06:はじまりの胸騒ぎ
パティを見つけられないうちに、放課後になってしまった。せっかく仲良くなれそうだったのに、突然の言葉が気になってしかたがない。もしかして、わたしがなにかやらかしちゃった? 思い返しても全然わからない。ぐるぐると考えながら歩いていると、ヘンリーの申し出をあっさり断ったジェイが駐車場で待っていた。
「眉間に皺が寄ってるよ」
ジェイが笑う。
「パティがどこにもいないから、気になって」
そう答えた直後、どこからともなく女の子たちが集まり、こちらに向かって来るのが見えた。お目当てはメイソンを打ち負かした新たなスターのジェイだ。しかも、女の子たちの集団のうしろには、自分のクラブに勧誘しようとする運動部員たちが列をなし、さらにはまだあきらめていないらしいヘンリーの姿まである。ほらね、やっぱり。
「こっちに来てる気がするのは、ぼくの気のせいかな」
ジェイがけげんそうな顔をする。
「気のせいじゃないよ。言ったでしょ。忙しくなるって」
わたしの言葉に、ジェイは目を丸くした。本当に自覚がないらしい。
「じゃあ、急いで逃げよう」
ジェイが運転席に乗り込もうとしたときだ。
「ジーン」
聞き覚えのある声がして、振り返る。駐車場に入ってきた車の窓から、パパが顔を出して微笑んだ。
「ママに頼まれた買い物に、つきあってくれるかな」
★ ★ ★
気になりはじめた男の子にデート相手ができる場面を見ているよりも、パパとマーケットの食材を眺めているほうがマシだって思うのは、女の子として失格かな。っていうか、ひねくれすぎ?
わたしは自分が好きだけれど、男の子に関してはまるきり自信がない。学校じゃモンスター扱いされてるし、去年の学年末に行われたダンスイベントもパートナーが見つからず、興味がないふりをしてママとパパから切ない視線をそそがれたほどだ。
いつか大人になったとき、素敵な恋ができればいいと思っているけれど、人気者を相手にして報われない片思いに身を焦がすつもりはない。だからいまのうちに、ジェイとは距離を保ったほうがいい気がする。彼にガールフレンドができたとしても、気さくにつきあえる友達でいられるように……って、どうしよう。わたし、完璧にジェイを意識してない?
誰かを好きになったことなんかないから、いまにもパニックを起こしそう。出会って二日しか経ってないのに、なにこれ。展開が早すぎでしょ!
「ジーン、顔が青いよ。どうしたの」
カートを押すパパが言う。
「だ、大丈夫。なんでもないよ」
とにかく、落ち着こう。全然平気。だって、まだ好きってわけじゃないもの。なんか気になるなあって程度だから、このまま距離を保っていけば、いずれこの妙な気持ちだって冷めるはず。
そんなことより、パティのほうが問題だ。明日、もう一度彼女を探してみよう。そう決めると、ちょっと気分が落ち着いてきた。とにかくいまはパスタソースを失敗したママのために、おいしそうなズッキーニとトマトの選別に集中しよう。
「ママ、どうして失敗しちゃったの?」
「はりきりすぎて、ソースを煮詰めすぎちゃったんだよ。なにかよくわからない焦げ茶色の液体になってた」
わたしが笑うと、パパも笑う。
「また失敗するかも?」
「そうなったら、パスタとピザの宅配を頼もう」
「だったらわたし、タイ料理がいいな! 雑誌で見て一度食べてみたかったんだ。辛いんだって」
「むしろそのほうがいいみたいな口ぶりだね」
「バレたか」
クスクスとパパは笑う。
「その提案は、ママには内緒にしておくよ。でも、いいね。そうしよう」
買い物を終えて、後部座席に荷物を置く。車を走らせるパパの隣で、日差しが傾いていく通りを眺めていた。すると、パパが口火をきった。
「それで? ジェイとは仲良くなったかい?」
「うん、まあね。デイビッドおじさんからなにか聞いた?」
「聞いたよ。デイビッドが自分の後継者に決めたのなら、彼の身の上がどうであれ、間違いなくいい子だと思うよ」
そうだね。いろいろ鈍感だけど。そう答える変わりに、わたしはうなずく。
「さっきは邪魔をして悪かったね」
「そんなんじゃないよ」
パパはわたしを一瞥し、クスッとした。
「デイビッドは自分の夢を、彼に託すつもりみたいだ」
「なにそれ」
ハンドルを握りながら、パパは苦笑した。
「そのうちにわかるさ」
きっといまごろ、ジェイのデート相手は決まったはず。美人だけど意地悪なミラみたいな子じゃなくて、彼がデイビッドおじさんの養子じゃなくても好きでいてくれるような、かわいくて優しい子だったらいいな。そうしたら、わたしも友達になれるかもしれないもの。
パティと三人でランチができるような、仲良しに。
「……今日ね、ジェイのほかにも転校生がいたんだ。イギリスから来たって言ってた」
パパが驚く。
「イギリス?」
「うん。お祖母さんがこっちで暮らしてるんだって。一緒にランチしたよ」
「そう。仲良くなれそうかい?」
「うん……」
――もうわたしには関わらないほうがいいわ。
あの言葉が頭から離れない。きっとなにか理由があるはずだ。
「……でも、選択科目が違うみたい。今日はまだ初日だし、これからかな」
にっこりしたパパが、小さくうなずく。そのときにふと、グランドを走るジェイの姿が脳裏をよぎった。同時に、「子どものころから習っていた」という彼の言葉が蘇る。
あのときは冷静に考えられなかったけれど、いまになって違和感を覚えた。だって、ボーイスカウトに入っていたとか、野球やバスケのキッズクラスだったとかなら納得できる。でも、フランス軍の訓練から端を発しているという誰も耳にしたことのない鍛錬を、子どものころから習っていただなんて。
考えてみたら、ものすごく不自然だ。
「ねえ、パパ。パルクールって知ってる?」
「知ってるよ。突然どうしたの。授業で習った?」
「うん、まあ……。子どもが習うことってある?」
「スポーツとしてはまだ確立されていないものだし、どうかな。どちらかというと命知らずな若者が、肉体の限界に挑戦しながらストリートで遊んでいるような、危険なイメージがあるからね」
「じゃあ、もしも子どもが本格的に習うとしたら、理由はなんだと思う?」
そうだなと、パパが考え込む。
「強いて言うなら――」
もうすぐ自宅が見えてきそうになったとき、ゆっくりと口を開いた。
「身を守るため、かな」
★ ★ ★
わたしとパパがママを手伝い、レシピ本に忠実にしたがったおかげで、タイ料理は結局おあずけになった。
サイキック・ガールになるのを避けるべく薬を飲み、なかなかな出来栄えのパスタとサラダを食べ終えてから、旅行の荷造りがまだ終わっていない二人の助手を引き受けた。二つのトランクに鍵がかかったところで、やっと自室に落ち着けた。
いろいろありすぎて、ものすごく長い一日だった気がする。ベッドに寝転がったとたん、パパの言葉を思い出した。
ジェイがパルクールを身を守るために習っていたのだとしたら、そうしなくちゃいけない環境で育っていたってことになる。
「……彼のパパとママは、中東で知り合ったんじゃなかったかな」
そういえば、いつこっちに来たんだろ。いままでどんな国で暮らしていたんだろ。知りたいことが山ほど浮かぶのに、だんだん眠気におそわれてきた。まあいっか。焦らなくてもいずれわかるときがくるよね。
大きなあくびが出た。もう一秒も起きていられそうにない。服を着たままだけれど、シャワーは明日の朝にして寝てしまおう。もぞもぞとブランケットに潜ろうとした矢先、リュックに入れっぱなしの携帯電話がブーンブーンと鳴り出した。
わたしに電話をくれるのは、ママとパパかデイビッドおじさんだけだ。哀しすぎて笑えるけれど、事実だからしょうがない。ママとパパは家にいるし、この時間だとデイビッドおじさんは家の電話を鳴らすはず。だから、間違い電話だ。そう思って無視をし、起きあがることなく寝返りをうった。でも、しばらくするとまた鳴る。ブランケットをかぶって、ふたたび無視をする。鳴りやんだものの、深い眠りに落ちる寸前にまた鳴った。
「えええ……いったいどこの誰なの」
間違いですと伝えないと、永遠に着信がありそう。あきらめて起きあがり、ライトを点けてからリュックを探って携帯電話をつかむ。着信の名前を目にした瞬間、驚きすぎてフリーズしてしまった。キャシーママに頼まれて番号を登録したものの、いまだかつて一度も鳴らしたことも鳴ったこともない相手の名前がしるされてあったからだ。
おそるおそる通話ボタンを押し、電話を耳に近づける。
『なんだ、起きてるんじゃないか』
なにこの夢。すごい現実っぽい。
「これが夢じゃなければ、起きてるってことになるかな」
『なにを言ってるんだ。寝ぼけているのか』
ヘンリーとこんなにしゃべるなんて、生まれてはじめてかもしれない。やっぱり夢だ。そうだとしたら適当にあしらって、さっさときってしまおう。
「どうしたの。珍しすぎて雪が降るよ」
『ジェイコブの養父がデイビッド・キャシディだという噂を耳にした。オフィスで訊いても教えてはくれないから、きみが一緒だったことを思い出して電話をしたまでだ。本当か?』
あーあ、もうバレちゃった。でも、あの目立ちようじゃしかたないか。
「べつに仲良しじゃないけど、だったらなに?」
『そうであれば、なおさらインタビュー記事をのせなくては。我が校の新聞部を全国に知らしめるチャンスになりうるかもしれないからな。きみから頼んでくれないか』
「はあ? あなたにはなんの義理もないし、ジェイとだってべつに仲良しってわけじゃないもの。彼が断ったんならあきらめて、別のネタを探したら?」
『……なに? おかしいな、仲良しじゃないのか』
「違うよ。どうして?」
『放課後、女子に囲まれたとき、ジェイコブはきみとつきあってると言ってたぞ』
「はあ?」
やっぱり夢だ。なんて夢だろ。あんぐりと口を開けていると、
『まあ、いい。締め切りにはまだ間がある。おれはあきらめないぞ』
ヘンリーはそう言い放ち、一方的に通話を終えた。サイドテーブルに携帯電話を置いたものの、今度は頭が冴えてまったく眠れなくなる。
ジェイは女の子たちから逃げるため、適当に嘘をついたんだろう。ということは、デート相手を選ばなかったってことになる。それはちょっと……っていうかすごく喜ばしいけれど、なんだか利用されたみたいでもやもやする。嘘なんかつかずに、誰ともデートしたくないってはっきり言ったらよかったのに。
でも、ガールフレンドが不在のままだと、その座を狙う女の子があとを絶たないことは容易に想像がつく。ジェイはその連鎖を、根本から断ち切りたかったのかもしれない。
ジェイの気持ちをとりとめもなく考えたところで、わたしにわかるわけないんだけれど、どんどんと頭がギラギラしてきちゃった。これはマズい。相当にマズい。
「全然眠れない……!」
朝まで寝返りを繰り返したあげく、登校間際になって爆睡しそうになる悪魔の不眠コース決定。こうなったらあきらめて起きて、アイスを食べながらラジオでも聴こうかな。悩みながらまぶたをきつく閉じたとき、またもや携帯が鳴りはじめた。これも絶対にヘンリーだ!
電源をきっておくべきだったと後悔しながら、サイドテーブルに手をのばす。携帯をわしづかみ、ベッドの中で通話ボタンを押した。
「今度はなに? あなたのせいで眠れないんだけど!」
『そうなの?』
え、うっそ。この声、ヘンリーじゃない。ぼさぼさの髪で起きあがり、すぐさまライトを点けた。
ジェイだ。なんで? なんで!?
「ね、ねね、寝ぼけてて。ち、違うの、そうじゃなくて。っていうか、な、なななんで」
『きみに伝えておきたいことがあってさ。でも、きみの連絡先を聞いていなかったから、デイビッドを待ってたんだ。で、この時間になったってわけ。遅い時間にごめん』
「そ、そっか。そそ、それで?」
心臓がバクバクする。もう無理。今夜は絶対眠れない。息をのんで口を閉ざしていると、ジェイは嘘をついたことをわたしに告げた。
『とっさについたとはいえ、もしもきみにボーイフレンドがいたら迷惑をかけたかもって』
わたしは思わず乾いた笑みをもらしてしまう。
「わたしにボーイフレンドがいるように見えた?」
クスクスとジェイは笑った。
『まあ……答えは濁すよ』
「ありがとう。紳士だね」
『どういたしまして。でも、とにかく伝えておこうと思って』
「なんで嘘ついたの? 誰ともデートしたくないって言えばよかったのに」
『言ったよ。でも、シャイだと思われたみたいだ』
ああ、なるほど。
「みんなの押しが強くなっちゃったんだね」
『そう。で、逃げきれなくなった』
あの人数じゃ、無理もない。
「同情するよ。でも、それでいいの? 気になる子、いなかった?」
いないよと、ジェイはあっさり答えた。
『それに、ぼくは誰ともつきあいたくない。けど、こんなことを言ってもジョークだと思われて、きっと信じてもらえない』
「えっ?」
つきあいたくないって、どうして?……って。
「あっ、そっか!」
もしかして、恋愛対象は女の子じゃないとか? わたしの考えが伝わったのか、ジェイは否定した。
『いや、そういうことじゃないよ。ただ、誰ともつきあいたくないんだ。もしも、どうしてもつきあわなくちゃいけないとしたら、ぼくを絶対に好きにならない子を選ぶしかない』
えっ、なにそれ。わけがわからなくてあ然としていると、彼が続ける。
『でも、きみなら大丈夫かなって』
「……え? 大丈夫って、なにが?」
『きみはぼくを――きっと好きにならない』
その声音は、冷ややかな無感情の響きだった。
「……ど、どうしてそう思うの」
『どうしてかな。なんとなく』
ジェイは底なしのびっくり箱だ。次から次に、わたしの予想を大きく超えた言動をする。だから、気になる。それなのに、意識しそうになった矢先、見えない境界線を引かれて拒否されてしまったんだもの。わたしだって意地になる。
ああ、好きになる前でよかった。意味不明なことを言う男の子に、無駄な時間を割かなくてすみそうだもの。
「そうだね。わけのわからないことを言うあなたのことなんて好きにならないから、心配しないで」
『それはよかった。で、眠れそう?』
最悪なことに、明日も明後日も悪魔の不眠コースかも。そう答える変わりに、わたしは言った。
「あなたの前にヘンリーから電話がきて、寝るのを邪魔されたの。いったん起きると目が冴えて眠れなくなるでしょ? それで、あなたからの電話もヘンリーかなって思って、あんなふうに文句を言ったんだ」
ジェイがクスッとした。
『ぼくのせいじゃなくて、安心したよ』
わたしは思わず笑みをもらす。さっきまではヘンリーのせい。でも、いまからはあなたのせいだよ。
しばらくの間つきあっているふりをすることになって、通話を終えた。
なんだろこれ。恋をする前に失恋したみたいな、この冴えない気分をどうにかしたい。
ベッドに横たわったところで、まぶたはいっこうに重くならない。もういい、あきらめよう。こうなったら、どれくらい起きていられるか実験してやる。
鼻息荒くベッドを出たわたしは、ヘッドフォンで音楽を聴きながら、出窓に座って窓の外を見た。満月が見える。もっとよく見たくてライトを消し、もう一度出窓に腰かけた。
満月がすごくきれいだ。ため息をつきながら窓に額を寄せたとき、ほんの刹那、すうっと月を横切る無数の影を見た――気がした。思わず窓を開けて身を乗り出したものの、その影はもうどこにもなかった。
目の錯覚か、それともコウモリかな。この街にコウモリがいるなんて聞いたことがないけれど、誰ともつきあいたくないとか言う男の子もいるくらいだ。私が知らないだけで、人知れず街に潜んでいるんだろう。ま、そんなことどうでもいっか。
ジェイが修理してくれたペンダントを握ったまま、わたしは音楽を聴き、夜空を眺め続けた。
月の輪郭が薄くなっていく、朝になるまで。