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SEASON1 ACT.19

 ふたたび車に乗り、芸人協会から五ブロック西にある、クラークパークに面した病院へ向かう。一面灰色の空から、とうとう小雨が降りだした。

 病院の駐車場へ車を停めたマルタンさんが、

「悪いけれど、ここからはきみたちだけで行ってくれ。おれはまだ仕事が残っているし、例の荷物も運ばなくちゃいけないからな。三時間ほどで戻るよ。WJ、大丈夫だろ?」

 助手席から降りたWJが静かにうなずく。わたしはごくりとつばをのみこんでから、一瞬パニックにおちいりそうになった。でもパニくらないよう大きく深呼吸する。

 マルタンさんを見送ってから病院へ入る。受付でキャシーの病室を訊ね、エレベーターに乗って四階で降りた。

 病室の前には、ふたりの警官が立っていた。WJが礼儀正しく会釈したので、わたしも真似する。ドアの窓越しに、こじんまりとした個室が見える。正面に窓、左側の壁に沿うように、ベッドヘッドが寄せられてあり、枕をクッション代わりにして、身体をあずけたキャシーがいた。ドアを開けて、飛び込むようにわたしが入ると

「ああ、ニコル!」

「キャシー!」

 水色のパジャマ姿で、キャシーは腕を伸ばす。大きな目の下は疲労のせいかおちくぼんでいて、ただでさえ細めの身体が、もっと痩せて見えた。右腕に点滴が注入されていて、頬に小さな痣ができている。それに、額には傷があったのか、手当されてあった。

「……ああ、ああ、ああ! 女の子なのに! 傷が、傷が!」

「平気よ。すぐに治るもの。ねえ、あなた髪切ったのね!」

 ……そう、自分の意志に反して。でもこれはいわないでおこう。

「似合ってるし、すっごくいいわ」

 キャシーが微笑む。そして、わたしの横に立っているWJに

「来てくれたのね! ありがとう」

 WJは髪をくしゃりとやって、いつものようにもじもじとうつむく。そういえばアーサーがいない。

「アーサー来てない?」

「あ。来てくれてるわ。フリージアを買って来てくれたんだけれど、花瓶がないから、瓶を捜しに行ってるの。ちょっとびっくりしちゃったわ。わかるでしょ?」

 わたしもびっくりだ。アーサー、すごい。あんなポーカーフェイスで、どうやって花を買ったんだろう。それよりもいつの間に「闇の騎士シリーズ」を読んだの? フリージアはロルダー騎士が、ジュリエッタ姫に贈る花なのよ! わたしのこっそりアドバイスを、アーサーは参考書並みに、すみずみまで活用するつもりらしい。

「ママもいたんだけれど、警察が訊きたいことがあるって連れて行っちゃったの。ああ、すっごく嬉しい。会いたかったわ!」

 ふたたびわたしたちは抱き合う。ゆっくりを身体を離して

「……キャシーも訊かれるの? 警察に、いろいろ?」

 キャシーはげんなりしながら戸口を見やり

「もう訊かれたわ。たぶんまた訊かれると思う。それで、なにが起きたかっていうのは、ほんとうはあなたたちにもすっごくしゃべりたいんだけれど、だめみたいで。新聞にも載ってないみたいだから」

 無事ならそれでいい。それに、あとでたっぷりWJかマルタンさんに訊けばいいのだし。

 ゆっくりと病室を横切ったWJは、窓際に立って、ぼうっと景色を見下ろしはじめた。わたしはベッド脇の椅子に腰掛けて、キャシーの左手を握る。キャシーのきれいな肌が黒ずんでいた。それにやっぱり傷が気になる。額にそうっと指を添えると、キャシーは微笑んだ。

「もう、ほんとうに、ほんとうに無事で良かった」

 しゃべっているうちに泣きそうになってきた。

「あなたのパパは?」

「違う病室にいるの。大丈夫よ」

 そういって笑うキャシーが、なんとなく痛々しくてかなしくなってくる。

「……そういえば、デイビッドは?」とキャシー。

「しばらく学校を休むみたいだよ」

 そう、とキャシーはつぶやいてうつむくと、なぜかくすりと笑みを浮かべた。

「なに?」

 とたんに、キャシーがくすくすと笑い出す。

「……パンサーが、というかデイビッドだけど。彼が助けてくれたんだけど。まあ、これはしゃべっても平気だと思うからしゃべっちゃうわ。わたしを外へ連れ出した時、いざ飛ぶ、みたいな場面になったの」

 わたしは思わず、窓際のWJに視線を向けてしまった。ぴくりともせず、同じ恰好でたたずんでいる。

「……うん。で?」

「それが妙なの。さんざんわたしをデートに誘ってたくせに、そんな時になって躊躇するのよ? ほら、わたしを抱きしめなくちゃ飛べないじゃない? なんとかそういう恰好になったんだけど、そのまま飛ばれたらわたしが落っこちそうなくらいに、びくついて抱くのよ」

 あ。WJの耳が赤くなった。

「だからわたしいったの。デイビッド。この際どうでもいいから、しっかりわたしを抱きしめなさい! って。で、やっと飛んだ、ってわけ。でもわけがわからないわ。急にシャイ、みたいな感じになったんだもの」

 WJの顔が、もう耳と同じ色になっちゃってる。

「……そう。きっとさ、照れちゃったんだと思うな」

 なんとか笑顔を浮かべていうことができた。だけどわたしの心の中は、もう外の景色よりもどしゃ降りだ。

 話をそらしたくなって

「……ともかく。あなたが無事で良かった。……まあ、傷もあるし、完璧に無事ってわけじゃないけど」

 キャシーは左手を伸ばして、わたしの頬をさすってくれる。なんて冷たい手だろう。

「……いろいろあったし、すっごく怖かったけど、実はわたし、今回のこと、そんなに悪かったって思ってないの」

「え? どうして?」

「……あなたには、あんまりパパのことしゃべってなかったと思うんだけど。実はママと、三年前に離婚してるの」

 知らなかった。

「どうしていってくれなかったの?」

「いうほどのことじゃないって思ってたから。わたしの中では整理ができていたし、もちろん週末なんかは一緒に過ごすこともあったけど、あんまりパパのことを考えたくないっていうのもあって。ほら、しゃべっちゃうと思い出しちゃって嫌な気分になったりするでしょ? だからわたしが、無意識のうちに避けてたんだと思う。パパにも新しい恋人がいたしね。でも」

 キャシーの笑みはおだやかだ。少し視線を落して続ける。

「こんなことがあって、ママとパパが、ちょっと戻るみたいな雰囲気になってきてるの。これって、悪くないでしょ?」

 にこっと笑った。そこへアーサーが戻って来る。ゴミ箱からあさってきたのか、コーラの瓶にフリージアが生けられている。どこに飾ったらいいのかとうろうろしはじめ、

「ありがとう。ここがいいわ。フリージアの香りって大好きなの」

 ベッド横のサイドテーブルをキャシーが指すと

「おれも好きな花だ。きみたちは知らないかもしれないが、おれにはとても好きなコミックがあるんだ。そのストーリーの中でこの花は、ロルダーという名の騎士が、ジュリエッタ姫に贈った花だ」

 すごすぎる。照れもせずにいいきった。うっそ、とキャシー。信じられない、とつぶやいて

「……あなたもキャロル・スイートのファンなの?」

 キャロル・スイートとは「闇の騎士シリーズ」の作者の名だ。アーサーはすっくと背筋を伸ばし、眼鏡を指で上げて、顔色ひとつ変えずに

「とても華やかで、心温まる絵とストーリーだと思っている」

 わたしに遠慮することもなく、すっきりと断言した。キャシーはいっきに興奮して「そ・の・と・お・り・よ!」と叫ぶ。

 さすがだよアーサー。多少棒読みっぽくもあるけれど、あなたには間違いなく、潜入捜査の素質がある。役者の素質はやっぱりなさそうだけど。そしてわたしは、そんなあなたを見習いたいよ。……いろんな意味で。

「雨のせいかな。暗くなってきたね。ぼくらは帰るよ」

 WJがわたしを見た。わたしもうなずいて見せる。明日また来ると約束して、いっきに盛り上がったキャシーとアーサーを残し、病室を出た。おかしなことに、わたしはわけのわからない罪悪感におそわれていた。WJもキャシーを好きなのに、アーサーにキャシー獲得のアドバイスをしてしまったことが、ちょっとばかり悔やまれてきてしまったのだ。

 いまのわたしみたいな気持ちを、WJも味わってるのかも。だとしたらかなりせつないはず。だいたい、アーサーがわたしのアドバイスを活用しまくって、キャシーとつきあうことになったとしても、WJがわたしを好きになる確率は、万にひとつもなさそうなのだ。だから、アドバイスしたことを黙っているのは、フェアじゃないし、気持ち悪いことこのうえない。

「……ごめんね」

 え、とWJ。廊下を歩きながら、きょとんとした顔でわたしを見下ろし

「なにが?」

「……アーサーに。実はそのお。キャシーの好きなコミックのことを、しゃべっちゃったの。アーサーはすごくがんばってたし、わたしを助けたりしてくれたから。ちょっと応援したい、みたいな気持ちになっちゃって」

 ああ、とWJが微笑んだ。

「べつにいいよ。どうしてきみが謝るの?」

 だって。

 救出する目的だというのに、キャシーを抱えて飛ぶことを、躊躇したじゃない。だけどわたしはがっしり、思いきり抱えられたわけだ。この違いに気づかない人は、そうとうの鈍感だと思う。

 ということをいいたかったけれど、なにもいわずにただ笑った。

 

★ ​★ ​★

 タクシーで、いまや悪魔だらけの魔界並みにおそろしい、あのマンションへ向かう。けれどもなぜか、その一ブロック手前で、WJがタクシーを停めてしまった。ブロックの角に食料品のストアがある。

 先にタクシーを降りたWJが、わたしを振り返って

「食料を買わなくちゃね」

 ストアへ入り、カートを押して、WJがさくさくと野菜やパンや果物類を入れていく。ものすごく手慣れている。そうか、ずっと家族と住んでいると思っていたけれど、WJはひとり暮らしなのだ。

「自分で料理を作ったりするの?」

「作るよ。ああ、そうか。いままで内緒にしていて悪かったよね。もう聞いたんだろ? ぼくがその……」

 孤児だってことは知らないふりをしたい気持ちになって

「家族と離れてるってのはデイビッドに聞いたよ。でもときどき会ったりしてるって」

 WJはにこっと笑っただけだ。

 お菓子コーナーで、コミック化されたパンサーの顔つきスナックを見つけてしまった。ものすごく不思議な気分。そのパンサーはいま、食料を買うために、カートを押しているんだもの。

 母親に手を引かれた男の子が、パンサースナックが欲しいと駄々をこねはじめる。おまけにカードがついていて、それを集めたいらしい。目玉をぐるりと回した母親が、カートにスナックをおしこめた。ミスター・マエストロだってそういう存在だったのだ。わたしもママに駄々をこねて、葉巻型のチョコをよくねだったものだ。なのにいまやギャングの味方。いまさらだけれど、ものすごく残念な気持ちになってきた。

 レジに向かう親子を眺めているうちに、WJとはぐれてしまった。そんなに広い店内でもないので、WJはすぐに見つかる。そばに行こうとしたその時、ふいに背後からぐいっと肩をつかまれた。振り返ると、無精髭を生やした若い男性が立っていた。

 いま起きたばかりですみたいな、くしゃくしゃのブラウンの髪で、瞳もブラウンだ。彫りが深くて、肌は少し浅黒い。スパニッシュ系にもイタリア系にも見える。二十代前半くらいで、大学生っぽい風貌。正統派ではないけれど、なかなかにハンサム。肩から大きなバッグを下げている。一瞬またもや特殊メイクのデイビッドかと思ったけれど、デイビッドよりも背が低いので、とっさに違うと判断する。それに、よれよれのジーンズにシャツ、肘あてつきのジャケットを着ていて、ホルスターも見えないから、警官でもギャングでもなさそうだ。

 このあたりにはホテルもあるから、旅行者かもしれない。きっと道に迷った旅行者だろう。

「はい?」

 彼はなぜか、ひとさし指を口元にあてて

「ちょっと訊きたいことがあるだけだ」

「……はあ」

 旅行者にしては妙な口調だ。彼はわたしの腕をゆるく引っ張って、スナックコーナーの影に隠れるようにして立ち

「昨日からきみをよく見かける。デイビッド・キャシディの家に出入りもしているね。同級生?」

 なんなんだ?

「……はあ。まあ」

「昨日、警察がかなり動き回っていたことを知ってるかい?」

 探るような目でわたしを見つめ、ジャケットのポケットをまさぐりはじめた。わたしが答えずにいると、彼はにやりと意味深な笑みを見せた。

「どうして警察が動き回っていたのか、なにか知ってるんじゃない?」

 え?

「……なんなんですか?」

 ポケットから、カードを出す。わたしに差し出して

「ヴィンセント・ファミリーの動きがヘンだからね。それにミスター・マエストロの姿もあらわれはじめてる。でも、新聞にはいっさい載っていない。市民には知る権利があるというのに、おかしなことこのうえないと思わないかい?」

 カードは、名刺だ。

「デイビッド・キャシディと仲良しなら、知ってるだろう? なにが起きてるのか、どう?」

 ニューズ・ウィーク紙、編集部、ジョセフ・キンケイド。

 ジャーナリストだ。

「わた、わた、わたしはなにも」

「いいんだよ。でもなにか話したくなったら連絡してくれ。きみからの情報だと誰にもわからないようにするし、お礼にギャラも払うから。それで好きな物も買えるよ。こづかい稼ぎだ」

「すみません」

 ジョセフ・キンケイドの背後に、カートを手にしたWJが立った。眼鏡越しのちっちゃい瞳は、あきらかに鋭い、ような気がする。ジョセフ・キンケイドはわたしとWJを交互に見て、またもやにやりと微笑み、わたしの肩をぽんと軽くたたいて、スナックコーナーから立ち去った。

 WJはほうっと息をついて

「いまの誰? どうしてきみはそう、うろうろするの?」

「うろうろなんてしてないよ。ただちょっとぼんやりしてたら、あの人が」

 名刺をWJに渡す。受け取ったWJは、眉根を寄せた。

「……キンケイド」

「昨日警察が動き回ってただろうって。わたしがなにか知ってるみたいにいってたけど。もちろんしゃべらないわよ。なんにも!」

 名刺から顔を上げて、WJはため息をつく。

「気づいてないかもしれないけど、きみは隙がありすぎるよ、ニコル。ぽかーんとしてたり、誰かにすぐくっついて行ったり」

 初耳だ。

「えっ、そうなの?」

「ほら気づいてない。これからは絶対にひとりにならないで。ぼくと一緒の時は、ぼくのそばにくっついていてよ、頼むから」

 WJの耳は赤くならない。いたって正常きわまりない。

「……はーい」

 ちょっとむくれて答える。名刺を自分のジーンズのポケットに押し込めたWJがレジに向かう。歩きながら

「はじめて見た顔のジャーナリストだよ。若かったよね。イタリア系の顔。そして名字はキンケイド」

 ……そういえばどこかで聞いたことのある名字だ。でもどこだったのか思い出せない。

「……ニコル。たぶん彼は、キンケイド・ファミリーだよ」

 そうだ。

「キンケイド・ファミリー。港側を仕切ってるギャング!」

 し、とWJが口に指をたてた。

「違うかもしれないけどね。あとでマルタンに訊いてみよう」

 カートを押しながら、ふいにすうっと、WJが左手を差し出した。

「……なに?」

「握って」

 え! それって、手をつなげってこと?

「に、に、に、に」

 握れない。だからぱちん、と手を叩く。

「わ、わかったから。あなたにくっついて、ひとりにならなければいいのよね? でしょ?」

 まるでちっちゃい子ども扱いだ。WJはくすっと笑って肩をすくめる。

「そのとおりだよ」

 耐えられない。これってなんの罰ゲームなわけ? 真面目に地味に生きてきたのに、ひどすぎるよ、神さま。

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