11:クラークパークの魔法使い
午後十時きっかり、遅れることなく約束の場所に着いた。わたしにしては上出来だ。
こんな時間に来たことはないけれど、摩天楼のビルや高層アパートに囲まれたクラークパークは、思いのほか明るかった。湖畔を歩くカップルや友人同士がポツポツといて、雰囲気も悪くない。でも、大天使像のある西の奥まったエリアまで来ると、印象はがらりと変わった。どことなく薄暗いうえに、人影がまったくないのだ。まるでいまにもどこからか、ゾンビかおばけがあらわれそう!
「うう……おっかない」
両翼を広げ、天に向かって剣をかかげる大天使像を見上げながら、わたしは思わず声にした。
「……なにか出たら、助けてくれる?」
もちろん返事はない。だよね。
シティのど真ん中にある公園なのに、夜風が枝葉を揺らす音しか聞こえないのも不気味すぎる。昼間はどこもかしこもにぎやかなのに、夜の公園は時間が止まったみたいに静かだ。なんだか異界に紛れ込んだみたいな気がしてきた。
「パティ、遅いな」
腕時計を見ると、十五分過ぎている。もしかして、お祖母さんが出かけるのをやめたとか? ありえる……。携帯で連絡をとりたいところだけれど、パーク内の電波が弱すぎてかけられないから待つしかない。それとも、公衆電話を探してみようかな。あと二十分待っても来なかったらそうしよう。
じりじりとその場にたたずんでいたとき、またもやあの強い視線を感じて、背筋にぞくりとした悪寒が走る。
絶対にわたし、見られてる。どこからか、見られてる!
「(ジーン!)」
大天使の台座の影から、聞き覚えのある声がした。
「パティ?」
「(そう。静かに、こっちに来て)」
台座のうしろにまわると、黒いコートを着込んだパティがいた。すっぽりとフードを目深にかぶり、まるで影になろうとしているかのように台座に背中をくっつけている。
「いつからいたの?」
足音も気配もしなかったはずだけれど、わたしが気づけなかっただけかな。
「ついさっき。遅れて本当にごめんなさい。転校前にあなたに会えてよかったわ。来てくれてありがとう。ここはシティで数少ない安全な場所なの」
なにに対して数少ない安全な場所なのか気になったものの、パティにいま訊ねることはそれじゃない。
「まさか、もうどこかへ行っちゃうの?」
パティがうつむく。そうらしい。
「どうして転校するのか教えてくれない? してはいけないことをしたって言ってたけど、それってなに? わたしはおしゃべりだけど、大事なことは絶対に誰にもしゃべったりしないから」
沈黙したパティは、さらに深くうつむく。肩が小さく震えはじめ、両手で顔をおおう。泣いてるんだ。わたしはそっと、パティの肩に手をそえた。
「パティ、泣かないで。わたしに言ってみて?」
「……言えない。言っても信じてもらえないわ」
わたしのパパが元スーパーヒーローで、わたしもその血を受け継いでいるってことよりも、信じられないことなんてないような気がする。
「この世界にありえないことなんかないもの。なんでも信じるよ」
力強く言うと、パティが顔をあげる――直後、突風が巻き起こった。パティのフードが強風に飛び、分厚い眼鏡をかけた顔があらわになる。と、わたしの肩越しに闇夜を見上げたパティは、驚いたように小さな目を見開いた。
なんだろ。うしろを見ようとした矢先、ふたたび夜風が吹きすさび、大天使像の背後にひろがる森の木々をざわざわと揺らした。
「うわっ、なにこの風」
とっさにベースボールキャップをおさえて振り返った瞬間、わたしはフリーズした。
人って本気で驚くと、声が出なくなるらしい。まるで目の前にスクリーンが広がっていて、その画面越しに別世界の出来事を眺めているみたいな、奇妙な夢を見ているような感覚に陥る。
でも、これは夢じゃない。なぜならわたしの腕を、パティが強く握りしめている感触がしっかりあるから。
「……な、なにあれ」
わたしの目に飛び込んだのは、五体の黒いシルエットだった。大きな両翼を広げているから鳥だと思いたいけれど、形状はあきらかにそれじゃない。人の背中から翼が飛び出しているだけなら、どこかのコミックストアでコスプレ大会があったのかもしれないと思える。でも、アレは違う。
だって、翼のある骸骨が空を飛んでいるんだもの!
「な……なな、なにあれ」
さすがに声が震える。同時に、はっとした。昨夜見た鳥のような影の正体は、アレかもしれない。だとしたら、アレはなに!?
五体の骸骨が上空で集まり、やがてひとり分のシルエットになる。その影のような輪郭が、ゆっくりと地面におり立った。あれこそゴースト? いや、新種のゾンビかも!
「……よ、よくわかんないけど、逃げなくちゃ!」
わけもわからずそう言ったものの、びっくりしすぎて足が動かない。両翼を広げた黒いシルエットが、じりじりとこちらに近づいてきた。
「待って、急がないで」
意外にもパティは落ち着いていた。まさか?
「あ、あなた、アレがなんなのか知ってるの?」
どきりとしたように瞠目したパティは、小さくうなずいた。
「……ええ。アレはコルバス。魔界の使い魔」
「はあっ!?」
うっそ、うっそ!! 魔界の使い魔ってなにそれ!?……っていうか!
「ど、どど、どうしてそんなこと知ってるの!」
わたしの腕をつかんでいたパティの手の力が強くなる。
「……お祖母さまに叱られるけれど、やっぱりあなたにはきちんと話したい。なにもかも、あとで話すわ。あとがあれば……だけれど」
「えっ!」
あとがあればって、どういうこと!?
シルエットだった使い魔の姿が街灯に照らされ、はっきりとした輪郭になっていく。
骸骨姿から一転し、黒髪をオールバックにした男性の姿だった。瞳は赤く人間離れした端正な容姿で、漆黒の翼がシックなスーツの背中にある。
まさかわたし、まだヘンリーの家にいて、うっかり眠っちゃったのかも。それで夢を見ているのかも? そうだったらいいのに、絶対そうじゃないってわかってるから困る!
「ど、どど、どうすればいいの」
「と……とにかく、いまはここにいて」
「こ、ここって?」
「大天使ミカエルさまのそばよ。ここまでは近づけないはずだから」
でも、ただの像でしょ? そう言おうとした寸前、使い魔のコルバスは背中の翼を折りたたみ、ピタリと立ち止まった。台座にしっかりと張りついているわたしたちを見すえながら、スーツからタバコを出してくわえ、火をつける。さもおいしそうに紫煙を吐くと、ポケットから黒革の手袋を取り出して指を滑り込ませた。
「楽しいおしゃべりをしているところ、失礼するよ、お嬢さんたち。実はわたしの主が黒髪の美しい婚約者を探しているのだが、あちこち雲隠れをしているようでなかなか見つからなくてね」
タバコをくわえた格好で、手袋の感触をたしかめるかのように手のひらを開いたり握ったりを繰り返す。そのたびに、ぎゅっ、ぎゅっ、と革の伸縮音がした。
「急がなければ、婚姻の日取りに間に合わない。そういった焦りのせいで、間違ったお嬢さんを二人も主のもとに送ってしまった」
わたしははっとする。女子高生の失踪は、この使い魔の仕業だったんだ!
「か、彼女たちは無事なの!?」
思わず口から飛び出す。コルバスはニヤリと笑って、タバコを捨てた。
「わたしは使い魔。ただ主に送り届けるだけ。あとのことは主次第」
知らないんだ。っていうか、犯人が魔界の使い魔だなんて知ったら、ヘンリーのパパとかFBIはどうするんだろ。なにより、この使い魔をどうやって捕まえたらいいわけ?
コルバスが地面の吸い殻を革靴でつぶした。
「この街は騒がしい。かすかな魔力の匂いはすれど、はっきりと感じることができない。そういうわけで見た目に頼るしかなかったのだが……」
言葉をきり、わたしとパティを交互に見た。
「先日、確実な魔力の匂いがした。わたしの下僕に監視させていたのだが、どうにも婚約者の特徴と一致しない。しばし野放しにしたものの、ほかで捕らえた二人のお嬢さんは違ったようだし、悩んだ末にようやくひとつの結論にいたった」
そう言ったコルバスは、わたしを見た……って、え?
「魔法で姿を変えていると、もっと早く気づくべきだった」
……は?
革手袋の右手を広げたコルバスは、
「さあ――」
わたしに向かって声を荒らげた。
「――正体を見せよ!」
「彼女じゃないわ!」
とっさにそう叫んだパティが、わたしをかばうようにして前に立ちはだかる。コルバスの手から放たれる黒い霧の塊を、パティが全身で受け止めた。瞬間、彼女の眼鏡が吹き飛ばされ、髪があおられる。その姿が、大蛇のように巻き付く塊に包まれて見えなくなっていく。
なにこれ、なにそれ!! 驚きのあまり尻もちをついたわたしは、声をかぎりに叫んだ。
「パティ!!」
「平気よ、ジーン」
パティの声が聞こえた刹那、まとわりついていた黒い霧が、生ぬるい夜風に溶けて消えていく。びっくりしてパティを見つめると、コルバスは満足そうな声音で笑った。
「やはりな。やっと見つけた……!」
そこにいたのは、わたしの知っているパティじゃなかった。身長はわたしよりも高く、ぼさぼさの髪どころか絹のようなストレートの黒髪が、さらりと肩で揺れていた。
なんて長いまつげで、きれいな瞳だろ。その横顔は、わたしがいままで目にしてきた女の子の誰よりも美しかった。
すっごい。ママとパパの結婚記念日からびっくりすることばっかりで、めちゃくちゃパニクってきた。オーケー、ジーン。全然オーケーじゃないけど、まずは深呼吸して落ち着こう。とにかく、パティは普通じゃない。いや、パティ『も』だ。だって、わたしも普通じゃないから。
「さあ、その忌々しい結界のはられた像から離れて、こちらに来ていただこう。そうすれば二人のお嬢さんは無事、自宅に戻ることができるだろう」
パティが躊躇する。うつむき、一歩前に進もうとする彼女の手首をとっさにつかんだ。
「ダメだよ」
パティははっと息をのみ、わたしを見下ろした。
「詳しい事情は全然よくわかんないけど、とにかくダメな気がする」
パティの手を握って立ちあがったわたしは、コルバスを見すえながら彼女に耳打ちした。
「魔界の使い魔が嘘つかないわけないでしょ。あなたを連れて行ったところで、二人の女の子も無事に戻れるかわからないじゃない。別の方法を考えて助けたほうが確実だよ」
「で、でも……」
「詳しい事情はまだよくわからないけど、あなたの不自然な転校の理由は、あの使い魔の主から逃げてるからなんでしょ?」
パティが息をのむ。図星だ。
「だったら、ここはとにかく逃げまくらなきゃ。連れ去られた女の子たちも心配だけど、あなたが犠牲になったところで解決するとは思えない。ここはいったん逃げたほうがいいよ、絶対に」
パティが紫色の瞳を大きく見開く。
「……ジーン。わたしが怖くないの?」
「え? 怖くないよ。どうして?」
「だって、わたし……魔法で姿を変えてたのよ?」
「つまり、あなたは魔法使いってことだよね」
パティが目でうなずいた。すっごい。魔法使いの友達ができるなんて想像したこともなかった。でも、わたしだってサイキック・ガールだから似た者同士かもしれない。もっとも、常に薬で無力だけれど。
「魔法が使えるからって、あなたはあなただもの。だから怖くないよ」
大きく目を見開いたパティは、わたしの手をぎゅっと握った。
「ありがとう、ジーン」
そう言うと、いまだ一定の距離を保つところにたたずむコルバスを見すえる。
「……ああ、またお祖母さまに叱られてしまうわ」
「じゃあ、わたしもあなたと一緒に叱られることにするよ」
パティはクスッと笑った。わたしの手を放すと、その手を天使像の台座にそえる。
「いまの言葉で勇気がわいたわ。とにかくいまは、ここから逃げましょう!」
パティの唇が小さく動く。そういえば昨日、メイソンとジェイが競ったときも同じように動かしていた。もしかするとパティはあのとき、ジェイを助けるためになにかしたのかもしれない。だからメイソンは、不自然に転んだのかも。
耳慣れない言葉がかすかに聞こえる。やがて、パティの手を中心にして、台座に魔法陣が浮かびあがっていく。それに気づいたコルバスが、革手袋の右手を向けた。
「無駄な抵抗はやめろ!」
黒い霧が向かってきたのと、台座の魔法陣が大天使像を包み込んだのは同時だった。まるで硬い石の衣を脱ぎ捨てたかのように、大きな剣をかかげた天使が黒い霧を一振りで蹴散らす。そのすきに、パティはわたしの手を取って駆け出した。
「うわっ!」
ずしりと地面がとどろく。走りながら振り返ると、翼を広げた天使像が台座からおり立ち、コルバスに剣を向けていた。
「あああ、あれはどうなるの!」
「三十分でもとの位置に戻るわ。ああ、こんなときのために、真剣に練習しておくべきだった!」
「練習って?」
「ほうきで空を飛ぶ練習。わたし、全然飛べないの!」
それは残念!……なんて、残念がっている場合じゃなかった。街灯のとぼしいパーク内の森をひた走っていると、戦っているようなけたたましい音が遠ざかっていく――かと思われた矢先。
人影のまったくない散策路の前方から、誰かがこちらに近づいてくるのが見えた。こんな時間に誰だろ。誰でもかまわないけど、ここは危険だって知らせないと!
「ジーン!」
パティが見上げる。夜空を背景にした枝葉のすきまから、五体にわかれたコルバスの骸骨姿が視界に飛び込む。そんなコルバスを追いかけているらしく、ドスドスと地面を踏みしめてくる大天使さまの像の足音がとどろいた。ものすごく心強いけれど、絵面としてはめちゃくちゃカオスだ。案の定、散策路の先にいた人が、驚いたように立ちつくしている。
っていうか、ちょっと待って。あのパーカにデニムには見覚えがある。いや、見覚えがあるどころの騒ぎじゃない。どうしよう、大変だ!
「ヘ、ヘンリー、なにしてるの!?」
ヘンリーに近づくと、カオスな光景を呆然と見つめながら口を開いた。
「きみの様子の怪しさと、玄関ではなく窓から外へ出た理由が知りたくて尾行した。だが、乗り込んだタクシーがかなり遅くて、このパーク内で見失ったというわけだ――あれはなんだ!?」
「なんでもいいから、ここから逃げて!」
ヘンリーの腕を取って走ろうとしたとき、上空から五体の骸骨がおりてくる。大天使が大きな剣をふるって、一体を蹴散らした。甲高い絶叫とともに光り、塵と消える。と、またもや男性の姿に戻ったコルバスは、
「愉快じゃないか! 大都会のど真ん中で、こんなに遊べるとは思わなかった!」
そう叫び、さも楽しそうに突き出した両手を広げた。瞬間、どす黒い霧雨が放たれて、大天使像をおおっていく。有刺鉄線のように巻き付いたそれが、じりじりと像にくい込んでいくのを尻目に、コルバスがこちらに向きなおった。
――マズい!
パティが呪文を唱え、青白く輝く魔法陣を盾にしようとした寸前、コルバスの黒い霧が爆風のように襲ってきてパティを吹き飛ばした。
「パティ!」
樹木の幹に背中を打ちつけたパティが、ぐったりと倒れる。
もう頭にきた。絶対に頭にきた! でも、頭にきただけでなにもできない自分が心底悔しい!
「ついでに掃除をしておくか」
コルバスがわたしとヘンリーに向かって手を広げた。爆風に吹き飛ばされる直前、わたしは思わずヘンリーをかばい、地面に伏せた。ぎゅっと目を閉じてヘンリーに覆いかぶさった刹那、なぜか爆風がそれた。
……あれ?
うっすらと目を開けると、間近にヘンリーの顔がある。ヘンリーはまばたきもせず、わたしを見つめていた。ち、近い! 自分のせいだけど近い! ぎょっとしてとっさに起きあがり振り返ると、コルバスは困惑の表情でなぜか天をあおぎ見ていた。だから爆風がそれたのだ。
わたしも思わず見上げる――と、ひとつすじの突風が、どこからともなく上空から舞いおりた。
ズシリとした地鳴りとともに、石だたみの散策路がめり込む。舞いあがった土埃が夜風になびいた瞬間、その場で片膝をついている存在が目に映った。
黒く輝くメタリックなコスチュームとマスクは、子どものころに憧れたスーパーヒーローの面影を残していた。え、うっそ。待って、いるわけない。きっとこの人こそコスプレ大会の帰りだ。でも、そんな人が空からくるわけない。
どうしよう、本物だ。でもなんで? っていうか、誰!?
口もと以外はマスクに隠れていて、顔はわからない。パニクりすぎて息が苦しくなってきたとき、謎のメタリックなスーパーヒーローは振り返り、声を荒らげた。
「こんな時間にこんなところでなにしてるの!?」
聞き覚えのある声に、フリーズしている場合じゃないのに思いきりフリーズした。
なにこれ、どういうこと? なにしてるのって、それはこっちのセリフだよ。
――ジェイ! あなたこそ、なにしてるの!?