終ノ章
把手共行
其ノ107
雨市が戻ったその夜、父さんにすべてを語った。
雨市と付き合ってます! というカミングアウトは、父さんにとってさすがに刺激が強すぎる予感がしたので避け、筆のことからあの奇妙なまちのこと、地獄の宮殿、母さんの様子を見たこと、そして、閻魔大王との賭けについてまでを伝えると、父さんは居間で正座したまま蝋人形と化した。
う、動かない……けどもわかりすぎる。
「と、父さん……?」
はっとした父さんが、やっとまばたきをした。
「……そ、そうか。母さんは、もう毎日の経はいらないんだな?」
突っ込みはそこ!? いや、いいけれども!
父さんは深く息をつき、雨市を穴が開くほど見つめる。それから、ゆっくりと頭を下げた。
「……娘が、世話になりました」
雨市が目を丸くする。
「い、いえいえ。和尚、めっそうもねえ……じゃなくて、ないです」
今度は雨市が頭を垂れた。いえいえ、いやいや、とお互いに頭を下げまくってから、父さんはうつむき加減で頭を撫で、小さく微笑んだ。
「……なんとも不思議。信じられんことです。けれども、こんな壮大な嘘をついたところで、あなたにも娘にもなんの得もない。まあ、生きておるといろんなことがあるわけで、これもそのうちのひとつとしておきましょう」
にっと笑い、
「なにはともあれ、なにごとも去ったこと。複雑なことは考えたくない性分ですから、いまこのときは、すべて世はこともなし――ということでよしとしましょう。さてさて」
よっと腰を上げ、雨市を見た。
「そろそろ寝るとしましょう。明日も早いし、午後からは通夜が入っております」
明日も――。それは、「これからもよろしく」という意味だ。
雨市は目を輝かせて、深々と頭を下げた。
「はい。わかりました」
「本山に慣れていただくため、これからはかなり厳しくしますぞ。覚悟はよろしいか?」
雨市の横顔がほころぶ。
「ぜひともお願いいたします」
満足そうに微笑んだ父さんは「おやすみ」と告げ、床の間に入って襖を閉めた。
わたしと竹蔵が一緒にいた間、雨市がどこでなにをしていたのかは、そのあと知った。
鳥の姿で境内に降り立ったまではよかったものの、不穏な気配を感じる。同時に、リョーちゃんたちの姿をみとめ、耳にしてはならない念仏に気づく。この場にいてはならないと思い、とっさに鳥に化けて逃亡したのだった。
「姿が変わるところを見られけど、しかたねえ。賭けの期限も切れそうで体力もぎりぎりで、焦ってたからな」
「そうだ、その期限っていつ?」
廊下で立ち止まって訊く。雨市は袈裟の肩にくっついている葉を、指でつまんだ。
「ああ、期限は午前零時だった」
……あっぶな。間に合ってマジでよかった……!
鳥に化けた雨市が目指したのは、お祭りのある御影町だ。でも、リョーちゃんたちが追いかけてくる。山を越えるためにあの林に入り、念仏の届かない場所まで全力で上昇しようとした……ところで。
「落ちた」
そう言って、雨市はくしゃりと苦笑した。
「お、落ちた?」
「いきなり、翼の動かし方がわからなくなった。枝にしがみついて地面に着地したとき、身体がいやに重いことに気づいた。額に汗が浮いて、息がやたら荒くて、胸に手をあててわかった」
――どくどくと、自分にあるはずのない鼓動が、あった。
わたしを見た雨市は、満面の笑みを見せた。
「おまえが思い出したんだって、わかった」
タイミングごめん! だけど、やっぱりめちゃくちゃすごく嬉しい。
「そういうわけで、もう飛べねえ。自力で下山してたから、こんなに時間がかかったってこった」
こんなこと、絶対にありえない。だけど、ありえてる。
あああ、いまやっと興奮してきた。だって、もう雨市はここにいるんだ。ずっと、この世界にいてくれるんだから!
飛びつきたい……っていうかそれも可の世界線、万歳!
もうさ、ラブラブだって夢じゃないんだよ。とにかく、再会を祝うハグの感動をふたたび……! という期待を込めた視線を、雨市に向ける。
「きらきらしてんなあ、目」
わたしに顔を近づけると、思いきり苦笑した。
「そうだよ!」
ペシッ、とわたしの額を指で弾く。
「え、痛っ!」
「そんなきらきらな目したって、俺は絶対に手を出さねえからな、出してえけど」
わたしの横を歩き過ぎ、自室の障子扉にてをかけた。
「え?」
雨市はわたしを振り返った。
「俺は和尚に義理がある。だから一人前になるまでは、おまえにはなにがあっても指一本触れねえからな。わかったら、さっさと寝ろ――」
部屋の中へ入って障子を閉める間際、雨市は意地悪そうににんまりした。
「――小娘」
すごい既視感。むしろ出だしに戻ったみたいなこの感覚、わたしの勘違いであってほしい……。
ラブラブには遠そうだ。まあいいか。ゆっくりいこう。
だって、もう、急ぐことなんかなにもないんだから。
♨ ♨ ♨
翌朝。
わが家のお坊さん二人の読経をBGMに目を覚まし、一人で朝ご飯を食べた。それからカガミちゃんに電話をし、昨夜の逃亡事件について謝る。信じてもらえるかはわからないけれど、事件の概要については、カガミちゃんに会ってから話すつもりだった。そう伝えたら、じゃあ今日会おうということになった。
「え、今日?」
『今日もお祭りじゃん。あんたのことちゃんと岩佐くんに紹介してないし、今日は花火ないけどべつにいいじゃん? 三人でまったり遊ぼうよ』
あ、そっか。もう、なにも心配することとかないんだ。思い出すとか思い出せないとかで、気を揉む必要ももうないんだ。
「うん、行く」
待ち合わせをして、電話を切った。
ご飯を食べ終え、二人がお通夜に向かう時間まで、掃除をする雨市を手伝った。
仲良く境内を掃いていたとき、ふと思い出す。
「あ、そうだ。昨日、雨市の部屋で櫛を見つけたんだ。いまはわたしが持ってるけど、雨市がくれた櫛だよね?」
ああ、あれかと、雨市がうなずく。
「閻魔に賭けを申し出たのは、裁判のときだ。おまえにもらった寿命を喰ってから、いったんあの家に戻されてな」
「あの家って、みんなで暮らしてたところ?」
「そうだ。で、おまえの部屋にあったから、持ってきた」
そう言うと、一瞬だけ遠い目をする。
「……閻魔の裁判なんかほっぽって、魔物としてこの世に来ることはできた。けど、魔物の俺がおまえと一緒に生きちまったら、おまえは極楽に行く機会を失う。どうにもそれがひっかかっちまって、閻魔に会うため裁判の番を待つことにしたんだ」
わたしの寿命を増やした張本人、閻魔大王は、雨市に提案された賭けを面白がり、この世に送り出すことにしたらしい。
櫛は、万が一わたしが思い出せたら贈るつもりで、肌身離さず持っていたと言う。
「あれはおまえのもんだ、そのまんま持っとけ」
「うん。ありがとう!」
目を細めた雨市は、これ以上ないほど優しい笑顔を見せてくれた。
やっぱり、賭けはわたしのためだったんだ。
心底思う。思い出せてよかった!
それもこれも……結局はハシさん師匠のおかげかもしれない!
しみじみと澄んだ空気を吸い込んだとき、自転車を立ち漕ぎする人物が、境内に颯爽と姿を見せた。
「え、なんで――」
衣心だった。うっわ、面倒くせえ……今度はなんですか!
自転車を停め、紙袋を手にして境内に入った衣心は、雨市を見るなり呆然として立ちつくす。
棒立ちで固まっている衣心に近づくと、左の頬に青タンが浮かんでいるのがはっきりわかった。それをつくった犯人はここにいます。
ちょっとだけ申しわけなく思ったものの、ムカムカの残骸がまだ心のすみに残っていて完璧に許せる気分じゃない。だから、謝りたい気がしても謝らないぞ!
「……なにさ」
はっとした衣心は、目線を雨市からわたしに戻した。
「あっ……と。これ、出張帰りの父さんから。あと、この前はわけのわかんないこと言って、迷惑かけて悪かったって言ってた。あと、リョーちゃ……じゃなくて兄貴は、みんなを駅まで送って行ってていねーから」
口をとがらせ、紙袋を差し出した。
「とにかく、これ。京都の落雁(らくがん)」
みんなって、昨日の坊さん集団のことだろう。お菓子はいただいて当然なので、堂々と紙袋を受け取った。だけど、大福からお土産だなんて珍しすぎる。大福は大福なりに反省してるのかもしれない。
「ってか……?」
衣心は険しい表情で、ふたたび雨市を視界に入れた。
見るからに理解不能な顔つきだ。だけど!
「なんか文句ある? 家のことにかまうなって、昨日言ったじゃん!」
「いや、わかってるよ。そうじゃなくて、なんつーか……」
雨市は無言で、衣心を見つめている。
「なんつーか、なにさ」
衣心は不服そうに眉を寄せた。
「なんつーか……なんも感じない。なんも感じねーんだよ。まるでフツーの人間みたいじゃんか。え、え? なんだよ、どういうこと? 昨日いなくなったよな?」
複雑な事情があるんですよ!
でも、その事情をこいつに説明したくない。しかめ面で唇を噛みしめていたら、雨市は見たこともない爽やかな笑顔を作り、なぜか頭を下げた。
「……いやあ、ありがとうございます」
「え」
わけがわからないといった態度で、衣心は一歩あとずさる。
「実は、いままでのことに私自身、まったく覚えがないのです。昨晩こちらのお嬢さんに事情を教えていただき、驚きました。どうやらみなさんのおかげで〝私に取り憑いていたよろしくないもの〟が、やっと追い払われたようです」
衣心が呆気にとられる。
「え?」
「仏門に入る者にあるまじき事態でしたが、残念ながら私にはどうすることもできずにいたのです。お手数おかけいたしました。本当に助かりました。ありがとうございます」
深々を頭を下げる。え? わたしも雨市がなにを言ってるのかわけがわからず、ぽかんと口を開けてしまった。
衣心がひるむ。
「えっ……と、っつーことは……あんたは……あなたはそもそもフツーの人で、昨日のアレは、あなたが魔物に取り憑かれていたから起きた……ってことっすか?」
衣心が首をかしげた。雨市は笑みを崩さず、しみじみうなずく。
「自分の身に覚えがないうちに、よからぬものに取り憑かれてしまっていたようです。それはそれは強い魔物であったからこそ、私自身、もはや生きてはいない者のように感じられることもあったかもしれませんし、おかしな幻影を見せることもあったかもしれません。しかし、昨晩すっかり祓われたらしく、かつてなかったほどにすっきりした気持ちでおります。もちろん、私はこうしてちゃんと生きておりますので、どうかお兄さまにもよろしくお伝えください」
丁寧な雨市の態度に、衣心はさらに眉を寄せる。
「けど、山内もあなたは魔物だって……?」
ふう、と雨市はかなしげに息をつく。
「こちらに来た当初より、すっかり取り憑かれていたようです。こちらの和尚には失礼のないよう、魔物のずるさを発揮していたのか、存在を知られることはなかったようです。しかし、若いお嬢さんには正体を隠すことをしなかったのかもしれません。どちらにしろ、魔物はおりました。それは私自身ではなく、私に取り憑いていたものでした」
すごい断言力……っていうか詐欺力。すべてを知ってるわたしですら、むしろそっちが真実なんじゃないかと思えてきた。
「昨晩私は、この境内で目覚めました。もしかするとみなさんは、ある種の幻のようなものを見、魔物によるそれを追いかけてしまったのかもしれません。私自身が魔物であると誤解を招くほどの魔力……本当に恐ろしいものに取り憑かれていたものです」
「はあ……」
衣心は困惑顔で、わたしを見た。
「……そう、なのか?」
そう……なんでしょうね。こっくりとうなずくと、髪をくしゃりとつかんだ衣心は、うつむいてまぶたを閉じた。
「……そう……なのか。けど、まあ、冷静に考えれば、そうだよな。そう考えたほうが自然だもんな……。けど、じゃあ、おまえが昨日しゃべってたことも、全部その……その人に憑いてた魔物のせいなのか?」
地獄に行ったこととか、つぶやいたことを思い出す。わたしはもう一度、無言でゆっくりうなずいてみせた。
「そうか……。そういえば昨日、みんなと霊道みたいなとこに入ったって兄貴が言ってたな。だからそいつももともと、そん中に棲んでるやつだったのかもしれないな。そんで、その霊道におびき寄せるために、俺たちに幻を見せたんだ。たぶんそうだ。すげー強烈な魔物だったんだな……!」
ぶつぶつとひとりごち、勝手に納得していた。
「重ねがさね、ありがとうございました」
ふたたび頭を下げた雨市につられたのか、こっちこそなんかすみませんでしたと衣心は謝り、きびすを返した。とはいっても、きっちり念押ししておこう。
「村井! もう家のことは放っ――」
「――っせえな、もう首突っ込まねえよ。騒がせていろいろ悪かったな!」
一瞬こっちを見て怒鳴ってから、背中を向けて手を振った。やがて自転車にまたがると、自宅のお寺に向かって坂道をのぼって行った。
やれやれ。これで本当に一件落着……じゃなかった!
振り向くと、にやけ顔の雨市と目があう。
「俺を誰だと思ってんだ」
……っすよね。
「生真面目に全部しゃべる必要なんかあるか。ああ言っときゃ、もう面倒くせえこともねえし、向こうの自尊心も傷つかねえしな。つってもまあ……」
家の戸に手をかけて、
「……でかい嘘ついちまった。これでひとつ、地獄行きが近づいたな」
べつにたいしたことでもない。
そんな声音でさらりとつぶやき、雨市は掃除の続きをはじめたのだった。