15:前途多難な金曜日
翌朝。
完全に寝不足状態でソファから起きあがり、自分にあてがわれた寝室のバスルームで顔を洗った。髪がものすごいことになってて、もうげっそり。まるで七十年代に流行ったカーリーヘアみたいだけど、修正できる道具もないし気力もない。
「ま、いっか。これはこれで」
ヘアスタイルに悩むのをやめてキッチンに行くと、ジェイが散乱しているピザの食べかけを掃除していた。彼の姿を目にしたとたん、デイビッドおじさんとの会話が脳裏をよぎる。それとともに昨夜のことが頭の中に浮かび、鼓動が大きく跳ねあがった。どうしよう。ときめいてる場合じゃないってわかっていても、めちゃくちゃドキドキしてきた。
だって、ソファで目覚めたとき、ちゃんと毛布がかかってたんだもの。だから、あれは幻じゃない。あのとき本当にジェイがいたんだ。
わたしに気づいたジェイが、ワイングラスを流し台に運びながら言った。
「おはよう」
「お、おはよう。あの、ありがとう。散らかしたのわたしとデイビッドおじさんなんだ。テーブルはわたしが拭くね」
ジェイは小さく笑って、キッチンクロスを差し出した。
「じゃあ、頼むよ」
クロスを受け取ってテーブルを拭く。ジェイはわたしと背中合わせで、グラスを洗っている。なにかしゃべらなきゃと思うのに、言葉が全然出てこない。こんなこと、生まれてはじめてだ。わたし、どうしちゃったんだろ。だって、いつものわたしなら「毛布をかけてくれてありがとう」くらい、さらりと言えるはずだもの。
そうだよね、お礼くらい言うべきかも。じゃあ、頭を撫でられたことはなんて言うべき? っていうか、さすがにあれはわたしの妄想かな。だとしたら、「わたしの頭を撫でた?」なんて訊く必要はないわけで……。
自分でもどうしたいのか、わけがわかんなくなってきた。
「ジーン、同じところだけピカピカになってる」
「えっ」
ホントだ。自分のまわりだけ鏡みたいになってた。すると、うしろに立ったジェイが手を差し出してきた。
「それ貸して。あとはぼくが拭くから、きみは座ってて」
「い、いいよ。あなたが座って」
ジェイが小さく笑う。
「いいから、ほら。クロスくれる?」
「……なんかごめん」
ぼんやりしすぎて、テーブルすらまともに拭けないなんて。彼の手にクロスを渡しながら、肩を落とす。すると、ジェイがテーブルを拭きながら言った。
「寝不足が丸わかりだよ」
「えっ」
やっぱり、あれは幻じゃなかったんだと確信した。瞬間、考えるよりも先に口から言葉が飛び出してしまった。
「も、もしかして毛布をかけてくれたのなら、ありがとう」
ジェイがぴたりと動きを止める。と、テーブルを見下ろしている彼の耳が、どんどん赤くなっていく。
え? もしかして、照れてる? いやいや、まさかそんな……って、ジェイが壊れたロボットみたいに全然動かない。彼の様子につられたのか、わたしの頬にも熱が帯びてきた。もしかしてわたし、知らんふりしたほうがよかったのかも?
ジェイはまだフリーズしている。ダメだ、修正しよう。いますぐに修正しないと、気まずすぎて酸欠状態におちいりそう!
「……っていう気がしたんだけど、わたしの勘違いかも! なんでもないの、気にしないで」
いっきに伝える。さらに深く頭を垂らしたジェイは、あきらめたように息をついた。
「眠ってると思ったんだけどな」
「い、いや、すぐに眠ったよ。ただ、寝落ちする前に一瞬見えたっていうか……」
「どっちにしても、気づかれてたんだね」
そう言うと顔をあげ、意を決したような眼差しでわたしを見つめてくる。
「ちなみに、どこまで覚えてる?」
「ど……どこまで?」
「ぼくがきみに毛布をかけて、そのあとは?」
「そのあとは……」
頭を撫でられました。そんな他愛のないことに躊躇してるとか、いったいなにやってるんだろ。だって、キスをされたわけじゃないし、たかが頭を撫でられただけなのに。それなのに、どうしてわたしもジェイも顔を赤くしてるの。
ものすごく気まずい。こういうことに慣れていないから、いったいどうするのが正解なのかもわからない。誰か教えてほしい!
「幼稚園児以下のいちゃつきぶりだな。おはよう」
さらりと言い放ちながら、ヘンリーが入ってきた。冷蔵庫に直進すると勝手にドアを開ける。
「い、いちゃついてない! っていうか、聞いてたの!?」
「聞いてない。聞こえたんだ」
炭酸水のボトルキャップをひねり、冷蔵庫を閉じる。わたしのヘアスタイルをしげしげと眺めながら炭酸水を飲み、
「すごいな。爆弾処理でもして失敗したのか?」
真顔で言った。失礼な言動だけど、むしろ通常運転なヘンリーでホッとする。よかった。深夜のおかしな提案も、少しの睡眠できれいさっぱり消えたみたい。これぞわたしの知ってるヘンリーだ。
「脳観察はしなくてもよくなったんだね?」
「いいや、絶賛観察中だ」
「えっ」
まじまじとわたしを見つめると、まるで子犬を愛でるようかのように目を細める。
「……興味深い」
そうつぶやき、テーブルを拭き終えたジェイに視線を移す。
「きみが彼女に毛布をかけてからなにをしたのか、ものすごく気になってるおれがいるとは、興味深いことこのうえない。で? なにをした?」
まるで取り調べの警官みたい……なんて、感心してる場合じゃない。あなたに関係ないでしょとわたしが告げるよりも早く、ジェイが言った。
「きみには関係のないことだよ」
「そうだな。昨日まではそうだった」
ジェイとヘンリーの視線が絡んだ。状況をややこしくしてるのは、ヘンリーの脳観察のせいだ。こうなったらきっぱり断らなきゃ!
「ヘンリー、あなたが気にするようなことじゃないよ。それに、わたしはあなたの脳観察につきあわないからね!」
「さっきから言ってるその脳観察ってなに?」
ジェイが困惑した。わたしは冗談交じりに苦笑して見せる。
「わたしのことが好きだとか言うの。でも、それはヘンリーの脳のなにかが刺激されてるせいだから、観察してみたいんだって」
「なにかじゃない。フェニルエチルアミンとドーパミン――」
「――キスした」
ジェイが言った――って、え?
「え?」
ジェイの耳がふたたび赤く染まっていく。
「ほう?」
ヘンリーが炭酸水をテーブルに置いた。いや、待って!
「あ、頭を撫でてくれただけでしょ?」
びっくりしたように、ジェイは目を丸くした。
「そのあとで……いや、なんでもない」
気まずそうに視線を落とすと、片手で口をふさいだ。
「そうか、言うんじゃなかった」
えっ……ええ? わたしにキスしたの? 頭を撫でたあとにキスしたの? 全然記憶ない!
「口か?」とヘンリー。
「……額だよ」とジェイ。
あ、なんだ。そっか、おでこか。なんか残念……じゃなくって!
「な、なんで……?」
思わず声にした直後、カルロスさんがあらわれた。
「おはよう。遅くなって悪いね。今朝はシリアルでいいかい?」
微動だにしないわたしたちを見まわして、カルロスさんは苦笑した。
「もしかして、シリアルじゃ不満?」
いいえ、微妙な感じになっちゃってるだけです……。
★ ★ ★
キスした?
カルロスさんの登場で無言になったわたしたちは、おとなしくシリアルを食べた。
ものすごくもやもやするものの、登校時間まであと一時間半に迫り、ひとまずわたしとヘンリーだけ、カルロスさんの運転する車でいったんフランクル家に戻ることになった。
このヘアスタイルじゃさすがに登校できないし、着替えなくちゃいけないし、携帯を充電しなきゃだし、ヘンリーのパパとキャシーママに事情を伝えなくてはいけないからだ。「父ならきっと市警です。例の拉致事件でFBIに協力しているところですから」
ヘンリーが言うと、カルロスさんはうなずいた。
「昨夜の件は、きみのパパに極秘で伝える。きみたちはなにも心配しなくていいからね」
ヘンリーのパパが悪魔とか信じるのか謎だけど、わたしのママと仲良しみたいだから案外おかしな人なのかもしれない。もちろん、いい意味で。
ジャケットを羽織ったカルロスさんが、ジェイに言った。
「彼らを送ったら、きみを送るよ。今日はそれでいいかい?」
「いいよ、ありがとう」
シリアルをスプーンでつつきながら、ジェイが答える。と、意味ありげな眼差しでヘンリーを見てから、わたしに視線を移す。
「じゃあ……その、あとで」
「う、うん」
「行くぞ、ジーン。おれときみは仲良く後部座席だ」
「えっ!」
いや、それは拒否したい! なにがなんでも助手席を死守しようと決意したとき、
「ああ、それは無理だよ」
そう言ってにこっとしたジェイは、シリアルを口に運んだ。
★ ★ ★
無理だった。
新しく発売されためちゃくちゃ高価なデスクトップパソコンのダンボールが、カルロスさんの車の後部座席半分を占拠していたからだ。素晴らしい。というわけで、後部座席に不機嫌顔のヘンリー、助手席にわたしが無事おさまった。
おでこにキス問題が解決しない中、なにげなく車窓を見る。すると、もじゃもじゃな大型犬を散歩させている人がいた。なんだかあの犬の毛、セット前の普段のわたしの髪みたい……と思って、はっとする。
もしかして、ジェイはああいう犬を飼ってたのかも。わたしを見て、その犬と混同したのかも!?
昨夜はいろいろあってみんなストレスフルだったし、ヘンリーにいたってはわけのわからない現象にいまだにおそわれているんだから、ジェイもきっとそうかもしれない。それに、誰のことも好きにならないって宣言していたくらいだもの。女の子の頭を撫でてうっかりキスしちゃったというよりも、過去に飼っていたワンちゃんを思い出して触れたくなってしまったというほうが、哀しいけれど自然すぎる。
真実はまだわからないとはいえ、絶対そうだ。
あーあ、なんかがっかり……じゃなくって! でも、そう予想すると腑に落ちてしまった。
わたし、ジェイを好きなのかな。でも、好きになりたくないな。もしも好きになったら、不毛な片思いがはじまっちゃいそうだもの。
けど、どうなんだろ。不毛でも別によくない?
だって、人生は一度きりでしょ。なにごとも経験だって、わたしのママはよく言ってる。ジェイを好きになって哀しい思いをしたとしても、それだってきっと最高の経験になる……なんて、まだ確定じゃないんだから、深く考えるのはやめよう。
いまはいい友達でいることと、密かに鼻息荒く自分に言い聞かせていたとき、カルロスさんがヘンリーを振り返った。
「そうだ。きみのママには、もう事情を伝えてあるからね」
そう言ってから、わたしを見る。
「きみのパパとママとは連絡がつかないから、山小屋から戻ったら事情を説明するよ」
ジェイについてあれこれと考えている場合じゃなかった。この問題があったんだった!
意を決したわたしは、カルロスさんにだけ嘘をついていることを伝える。すると、カルロスさんは声をあげて笑った。
「なるほどね。それで嘘をついてたのか」
「ごめんなさい。でも、おじさんにはまだ言わないで?……って、今日にでも話すけど」
「いまのデイビッドはここを離れられないから、伝えても大丈夫だよ」
それなら、よかった。そういえば、今朝はデイビッドおじさんに会わなかったな。
「おじさん、まだ眠ってるのかな」
カルロスさんに訊ねると、あの豪勢な自分の邸宅にいったん戻ったそうだ。
「え? じゃあ、あそこにはジェイだけが住んでるの?」
「基本的にはね。お披露目パーティーのあとはそうもいかなくなるから、それまでの間、デイビッドが彼の自由にさせているみたいだ」
お披露目パーティー。たしか、棺の魔女もそんなことを言ってた気がする。
「それ、いつなんですか」
「実はまだ決めてないんだ。マスコミの前にさらされる苦労を、デイビッドはよく知ってるからね。もしかすると成人まで待つつもりかもしれない」
そう聞いて、ちょっとホッとした。
いまでこそ落ち着いたデイビッドおじさんだけれど、『スーパーヒーロー』を演じていた十代のころは目立ちまくりで、マスコミにも追いかけまわされていた逸話をママからよく聞かされていた。ジェイも似たような立場になってしまうのだとしたら、きっと彼の過去もねほりはほり調べられて暴かれるかもしれない。
おじさんはきっと、そのことを懸念してるんだ。
「とにかく」
ハンドルを握るカルロスさんが言う。
「いまはきみの友達が、十七歳の誕生日を無事に迎えられることだけを考えたほうがいいよ」
そのとおりだ。わたしはうなずいた。
パティを狙う悪魔――ブライアン・ライトとかいう人についてはよく知らないけれど、ひと月後の誕生日まで粘ればパティは助かるのだ。
拉致された二人の女子高生の行方も、ヘンリーのパパが証拠をつかんで、うまいことFBIに伝えてくれるかもしれない。そうすれば一件落着! なにも思い悩むことなんてないんじゃない?
そんなに順調とはいかないまでも、すべてが丸くおさまるような気がしてきた。なんにせよ、わたしにできることはお姫さまを守る騎士さながらに、パティをひたすらガードすることだ。そう思って、ちょっと考える。
わたしのサイキックな能力を使えたら、もっとパティを守れるかもしれないんだけどな。でも、わたしの能力がどのくらいのものなのかもわからないし、ずっと薬でおさえているから使い方もわからない。
まあ、いっか。サイキックな能力なんか使わなくったって、パティを守ればいいだけのことだもの。
「パティは今日、登校するかな」
携帯にメールが届いてるかもだけど、電源がきれてるから見ることもできない。
「さすがに今朝は休むんじゃないのか。別人になりすます必要があるし、手続きだってしなくてはいけないからな。まあ……魔法でどうにかするのなら話は別だが」
そう言ったヘンリーは、苦い顔をして腕を組む。
「魔法という言葉を難なく使ってる自分に、身震いしてきた」
思わず笑いそうになって、我慢する。パティにとっては笑いごとじゃないもの。と、信号で車を停めたカルロスが、一瞬携帯を見る。
「きみたちの学校に、ティム・ディクソンって子がいるよね?」
通称、TD。能天気な発明オタクの最上級生で、制服チームじゃないけれど有名人。学生を贔屓する嫌われものの先生の車内に、遠隔で操作できるカメラを設置し、帽子みたいにカツラを取るという衝撃的ショットを撮影。それをメールで拡散し、二週間の停学を言い渡された問題児でもある。
でも、そのおかげで例の先生は退職。代わりに赴任したのは、公平で優しい先生だ。
「昔世話になったことのある兄弟の甥っ子でね。ぼくは校内に入れないから、なにかあったら彼を頼るといい。話はついてるから、きっと力になってくれるよ」
ヘンリーがげっそりした。
「新聞部におもしろネタを提供してくれる愉快な上級生ですが、正直、頼れるとは思えません」
カルロスさんが笑った。
「まあ、そう言わず。ぼくは校内まで入ることができないからね。信頼できる味方は多いほうがいい」
「昔世話になったことのある兄弟って?」
わたしが訊ねると、カルロスさんが言った。
「ゲーム会社『スネイク・ブラザーズ』のツートップ。スネイク兄弟だよ」