやられたふりをして、空から落ちて見せた」
「わざと?」
「わざとだよ。ダメージは受けるけど、ミスター・マエストロがどこへ行くのか知りたかったから。で、地面にはいつくばったぼくの背中に、三発の弾丸がめりこんだ」
ショックで心臓が止るかと思った。でも、WJは笑って
「コスチュームは特殊素材で、伸縮自在だけれど、固形物がかすりでもすれば、鋼鉄並みな固さになるんだ。だからもちろん、めりこんだだけ。それでもぼろぼろにはなるけどね。で、まあ。ミスター・マエストロは立ち去って、ぼくはあとを追う。北西の工場街までつきとめて、ひたすら捜しまくったよ。閉鎖された繊維工場の地下にキャシーがいて、やたら品の良さそうな男が七人、静かにしゃべりながら座って、カードゲームをしていたのがドアのすき間から見えた。それで、目的がだいたいわかったし、いったん引き返すことにしたんだ。無茶をしてもキャシーが危なくなるだけだからね。それに、彼らはギャングじゃない。どちらかといえば雰囲気は殺し屋、みたいな感じだったな。スーツも高級で、キャシーには不気味なぐらい親切にしてた。でも、ああいうやつらがほんとうに怖いんだよ。金でなんでもするからね」
ミスター・マエストロは、ドン・ヴィンセントに、資金を、とかなんとかいってたんじゃなかったっけ? ということは、ミスター・マエストロの仲間、かもしれない。
「その場から離れた時、ミスター・ワイズが目隠しをされて、車から降りるところを空から見たよ。くっついていたのは、やっぱり似たようなタイプの男で、ぼくはもう一度工場の地下へ引き返したんだ。それで、話している内容を聞いたよ。時間を止めるとかなんとか、話していた気がする」
WJのことばが途切れる。少し沈黙したあとで
「……そのために必要な物質の在処がどこなのか訊くために、キャシーを誘拐して、彼女のパパを誘い込んだんだよ。助けられなくはなかったけれど、ぼくはかなり迷って、でもまたその場を離れてしまった」
「無茶をしたら、キャシーとパパも危ないからでしょ?」
WJの眼鏡越しの目が、わたしをとらえる。ちょっと皮肉っぽい笑みを浮かべてから、すぐに真顔になって視線を落した。
「……きみにはいうけど、引き返した理由はほかにもあるんだ。ほんとうのことをいえば、ビクついたんだよ」
「え?」
「ぼくの相手はギャングの小者、みたいなやつらばっかりだったんだ。こっちがつつけば、向こうはすぐに倒れてくれる。そういう相手ばかりだったんだよ。でも、そうじゃない相手に向かったことはない。そもそもはニュース番組で、パフォーマンスするのが目的のパンサーだ。それが本気で本物みたいなのにぶちあたって、ひとりじゃ無理だと怖じ気づいたんだよ。……いや、違うな。そうじゃないかも」
WJがうつむいた。
「相手がミスター・マエストロなら、こっちも加減せずにすむ。向こうも普通じゃないからね。だけど、そうじゃなければ、加減の仕方がわからなくなるかもしれない。自分にビクついたんだ」
殺してしまう、ということかも。背筋にぞわりと悪寒がたったけれど、わたしはなにもいわなかった。
「カルロスに相談しようと思って、その場を離れた。それで、ミスター・マエストロにまた再会したわけだよ。あとはわかるよね? あのとおり、ぼろぼろだ。でも、ぼくには特技があるから。試したことはなかったけれど」
「特技?」
WJが固い表情でいいよどむ。しゃべりたくなさそうだ。だからわたしは話題を変える。
「……わたし、フェスラー家のイベントに呼ばれて、そこでドン・ヴィンセントとミスター・マエストロがしゃべってるのを聞いちゃったの。大人の内緒話ってやつよ。ワイズ、ワイズって何度もいうから、キャシーのパパやキャシーのことじゃないって思いたくて、電話したけどいえなかったんだ」
話が方向転換したことで、WJが安堵したように息をつく。
「ああ。それで、ぼくにも電話したんだね?」
「そう。あなたなら、わたしがどうすればいいか、アドバイスしてくれると思ったから」
「どうしていわなかったの?」
「……いえばよかったといまはすっごく後悔してるよ。でも、あの時はわたしの勘違いかもしれないし、とにかくヘンなことに、誰も巻き込みたくないって思って。でも、結局巻き込んじゃった」
うつむくと、WJがこっちを見ている視線を感じた。
「きみは悪くないんだよ、ニコル」
顔を上げる。WJは微笑んでいた。
「悪いやつはほかにいるんだ。きみじゃない」
腕を組んで、コトコトと煮立つ鍋を指し
「……たとえば、ぼくの眼鏡を曇らせるスープとか」
ジョークのつもりらしい。プ、と笑ったわたしは
「面白くない」
WJは肩をすくめて苦笑した。
「うん、わかってる」
けれどもすぐに笑みを消して、
「臆病者なんだよ、ぼくは。全然ヒーローなんかじゃない。ときどきほんとうに、デイビッドだったら良かったのにと考えるんだ。彼のほうが向こうみずだし、彼だったらあの時、引き返したりしなかったはずだし、自分をおそれたりもしないだろうし。わからないけどね」
また自分を責めている。それはWJが優しいからだ。
「うーん、それはどうだろうな」
わたしは椅子の背もたれに腕をのせて、おおげさに顔をしかめてみる。
「恐がりなほうが冷静に判断できるって、保安官はいってたよ」
「保安官?」
「パパが大好きなドラマがあるの。わたしもつられて見ちゃうんだけど。保安官シリーズ、知らない?」
WJは軽く首を振る。
「発信器のアイデアは、実は保安官なんだよ。それにいっぱい名言を吐くの。さっきいったこともそうだし、あとは、例えば、二丁拳銃をくるくるってして、悪党にいうの」
わたしは目を細め、悪党をねめつける保安官の顔真似をして、声を低くし
「おれの命中さばきは神からの贈り物だ」
顔も声も戻し
「とかね」
わたしが自慢げに肩をすくめると、WJがはははと笑った。
「似てるかどうかはわからないけど」
「……保安官が部下によくしゃべってるよ。人生で乗り越えられないことなんてない。誰にでも平等に、その人に乗り越えられるだけの苦難があたえられるんだ、って。それも贈り物なんだって。それにぶちあたるたびに、人は強くなったり、優しくなったりするみたい。そういってた」
いいドラマだね。WJはそういって、微笑んだ。でもごめん、これは嘘だ。アランが死んじゃって、後悔しまくって泣きじゃくるわたしに、パパがいってくれた言葉だ。でも、WJはドラマを見ているわけじゃなさそうだから、まあいいだろう。
子どもだったわたしには、ことばの意味がわからなかったけれど、パパの優しい気持ちがしみこんだことを覚えてる。だからこれは、わたしが大事にしまってる魔法のことばだ。
「……贈り物、なのかな」
WJが少しうつむいて、ひとりごちた。
ミステリアスでセクシーな姿よりも、わたしはいまのWJのほうが好きだ。どっちもWJなのだから、眼鏡ひとつで判断するのもおかしいけれど、寝癖で、ちょっと冴えなくて、だけどちゃんとキャシーを見ていて、わたしに優しくしてくれる、友達のWJが好きなのだ。だからわたしにできることは、元気づけたり、励ましたりすることだ。気を惹こうとしてむくれたり、彼を避けて傷つけたりすることじゃない。
わたしはくいっと鍋を指す。にやりと笑って
「あなたもなにも悪くないよ。悪いのはそれでしょ?」
キッチンの壁にもたれていたWJは、声を上げて笑ってくれた。
★ ★ ★
テーブルに料理が並ぶ。サラダにオニオンスープ、パンにチキン、どれも最高においしそうだ。
でも、セットされたのはひとり分、つまりわたしの分だけで
「食べないの?」
「あとで食べるよ。ぼくのことは気にしないで」
髪をかきあげたWJが、ソファの荷物を床に置いて、肘掛けにあるブランケットをつかみながら、眼鏡をローテーブルに置く。昨日見たあの姿が、どさりとソファに沈む。
「少し眠るから」
ブランケットをひっぱって、こちらに顔を向けたWJがまぶたを閉じた。
「妙な気配がしたらすぐに起きるから、安心して」
……うう。できれば背もたれ側を向いてほしい。でなければわたしの視線が、そっちに釘付けのままで、全然食事がすすみそうにないんだもの。
もぞ、っとブランケットに顔を埋めたWJが、あの大きくて鋭くて美しい瞳を閉じたまま
「おいしい?」
ふいに訊かれて、あわててスープを口に運ぶ。甘いオニオンに香辛料がきちんとしみていて、ママの味に似ている。
「うん、おいしいよ」
よかった。そういって、WJは静かになる。
ひとりきりの食事だ。外からかすかに聞こえるクラクションの音を、ぼうっと聞きながら、わたしはずうっと、WJを見つめ続けた。いや、これはダメだ。いますぐ視線をそらそう。もう見ない、もう見ない。
と、ごそり、とWJが寝返りをうった。こちらに背中を向けて
「……ありがとう」
びっくり。まだ起きていたらしい。
「え?」
「……うまくいえないけど、きみとしゃべってると、いつもいい気分になるんだ」
またそういうことをいうし。でもそろそろ慣れるかも。いや、慣れてきたかも? とか思い込むことにしよう。
WJが眠りはじめたみたいだ。わたしはゆっくりと、料理を食べる。食べ終えてからキッチンで食器を洗い、本格的にレポートに取り組むことにする。
WJは眠っている。こちらを向いた背中が、胎児みたいに丸まっていて、肩がかすかに上下している。
自分を怖がるヒーローは、普段は冴えない男の子だ。だけどとっても優しいわたしの友達。それ以上でも以下でもない。きっと永遠にそうだろう。
ため息をつきながら、教科書をめくりながら、わたしはもうWJを見ない。一生懸命に文字を追い、レポートにペンを走らせる。
走らせながら、かなり後悔していた。
やっぱりさっき、手をつないでおけばよかったな。
あんなこと、最初で最後かもしれなかったのに。