SEASON1 ACT.14
たしかに化粧室はあった。ギャングのボスの次男坊は、わたしの腕を引っ張って、ここだよとドアを指す。マークはあきらかに男性をかたどっている。ということはわたしのことを、もしかして。
もしかして男の子だと思っちゃってる?
うながされるまま、ともかく入る。誰もいないので、個室にこもって冷静になるため息を整える。
ほんとうにただの親切で、ここまで連れてきてくれただけのような気もしてきた。だいたいわたしなのよ、わたし。男の子に間違っちゃってるとしても、どう考えてもアーサーのほうが美少年だ。
……でもわからない。ミス・ルルの手腕のせいで、冷静にかつ客観的に見た自分がどうなのかいまいちわからないのがいけないのだ。
「落ち着いてわたし。ここを出たらエレベーターに乗って下へ戻れるかも」
そうかな。あんな間近でなんだかいろいろいわれたのに?
「……うん、それはなさそうだ」
認めよう。たぶんわたしは、気に入られたのだ。あの、一見優しそうな、だけどあきらかにおっかなそうな、オーナーに。
「ありえない」
さんざん男の子に覚えてもらえない、地味な人生を歩いてきたというのに、こんな状況で気に入られている。……しかも相手は、女性が苦手だという、あの次男坊だ。うううと頭を抱えたまま、ややこしそうなことはひとまず忘れて、状況を整理する。
わたしには選択肢がふたつある。
1、逃げる。
2、こうなったら腹をくくる。
これはアーサーが求めていた、キャシーの居所を知る唯一のチャンスといっていいだろう。ということは、できるだけ男の子っぽく振る舞って、なんとかその情報を引き出して、即座に逃げる。それしかなさそうだ。それにわたしには発信器が……って、同じビルの中にいるのだから、なんの意味もなさないことに気づいて硬直した。
でも、わたしよりもキャシーのほうが、おっかない目にあっているに違いない。
「オーケイ、わたし。大丈夫。いざとなったらお下品なことをしてやっつければいいだけ。あの、ママがこっそりよく見てる、大人向けドラマのワンシーンみたいな感じの!」
まぶたを閉じて、途中までイメージトレーニングをしてみたけれども、実践したことなんてないので、むなしい行為に思えてやめた。
水を流して個室を出る。身なりを整えて大きく深呼吸をした時、ドアがノックされて飛び上がる。姿を見せたのは次男坊ではなく、ギャングの仲間らしい男性で
「ついて来い。もっとギャラがもらえるぞ」
いらないです。すでに腰が引けてきたけれど、がんばれわたし! そうだ、こう考えるのはどうだろう。もしもアーサーだったらどう振る舞うか、想像すればいいのではないだろうか。
背筋を伸ばして、たぶんこういう。
「それは嬉しいですね」
ああ、これだけで気力がつきた。うなだれて息を吐く。
「ラッキー少年。なんでも欲しいものいったほうがいいぜ。買ってくれるぞ」
いりません。
腕をつかまれて廊下を歩く。エレベータのドアが天国行きの改札口に見えて来た。けれども前を通り過ぎる。ああ、天国が遠ざかる。もはやこの先は……やめよう、考えるのは。
くそう、ミス・ルル! いつか会ったら首しめちゃうから。
ギャングが立ち止まる。黒塗りのドアをノックする。ドアを開けたギャングは、わたしをオーナー室に押し込めるとドアを閉めた。間抜けなわたしはそこでやっと、ある重要な点に気づいた。
そもそも逃げられないのだ。外にはギャングたちが立っていて、この部屋は二十階。窓から飛び降りるわけにもいかない。どうしよう、おそろしすぎて顔がにやけてきた。本当の恐怖を前にした時、人間は笑っちゃうのかも。カーチェイスしていた時の、パパみたいに。
ドアを背にして立っているわたしの前方には大きなデスク。その背後には縦長の窓が横に並んでいて、摩天楼の景色が丸見え。窓がかすかに上に開いていて、ゆるやかな風が入り込んでいる。立派な家具が整然と配置されていて、ガラスのコーヒーテーブルの上には、小さなアルミケースが置いてある。壁には巨大な最新アートの絵画が飾ってあり、オーナー室というよりも、まるで誰かの家のリビングのよう。もしくは高級ブティックの、お金持ちしか入れない控え室? 間接照明がリラックスムードをかもしだしているけれど、わたしは全然リラックスできない。マネキンのごとく、戸口に突っ立ったまま、部屋をゆっくりと歩いてたばこをくわえるマノロ・ヴィンセントの動きを、目で追うだけで精一杯だ。
それにしてもなんてきりだすべき? 誘拐している女の子の居場所を教えてくれだなんて、単刀直入すぎる。
「高校生だね」
いきなり、マノロ・ヴィンセントがいった。わたしを横目でじいっと見つめながら煙を吐く。
「そ、そそそ、そうです」
「名前は?」
おびえきっているわたしに問いかける声は優しい。だからおそろしい。
「ニコ……」
って真実の名前をいっちゃったらダメじゃない! 邪魔くさい一般市民の、要注意人物カテゴリーリストに、ニコル・ジェロームは間違いなくのっているはずなのだ。ええい。
「ポール、っす」
っす、ってなによ、っすって!
次男坊マノロはまたくすりと笑う。とっても楽しそうだ。わたしは全然楽しくないけれど。ああ、歩いて来た。近づいて来た。よし、ゆっくり逃げよう。壁を背にして、つまずかないように遠ざかろう。
たばこをくわえたままのオーナーは、どうして逃げるのかとわたしに訊く。
「あ。いえいえいえいえいえ。逃げてない……っす」
だ・か・ら!「っす」ってなんなわけ? 頭の螺子がゆるんで飛んでしまいそうだ。
「オーケイ」とマノロ・ヴィンセント。立ったまま、ガラスのテーブルにある灰皿にたばこを押し付けると、ぱっと両手を上げ
「べつになにもしないよ。ただ、さっきのステージが面白かったから、しゃべりたいだけさ」
あ、そうなの? とわたしが思った矢先、その長い足でテーブルの足を蹴った。広がった空間を直進して、あぜんとしているわたしの目の前に立ち、わたしを見下ろして
「おしゃべりは嫌い?」
いいえ。ただ、顔が近すぎます。で、のけぞる。一歩退くとソファの肘掛けに足があたった。まずい配置だ。このままのけぞったら間違いなく落ちる。地獄という名のふかふか革張りソファに!
そんなわたしの視界にアルミケースが入り込む。あの中には良くない札束がたんまり入っているような気がする。そういえば誰かがなにかを取りに来るといっていたような覚えがある。それってあれかも。そうかも!
よし、あのアルミケースは、人質だ。と思った瞬間、悪党マノロがわたしの額を指でつんとついちゃった。バランスを崩したわたしはボスンと落ちた。地獄へ。
とうとう、大人ドラマにお約束の男女の配置になってしまった。まずい。ママがアーサーを気に入っちゃったことよりも、数万倍これはまずい!
「きみはとってもかわいいね」
決定。この人の視力は狂ってる。
いまやわたしの脇の下に悪党の両手が固定されている。わたしは右腕を伸ばして、斜めに曲がったテーブルの上にあるアルミケースに手を伸ばす。
「め、め、眼鏡。眼鏡を買うことを、おすすめします」
っす、といわずに済んで良かった……って、そんな場合ではない。もう少し、あとちょっとなのにアルミケースが遠い。ああ、顔が近い! どんなにハンサムでも無理だしありえない。ごめんキャシー、やっぱりわたしには無理でした!
「あ、あ、あなたは勘違いをしてまっす!」
わたしの首筋寸前で、次男坊の顔が止った。同時にアルミケースの取っ手に指が届く。握る。いまこそ全身の力を振り絞る時だ。
「わたしは女の子ですから!」
いった瞬間、アルミケースを次男坊の頭に振り落とし、彼が痛がっているそのすきに逃げる。戸口のドアノブに手をかけた、けれどもこれもまずい。外にはギャングがたんまりなのだ。それで、窓際へ向かう。
頭を抱えてから立ち上がった次男坊の顔から、すっかり笑みは消えていた。ひどいことをされたうえに、間抜けな姿を見られた情けなさもあるのか、それともわたしが女の子だといったからか、髪を両手でかきあげると、深く息をついて、ケースを抱えたわたしをにらむ。にらんでいるのに口元は笑っているのはどうして?
たばこをくわえると火をつけた。それで、くわえたまま背後に手を伸ばす。
「……ああ、面倒くさい。おれは面倒くさいことが嫌いなんだよ」
コカコーラの瓶でも持ってるみたいな気楽さで、ピストルを向けないで欲しい!
せっぱつまった人間は、ありえないことをするものだ。窓枠はちょうどわたしの腰あたり。そこへ腰掛け、開いている窓からケースを外へ出し、
「お、おおおおおお、おっかいことをしましたら、ほほほほ放り投げるっす!」
ああ、また「っす」っていった!
ぶらぶらとピストルを揺らしながら、次男坊が近づいて来る。ああ、もうダメかも、いや、かもじゃなくてダメみたいだ。のけぞるわたしの腰は、すでに地上二十階の、空中へ出てしまってる。
つ、とわたしの額に、重く冷たい感触があたる。恐怖は頂点に達し、もう動くこともできない。頭が窓に押し付けられる。身体から力が抜けて、ケースを落しそうになった瞬間、マノロが片手で窓枠をつかみ、
「残念。女の子に興味はないんでね」
ぐいっと窓を上げきった。ごうっと風が吹きすさぶ。マノロはなにも考えられなくなったわたしの腕をつかみ、ケースを奪い取って床に放り投げた。
「明日の新聞にきみが出るよ。死体で」
今宵一番ともいえるような優しい笑みを浮かべて、いった。
ドラマか映画みたいに、うまくいくと思ってた。でも、これがギャングの姿なのだ。わたしなんてちっぽけで、殺すのも生かすのも簡単だと思っている。それで、笑顔でおそろしいことを、簡単にやってのけてしまうんだ。
わかっていたはずなのに。わかっていたのに、なにもしないでじっとしているなんてできなかったんだよ、キャシー。
でもごめん。やっぱり、なんにもできなかったみたいだ。
「じゃあね」
つん、とふたたび、今度は鉄の感触が、わたしの額を押す。同時に肩も、力強く押される。そしてわたしの身体は、外へ放り出された。
★ ★ ★
落ちていく。ずんずんと落ちていく。暗闇に真っ逆さま。無数のビル群の向こうに、すごく大きな満月が見えて、一瞬アランを思い出す。
ほら、ニコル。今日は月がすごく大きく見えるよ。
わたしも望遠鏡を覗き込んで、フルーツ味のキャンディみたいねといったような気がする。
「ぼくも空を飛べたらいいなあ。ミスター・マエストロみたいに」
「そしたらわたしも一緒に連れていってくれる?」
いいよ、といってアランは笑った。でも死んじゃった。
まぶたを閉じようとした刹那、摩天楼を横切る黒い影を見た。でも気のせいだ。不思議な感じだ。まるで時間がゆっくりと進んでいるみたいな感覚。だけど確実に、わたしの身体は地球の重力に引きずられていく。
秒単位の出来事が、数時間にも思える不可思議な時間の感覚の中で、突如わたしの視界に、黒い獣があらわれる。ビルの壁を蹴って、目ではとらえられないほどの早さで、わたしの視界から消える。それも気のせいだ。そう思って、まぶたを閉じた時、なにかがわたしの身体をぐいと引き寄せて、すっぽりと包みこんだ。落下する感覚が、それを境に上昇をはじめる。最高速度のエレベーターに乗っているみたいな浮遊感。
わたし、きっともう落ちちゃったのだ。それで、きっとこれは、天使のお迎えってやつなんだろう。
死ぬのって痛いと思っていたけれど、痛くないみたい。だけど頬にあたる風の感触は冷たくてどこか心地いい……って。
あれ?
うっすらとまぶたを開けてみる。
わたしの視界に、摩天楼が広がる。暗闇に浮かぶ無数の地上の星。シティで一番の高さを誇る、クレセント・タワーすら足下のはるか彼方にある。
わたしをなにかが抱きかかえてくれている。わたしの頭には、なにかの大きな手のひらの感触があって、ぎゅうっと抱きかかえられたまま、わたしは。
わたしは……飛んでる!
「信じられないね」
耳に、よく知っている声がとどいた。
「落ちてる人間がいると思ったら、きみなんだもの」
これ、夢かな?
肩に、わたしの額がおしつけられている。ゆっくりと顔を上げて、マスク越しの顔を見る。
ずっとデイビッドだと思っていた鼻筋や口元を見つめる。月明かりのおかげか足下に浮かぶ満点の星のおかげか。一瞬だけ、サングラス越しの瞳が見えた。大きくて鋭くて、だけど優しい、二重の美しい眼差しは、まっすぐに一直線に空に向けられていた。その視線が、ふっとわたしに動いて
「事情はわからないけれど、あとでたっぷり説教させてもらうからね」
猛スピードで飛ぶ、重力に反した世界で、わたしは両手を伸ばして、しがみつく。
パンサーに。大好きな友達に。そして安堵して、しゃくりあげて思いきり泣いた。