SEASON1 ACT.17
午前中にピエロの恰好で訪れた、デイビッドの二件目の部屋の前には、スーツ姿の男性がふたり立っていた。特殊メイクのデイビッドをものすごく警戒したものの、デイビッドがスーツの胸ポケットから、身分証みたいなカードを出してかかげるとうなずく。
デイビッドがドアを開けたので、わたしもぼうっとなりながら、中に足を踏み入れた。デイビッドにいわれたことばがぐるぐるしていて、それ以上にいろんなこともぐるぐるして、混乱しまくっていた。
デイビッドが、高価そうな調度品のならぶ高い天井の通路を歩いて行く。わたしもよろよろと無心でついていく。ジェームズ・ボンドばりな黒いジャケットを脱いだデイビッドは、誰もいないリビングのテーブルに近づくと、そこに置かれてある数枚の用紙を手に取る。
最上階に近いこの部屋の大きな窓からは、やっぱり夜景が丸見えだ。しかも、そびえるビルの群れの向こうには、海まで見える。
さっきまでいたZENのあるビルは、このマンションから見て、たぶん西側。だから、東向きの窓から、あのビルは見えない。見えるのは高級デパートやホテル、銀行だ。
つらなる窓の一カ所だけ、かすかに開いていて、冷たい夜風が入り込んでいる。さっき落ちた恐怖もあって、まともに美しい景色を見られない身体になってしまった。目をそらしながら窓に近づき、閉めようとすると
「ああ、閉めなくていいよ」
テーブルのそばに立っているデイビッドを振り返れば、書類に目を通しながら、ネクタイをゆるめていた。
「なんで? ちょっと寒いよ」
「いつもちょっとだけ開けてるんだよ」
「いつも? 暑がりなの?」
冗談まじりにいったのに、デイビッドは笑わず、書類から目を上げて、
「パンサーの玄関だから」
書類をつかんだまま背を向けて、リビングを出ようとする。
「……おれたちはもう、ここから一歩も動けないらしいから、メイクを取るよ」
ひらひらと書類を振って
「取り方が書いてあった」
そしてリビングを出て行った。
取り残されたわたしはぼんやりしたまま、壁に沿って置かれたソファにちんまり、腰掛ける。広くて、シンプルな部屋だ。誰も住んでいないみたいな、ほんとうに会議室、みたいな雰囲気のリビングだ。
ドアのある壁は、一面シックな木目のクローゼット。わたしが座っているソファの前には黒塗りのローテーブル。囲むように三脚のひとり掛けソファがあって、そのずっと向こうに細長いテーブルと椅子。あとはなにもない、テレビすらない。東側が窓なので、テーブルの向こうは北だろう。北側に面した白い壁には、大きな最新アーティストのポスターが飾ってある、それだけだ。
わたしもジャケットを脱いだ。首がくるしいので、チェックのタイをゆるめて、窓に視線を向ける。間接照明と天井から放たれる灯りは暗めで、とろとろとした眠気におそわれてきたけれど、どうしても視線が窓から離れない。たった一カ所、開けられている窓のすき間は、パンサーが戻ってくる玄関らしい。
みんなが憧れるスーパーヒーロー。空を飛んで、悪党をやっつけるヒーローを、誰もモンスターだなんて思っていない。ミスター・マエストロがいたから、わたしたちはヒーローの存在に慣れている。むしろもっとあらわれてほしいとすら、思っている。だからデイビッドは人気者だ。でも、その人気者のデイビッドはさびしいという。WJは、誰も好きにならないのだという。
わたしの毎日はシンプルで単純で、悩みもあるけれど眠って起きたら忘れてる、そんなことの繰り返しだったから、複雑すぎることにぶちあたると頭の中がぐっちゃになって、わあーっと叫びたくなってしまう。
パパやママやアーサーは、無事にあの店を出たのか、宝物とかいう物は、カルロスさんの仲間がちゃんと手に入れたのか、キャシーとキャシーのパパは、救出されたのか、ものすごく心配だ。そのうえ、勢いで突っ走ってきたけれども、冷静になればなるほど自分のしたことがおっかなすぎて、震えが止まらなくなってきた。これはじっとしているせいだ。よし、走ろう。
ソファから立ち上がって、広いリビングをぐるぐると走る。走っても平気な広さというのがすごい。このリビングだけで、四部屋こっきりのわたしの家がすっぽりおさまっちゃうかも。
と、テーブルの上の、紙くずに目が止った。デイビッドにあげたオレンジ味のキャンディの包み紙だ。それが、ちんまりていねいに、捨てられずに結ばれて置かれてある。そういえばデイビッドが、しゃべりながらいじいじとこれをいじっていたのを思い出す。
器用すぎる。ちょっと笑える。いや、だいぶ笑えてきた。
「なに?」
タオルでブロンドの髪を拭きながら、デイビッドの顔に戻ったデイビッドがリビングに戻って来た。白いTシャツの上に、グレーのパーカを羽織っていて、ジーンズを履いている。
「これ。あなたが結んだんでしょ? 女の子みたいなことするなって思って」
くすくすと笑いながら、それをつまんでかかげていると、デイビッドが近づいて来た。
「無意識だよ。そんなおかしくもないだろ」
「こんなことする男の子はいないよ。WJだって」
わたしのばか! せっかく精神がポジティブモードに変換されたところだったのに、また震えモードに逆戻りだ。……ああ。で、うつむいたあげくこんどは震える。じっとしていることに耐えられそうもない。
「ほ、ほんとになにもできることない? ほかになにかないの?」
髪を拭く手を止めて、デイビッドがわたしを見下ろす。デイビッドの髪はまだ濡れていた。ひと筋、しずくがぽとりとパーカに落ちる。
「……きみはビルから落ちたんだろ? それでもまだなにかしたいっていうわけ?」
そういえばそうだった。そのうえ、なにかしたらわたしはパンサーに「絶交」されてしまうのだ。で、がっくりとうなだれた。
「……ああ、そうだった。動いちゃいけないんだった」
デイビッドに背を向けて、いらだって自分の髪をかきむしる。もじゃもじゃとかきむしってから、ため息をついた時、この部屋があまりにも静かなことに気づいた。
音楽もない、人の気配はデイビッドのみ。外からクラクションを鳴らす車の音が、鮮明に聞こえるほど静寂に満ちている。なんとなく居心地の悪さを感じて、ゆっくりと肩越しにデイビッドを振り返ってみた。すると、デイビッドはじいっと、わたしのうなじあたりを見つめていた。わたしのうなじはミス・ルルによって、いまや無惨にも、草も生えない荒れ地のごとく、肌があらわになっている。
「なに?」
がしがしとふたたびタオルを動かし、椅子の背もたれにそれを放ったデイビッドは、視線を動かさずに腕を組んだ。
「……おれの四番目の母親に子どもが生まれたんだよ。女の子で、いまは二歳なんだけど」
はあ?
「ふ、複雑そうだね」
「ああ、まあ。元モデルだよ。去年一度だけ、バカンスに行ったモナコで会ったんだ。母親には興味ないけど、彼女が抱いてた赤ん坊がかわいくてさ。異母兄妹ってことになるんだけど。なんだろうな……」
そこで少しうつむき、考え込む。と、顔を上げてまたわたしのうなじあたりを見つめたまま
「……ああ、そうだ。ぬいぐるみなんかの、ドナルドダックの後ろ姿って見たことある?」
なんだろう、この意味不明な会話は。
「まあ。あるけど?」
いぶかしみながら、依然肩越しにデイビッドを見上げてわたしがいえば、デイビッドは組んだ右腕を動かし、あごに指をそえた。
「ドナルドダックの後ろ姿って、なんか食いつきたくなる感じない? ぷるっとしててさ」
……はあ? 首を傾げて眉を寄せると
「それとおなじだったんだよ。赤ん坊の後ろ姿が。ほら、ちっちゃくてさ、ぽてっとしてて、まるっこい感じで。で、うなじのあたりが細くてくたっとしてるだろ?」
ベビーシッターのバイトをすることもあるので、その意見はまあわかる。ミルクの甘いにおいがしたりして、守ってあげなくちゃっていう気持ちになるのだ。だけどそれとデイビッドの視線の意味が、まったく重ならないんだけども。
「で?」とわたし。
「うん」とデイビッド。ただでさえゴージャスな外見なので、真顔になると妙な威圧感がある。
「……きみはべつに太ってるわけじゃないし、ちっちゃいわけでもないんだけど、そこが」
あごにそえていた指を動かし、わたしを指す。というか、わたしのうなじを。
「似てるなと思って」
わたしは視線を落して考えた。赤ん坊みたいということなのだろうか。それはドナルドダックの後ろ姿みたいで、食いつきたくな……とまでいきあたり、慌ててシャツのえりをたててみた。デイビッドははははと笑って
「べつにおかしなことなんかしないさ」
「そ、そ、それ、あのおっかないオーナーもいったよ」
「そう? でもおれはほんとにしないよ。そんなのクールじゃないだろ。ただ、きみのうなじにキスしたいなあと思っただけ。しないけど」
ありえないことに、そこでわたしのお腹がぐうと鳴った。そういえばずいぶん長時間、なにも食べていないのだ。デイビッドは吹き出して、
「ピザでも頼むよ。外のSPが受け取ってくれるから」
冗談なのか本気なのか、わけがわからなくなってきた。
★ ★ ★
「食べれば?」
数十分後、ピザが届いた。ローテーブルに広げられたそれを、ソファに座ってじいっと眺めながら、いいのだろうかと躊躇する。
いまさらだけれども、このだだっ広い部屋には、なんとわたしとデイビッドしかいないのだった。みんな出払っていて、いまごろやっきになってなにかしているはず。なのにわたしのお腹は鳴って、のんびりピザでも食べろと訴える。
エドモンドさんの部屋にいるミスター・スネイクは、発信器の行方を追いながら、カルロスさんや仲間に無線機で指示を出しているはずなのに、わたしはピザを食べようとしてる、この罪悪感をどうしよう。
けれども、目の前に座るデイビッドは、ピザをほおばる。口元についたソースを親指でなぞりながら、
「……きみがここにいることはみんな知ってる。動くなっていわれているから、いっさい連絡できないようにしたんだ。だからおれは無線機を持ってない。気になるのはわかるけど、いちいち連絡がきていたら、きみはまたおろおろうろうろするだろ? いいから食べろよ」
もしかしてデイビッドは、わたしの監視役なのかも。視線をピザから移動させ、上目遣いにデイビッドを見上げれば、美しいブルーの瞳と目が合う。
「……パンサーは目覚めた。キャサリン・ワイズの居所もわかった。おれは大金をばらまいてる。カルロスたちはただの広報チームだけど、普通じゃないから安心していいんだよ」
「普通じゃない?」
「おれはパンサーなんだ。周りにいる人間も、それなりの人間じゃなければ対処できないこともある。全員銃を扱えるし、その辺の警官より頭も回るし強いやつばかりだよ。あのスーザンですらね」
ふと疑問に思ったことが浮かんで
「……そういえば、あなたがパンサーじゃないって、みんな知ってるの? カルロスさんの仲間、全員?」
デイビッドは首を振った。
「いいや。カルロスとマルタンとスーザンだけだよ。ああ、ローズも知ってる。それから外のSP。ドクターも知っているけど、しゃべったらヤバいことになるってわかってるし、途方もないギャラを受け取っているからしゃべらないだろうね。だってそうだろ? しゃべったら自分の大事な顧客がひとり減ることになるんだから」
「特殊メイクチームとかっていうのは?」
「知らないさ。おれをパンサーだと思ってメイクしてる」
「ジェームズ・ボンドの時は? あの時パンサーはもう飛び回っていたのよ?」
「ボンドからパンサーに化けたと思ってるだろ。あの時はリビングにまだWJがいて、そっちにもぐちゃぐちゃの寝室にも鍵をかけていたし。メイクは浴室でやってもらったからね。おれがマルタンと合流して、カルロスもあそこを出てから、パンサーが目覚めたみたいだから、時間的につじつまは合う。ねえ、いいから食えよ」
「……う、うう」
「食え」
差し出されたので、ピザに手を伸ばす。で、ほおばった。ああ、かなしいけれど、すっごくおいしい。
「しつこいジャーナリストはいるよ。そういうやつらにもカルロスは手を打ってる」
コーラを飲んで、深く身体を沈めたデイビッドがため息をついた。それから視線を落し、形の良い唇の端だけを上げて、ふっと笑みを浮かべた。それはさみしげな笑い方だった。それで思い出す。小学校の廊下で、誰の仲間にも入れずに、ぽつんと立っていたアランのことを。だけどひとりぼっちだと知られるのが嫌だったのか、かっこわるいと思っていたのか、アランはちょっと微笑んでいたのだ。その笑い方に、すごく似ている。
「それって、あなたのために手を打ってるんでしょ?」
わけのわからない不安におそわれて、訊く。
デイビッドは笑みを消し、わたしを見つめる。
「ブランドのためさ」
「でも、ただの仕事ってだけで、そこまでするとは思わないけどな。いまみたいなことも含めて」
「彼らの年収は普通じゃない。金のためだよ」
くわえていたピザの味がわからなくなってきた。うつむくと
「どうしてきみがしょんぼりするんだよ」
「……わからないけど。そういうふうに考えるのって、ちょっとさびしいなあと思って」
ただのわがままお坊ちゃんかと思ったけれど、違うらしい。そういう部分もたしかにあるんだろうけれど、こうしてじっくりしゃべってみると、そうではないデイビッドが姿をあらわしてくる。まるで騙し絵みたいだ。逆さにしたら別の顔、みたいな。
ふいにデイビッドが立ち上がった。いったんリビングから出て行くと、しばらくしてから二枚のブランケットを抱えて戻って来る。リビングの電気を消して、間接照明をひとつだけにすると、ソファに座っているわたしを見下ろして、なにもいわずにブランケットを差し出した。わたしはパンサーの玄関を見て、
「ありがとう。うん、ちょっと寒くなってきたもんね」
と、デイビッドがゆっくり、わたしの隣に腰を下ろす。長い足をソファにのせると、ブランケットを広げて、背もたれに右腕を伸ばした。あれ、と思ったわたしの身体が、すっぽりとブランケットにおおわれる。同時にもう、デイビッドの右腕がわたしの肩にまわされていて、ブランケットごと、包まれていた。それは抱きしめられるというよりも、そうっと寄り添う、といった雰囲気で、びっくりしたけれどもおかしなことに嫌ではなかった。ただ暖かいなと感じただけだ。
パンサーに抱えられた時は、あんなにどきどきして、かなしくなったというのに。それはわたしが、デイビッドをなんとも思ってないから、なのかも。もちろん、こんなことははじめてなので、鼓動は高鳴っているけれども、デイビッドに他意を感じなかったのだ。
他意、というのはまあ、オーナーにされたこと、みたいな意味なのだけれども。……ああ、ほんと。あれはいますぐ記憶から消し去りたい!
「少し眠ろう。もう遅いから」
まぶたを閉じたデイビッドの頭が、ことんとわたしの左肩にあたる。長いまつげがすぐそばにあるのに、その表情が、まるでちっちゃな子どもみたいで、なんとわたしは笑ってしまった。
「なんで笑うの」
デイビッドがささやく。
「……わかんないけど。シッター先の子どもを思い出しちゃった」
「逃げないんだね」
「妙だけど、嫌じゃない感じだから」
ふうん。そういって、デイビッドがまぶたを閉じたまま、ふいに微笑んだ。
「なに?」
「安心する」
わたしも目を閉じる。またアランを思い出してしまった。そういえばこうやって、あの屋根裏部屋で、並んでブランケットをかぶって、一緒に眠ったこともあったのだ。目覚めたらちゃんと自分の部屋で眠っていたけれど。
「……きみはひと筋縄じゃいかなそうだ。ゆっくり近づくことにするよ」
「いや、もう、じゅうぶん近いけど」
ふっとデイビッドが笑う。目尻が下がって、とたんに人なつこい寝顔になる。
「決めた。きみをぜったい、おれだけのドナルドダックにする」
ちょっとだけ、わたしの肩に置かれた手に強さが増した。
「え!」
身をすくませると、手がゆるむ。
「なにもしないっていっただろ。こうしてたいだけだよ。いいから眠って」
わたし、思いきりいやな女の子になってる気がしてきた。あっちこっちの男の子の間をふらふらする、思わせぶりな女の子だ。わたしにはありえない、雲の上の女の子たちのすることだったのに。焦って、
「ごめん、ごめん。デイビッド。わたし」
「わかってるって。いいんだよべつに。ムカついてるし、したいことは山ほどあるけど我慢できるから。そんなアホなことするほど、おれは飢えてないよ。いいから黙って。目を閉じて」
わたしは固まる。けれどもデイビッドは、すうっと静かになった。やがてそれが寝息に変わる。
デイビッドの気まぐれだろう。もしくは、普段接している、オシャレでモデルみたいな女の子とはあきらかに違うわたしが、珍しいだけなのかも。ジェニファーはどうかと思うけど、デイビッドと仲良しな女の子はほかにもいるし、みんなとっても目立ってきれいなのだ。いや、キャシーほどじゃないけれどね。まあ、どちらにしてもそのうちに、あっけらかんと「そうだっけ?」みたいになる気もする。
わたしも目を閉じる。それで、ああ、と思ってしまうのだ。好きとかそうじゃないとか、そんなことはおいておいても、親しくはなってしまったのだ。もう知っている、だけではすまされない。
ああ。
ああ、また守りたいと思う友達が、増えちゃった。
★ ★ ★
カタン、と物音がしてうっすらとまぶたを開けた。いつの間にかすっかり眠っていたらしい。いまやデイビッドの頭が、わたしの左肩あたりに固定されていて、ちょっとしびれている。
鼻までひっぱったブランケットから、物音のした方へ視線を向けた。ぐいと窓を引き上げたパンサーが、窓枠にしゃがんでこちらを見ていた。びっくりして、なぜかわたしはまぶたを閉じ、眠っているふりをはじめてしまう。
そんなふりをする必要なんてないのに。それに、みんながどうなったか知るために、起きて声をかけるべきなのに。
どきどきと大きく波打つ自分の鼓動が、静かな部屋にひびきそうでおそろしい。
パンサーは窓から部屋に入ると、静かに窓を下げる。その気配が伝わってくる。そうっとまぶたを開ければ、もうこちらに視線はない。手のひらにフィットした黒いグローブをくわえて取り、サングラス装備のマスクに手をかける。ぐいっとそれを取った横顔が、間接照明の灯りに浮かび上がる。その瞬間、わたしは息を止めてしまった。
あれはWJなんかじゃない。
あんな人、わたしは知らない。
傷ついている姿を見たし、ベッドに横たわる姿も見た。サングラス越しの瞳も、うっすらとだけれど見たはずだ。けれども、きちんとした輪郭で、眼鏡をはずしたWJを見たのは、はじめてなのだ。
黒っぽいブラウンのラフな短い髪は、少しくせ毛まじりで、額にかかっていた。濡れたような灰色の瞳は大きくて、本物の豹のように鋭い。ミステリアスで端正な横顔、一度見定めたら決して獲物を逃さない、そう決めているかのように結ばれた唇。
パンサーはまっすぐに、クローゼットへ向かいながら髪をかきあげた。かきあげた右手をふらりと揺らした時、パチリ、と音をたてて、一瞬照明が消えかかる。おっと、とつぶやいて、マスクを持った左手で右手をぐっとおさえる。ひどく辛そうにまぶたを閉じ、ふうっとゆっくり大きく息を吐く。それからふたたび、マスクをかぶった。
気づいたデイビッドの頭が、わたしの肩から離れた。わたしはまぶたをぎゅうっと閉じる。
クローゼットを開ける音がする。起き上がったデイビッドが
「終わった?」
「いいや、まだだよ。けっこうヤバい」
なにかをまさぐる音がする。カチリとなにかをはめこむような音もした。武器かなにかだろうか。
「取りに来ただけだよ」とWJの声。
「キャサリン・ワイズは?」
「大丈夫。ミスター・ワイズと一緒にいま病院にいる」
……良かった!
「アーサー・フランクルとか、彼女の……」
デイビッドがいうと
「芸人協会のビルに戻ってる。ローズがうまく立ち回って、外へ連れ出したみたいだよ」
……ああ、本当に良かった!
「C2Uがヤバいんだ。ひと足遅かった」
「遅かったってなにが?」
「エキゾチックな物質とかいうやつだよ。もうヴィンセントに渡ってる」
「……なら手を引くしかないな。これ以上つっこむのは危なすぎるだろ?」
はりつめた緊張感が漂う。沈黙が続いて
「……たしかにそうかもね。でも、ミスター・マエストロをずっと見てないんだ。北西の工場街地下にキャシーや彼女のパパがいたんだけれど、ギャングすらひとりもいない状態で、不気味すぎだよ」
デイビッドのため息が聞こえた。
「いや。いったんゲームアウトだ。渡ってしまったのなら、今日は手を引こう。カルロスに伝えておく」
また静けさに包まれる。しばらくしてから、わかった、とつぶやくWJの声が聞こえた。
「警察は?」とデイビッド。
「ワイズ家から引き上げてる。くわしいことはよくわからないな。カルロスたちはあっちの部屋に戻ってる。……きみがそういうなら、とりあえずぼくも戻るよ。明日は物理のレポートの提出日だし」
……すっかり忘れていた。わたしも歴史のレポートの提出日だ!
「眠ってるの?」とWJ。わたしのことだろう。
「眠ってるよ」とデイビッド。
また妙な間があく。するとWJが
「……好きになった、とか?」
「……だったら?」とデイビッド。
ありえない会話だ。その中心人物が自分だとはどうしても思えない。意味不明な沈黙が続いたあとで、WJがつぶやく。
「……そう。まあ、そういうことは、ぼくには関係ないから」
え。
「……ともかく。きみはしばらく外へ出ないほうがいいよ。いままでとは違う感じがするから」
しゃべる声が遠ざかっていく。そして気配が消えた。
わたしの頭の中が真っ白になる。身体中の血管が、耳に集中しているみたいになって、どくどくと自分の心臓の音しか聞こえなくなってきた。
……ぼくには関係ないから。
……ぼくには関係ないから。だって。
べつにどうでもいい、みたいな感じの口調だった。わたしとデイビッドがつきあおうが、関係ない。そんな感じの声だったのだ。
キーホルダーだったら良かったのにとか、似合っているねとかいったくせに「ぼくには関係ないから」。それだけ。
ええい、眠ってしまえ、ニコル。わたしはすごく疲れているし、みんなの無事もわかったのだから、もう心配することなんてなにもないはず。眠って、レポートをどうするか考えることに意識を集中するべきだ。だけどどうしても、WJのいった言葉が胸につきささって離れない。ただの友達なのだから、WJにとってそれはあたりまえのことばだろう。でもせめて、なにかほかにいってほしかった。……まあ、それがなんなのか、わたしにはわからないけれど。
デイビッドのいったことは、本当かも。
WJは誰も好きにならない、というやつ。
だけどどうだろう。キャシーのことは、絶対好きなはずなのだ。それは感情をおさえているということになるのかな。
ああ、もう! 望みのない片思いに嫌気がさしてきた。
あきらめよう、いますぐに。いまならまだ引き返せる。これはわたしのいっときの気の迷いで、勘違いで、いろんなことがあったから、意識しているだけにきまってる。
友達でいいじゃない。ともかくもWJは優しいのだし、おしゃべりだって楽しい。それで十分なはず。もう、なんだって気づいちゃったわけ? ずっと冴えない男の子の友達って位置に、黙っておさめておけばよかったのに。
……よかったのに、優しくされて、どんどん気づいちゃったのだ。自分の気持ちに。それは友達だから? 友達だから優しくしてくれたのかな。
たぶん、そうなのだ。それ以上の感情なんて、ぜったいにないのだろう。
泣きたくなってきたけれど、わたしは眠っているはずなので我慢する。我慢していたら、隣に誰かが腰を下ろした。間違いなくデイビッドだ。WJの声はもう聞こえない。着替えて、この部屋を出て行ったらしい。
「関係ないってさ」とデイビッド。
びくっとして、うっすらまぶたを開ける。デイビッドが探るような眼差しでわたしを見ていた。
「……ばれちゃってた?」
「身体中に力入れて眠る人なんていないだろ。きみが起きたことにすぐ気づいたさ。どうするか様子をうかがってたら、いつまでたっても起きないから。で? わかっただろ?」
わたしは小さくうなずく。
「……でも、キャシーのことは好きだと思うよ。で、わたしはただの友達。まあ、わかってたけど」
「キャサリン・ワイズはきれいだからさ。男はみんな、彼女とつきあいたいって思うんだよ、一度はね。ただ、普通のやつらにはあまりにも高嶺の花で、うかうか近づけない。意地になってたのはおれとアーサーぐらいなものだろ」
「WJもそうだっていうこと? 憧れてるだけって?」
デイビッドは目を細めて、きつくわたしをにらんだ。ブランケットをつかむとおもむろに立ち上がり、ばさりとわたしの頭から、覆い隠すようにそれを放る。
「おれはきみの友達カテゴリーナンバーワンになるつもりはないよ。わかったのならいい加減、その話題はもうやめてもらいたいね。WJは帰ったよ。おれときみが一緒にいるっていうのに、べつにどうでもいいみたいな感じで。着替えて、荷物を持って、あの分厚い眼鏡をかけてさ」
ぱちん、と、ソファの横にある照明を消す音がした。ブランケット越しにうっすらとすけていた灯りが、同時に暗闇に変わる。
デイビッドが遠ざかる気配がした。リビングのドアが開けられる。
「もう無理だ。相手がきみじゃなかったら、おれはとっくにクールじゃないことをしてる。我慢の限界だよ。きみはそこで眠って」
出て行った。
わたしはブランケットをかぶったまま、何度も何度も、レポートをどうしようかとつぶやいてみた。そのうちに、羊が一匹、と繰り返す、不眠症の人のように、レポートが一枚、とばかみたいに数えはじめる。数えながら、まぶたを閉じて、とうとう泣いてしまった。