終ノ章
把手共行
其ノ108
夕方からカガミちゃんとお祭りで遊ぶと伝えて、お通夜に向かう父さんと雨市を見送った。
昨日みたいに浴衣を着る必要もないし、気楽な格好で出掛けるつもりだったけれど、雨市にもらった櫛を目にして思いなおす。
浴衣の汚れを落とし、アイロンをかけて皺を伸ばす。ネイルもメイク道具も持っていないから昨日と変わらないけれど、浴衣に着替えてから髪を櫛で梳かし、精一杯ととのえた。
午後四時のバスに乗る。
太陽はまだ高い位置にあって、車内は昨日よりも空いていた。
車窓から見える景色も昨日と同じだ。でも、不安を覚えながら目に映していた光景とは、ずいぶん違って見える気がする。
だって、もう。家に帰っても雨市がいるんだ。
冬には本山に行くし、しばらくは戻らない。でも、そんなの全然苦にならない。
少しはさみしいかもしれないけど、待っていれば必ず会えるんだから、わたしはいくらでも待てる。
そう――いくらだって待てる!
ふふふと思わずにやけると、目の前に座っていたおばあさんと目が合う。はっとして表情を引き締めると、おばあさんにっこりした。
「若い人はきれいで眩しいねえ。お祭りに行くのかい?」
「あ、はい」
「素敵な浴衣だね。よく似合ってるよ」
「あ、ありがとうございます……!」
おばあさんがまた微笑む。照れくさいけれど、やっぱり嬉しい。浴衣を着てよかったな。
やがて、目的地にバスが着く。昨日と同じ道をのんびり歩いた。
露店に挟まれた通りを進み、カガミちゃんと待ち合わせをした鳥居のそばに立つ。快晴の空を見上げると、低い位置にうっすらと月が浮かんでいた。
もう通夜の読経は終わったかな。なにげなくそう思った直後。
目の前を通った二人組の女子が、「わっ」と声を上げて立ち止まった。
「あの人、なんかカッコよくない?」
前方を見ながら一人が言う。
「え、どれ」
「ほら、あの人」
「あ、わかった! え、めっちゃカッコいい!」
見るからに同年代の二人のはしゃぎっぷりに、きっとどこぞの高校に通ってる男子を見てるんだろうと思い、無視する。そんなことよりカガミちゃんはまだかな。そんなことを考えながらぼんやり空を見上げていたとき、
「え、こっち来る」
一人が言う。
「わっ、来た!」
いったいどんな男子を見て、そんなに騒いでいるんだろ。さすがに気になってきて、二人が見ている方向に視線を移す。
――あ。
カッコいいとされた人物は、すぐに特定された。中折れ帽子をかぶり、細縞の黒い浴衣を着たその人物は、わたしに気づくとまっすぐ近づいて来た。距離が縮むたび、二人の視線もわたしに向けられる。と、どちらかがささやいた。
「なんだ、やっぱ彼女いんじゃん」
「しかもめっちゃかわいいし。なんだよ、つまんね。行こ行こ」
がっかりして去って行く……ってか、褒めてくれてありがとうございます!
そうです、わたしが彼女です!……って、あれ? なんでここに来たんだろ?
「……ど、どしたの?」
「今日だけ特別、和尚がいいってよ。飴とムチの飴のほうだって笑われた。バスってのにはじめて乗ったぞ、すげえなあ」
にっと雨市が笑う。そっか!
「でも、その浴衣は?」
「いつもの格好じゃ目立つから、和尚が貸してくれた。これ、おまえのひいじーさんの浴衣らしい。ずいぶんきれいに仕舞ってたんだなあ」
貧乏にもいいところがある。物を大事にとっておく習慣があるってことだ。
「その帽子も?」
「おう」
日射しが傾きはじめても、カガミちゃんはあらわれなかった。
実は邪魔をしないように、気を利かせてくれたらしい。家に帰ってかけた電話で知ることになるのだけれど、このときのわたしは知る由もない。
「もしかしたら、来るのやめたのかな。帰ったら電話してみる」
「ああ、それがいい。ちょっと歩くか」
「うん」
鳥居を離れて、露店を眺めながら歩く。と、隣を歩く雨市が、わたしの左手をさりげなく取る。
……あれ?
昨日、触れないとか言っていたのは、わたしの気のせいでしょうか……?
わたしの内心を察したように、雨市が口の端を上げた。
「今日だけ特別だ。たっぷり握らせろ」
温かい雨市の手に引かれながら、露店をぐるんと一周した。金魚釣りは失敗し、射的で雨市はお菓子をあて、綿あめを食べながら歩き、橋を渡った。
なにをするでもなく手をつなぎ、橋の上で立ち止まる。そうして、ゆったりと流れる平野川を見下ろした。
「……ここでさ、花火を見て思い出したんだ」
雨市が目を丸くする。
「花火?」
「うん。花火が上がったとき、こういうのどっかであったなあって思って。そんで、ハシさんの花火を思い出したんだ」
雨市が笑った。
「……そうか。ハシさんか」
「そうだ。まだお墓作ってなかった」
「……立派なやつを、手作りしねえとな」
「うん」
琥珀と群青が混ざり合う空。月の輪郭がさっきよりも浮き上がる。心地のいい風が吹き、雨市は嬉しそうに目を細めた。
「ああ……いい気持ちだ」
暮れていく光を受けた川の水面が、ちらちらと光る。川の音に耳をすませていると、
「おっと、そうだ。うっかり忘れるとこだったぜ」
わたしを見たとたん、おもむろに袖の中に片手を入れた。
「ほらよ」
差し出されたのは、毒々しい彫り物のほどこされた――。
「――えっ!?」
あの筆だった。っていうか、なぜにいまこれ?
「なにこれ、どしたの?」
ずいっとわたしに顔を近づけ、雨市はにやりと口角を上げた。
「ハイコウにもらったニセだ。忘れたのか? ニセだとわかった筆をやるって、おまえと約束したじゃねえか。質に入れてえんだろ?」
「た、たしかにそうだけど……!」
そんな約束、さすがにわたしも忘れてた。でも、そもそもはそうだった。これを質に入れるために、わたしはあの夜雨市を追いかけたのだ。
「まさか覚えてたなんてびっくり。でも、あのとき雨市、うまいこと嘘ついて逃げようとしてたじゃん?」
雨市は肩を揺らして笑う。
「そうだな。けど、詐欺師は廃業した。なら、約束はやぶっちゃいけねえ。どうだ、義理堅てえだろ」
たしかに、義理堅いっす。
片手に綿あめ、もう一方に世にも不気味な遠野さん作の筆を持ち、まじまじと見入る。何度も何度も見ていた筆だけど、やっぱおぞましい。
「これ、売れるかなあ」
「さあな。まあ、売るなり焼くなり好きにしろ」
「うん……」
約束だったし、もらっておくか。筆を帯に挿し、自分から雨市の手を握った。雨市はすぐに握り返し、顔を寄せてほくそ笑む。
「礼がねえぞ」
あっ、そうだった。手をつないだまま、ありがとうございます! と体育会系のおじぎをする。すると、そうじゃねえだろと突っ込まれた。
「え」
雨市の顔が、近づいた。
「これで数年、我慢するからな」
かすかに、一瞬だけ唇が触れる。それは甘い、綿あめの味だった。
♨ ♨ ♨
お金欲しさに賞金めあてで応募した賞品に、すっかり翻弄された。
これがわたしの身に起きた、奇妙でありえない一連の出来事だ。
いま思えば、水嶋商店にあったというもう一本の筆こそが、閻魔大王の本物の筆だったんだろう。
後日またもやあらわれた竹蔵によれば、それを見つけた大柳雄一郎も西崎も、いまも地獄のどこかにいるらしい。
そしてその西崎は、どうやら衣心の先祖だった。後日、家系図を遡る的な課外授業で、古い家系図を自宅の物置に発見した衣心によって判明した。どうりでそっくりだったわけだ。
そんな衣心は、同じクラスの瀬尾さんと付き合いはじめた。わたしとの仲は相変わらずだし距離も現状維持だけれど、瀬尾さんとはそれなりにうまくいっているようなので、そっとしておくことにしている。
そして、雨市は父さんの細かい指令を、順調にこなし続けている。
不思議なことに、雨市にはちゃんと戸籍ができていた。本籍は御影町で、すでに他界した人の子どもということになっている。まるで、別の世界線に紛れ込んだみたいだ。でも、びっくりするほどじゃない。
だって、わたしは、生きながらにして地獄に行ったんだから。
わたしと雨市の人生は、これからも続く。
きっといろんなことがあると思う。でも、そのたびに乗り越えられると信じている。これまでのことを思えば、屁でもない。なんだってどんとこいだ。
このすべての出来事が、果たしてよかったのか悪かったのか。
それがわかるのは、人生を終えてからだろう。
そのときに、賭けに負けてしまった感想を訊いてみるつもりだ。
――恐ろしくも懐かしい、地獄の閻魔大王に。