SEASON1 ACT.03
気持ちよい初夏の風が流れる週末の午後。天候は快晴。
本日の仕事先は、資産家ばかりが住んでいる界隈、アップタウンにでんと構える、有名フェスラー銀行の会長宅。孫の誕生日イベントに手品師とピエロを呼んで、華やかににぎやかに、広ーい敷地内で、豪勢におこないたいという要請が芸人協会にもたらされ、結果選ばれたのは我がファミリーだ。それがいま、おこなわれているところ。
まるでゴルフ場みたいな敷地内で、ぽかんと口を開けて見ている子どもを前に、ピエロの恰好をしたパパはジャグリングを披露している。ああパパ、痩せないとそろそろ衣装から下腹がはみだしそう……。
敷地に面した全面ガラス張りのリビングでは、ドリンクを片手にラフに着飾った大人たちが、テーブルを囲んで息をのんでいる。手品師のママのテーブルマジックに見入っているのだ。それにしても、ここは中世のお城ですか? 地上三階建て、まるで美術館か博物館みたいじゃない。見れば見るほどすごすぎる外観だ。
わたしはといえば、本日はピエロの助手を放免されて、代わりにクマの着ぐるみを着て、両手に風船をかかげ、子どもたちに蹴られたり、抱きつかれたり、風船をせがまれたりしている。
「クマさん来て!」
「クマさんと写真を撮って!」
着ぐるみ効果のおかげで、わたしの人気は三割増。
ここまではパパの中古の車で来たけれど、普段は絶対に訪れない場所なので、わたしのテンションは上がりっぱなし。動きずらい着ぐるみもなんのその、夢中で子どもと追いかけっこをしているうちに、汗だくになってきちゃった。ゼイゼイと息をきらしながら、キャアキャアと逃げまどう子どもたちをつかまえて抱きかかえたり、必死に追いかけているうちになんと、視界が真っ暗闇になる。
アホすぎる。わたしは酸欠で、ばったりと地面に倒れたのだ。
★ ★ ★
目覚めた時、ピエロとママの心配そうな顔が視界に飛び込んだ。ママはハンカチをぱたぱたと揺らしながら
「びっくりしたわよ、もう。はしゃぎすぎなんだもの」
「大きく深呼吸をして。さあ、もうお開きだ」
ピエロのメイクに汗がにじんでいるパパがいう。天井には豪勢なシャンデリアがあり、窓から西日が差し込んでいる。こじんまりとした一階の部屋は、どうやら応接間らしい。ソファに寝転んでいたわたしは、ゆっくりと上半身を起き上がらせて、足下に転がるクマの頭をつかみ
「……うう、ごめんなさい。子どもたちは?」
「これから大人の晩餐会だそうだ。わたしたちの役目はおしまい。子どもたちは帰って行ったよ。クマさんのことをずいぶん心配していたけど、ちょっと面白かったらしい。おまえが倒れる寸前の場面を見て、大笑いをしていた。まあ、ともかく、成功したといえるな」
パパが答える。ピエロの衣装のポケットから車の鍵を出すと、指先で回しはじめた。
「さ、帰りましょう。これで今月の家賃もなんとか払えそうだわ」
ふうっとため息まじりにママがいった。起き上がったわたしの身体は、クマの着ぐるみのまま。クマの頭を抱えて立ち上がったとたん、軽いめまいにおそわれつつ、トイレに行きたくなってしまう。
「ト、トイレに行ってもいい?」
やれやれ、とママは目をぐるりと回して
「先に駐車場で待っているわ。お屋敷の中をうろうろしちゃだめよ。トイレはこの奥のつきあたり」
クマの首根っこを片手に持って、ぶらぶらと揺らしつつ、応接間を出る。パパとママはロビーへ向かって行く。わたしは周囲を見まわして、ばかみたいに口を開けてしまった。わかってたけど、すっごいお屋敷。お金持ちって、どうしてこんなに部屋数が必要なんだろ。応接室から伸びる廊下の長いこと、しかも無駄に扉がいくつもあって、しかも誰も歩いていない。というか。
ママのいう奥って、いったいどこ?
ママたちの向かったのとは反対側を目指し、歩いているものの、トイレの場所がまったくわからない。これで使用人みたいな人に会えたら、訊けるのに、誰も歩いていないのもなんだか不気味だ。
静寂な博物館に放り込まれたみたいな気分で、こそこそと扉を確認しながら歩く。しかもこの通路は、片側が全面ガラス張りで、屋敷の中庭が見える。どうやらこの屋敷は、上空から見れば真四角の形をしているらしい。そのど真ん中が中庭で、色とりどりの花がていねいに植えられているのだ。
廊下を歩いていると、ドア越しに人の声が聞こえてきた。盗み聞きする趣味はないけれど、トイレの場所を訊けるかもと思ってしまったのが運の尽き。神さまはその日、どうやらわたしを完全に見放すことにしたらしい。なんにも悪いことなんてしていないのに、だ。
こうして呼ばれる催しのたいがいは、大人たちがプライベートで社交の場をもうけ、普段はぜったいにできない会話を楽しむもくろみがあるのは知っている。だから芸人協会の遵守すべき契約項目に、個人情報の漏洩がまっさきにしるされている。漏洩すれば協会からの契約は破棄され、収入が途絶えることになるのだ。
でも、この時のわたしはトイレのことしか頭に無かった。だってもう、かなり末期状態だったんだもの。しかもあろうことかドアは、ほんの少し開いていた。
どうやら図書室のようだ。すき間から、天井まで伸びる書棚が見える。背の高い、スーツ姿の男性が立っていて、たばこに火をつける仕草をする。すうっと煙を吐くと、窓際に向かって歩き、背を向ける。わたしの位置からだと、顔はまったくわからないけれど、背格好で三十代か、四十代ぐらい?
「……ですから、資金を少々出していただけたらそれでいいと考えているのですよ」
まずい。これは大人の内緒話だ。頼むから、きっちりとドアを閉めていただきたかった! 早く去ろうと思っても、好奇心おう盛な十代の興味は、トイレよりも内緒話に向いてしまう。
「それはたしかなのかね。ミスター・ワイズの研究とやらは」
もうひとりの、くぐもった声色がとどく。低いけれどよく通る声の主は、たいがい恰幅がいいと相場は決まっているものだ。もうひとりの姿は、すき間からは見えないけれど、同じ声が苦笑まじりで
「ありえんね。あれば夢のようなものだが、まるでコミックじゃないか」
「エキゾチックな物質と、学者たちの呼んでいるものですよ。その抽出に成功したという噂です。手のひらにのるほどの中性子星並みなエネルギーは、持ち運び可能。ぶちまければ猛烈な重力を放ち、時空は湾曲します。水素爆弾よりも強烈ですよ。もちろん原子爆弾よりも。なにも壊さず、世界は湾曲する。それをほんの少し、もっと小さくすれば、ピンポイントで湾曲をうながすことができます。どうです?」
うーむ、ともうひとりがうなる。
たばこの煙を吐く男が、ほんの少し肩越しに、こちらに顔を向けた。右目に黒いアイパッチをつけている。鼻筋のとおった端正な横顔。でもなぜか、その輪郭に見覚えがあるような気がした。でもまったく思い出せない。彼はすうっと煙を吐いて、
「知っていますよ、ミスター・ヴィンセント。南東側を仕切っているキンケイドファミリーのボスが倒れ、内部抗争勃発。いまやあのファミリーが崩れるのも時間の問題です。あなたがたが、あの界隈を巡っていざこざをおこしていることも承知しています。どのファミリーも、のどから手が出るほど、あそこを欲していることも」
会話の相手はギャングだ。しかもボス?
「時間を止める、というのかな、きみは」
はははと笑って、顔の見えないボスがいう。
「ですから資金を、といっているわけです。あなたにも悪い話ではないでしょう。これはコミックの話ではない、現実ですよ」
「しかしなにより、ワイズという男が首を縦にふらないだろう。資金は出してもいい。だが、どうする?」
さっきから、ワイズ、ワイズって、よくある名前だけど、キャシーの顔が浮かんじゃう! もう、着ぐるみの中でいたしてしまおうかと思うほど、なにもかもがマックス。だのにわたしの身体は、磁石で引きつけられた無力な砂鉄みたいに、いまやこの場にがんじがらめ。
「よかろう、まかせる。そのかわり、成功しなければ我がファミリーは、きみを地の果てまで追う。裏切り行為も同じだ」
「あなたがたは、ファミリーの中でもきれいな仕事をしようとしている。わたしはその姿勢を買っているのです。ドラッグには手を出さず、クラブやキャバレー、レストランの経営。もっと大きくなっていただきたい。あなたの行く末は議員といったところか。だからこそ、この場にも呼ばれているのでしょう?」
悪い気はしないのかギャングのボスは、ふうむ、とまんざらでもない声を発して
「それでどうする?」
アイパッチの男はいった。
「あなたにご迷惑はおかけしませんよ。娘を使います」
右手に持っていたクマの頭を床に落としてしまった。ポスン、というかすかな音に反応した二人がこちらを見る。わたしはとっさにクマの頭をかぶり、トイレも忘れて逃げた。
廊下をつっきり、出口に向かってひたすら走る。またもや酸欠で倒れそうだけれど、大きく深呼吸をして、酸素補給を忘れずに走った。
屋敷を出て、駐車場に向かう。すでにエンジンをかけて待っているパパとママが、遅かったじゃないのと文句をいう。わたしの顔はバレてはいないはず、だけどクマの恰好で、今日の芸人一家の誰かだということがバレたのはあきらかだ。
「は、早く逃げて、パパ!」
「なにをいっているんだ、おまえは」
どうしよう、どうすればいい? 警察? だけどこれは個人情報? そうしたら家は路頭に迷うのかな。
でもやっぱり、その前にこの生理現象をなんとかしなければ!
トイレを捜せなかったというと、ママはやれやれと苦笑して、軽い食事のできるダイナーを指した。駐車場に車を停めたパパは、たばこをくわえて火をつける。わたしは周囲を思いきり気にしつつ、着ぐるみを着たままダイナーのトイレに飛び込んだ。個室に入り、えりくびをつまんで手を回し、背中のジッパーを速攻でおろし、ともかく便座に無事、すわることができた。
ああ、……どうしよう。
ワイズって、キャシーのパパのことだろうか。いやいや、そんなこと。
「落ち着いて、ニコル・ジェローム。クレセント・シティにワイズって名前の人、どのくらいるっていうわけ? ないない、キャシーじゃないし、キャシーのパパでもない」
それよりもマズいのは、わたしがあの内緒話を聞いていた、ってことのほうではないだろうか。
「それも大丈夫。しょせん身元がバレたところで、わたしはただの女の子で、警察にいったって相手にされないって思ってる、はず」
ほんとう? 相手はおそるべきギャングなのに?
「……うーん、わかんない」
額に手をあててうなだれた。
このダイナーの電話ボックスに駆け寄って、わたしの知っている唯一のワイズ家に電話し、キャシーの無事を一刻も早く知りたい欲求におそわれる。とはいえいま、わたしは小銭を持っていないし、ここを出て、早く家に帰ったほうが賢明だ。
トイレを出ても、さすが摩天楼の街、クマの身体のわたしを誰も気にしない。ギャングの追っ手らしき姿も皆無だ。とりあえずふうっと、息をつく。
ダイナーの出口付近に、雑誌が山積みされていた。その中の一冊にふと視線が止る。テレビのガイドブックで、懐かしいミスター・マエストロが特集記事になっているらしい。だから表紙も彼だ。うわ、これ買わなくちゃ!
コートをひるがえして、横顔を向けているのに、視線はこちらで、葉巻をくわえた彼はにやりと笑みを浮かべている。やっぱり最高にカッコいい!
……と思って、硬直した。
★ ★ ★
駐車場で車に乗り込み、クマの手で自分の顔をおおう。疲れたんだな、とパパはいって、今日は早く寝なさいと優しいママの声が聞こえる。外はもうすっかり暮れていて、街灯やネオンがともり、闇を明るく彩りはじめる。でも、わたしの気分は最悪。自分の勘違いだって思い込みたいけれど、大好きだったんだもの。間違えるはずもない。多少の老いはあるし、片目はアイパッチで隠されているけれど。
でもどうして?
アイパッチの男の顔を、どこかで見た覚えがあると思ったのは無理も無い。葉巻のかわりにたばこをくわえていただけだ。
あれは。
あれはあきらかに元スーパーヒーロー。
ミスター・マエストロなのだった。