39:悪魔よりも恐ろしいもの
パートメントハウスの屋上で、パパが話してくれた言葉を思い出す。
――ぼくは正義の味方になりたかったわけじゃない。ただ、自分の好きな人や大切な人を守るために、自分の力を使ったんだ。それだけのことだよ。
それ、いまならすごくわかるよ、パパ。
「雷を落とすってどういうことだ、ジーン?」
ヘンリーが困惑する。
説明している時間はない。あと数十秒で、この公園を外界から隠してくれているマダム・エヴァの魔法が消える。ブライアンは翼の大蛇を樹木にからめて悪あがきをしながらも、ジェイを道連れにしようともがいている。そんなブライアンに、ジェイはあきらめずに攻撃をしかけていた。けれど、彼の手から放たれる光はどんどん弱くなっていて、力がつきかけているのはあきらかだ。だから――。
――急がなくちゃ!
「ジーン、さっきみたいなことするつもりか!?」
うんともすんとも動かないバンのアクセルを必死に踏みながら、TDが言った。
ブライアンの書斎にいたとき、コルバスに攻撃されたTDを助けようとしたわたしは、自分のパワーを制御できなくなった。その出来事を、TDはずっと見ていたのだ。いままでなにも訊ねてこなかったから、てっきり忘れているんだとばかり思ってた。でも、それはただたんに、そんな場合じゃなかったってだけのことらしい。
「うん。そう!」
「なんだそれは」とヘンリー。
「おれもわかんねーけど、なんかジーンにもパワーがあんだよ!」
「なんだって? どういうことだジーン!」
「あとでたっぷり説明するから、いまは黙って!」
「ねえ、みんな! ロープが千切れそうだわ!」
魔法でロープをのばしているパティが叫ぶ。彼女の額からは汗が流れていた。渦を巻く湖の底なしの穴は、強烈な重力で周囲のものを吸い込んでいく。ブライアンもジェイも、下半身はすでに穴の中だ。
「あと三十秒ほどよ」
マダム・エヴァが言った。
わたしは外に出る。台風の目みたいな穴が発する強風で、いまにも樹木が倒れそうだ――と、ジェイの身体を引っ張っているバンが、逆にずるずると湖畔に近づきはじめてしまった。それらをつなぐロープの負荷は、パティの魔法でなんとか耐えていた。けれど、それも時間の問題だ。
焦るし怖い。急に、わたしなんかじゃやっぱり無理だと思って、尻込みしそうになる。でも、負けられない。わたしは強風にあおられながら、急いで湖畔に近づいた。
「ジーン!」
「なにをしようとしてるのか知らないが、戻れ、ジーン!」
みんなの声がする。でも、わたしの視界には、いまにも時空のどこかに消え去ろうとしている男の子の姿しか映らない。
ジェイは何度もわたしを助けてくれた。だから――。
――今度はわたしが、彼を助ける!
「お願い、パパ。わたしに力を貸して」
なぜかとっさに、頭の中にパパが思い浮かんだ。摩天楼の街を自在に飛びまわり、駆け抜けたスーパーヒーロー。そんなヒーローの血がわたしにも流れているのなら、きっとできる――できるはず!
全身が熱を帯び、炭酸水の泡のように弾ける感覚に包まれていく。目に映る景色が七色に染まりはじめ、ありとあらゆるすべてのものが小さなジェリービーンズの集合体みたいに見えていく。
これにのみこまれたら、またさっきみたいなことになる。わたしは手を伸ばし、わたしを包み込んで羽交い締めにしようとするパワーの源を、両の手のひらにかき集めて握りつぶした――瞬間。
――おいで、ジーン。一緒に飛ぼう。
空耳かもしれないし、気のせいかもしれない。でも、たしかにわたしの耳元で、そう言ったパパの声がした。直後、視界はもとに戻り、ふわりと身体が軽くなる。すぐにわたしは駆け出した。無心で湖畔に向かい、強風にのって地面を蹴る。
重力に逆らって空中に飛び出したわたしの目に、真っ暗闇の時空の穴が映る。そこにブライアンがしがみつき、ジェイを引きずり落とそうとしているのがはっきりと見えた。そのブライアンめがけ、わたしは両手にかき集めたジェリービーンズの残骸をひとまとめにし、言葉にならない声を叫びながら、渾身のパワーで投げつけた。
野球ボールほどの大きさのそれは、火花を弾けさせながら瞬時に大きくなり、目をおおいたくなるほど激しく発光する。その光にブライアンが気づくも、遅かった。激烈な光のボールがその額を貫き、つんざくような咆哮がこだました。
悪魔の身体に光の亀裂が走る。しがみついていたジェイの身体を放すやいなや、得体のしれない時空の底に落ちていった。
間一髪でバンに引き上げられたジェイは、ぐったりしていて意識を失っていた。わたしは湖畔に着地して、すぐさま彼に駆け寄った。
「――ジェイ!」
彼のコスチュームが消えていく。それとともに、時空の穴も一瞬で閉じた。その一秒後、マダム・エヴァの魔法も消える。すると突如、テレビ中継のヘリコプターの音が響き渡り、その灯りが上空に見えた。
ありえないことの連続すぎて、その場にいた誰もが身動きをとれずにいた。しばらくそうして沈黙していると、スーパーヒーローをとらえられなかったヘリが去っていく。
公園に静寂が戻る。と、いつの間にかそばにいたヘンリーが言った。
「数秒前の出来事について、簡潔な説明文をレポート用紙にしたためてもらいたいところだが、ひとまず彼をバンに乗せよう。ジーン」
わたしはちょっと笑ってしまう。ジェイの鼻に耳を傾けると、ちゃんと息をしていた。とにかく、ジェイは無事だ。無事で、この世界にちゃんといる。いまはそれだけでいい。泣きそうになるのを堪えて、わたしはうなずく。
「うん、そうだね」
「手伝うわ」
パティが来る。そして、TDも来た。TDがジェイの身体を抱きかかえるのを助けていたとき、パティが言った。
「……わたし、これから先になにがあっても、あなたたちの味方でいる。あなたたちのためなら、いくらでも魔法を使うわ」
「それは、その辺に落ちてる枯れ葉すら、おれが頼めば札束に変えてくれるということか?」
パティが笑った。
「それはダメでしょ」とわたし。
「たとえばの話しだ」
TDが苦笑した。
「おまえ、悪魔に洗脳されて知能指数下がったんじゃねえの?」
ヘンリーは冗談じゃなく青ざめる。
「……本当だ。まるで五歳児みたいなことを言ってしまった」
おまえも病院で検査してもらえと、TDが笑う。それにつられてわたしも笑うと、パティが言った。
「ありがとう。わたし、これで自由なのね」
立ち止まって涙ぐむパティを、わたしは抱きしめる――そのときだ。
湖の、時空の穴があったあたりに、ぼんやりとしたなにかが浮かび上がった。それは徐々に人の輪郭となり、まるで幽霊のように水の上を歩き出した。
「なんだ、あれは」
ヘンリーも気づいたらしい。立ち止まって目を凝らしていると、その透けた輪郭が近づいてくる。と、それが近づけば近づくたびに、ジェイのコスチュームにそっくりなことがわかってきた。
え、なに。まるで、もう一人のジェイみたい――?
けれど、スクリーンに投映された映像みたいに、全身が透けている。この世界にいるのにこの世界にいないみたいな輪郭のそれが、湖畔に立つ。
そうして、ゆっくりとこちらに近づきながら片手を振り払う。同時にコスチュームが消え去って、長身の男性があらわれた。
長い銀髪をなびかせているけれど、顔はよくわからない。古い英国紳士みたいな服装に、ステッキを手にしている。そのステッキをつきながら向かって来、立ち止まる。TDに抱きかかえられているジェイを見ると、満足そうな声音を放った。
――我々の手に及ばない、こんな辺境の次元にいらしたとは。どのような油断があったのかは存じませんが、時空を開けていただき感謝します。
まるで国王にひざまずく家臣のように、胸に手を添えて頭を垂れる。
――これでやっと、あなたを抹殺できましょう。殿下。
はっとして目を見開いたとたん、その姿は空気に溶けるように消えた。
え……え? なんだろ、いまの。そんなわたしの戸惑いを、ヘンリーが代弁してくれる。
「なんだ、いまのは」
すると、バンのそばにいたマダム・エヴァが、表情を険しくさせた。
「……あれは、悪魔よりもずっと恐ろしい怪物よ」