05:二人の転校生
ランチ後の昼休みに決行となった競争の噂は、またたく間に広がった。
始業のベルとともに人だかりは去り、ジェイともうひとりの転校生はオフィスに急いだ。それ以来、二人に会っていない。どうやら選択している科目が違うらしい。
ジェイはどうするつもりなんだろ。そればかりが気がかりで授業内容がひとつも頭に入ってこない。クラスを移動するたびにジェイの姿を探したものの、こんなときにかぎって見あたらないから困る。うかうかしているうちにランチの時間になり、食欲が減ってしかるべきなのに、わたしのお腹は立派に鳴った。ほんと、図太い自分が信じられない。
カフェテリアに向かい、トイレにランチをのせて席につく。とにかく急いで食べて、グラウンドに行かなくちゃ。
「こ……ここ、いい?」
ふいに声がかかり、びっくりする。今朝の転校生だった。サンドイッチを頬張りながらうなずくと、目の前に彼女が座った。
「今朝はありがとう。本当に本当にごめんなさい。わたしのせいで……」
「あなたのせいじゃないから気にしないで。彼女たちはいつもああだから、関わらないのが一番なんだ。初日にわかってよかったね」
彼女は小さく笑った。
「ありがとう」
テーブル越しに顔を見合わせ、なんとなく二人で微笑んだ。あれ、なんだろ。こういう感じはじめてかも……なんて、喜ぶ前にすることがあったんだった。
「自己紹介がまだだったよね。わたしはジーン・ジャズウィット」
「パトリシアです。パトリシア・グッテンバーグ。パティでいいわ」
どこから越して来たのかと訊くと、イギリスからだとパティは答えた。
「前は寄宿舎の女学校にいたの。でも、うまくまわりに馴染めなくて、それでその……こっちに祖母がいるから、両親が少し暮らしてみたらどうかって。わたしもそうしたいと思って来たんだけれど、いままでとは全然違って戸惑うことばかりだわ……」
ふう、と息をつく。自分を飾らないパティが、だんぜん気に入ってしまった。
「そのうち慣れるよ」
「そうだといいんだけれど……」
不安げにささやいたパティは、猫背をさらに丸くする。
「ねえ、ジーン。今朝はどうして自分のことをモンスターだなんて言ったの?」
わたしは苦笑した。
「人気者に楯つくと、ランチをひとりで食べるはめになったり、ロッカーにいたずら書きされたりして、あちこちでモンスター扱いされちゃうの。そういうわけ」
パティはクスッとし、わたしのペンダントに目をとめた。
「その、あなたのペンダント。すごく素敵ね」
「ありがとう。わたしの大事なお守りなんだ」
パティは嬉しそうに目を細める。
「イエロートルマリンには、喜びと好奇心の妖精が宿ってるの。彼らがあなたを守ってくれてるわ。だから、そのペンダントは絶対にはずさないで」
わたしは驚き、目を丸くした。
「妖精とかすごくイギリスっぽいね! 石に詳しいの?」
パティがはっとする。
「えっ……と、ええ。祖母が石を集めていて、その影響でいろんな逸話を聞かされてきたものだから」
石の逸話だなんて面白そう! 今度教えてと言おうとした矢先、トレイを手にしたジェイが目の前に立った。
「楽しそうだね。ぼくも仲間に入れてくれる?」
トレイにはハンバーガーが二つ、ポテトとサラダが山盛りだ。これからアメフトのスター選手と競争しようとする人の食欲には見えない。
「そ、それ、全部食べるの?」
ジェイはぽかんとした。
「食べるよ。どうして?」
決定。彼の神経も図太い。もしかすると、わたし以上に。
★ ★ ★
上級生も下級生もグラウンドに集まって来る。こんな騒ぎには絶対に顔を出さないヘンリーまでが、カメラを手にした下級生を引き連れていた。
メイソンとアメフト仲間、ミラとその取り巻きが、「こてんぱんにしてやるぜ」と言わんばかりの勝ち誇った顔でこちらを見る。対するわたしとパティは、準備運動すらしないジェイを不安げに見つめるばかりだった。でも、こうなったらしかたがない。ジェイを信じるしかなさそうだ。と、笛をくるくると指でまわすアメフト部員が、グラウンドに立つ。
にやけ顔のメイソンが、隣のジェイを横目に見て失笑した。
二人の身長に差はないけれど、筋肉量が見るからに違う。アメフト部員にしては細身のメイソンだけれど、シャツの輪郭で筋肉がわかる。そんなメイソンよりも、ジェイはさらにスリムなモデル体型だ。でも、ジェイだって服の下にはしっかりとした筋肉が隠れてるのかも? わかんないけど、できることならそうであってほしい!
メイソンは首をまわしながら、ジェイに言った。
「なあ、こんなに観客がいるんだ。どうせならグラウンド一周にしないか?」
ちょっと、なに言い出しちゃってるの! 百メートルならまだしもグラウンド一周だなんて、悪魔の仕業としか思えないからやめて! そう声を発しそうになった矢先、ジェイがにっこりして答えた。
「そうだね、いいよ」
うっそ……うそでしょ! 自分の立ち位置わかってる? あんぐりと口を開けるわたしに、パティがささやく。
「い、いまさらだけれど、彼は速いの?」
「ど、どうだろ。実はわたしもよく知らないんだ」
「そ、そうよね……。わたしと同じ転校生だものね」
祈るしかない。パティが両手を組み合わせる。アメフト部員が、笛をくわえた。
手に汗握るとはまさにこのこと。こんなときこそ、わたしのサイキック能力の出番かもしれないとふと思う。薬を飲んでるから無理だけれど、メイソンを転ばせることくらいはできたんじゃないかな。ああ、残念。そうできたらよかったのに!
わたしはごくりとつばを飲み、両手をぎゅっと握りしめた。
野次馬たちのカウントダウンがはじまる。五、四、三、二――。
――ピーッ!
メイソンが軽やかにダッシュする。対するジェイは、一呼吸遅れでスタートした。
すぐに距離ができる。スピードをあげるメイソンとジェイの距離は、ぐんぐんと面白いように広がっていった。
背筋を伸ばして大股で走るジェイの動きは、まるでマラソン選手のゴール間近みたい。どことなく疲れきっていて、足があがらなくて、それでも無理やり前に進もうとしている走り方に見える。待って、どうしよう。ここまでとは予想しなかった。全然速くなんてないじゃない!
「なんなの? 偉そうなことばっかり言ってたくせに、あれじゃ相手にならないわよ!」
ミラが笑うと、その場にいる全員が続き、野次馬も笑い出す。振り返ったメイソンも、遠くのジェイを見て笑った。
もうダメ、見ていられない! きつく目を閉じようとしたとき、隣のパティが組み合わせた両手を胸にして、小さく口を動かしていることに気づいた。
なにをささやいているんだろ。そう思った直後、歓声があがる。はっとしてグラウンドを見ると、メイソンが前のめりに転んでいた。でも、すぐに立ちあがって走り出す。ジェイとの距離は俄然変わらず、安堵の吐息と会話があちこちから聞こえてきた。
「さっきの、どうしたんだ? 整備されたグラウンドで転ぶなんて、おかしくないか?」
「振り返って油断して滑っただけだろ。どっちにしろ、メイソンの勝ちだ」
きつく目を閉じたパティの口は、もう動いてはいなかった。さっきのはなんだったんだろ。わからないけれど、きっと気にするほどのことじゃない。
半周したメイソンが、あと数十メートルで戻ってくる。大幅に遅れるジェイの勝ちは、どう考えても絶対に無理――と、あきらめそうになった矢先。
ジェイの態勢が、変わった。
ワン、ツー、スリーと勢いをつけながら低い体勢になった瞬間、まるで獲物を追う野生のヒョウのように地面を蹴りあげ、疾風のごとく駆け出した。
メイソンがまた振り返る。驚き、とっさに前を向いて走るも、ジェイとの距離はみるみる縮んでいく。それまで笑っていた野次馬は静まり返り、ミラでさえ呆然とした。
「な、なにしてんだ、メイソン! もっと速く走れよ!」
アメフト仲間が叫ぶ。でも、ジェイのほうがずっとずっと速かった。
あと少しで一周が終わる。その間際、ジェイはメイソンをすんなり追い越し、息切れすることなくゴールした。
倒れ込んだメイソンが、肩で息をする。でも、ジェイはどこ吹く風だ。
「約束、覚えているよね」
メイソンは息に乱れのないジェイを見上げ、あからさまに困惑した。
「……おまえ、なんなんだ」
「子どものころからパルクールを習ってたんだ。そのおかげだよ」
パルクール? なにそれ。全員が顔を見合わせると、ジェイが教えてくれた。
「フランスの軍事訓練から生まれた、スポーツみたいなものかな。まだメジャーじゃないけど、ストリートで楽しむ人もいる。ビルとビルを飛び渡ったり、アクロバットをしながら走ったりとかね。そういうのは危険だし、あまりいいことじゃないけれど」
肉体を極限まで鍛えて、飛んだり跳ねたり走ったり。とにかく、人間を超越した動きを追求していくものらしい。知らなかった。ジェイには驚かされてばかりだ。
「……手加減したのか」とメイソン。
「加減がわからないから、最初だけ」
「じゃあ、もっと速いって言うのか?」
ジェイは控えめな笑みで応えた。その表情でわかる。もっと速いんだ。舌打ちをしたメイソンは、ジェイをにらみながら立ちあがった。
「おまえは気に入らねえ。いつかマジでやっつけてやる」
「覚えておくよ」
またもやメデューサ顔でこちらをにらんでいたミラは、取り巻きたちを引き連れて立ち去った。野次馬もグランドを去りはじめ、メイソンとアメフト部が続いていく。と、パティを見るとなぜか小刻みに震えていた。
「パティ、大丈夫?」
「あっ……と、ええ。大丈夫よ。きょ、競争が怖くて」
「わかるよ。わたしも怖かったけど、ジェイが勝ったね」
パティが小さく笑んだ。
「ええ、そうよね」
ジェイが近づいてくる。校舎に向かいながら、わたしとパティは彼をたたえた。
「あなたって、底なしのびっくり箱みたい」
思わずわたしが言うと、ジェイは笑った。
「それ、褒めてるんだよね?」
「うん、褒めてるよ。とにかく、ありがとう。すごくハラハラしたけど」
勝ってくれて嬉しいものの、ジェイは一躍話題の的だ。さらにラストネームが知れ渡ったら、いろんな女の子がパーティーやデートに誘おうとしてくるはず。どのみちそうなっただろうけど、想定よりも早そうだからちょっと残念。いや、かなり残念かも……って、なにそれ。ジェイがどんな女の子とデートしようが、わたしには関係ないじゃない。昨日会ったばっかりで、友達でもなんでもないんだもの。
「あなた、すごく忙しくなると思うよ」
「どうして?」
ぽかんとする。全然わかってない。きっとそれは、自意識過剰じゃないから。
デイビッドおじさんがどうして彼を養子にしたのか、わかった気がした。陰ながら支援することもできるのに、唯一の後継者としてキャシディ家に迎え入れたのは、彼にいっさいの欲がないからだ。
ああ、いやだな。頭の中に『ジェイ』ってプレートのついた引き出しができたみたいで、すごく落ち着かない。
校舎に入ろうとした刹那、強烈な視線を感じて背筋に悪寒が走り、振り返る。そのとたん、強い風が吹いて庭園の木々を揺らした。
「どうしたの」とジェイ。
「なんだろ。誰かがこっちを見てたみたいな気がして」
わたしの言葉に、なぜかパティがびくりと肩を上下させた。
「わ、わたし、先に行くわね。じゃあ、いろいろとありがとう。ごめんなさい。もうわたしに関わらないほうがいいわ」
「えっ?」
逃げるように校舎に入ってしまう。
「ちょっ、どういうこと? パティ、待って!」
追いかけようとした直後、ふたたび視線を感じる。はっとして見まわすと、下級生のカメラマンを引き連れたヘンリーが、木々の間から姿を見せた。こちらに向かって来るとジェイを呼び止め、尊大な態度で腕を組む。なんだ、さっきの視線はヘンリーだったのかと脱力してしまう。
「我が校が発行する新聞に、インタビュー記事をのせる気はないか?」
どうしていつも偉そうなんだろ。それ、お願いする態度でも口調でもないと思うのは、わたしだけ? っていうか、ヘンリーのことなんかどうでもいい。
パティをいますぐ追いかけて、探さないと!