終ノ章
把手共行
其ノ106
自宅に戻ると、父さんが居間にいた。
廊下に顔を出して、お友達から何度も電話があったと教えてくれる。カガミちゃんだ。いきなり駆け出してあの場からいなくなったから、気になってかけてくれたんだろう。
「……わかった。明日かけなおす」
電話はありがたいけれど、もう遅いし気力も残ってない。
あれからずいぶん林を探したけれど、結局、雨市らしき鳥は見あたらなかった。さすがに夜も更けてきて竹蔵に諭され、地獄に戻るため水たまりに吸い込まれた竹蔵を見送ってから、心ここにあらず状態でなんとか帰ってきたけれど。
……身体が重い。わたしこそ、お化けになった気分だ。
ぐったりとうなだれた姿で下駄を脱ぎ、廊下を歩く。
作務衣に着替えている父さんは、着崩れて土のついた浴衣姿のわたしを見ても「おかえり」と言っただけだった。
「……うん」
廊下に顔を出す父さんの前を過ぎる。と、そのとき。
「椿」
呼び止められて振り返る。父さんはどこか言いにくそうに、自分のツルツルの頭を撫でた。
「父さんが戻ったら、先に帰っているはずの鷹水さんの姿がなかった。具合がよくないと言うから帰らせたんだが、きっと着替えておまえとお祭りに行くつもりだったんだろう」
わたしが沈黙していると、父さんが続ける。
「しかし、おまえのその様子じゃ、鷹水さんに会えなかったか」
「――え」
わたしはびっくりし、目を見張る。
いったんは鷹水さん――雨市を帰らせたけれど気になって、父さんも檀家さんの通夜と葬式の段取りを早めにきりあげ、お寺に戻ったらしい。でも、見知らぬお坊さんたちとリョーちゃんが境内を囲んでおり、大きな鳥が山向こうに飛び去るのを見たのだと話す。
「おまえに嘘はつきたくない。信じられないかもしれないが、あの大きな鳥は――」
「――知ってる。わかってるよ。全部わかってる」
今度は父さんが目を丸くする。
「そうか?」
「うん。鷹水さんがフツーの人じゃないってのも、もともとわかってた。父さんに言わなくてごめん。でも、本気でお坊さんになろうとしてるみたいだったから、正体がなんだってべつにいいって思ったから、黙ってた」
なんだかすごく疲れたな。いますぐにでも眠りたい。
眠って起きたら、少しは元気になれているかな。そうだったらいいな……。
ずるずると足を引きずりながら廊下を歩き、自室の障子に手をかけようとした矢先。
「やれやれ。なんだ、おまえも知っとったのか」
父さんのつぶやきが聞こえた。
「え?」
父さんが小さく微笑んだ。
「鷹水さんがこの世の者ではないと、おまえも知っとったのか」
わたしは思わず動きを止める。
「おまえもって……え? 父さんも……知ってたの?」
「まあな。知っとった」
「えっ? そ、そんな……知っとったっていつから?」
「はじめからわかっていたわけじゃないぞ。彼が訪ねて来たときは、これはまあ見映えのする青年、まるで自分の若いころに瓜二つ! と少々感動しただけで」
いまのわたしに冗談を聞ける余裕はないんですよ、父さん!
わたしがにらむと、父さんは「ははは!」と笑う。それから真顔になり、息をつく。
「若くして出家する者のほとんどは、父さんのように実家が寺であることが多い。しかし、話を聞けばそうじゃない。なにやらわけがあるんだろうと思ったから、しばらく様子を見ることにした。務まりそうになければ断るつもりでいたんだが、なにを指図しても文句も言わずにきっちりこなす。覚えも早いし、とにかく真面目だった。それで、いよいよ本気で世話をしてみるかと決めたころ、見知らぬ娘さんの夢を見た」
「見知らぬ……娘さん?」
父さんはうなずいた。
「小柄なかわいらしい娘さんで、着物姿でな。髪の結い方で、ずいぶん昔に生きていた娘さんのようだった」
わたしははっとする。まさか、それは、もしかして。
「やわらかい光に包まれながら〝兄を頼みます〟と言って、深々と頭を下げたんだ」
兄は生きてはおらないはずの者だけれども、奇妙な縁あってそちらにうかがった。悪さはしない。いずれは消えるかもしれない。だからせめて、それまでは頼みます――そう言ったそうだ。
「起きてもはっきりと覚えていたから、これは無視できない夢だと思った。それでその日の朝、鷹水さんに姉妹はいるかと訊いてみた。そうしたら〝妹がおりました〟と答えた。〝おります〟じゃなく〝おりました〟と言ったんだ。まるで、すでにこの世におらないような口振りでな」
父さんがため息を落とす。
「おそらく、無意識で答えてしまったんだろう。夢で見た娘さんの姿からして、鷹水さんのこともおのずと予想がつく。それで、ずいぶん過去に生きていた青年を、この寺に迎え入れたのだと悟ったのだ」
父さんの夢にあらわれたのは、雨市の妹さん。
まぎれもなく、セツさんだ。
「そうこうしているうちに村井さんたちがあらわれて、鷹水さんは魔物だと言い出した。……なあ、ツバキ」
わたしを見て、父さんはにっこりする。
「ここは寺だ。父さんに立派な力はまったくないが、それでもいちおうは寺の住職。生きることの苦しみからどのように自由になればよいか、日夜学ぶ場がここだ。そういった場に救いを求める存在に、果たして悪い者はおるんだろうか? 父さんは、そうは思わない。なにかしら頼りたいことがあるからこそ、その者の正体がなんであれ姿を見せるのだと思う」
「……うん。そうだね」
「鷹水さんは、自分が世話をすると決めた青年だ。寺で世話をするというのは、その者の人生の全部を引き受けるという意味もある。いまここにその者がいるのなら、父さんは家族として味方をする。それで、あのときは村井さんたちを突っぱねた。まあ、おまえは知らないと思っていたから、父さんも知らんふりをしたんだが」
気弱な笑みを見せる。
「そうか、知っとったか。これは失礼した」
ペチン、と自分の額を手でたたく。
「……残念なことだが、良賀くんたちを責める理由もない。彼らには彼らなりの良心があってのことだからな。こういう運命であったのなら、あるがままに受け止めるのが仏の道だろう」
言葉をきり、眉を八の字にさせて微笑む。
「しかしまあ……こういうさみしさには、慣れないものだなあ」
父さんと同時に、わたしは深く嘆息した。
「風呂がわいてるぞ」
そう言って腰を上げた父さんは、居間を出た。廊下に突っ立っているわたしを追い越し、本堂に向かっていく。その父さんの背中が、なぜかちょっとだけ小さく見えた気がした。
♨ ♨ ♨
お風呂から上がり、台所でおにぎりを握った。
父さんはまだ本堂にいるらしい。静まり返った居間で正座し、不格好なおにぎりを頬張った。
やがて、じんわり涙が浮かんでくる。
頬に流れる涙のせいで、おにぎりがしょっぱいのか泣いているせいでしょっぱく感じるのか謎のまま、最後の一粒まで平らげた。
もともと父さんと二人きりだったんだし、もとに戻っただけのことだ。
いつか、こんなことにも慣れる。母さんのいないことに、慣れたみたいに。
――だけど、いまは無理だ。全然無理だ。
地獄にいたときは、どのみち別れる運命だって覚悟をしていたつもりだった。橋を渡ってこっちに戻るときも、二度と雨市には会えないとわかっていたし、それでいいと思っていた。
でも、いまわかった。
〝いずれ去る側〟よりも〝残される側〟のほうが、ずっとずっと哀しい。
地獄にいたときのわたしは〝いずれ去る側〟だった。だけど、いまは〝残される側〟。
あのとき、わたしを見送っていた雨市は、いまのわたしと同じ気持ちだったのかもしれない。相手と同じ立場にならないと、その人の気持ちなんてきっと本当にわからないんだ。
「……母さん」
思わず声になる。正座したまま床の間を見ると、仏壇の母さんの写真が涙でぼやけていた。なぜかそのとき、閻魔大王の寝殿の水桶に見えた母さんの言葉が、ありありと鼓膜に蘇った。
――心優しく忍耐強い、しっかりした芯のある女の子になって欲しいと、母さんは思っています。
「……うん」
涙をぬぐって、立ち上がる。食器を洗い、居間の電気を消して廊下に出る。
雨市の部屋を、そっと開けてみた。部屋のすみにきちんとたたまれた作務衣が目に飛び込んだ瞬間、胸がぎゅっとする。
オシャレが好きだったくせに頭まで丸めて、あんな服を毎日着てたなんて。
――それもこれも、わたしと一緒にいたかったからだ。
わたしなんて、衣心に八つ当たりして殴り倒すような、どうしようもない女子なのに。
自分のことだけで精一杯で、全然大人じゃない女子なのに。
そんなわたしのために無茶な賭けまでして、鳥になって消えてしまった雨市を思うと、立っていられないほどの後悔におそわれる。だからって、うつむいて生きていくわけにもいかない。
だって、それでも。わたしの人生は続いていくから。
ため息をつきながら、障子扉を閉める。
「……今夜はもう、しょうがない」
でも、落ち込んでばかりもいられない。無理に元気になる必要なんてないけど、わたしにだってできることはまだあるんだ。
鳥になっちゃった雨市を探すこと。竹蔵とハシさんのお墓を作ること。
そうだ、それに嬉しいこともあった。父さんの夢にあらわれたセツさんは、きっと極楽に行けたんじゃないかな。夢で光に包まれてたって、父さんが言ってたから。
雨市のために、お百度参りをしていたセツさんだ。兄思いで優しかったセツさんのはにかんだ笑顔を思い出しながら、心の中でごめんなさいと何度も謝った。
早く思い出せなくて、ごめんなさい。いっぱいいっぱいごめんなさい……と、うつむいたときだ。
――ポスン。
障子扉の奥で、かすかな音がたつ。まるで、畳の上になにかが落ちたような音だった。はっとして、ふたたび雨市の部屋を見た。
なにが落ちたのかわからない。文机の灯りを点けようとした、直後。
「あ」
文机の下に、丁寧な花の彫り物のされた櫛が落ちていた。それは、いつか雨市がわたしに買ってくれた櫛だった。
「……持ってたんだ」
あの不思議な帝都の、雨市の家にわたしが置き忘れた櫛。
「雨市、ずっと持ち歩いてたのかな……」
妙に胸がざわめく。手にした瞬間、なぜか無性に外が気になってきた。
急いでパーカーを羽織り、ジャージのポケットに櫛を突っ込む。玄関で父さんのサンダルをつっかけ、外に出た。
闇夜に、月がぽっこりと浮かんでいる。本堂からもれる灯りに背を向けて、境内から坂道に向かって駆ける。
とぼしい街灯に照らされた坂道に、人影はない。
眼下に広がる家々の灯りを目にしながら、坂の上を向く。それから、林のある坂の下に視線を移した。
「……ってか、なにしてんだろ、わたし」
ふとわれに返って、立ち止まる。
握りしめた櫛を見つめ、苦笑いしてしまった。
この櫛を手にしたとき、なにかが外にいるような気がした。でも、そんな気配なんてどこにもない。ただの勘違いだ。
「……バカみたい」
帰ってさっさと寝よう。こんなときは、眠るにかぎる。
ため息を落としてきびすを返そうとした一瞬、視界のすみに人影が映った気がした。
――え。
もう一度、坂の下を見る。
目を凝らすと、遠くからこちらに向かってくる人影があった。
こんな時間にここを歩く人なんていない。でも、わたしみたいなジョギング愛好者もいるから、そうかもしれないと思いなおす。
でも、それでも、足が震える。
一歩二歩と、震えながら歩みを進めた。と、遠くを歩く人影が、わたしに気づいた素振りを見せる。
街灯の下を過ぎたところで、はっきりとその姿が視界に飛び込んだ。
「……うそだ」
思わず歩みを止める。
鳥じゃない、人の姿。だから、これはなにかの間違いで、きっと現実じゃない。そうだ、きっとわたしはもう眠ってて、夢を見てるんだ。そうに決まってる。
呆然と立ちつくしながら、これは夢だと自分に言い聞かせる。すると、遠くにあった人影が、黒い袈裟をひるがえしながら駆け出してきた。
コンクリートの地面を踏みしめる足音が、枝葉を揺らす風の音と混じり合う。わたしは手の中にある櫛を、これ以上ないほど力を込めて握った。
足音が大きくなる。目に映る人影はもうすぐ――ほらそば――。
――いま、目の前に。
背中に両腕がまわる。引き寄せられ、包まれる。すっぽりと抱きしめられて、髪に指の感触が伝わる。そのときになってやっと、夢じゃなくて現実なんだとわかった。
「……うっ」
わたしも腕をまわす。そうしてぎゅっと、袈裟を握った。
「……いいから、もうなにも言うな」
疲れきったしゃがれ声が、耳にかかる。早鐘を打つ鼓動が、わたしの頬に伝わった。どくどくと流れる血流とともに、春の日射しのような体温を感じる。
ああ、生きてる。この人、この世界で生きてるんだ。
だから、そう。もうなにも言わなくたっていい。
「……心配させたな。ちっとわけありだ」
「……うん」
「……いんだな?」
「……いいって、なにが?」
雨市はわたしを、強く抱きしめる。
「おれと一緒に、生きてもいんだな?」
なにをいまさら。
「うん」
そうか、と雨市はささやく。
わたしの頬に、雨市も頬を寄せてきた。と、ひやりとした滴の感触があった。それはわたしの涙じゃない。雨市の涙だ。
一人でいっぱい泣いたんだろうと、雨市はわたしをからかう。
べつにたいしたことじゃない、泣いてないし大丈夫だと答えると、強いふりをするなと叱られる。
大丈夫じゃないときは、大丈夫じゃないって言っていい。もう一人で生きなくてもいいんだからと、そう言った。
それはまるで、自分への言葉のようにも思えた。
すうっとゆるやかな風が吹く。さらさらと木々の枝葉を揺らす音に耳を傾けていると、ぐうと雨市のお腹が鳴った。
「あー……腹減ったな」
「でっかいおにぎり、作ってあげるよ」
「最高だ」
雨市が笑った。
そう、これも。お腹の音も――生きている証。