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09:ランチとキスとIQの法則

〈今日、どこかで会って話せない?〉

 授業がはじまる前に、急いでパティにメールをうった。でも、返信はない。目の前におっかないお祖母さんが座っているから、きっと監視されていて携帯を見られないんだ。あのバスみたいなリムジンをおりるころまで待たなくちゃ。

 ため息をついて校舎に戻ったとき、携帯が鳴る。やっとパティから返信がきた。

 〈どうしよう。そうしたいけれど、無理だわ〉

 まるでロミオとジュリエットみたいな文面だ。こそばゆくてうっかり笑いそうになったけれど、そんな場合じゃない。

 〈どこでもいいから指定して? 急いで行くから〉

 〈まさか、サボるの?〉

 〈当然でしょ。授業なんかよりもこっちのほうが大事!〉

 これって、ママとパパから渡された『約束リスト』の「学校を無断で休まないこと」にあてはまるかな? 微妙な問題だけど、一度くらいそうしたって神さまはきっと見逃してくれるはず。

 少しの間をおいて、返信があった。

 〈こっちのほうが大事だなんて言ってくれて、ありがとう。でも、サボらなくても大丈夫よ。祖母が出かけるのは夜だから、そのときなら少し抜け出せると思うわ〉

 〈オーケー! どこで待ち合わせたらいい?〉

 〈だけど、すごく遅い時間になってしまうわ〉

 〈平気だよ。ママとパパは旅行に行ってて、ひとり暮らし状態だもの〉

 でも……と躊躇するパティの文面を説得し、クラークパークの西にある大天使像の前で、午後十時に待ち合わせすることになった。

 〈ジーン、気をつけて。絶対に無理をしないでね。来られなくなってもいいから〉

 〈意地でも行くから待ってて。それじゃ夜にね!〉

 携帯を握りしめ、鼻息荒くロッカーに向かう。次の授業に使う教科書とバインダーを取り出し、急いで教室に向かった。

 

★ ★ ★

 

「もしかして、少しサボった?」

 カフェテリアの窓際の席でランチを食べていると、目の前にジェイが座った。今日もトレイの上は山盛りだ。

「えっ、どうして?」

 ハンバーガーを頬張ったジェイは、親指で口のマスタードを拭いながらニヤッとする。

「軍人みたいに姿勢を低くして駐車場に向かう女の子が、物理クラスの窓から見えたんだ。今朝一緒に登校した女の子の服装にそっくりだったから、そうかなって」

 思わず笑ってしまった。

「バレたか。けど、だったらほかの人にも見られてたかな」

 ジェイも小さく笑う。

「どうかな。気づいたのはたぶんぼくだけだと思うよ。で? きみはなにをスパイしてたの?」

「あのおっかない魔女、パティのお祖母さんなんだ。車に誰かいるのが見えて、パティかもしれないと思って近づいたの。そうしたらやっぱりパティが乗ってて、もう登校できないなんて言うんだよ。そのあとすぐに魔女が来て、パティを転校させるんだって。わけわかんないでしょ」

 え? とジェイも困惑する。

「それは妙だね」

「でしょ?」

 ダークグレイ色の彼の瞳を見つめたとき、ふとまたあの言葉を思い出してしまった。

 ――あの子は人じゃない。

 まるで魔女の呪いみたい。忘れようと思っても、ゾンビみたいに何度も蘇ってくるんだもの。

 まったく、失礼しちゃうよ。ジェイのどこが人じゃないわけ? だったらあなたは意地悪で鼻持ちならない魔女じゃないの。大金持ちにもデイビッドおじさんみたいないい人はいっぱいいるけれど、わがままで意味不明な人もわんさかいる。パティのお祖母さんは間違いなく後者だ。きっといつもあんな暗号みたいな言葉で、部下たちをあやつってるんだ。

 間違いない。それだよ!

 腹立たしさに眉根を寄せ、ザクザクとフォークでサラダを突き刺していると、

「ほかにはなにか言ってた?」

 ジェイが訊く。意味深で失礼な言葉をわざわざ告げる必要なんかない。「べつに」と答えようとしたとき、メイソン率いるアメフトチームと、ミラ率いるメデューサチームが、わたしたちのテーブルを囲みはじめた。

 うっそ、なにこれ。もう勘弁して。

「……食べるのなら座ったら? わたしたちは別の席に移るから」

 げっそり顔のわたしが言うと、トレイを手にしたミラは勝ち誇ったように笑った。

「そうね、そうしてくれる? でもその前に、あなたたちがつきあってるって証拠を見たいのよね。じゃないと、あたしたちここをどかないわよ」

 どうしよう、いやな予感……。

「証拠って?」

 ジェイが訊ねると、メイソンが言った。

「つきあってんだろ? なら、ここでキスして見せろよ」

 やっぱり、そうきたか……! たしかに、ミラとメイソンなら言い出しかねないことだった。作戦会議の時間はたっぷりあったのに、あらかじめ想定しておかなかった自分の首を絞めてやりたい!

 カフェテリアが騒然となり、またもや人だかりができてきた。

「キスしなさいよ」とミラ。

「バッチリ写真におさめてやる。そうすれば、おまえらはもう公認の仲だ」

 トレイをテーブルに置いたメイソンは、制服のポケットからインスタントカメラを出した。

「そんなことをする必要はないだろ」

 ジェイが言う。もはやカフェテリア中の視線が、窓際のここに集中している。そのことに気をよくしたのか、メイソンはここぞとばかりに反撃に出た。

「そうでもないぜ。もしも、おまえらがつきあってるふりをしてるだけってことになれば、嘘つき同士ってことだ」

 その言葉を引き取るように、ジェイを見たミラはふんっと鼻を鳴らした。

「昨日の件で目立ったあなたが、女の子たちをあきらめさせるためにジーンとつきあってるふりをしてるんじゃないかって、あちこちで噂になってるのよね」

 それはマズい。っていうか、みんなけっこう賢くて悔しい。

「とにかく」

 メイソンがニヤッとした。

「ジャズウィットはどうでもいいが、おまえはそうじゃない。もしもおまえが嘘つきだったら、おまえの養父に見る目がないってことになるぜ。そうだろ?」

 ジェイの視線が一瞬鋭くなった。デイビッドおじさんの名前を出すとか、卑怯すぎる!

「はあ?」

 いったいなんだって言うの。完全に頭にきた!

「あっそ」

 椅子から腰を浮かせたわたしは、テーブル越しにジェイの胸ぐらをそっとつかんだ。目を見張った彼が、びっくりしたみたいな顔つきでわたしを凝視する。

「キスすればいいんでしょ」

 冷静になったあとで後悔するのは目に見えてる。でも、ジェイはともかくデイビッドおじさんのことまで持ち出すなんて絶対に許せない。

 これはわたしにとって、はじめてのキスだ。でも、いままでだってママとパパ、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんともキスしまくってきたんだから、どうってことない。

 あ然としているジェイの顔を、胸ぐらごと引き寄せる。もしかしたらジェイはいやかも? そうだとしても、ここまできたらいまさら引けない。きっと彼もわかってくれるはず!

 ああ……すっごく残念。眠っているお姫様にそっと口づける王子様みたいな絵面が、無情にもどんどん遠ざかっていく。相手の胸ぐらをつかんでキスしようとするお姫様の物語とか、なにかあったかな。できればあってほしい。そうしたら、わたしも少しは慰められるから!

「いいよ、ジーン。手を離して」

 そう言うと、ジェイも椅子から立った。

「え?」

「いいから、そうして」

 彼のシャツから手を離したとたん、今度はジェイの両手がテーブル越しに伸びてくる。と、ジェイの手がわたしの頬を優しく包んだ。瞬間、わたしの鼓動は大きく高鳴る。

 ジェイの顔が近づいてきた。自分から覚悟を決めるのと、こんなふうに相手から迫られるのとでは雲泥の差らしい。さっきは怒りで隠れていた感情が、むくむくと全身を包んでいく。もう身体全部が心臓になったみたい。ドキドキしすぎて風船みたいに破裂しそう!――と、きつくまぶたを閉じた直後。

「待つんだ、ジェイコブ。きみには宗教上の理由があるはずだ」

 聞き覚えのある冷ややかな声が、人だかりの中からあがった。ぱっちりと目を開けた瞬間、野球ボール一個分の距離にジェイの顔があって、いっきに顔が熱くなる。しばらくその距離で固まっていると、わたしのロボットみたいな幼馴染が言った。

「婚姻前の触れあいは禁止されていたはずだが?」

 え、そうなの? わたしの頬を包んだまま微動だにしない彼に目で問うと、身に覚えがないと言わんばかりに眉をひそめた。

 ヘンリーはメイソンのそばに立ち、たたみかけるように言葉を続ける。

「この世には宗教が無数に存在している。彼は彼の信じている神をしりぞき、きみらのせいで禁じられた行いを決行しようとしている。だがそれは一種の呪いとなって、未来永劫きみときみらの子孫にふりかかるだろう。本当だ、嘘じゃない。そうなったらもう誰にも止められないぞ」

 ジェイの手がかすかにゆるむ。戸惑ったように片目を細めると、わたしの頬からゆっくりと手を離した。

「なに言ってんだ、ヘンリー。おまえはアホか」

 メイソンが言う。

「おれがアホなら、きみは命知らずの大バカ野郎だ」

 ヘンリーが応戦した。どうやらヘンリーは、わたしたちを助けようとしてくれているらしい。でも、そうだとしたらなんでだろ……って、大変だ。さらにいやな予感がしてきた。

 尊大な態度で、ヘンリーは腕を組む。

「まあいい。彼らのキスをカメラにおさめ、好きなだけ目にやきつけるがいい。だが、いずれきみたちは今日のことを後悔することになるだろう」

 場が騒然となった。すると、アメフトチームのひとりがささやく。

「……なんかそういう映画見たことあるぜ。神さまじゃなくて悪魔に呪われたやつだけど」

 別のひとりが眉根を寄せた。

「ただの映画だ。どっちもあるわけないだろ」

「あるわよ」

 ミラの取り巻きが言った。

「わたしのお祖父ちゃんが見たことあるもの。昔、隣の人に悪魔が憑いて、毎晩神父さまが来てたけどよくならなくて、結局車に轢かれて死んだって」

「なにそれ」とミラ。

「ほんとよ? その人、すごく信心深い人のことをその……バカにしたり、意地悪したりしてたみたい。だから、神さまの怒りに触れたんだってみんな言ってたって。わたしすごく怖くなって、それからは絶対に神さまの悪口とか言わないようにしてるの。その……かっこ悪くて言えなかったけど」

 メイソンが一瞬ひるんだとき、ヘンリーの眼鏡がきらりと光った。

「ジェイコブの神の怒りに触れてもいいのなら、彼らに続きを迫るがいい。ただし、ここからおれが立ち去ってからにしてくれ。けっして巻き込まれたくはないからな」

 本当に災いが起こりそうな不穏な気配を、ヘンリーがかもし出す。とうとうミラとメイソンは顔を青くした。

「な……なんなの。気味悪いわね!」

「行こうぜ、メイソン」

「マジでヤバそうだって!」

 チッと舌打ちをしたメイソンは、カメラをしまうとトレイをつかみ、人だかりに向かって「どけよ!」と吠えながら去っていった。それを合図にして、蜘蛛の子を散らすようにみんなが去っていく。すると、ヘンリーが言った。

「脳細胞も筋肉だと、世界はさぞかし単純だろうな。幸せなことだ」

 どうしよう。なんで?

「どど、どうして」

 どうしてつきあってないってバレたんだろ! 息をついたヘンリーは、椅子に座ると眼鏡を指でととのえた。

「筋肉バカがキスをしろと迫ってから、躊躇した空白の時間が二分四十三秒もあった。我が校でつきあっている男女は、あちらこちらで平気でいちゃつく。ロッカーでもキスをし、いまここでもそうだ。ほら」

 たしかに、あちこちでいちゃついているカップルはいる。

「……乱れちゃってるね。先生はなにしてるのかな」

 むなしいわたしのいやみを、ヘンリーは華麗に無視した。

「だがきみらは二分四十三秒もの間、たかがキスごときに躊躇し、困惑の視線を交わしまくっていた。そのうえ、最初に手を出したのはジーンだ。おそらくお気に入りのおじさんの悪口を言われて頭にきたからだろう」

 的確すぎる推理力にびっくり。

「すごい。そのとおりだけど、手を出したとか言わないでくれる?」

 さらに顔が赤くなってきた。ジェイを盗み見ると、彼の頬もすこし赤くなっている気がする。もしかして、ジェイも誰かとキスしたことがなかったのかも?

「とにかく。以上の点から、つきあっていないという結論に達した」

 ……IQがとんでもない市警部長の息子って、だから苦手だ。

「そういうわけで、どうしてくれる?」

 ヘンリーが眼鏡越しの眼光を光らせた。念のため、訊いておこう。

「どうしてくれるって、どういうこと?」

「きみらがバカげたドラマの主人公になるのを阻止してやったんだ。見返りは当然だろう」

 訊くだけ時間の無駄だった。ため息をついたジェイはヘンリーを見て、苦く笑った。

「インタビューは土曜日の午後にしてもらえると助かるよ。それで手を打ってもらえるかな」

「いいだろう」

 ヘンリーが椅子から立ちあがる。と、思い出したようにわたしを見た。

「そういえば、きみは今夜のディナーに来るのか?」

 いろいろありすぎて忘れそうになってたから、あらためて耳にできて助かった。

「そ、そうだった。もちろん行くよ」

「ちなみにだが、母が鼻歌を歌いながらゲストルームにぬいぐるみを置いたり、花やクッションを飾ったりしているという情報が父から入った」

「えっ」

 それって、つまり?

「きみの宿泊を楽しみにしているらしい。おれとしては遠慮してもらいたいが、うきうきしていた母ががっかりするところを目にし、いつもは冷静沈着な父が慌てふためき、凡ミスを繰り返すさまを見るのだけは避けたい。そういうわけで、泊まる用意をして来るんだな」

 わたしはうなだれた。フランクル家の紳士たちはどうでもいいけど、キャシーママだけはがっかりさせたくない。それに、わたしのためにゲストルームをかわいく整えてくれてるんだとしたら、すごく嬉しいもの。

 まあいっか。一泊くらい我慢しよう。そうすればキャシーママの気もすむはずだ。

「わかった。そうするよ」

「ああ。そうしてくれ」

 ヘンリーが去る。やれやれとランチの続きを食べようとした寸前、ジェイが探るような視線を向けてきた。

「……泊まるの?」

「え? ああ、うん。そういうことになっちゃったみたい」

 デイビッドおじさんからいろいろ聞いているはずのジェイは、それ以上なにも訊いてこなかった。それはそれでさびしい気もしたけれど、つきあっているわけじゃないんだから当然だ。

 でも、さっきのはちょっと……いや、かなりドキドキしたな。

 ヘンリーが助けてくれなかったらどうなってたんだろうって、思わず考える。また顔が赤くなりそうになって、一心不乱に残りのサラダを頬張った。そうしながら、ふと思い出す。

 ……ちょっと待って。ヤバいかも。

 フランクル家に泊まったら、夜のお出かけを許してもらえるわけがない。

 パティに会うため、こっそり抜け出さないといけなくなってしまった!

 

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