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34:秘密の魔法はクマちゃん印

 ヘンリーの目が赤く光ってる。
 ブライアン・ライトに悪魔的な洗脳をされた証拠だ。
「こんなところで隠れていちゃついてたのか。そんなにおれの嫉妬心をあおらなくても、おれはじゅうぶんきみが好きだぞ、ジーン」
 そう言って書斎のドアを閉めたヘンリーが、ゆっくりと近づいてきた。
 嫉妬心をあおってるつもりはまったくないし、いつものごとくヘンリーの誤解が斜め上すぎてついていけない。
 普段ならここで誤解を解く努力をするところだけれど、今回ばかりは対応に困る。だって、洗脳だけならまだしも妙なパワーまで授かってたら、どんな攻撃をしてくるかわからないんだもの!
 たとえ、自分を中心に地球がまわってると思ってるようなヘンリーでも、敵にまわしたいわけじゃない。幼馴染の友達なのだ。
「ヘンリー、落ち着いて」
 ジェイが言う。それに続いて、わたしも吠える犬をなだめる素振りをした。
「そ、そうだよ、ヘンリー。とにかくいったん落ち着いて」
 瞳はまだ赤いまま、ヘンリーが近づいてくる。そのたびにわたしとジェイは、一歩一歩うしろにしりぞく。
「おれは落ち着いてる。ただ、多少ムカついてるだけだ。未来の妻の浮気現場に遭遇したんだからな」
 そんな未来にならないように全力で避けなくちゃ! 決意をあらたにする一方、いまなんと言って説得するのがベストなのか、わたしの脳みそじゃ答えが出ない!
 うう……私を見つめるヘンリーの目はまだ赤い。と、その視線をゆっくりとジェイに向けたヘンリーは、間を置くことなく飛びかかった。
 隙きを突かれたジェイがうしろに倒れる。馬乗りになったヘンリーは、ジェイの首根の手をかけた。
「――わっ、ちょっ! ヘンリーやめて!」
 ヘンリーのシャツを引っ張ろうとした矢先、ジェイが言った。
「ダメだ、ジーン。来るな」
 苦しげに顔を歪ませ、続けた。
「……ヘンリー、きみを倒したくない。頼む、正気に戻ってくれ」
 ヘンリーの手はまだ離れない。わたしはとっさに、武器になりそうなものを探す――って、TDお手製のスタンガンを持ってたんだった!
 さっそくスイッチを入れるも、魔法でつながった洞窟を破壊するのに使ったせいで、すっかり電池が切れていた。
 ああ、どうしよう。こうなったら、なにかでヘンリーを殴るしかないかも。でも、そんなことしたくない!
 そんなことしたくないけど、なんとかしなくちゃ。
 そうしないと、ジェイが危ないんだもの!
 ジェイがうめく。ジェイならヘンリーをすぐに倒せる。でも、そうしないのはケガをさせるってわかってるから、なんとか言葉で正気に戻そうとしてるんだ。だけど、そんなことで悪魔的な洗脳が解けるわけない。
 ヘンリーの手の力が強まっていくのがわかる。このままじゃヘンリーが悪人の仲間入りになっちゃう! そう思った瞬間、ジェイがわたしにしてくれたことを思い出した。

 ――わたしを抱きしめて、二度も落ち着かせてくれたこと。

 考えるより先に、身体が動く。床に膝をついたわたしは、ジェイに馬乗りになってるヘンリーを、横からぎゅっと抱きしめた。
「し、しっかりして、ヘンリー。このままじゃ、あなたのパパみたいな警官になれないってば!」
 暴れられたり投げ飛ばされるのを覚悟しながら、とにかくきつく抱きしめた。そうしていると、やがてヘンリーの動きがピタリと止まった。
 夢の中をさまよってるみたいな声音で、ヘンリーがつぶやく。
「クマさん洗剤の匂い……」
 ……はい?
「ジーンの匂いがする」
 すごい。なんで我が家がクマちゃんマークの洗剤使ってるって知ってたんだろ。でも、いま着てるのはTDに借りたケータリングの制服だから、つまりTDの家もクマちゃんマークの洗剤を使ってるってことになる。っていうか、そんなこといまはどうでもいいし!
 ヘンリーの手の力がゆるみ、ジェイが咳き込む。ヘンリーがわたしを見た。その目はもう赤くなかった。
 洗脳が解かれたのかはわからないけれど、正気に戻ってくれた気がする。ひとまずほっとして身体を離したとき、ヘンリーが言った。
「……いま、おれはなにをした?」
「えっ」
「書斎のドアに立って、きみたちを見たことまでは覚えてる。だが、そのあとの記憶がない……が」
 呆然とした様子で腰をあげ、首根を触るジェイを見下ろした。
「……状況から察するに、おれはきみによからぬことをしたんだな」
 あきらかに戸惑ってる。こんなヘンリーを見るのははじめてだ。と、ジェイが息をととのえながらかすかに笑った。
「そうだね、よからぬことをされた。でも、きみのせいじゃない」
「おれのせいじゃない?」
「まあ、たぶんだけど」
 ジェイが苦笑する。
「どういうことだ?」
「リビングでなにがあったか教えて、ヘンリー」
 ヘンリーが眉をひそめる。
「……なんだろうな、わからない。覚えてない……が」
「が?」
 わたしとジェイの声がかぶった。ヘンリーはしばらく無言で考えを巡らせ、イラついたみたいに乱れた髪をかきあげた。
「ダメだ、なにも思い出せない」
 そう言いながら、ジェイに右手を差し出した。その手をつかんだジェイが立ち上がると、ヘンリーはあからさまに不機嫌な顔をした。
「悪かったと言いたいが、記憶がないから謝罪はしない。それに、こそこそいちゃつくきみたちに本気でムカついている。どうせ一過性のものだろうから多目に見てやるが、だからといって一線を越えたら容赦しないからな、ジーン」
 最後のセリフ、まるでドラマにでてくる厳格なパパみたい。っていうか、わたしはヘンリーと付き合ってないし、未来の奥さんになるつもりも予定もゼロなのに!
 口を開きかけたとき、ジェイに言われた。
「刺激しないで、ジーン。まだ様子を見ないと」
 そ、そのとおりだ。ぐっと口をつぐんで我慢し、うなずく。
「刺激するなって、どういう意味だ?」
 ヘンリーがけげんそうに眉を寄せる。
「あなた、ブライアン・ライトに洗脳されてると思う!」
 わたしの言葉を、ジェイが引き取る。
「たぶんだけど、感情に左右されて行動が爆発するのかもしれない。ぼくとジーンが一緒にいるところを見て、それでまあ……ぼくによからぬことをしたから」
 ヘンリーが愕然とした。とはいえ、なんとなく予感していたのか、否定はしなかった。
「その洗脳がまだ解けてないかもしれないから、刺激しないほうがいいかなって」
 なだめるようにわたしが言うと、ヘンリーは深く嘆息した。
「……なるほどな、最悪だ。記憶はないが、摩訶不思議ななにかで洗脳されたんだとすれば、カウンセラーにお願いする案件じゃない。ブライアンを倒さないと完全に解かれない案件かもな」
「えっ!?」
 驚くわたしに反して、ジェイがうなずいた。
「ぼくもそう思うよ」
「とはいえ、いまのおれは正気だ。どうやって戻れた?」
「ジーンがきみに魔法をかけた」
 ジェイがいたずらっぽく笑った。
「ぼくとしてはちょっと複雑だけど、そんな場合じゃなかったしね」
「あ、あなたの真似をしただけだから!」
 ヘンリーが眉をひそめた。
「二人だけの秘密っぽい会話はやめてくれ。また悪魔化するかもしれないぞ」
 わたしとジェイは同時にヘンリーを向いて、神妙にうなずいた。
「オーケー」
「たったいまやめたよ」
 腕を組んだヘンリーがにやっとする。
「おれが洗脳されたおかげで、きみたちのいちゃつきを止められるなら、悪いことばかりでもなさそうだな」
 さすがヘンリー、転んでもただじゃ起きなかった。
「で? きみの魔法ってなんだ、ジーン」
 抱きしめましたなんて言いたくない。口をつぐんでいると、ジェイが助け舟を出してくれた。
「きみにクマさんマークの洗剤の匂いを嗅がせたんだ。そうしたら、きみは落ち着いた」
「そ、そう! こ、こうやってね!」
 袖口をヘンリーの鼻にあててみた。すると、ヘンリーは納得いかなそうな顔つきで、自分のシャツの袖を嗅ぎはじめた。
「それなら、このシャツもそうだ。TDの家も使ってるはずだが……」
 自分の袖を嗅ぎつつ、なぜかにやっとした。
「わかったぞ、ジーン。おれを抱きしめて落ち着かせてくれたのか。そうだろう?」
 頭のいい人って、ほんと嫌い!
「他意はないよ! 神さまとママとパパに誓ってないから! ただ、なんとかしないとって思ったら、とっさに身体が動いたっていうか……!」
「照れなくていい。なんだ、やっぱりそう悪いことばかりでもないじゃないか、この洗脳」
 悪いことばかりです! と、ヘンリーがジェイを見た。
「――なんて、冗談はさておいて、次におれが悪魔化したら、遠慮せずに倒していいからな」
 ジェイがびっくりする。ヘンリーはわたしに言った。
「それに、きみもスタンガンを使え。未来の夫だから抱きしめられて当然かもだが、おれにはそのときの記憶すらないんだ、危なすぎる。どうしてスタンガンを使わなかった?」
 わたしはまっさきに、床の穴を指した。
「あ、あれで使っちゃって、電池切れになったから」
「……文脈がなに一つ理解できないが、やっとあの穴について聞けるなら大歓迎だ」
 というわけで、全部説明する。助け出した女の子たちは、TDと書斎に隠れているところだと伝えると、ヘンリーは目を見張った。
「突っ込みたい部分が多すぎるが、それをしてたら朝になりそうだ。とにかく、助けられてよかった。せめて彼女たちだけでも、早くここから出してやらないと」
「うん」
「そろそろ市警かFBIが来てもいいころなんだけどね」
 ジェイが言う。と、ズボンのポケットに手をいれたヘンリーは、TDお手製のスタンガンをわたしに差し出してきた。
「ジーン、これを使っていい」
「えっ、あなたはどうするの」
「どうもしない。悪魔化しなければ彼が助けてくれるだろうし」
 親指でジェイを指す。
「悪魔化したら、武器なんてないほうがいい」
「合理的だね」
 ジェイの言葉に、ヘンリーはふんと鼻で笑った――直後だ。
「FBIです。全員その場で両手をあげてください!」
 ドアの向こうで声がした。やっと来た! わたしたちはドアに耳をくっつけ、様子をうかがう。
「物騒ですね、なにごとですか?」
 ブライアン・ライトの声がした瞬間。
「――助けて!」
 さっき助けた女の子の一人が、とっさに書斎から飛び出してしまったらしい。
「うわっ、おい、早まんなって!」
 慌てるTDの声に続いて、もう一人の女の子も叫んだ。
「ここはもういや! 早く家に帰りたい! 助けて!」
 彼女たちが誰なのか、FBIはすぐに察したようだ。
「詳しい事情を聞かせてもらおう――」
 FBIが言った刹那、誰かの身体がどこかにぶつかったような、けたたましい物音がたった。それなのに、優雅な音楽は鳴り止まず、ゲストたちはなにごともなかったかのように談笑に戻っていく。
 不気味すぎる。いったいなにが起きてるんだろ!
「も、もしかして、FBIがブライアンに倒されちゃった?」
「かもな」
 ヘンリーが顔をしかめる。
「ど、どうすれば……」 
 いいんだろ!? とわたしが口にするより先に、厳格そうな女性の声がした。
「まったく、バカバカしいことばかりね。いい加減にしなさい、ミスター・ライト」
 はっきりわかる。パティの祖母、マダム・エヴァだ!
 一瞬その場がしんと静まる。と、ブライアンが言った。
「マダム・エヴァ。おまえの孫はどこだ?」
「無駄よ、ミスター・ライト。わたくしにおまえの力は通じない」
 言葉をきると、勝ち誇ったような声音を放った。
「――だって、わたくしは蝋人形だから」

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