終ノ章
把手共行
其ノ105
「……あんたは追いかけないの? わたしのうしろになんかいたんでしょ? 知らんけど」
衣心は懐中電灯をわたしに向け、険しい顔つきをした。
「俺もちゃんと見えたわけじゃないけど、おまえんとこにいた魔物坊主とおんなじ匂いがした気がしたぞ。けど、そいつのことはリョーちゃんたちに任せて、俺はおまえを見張る」
そう言って息をつくと、不安げな顔つきで周囲を見渡した。
「……っつーか、みんなこんな短時間にどこまで行ったんだ? 念仏もなにも聞こえないじゃん」
そりゃそーだよ。だって、あの世でもこの世でもない空間に入っちゃってるんだから。でも、知らんふりをする。
「わたしを見張ってどーすんの? なんもないし、いますぐ帰れ」
早く雨市を探さないといけないのに、こいつが本気で邪魔すぎる!……けど、こいつを気にして足止めをくらってる時間がもったいない。いいや、もうほっとこ!
鼻息荒く背中を向けたとたん、衣心が言った。
「どこ行くんだよ、山内。おまえさ、さっきの〝道草したくなって歩いてただけ〟ってなんだよ。こんな夜にこんなとこでんなわけねーだろ。どうせおまえも、魔物坊主探してたんじゃねーの? そうだろ?」
肩越しに振り返ると、衣心は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「カガミの乗ってる車が、おまえんとこの寺のあたりをぐるぐるしてたのを見たぞ。向こうも俺たちを見たはずだし、祭りでカガミに会って、俺たちのこと聞いて、速攻でタクシー飛ばして来たんだろ? 勘のいいおまえなら、こんなことになってるぐらいの察しはつくもんな」
偉そうな口調がムカついた。
「……だったらなにさ」
「タクシー代が無駄だったな。貧乏なくせに無駄遣いは叱られっぞ」
余計なお世話だし、乗ってないから!
「うるさいわ!」
「にしてもさ、マジでおまえ、勘がいいな。魔物坊主がこっちの方向に逃げたって、なんでわかった? 教えてくれよ」
こっちに逃げたとか知らなかったし、ここにいるのは霊道の出口だったからだよ文句あっか!……って答えられないのが苦しい。
苦い顔で押し黙っていると、衣心が言葉を続けた。
「なんかあったとき、ここで落ち合う約束でもしてたんじゃねーの? そんで魔物と駆け落ちってか? おじさん泣くだろ」
「違うわ、ボケ! っていうか、ほんとなんなん? 家のことにかまうなって言ったじゃん! うい……じゃなくて、鷹水さんはなんも悪いことしてないんだってば! なのに、リョーちゃんもあんたもあの坊さん集団もなんなの? なにもかも余計なお世話なんだってば!」
懐中電灯を向けたまま、衣心が近づいてきた。
「ほらな。それだよ山内」
わたしが向きなおって対峙すると、衣心が足を止める。
「ほらなって、なにがさ」
「おまえもおじさんも、あの魔物に取り憑かれて操られてんだよ。そのことに気づかないで、そうやってかばってんだ。この前あいつが屋上にあらわれたとき、俺になんかしたのをおまえだって見てたはずだろ。あれが証拠だ。おまえにもおじさんにも、あいつは同じことしてんだよ」
「してないよ!」
「なんでわかるんだよ」
わかるよ。だって、わたしたちにはそんなことしてないって、鷹水さんが――雨市が言ったから。
それに、言われなくなってわたしは知ってる。
雨市はそんなことしない。日々お世話になっている相手を、自分の思いどおりに動かすようなカッコ悪いことなんか、絶対にしない。
悔しくて拳を握りしめた瞬間、衣心がたたみかけてきた。
「俺がされたことをリョーちゃんに伝えたら、やっぱりそうかって納得してた。昨日俺が学校休んだのは、リョーちゃんの知り合いの坊さんたちが来たからだ。父さんは出張でいないし母さんも旅行に行ってて、大人数の飯の支度とか手伝わなきゃだったからな」
「……あんたのこととかどーでもいい。もう好きにすれば?」
ふたたび背中を向けようとすると、衣心の語調が強まる。
「みんなさ、経験積む場所を求めてんだ。こんな機会はほぼないから、リョーちゃんの提案に喜んで来てくれた人ばっか。つっても、もちろんタダじゃない。リョーちゃんがギャラ出してんだぞ」
「どーでもいいし、そんなん知るか!」
その場を離れようとするわたしの背中に、衣心が言葉を投げてきた。
「はじめは成仏させるつもりだったみたいだけど、普通の霊とかじゃねーじゃん? おまえとおじさんを操りながら人の姿でうろついて、寺にも平気で居座れる魔物だ。それに、俺におかしなことまでしやがった」
わたしは振り返る。
「なあ、山内。俺、許さねえっつったよな? マジであいつにムカついてんだ。だから、成仏じゃ甘すぎる。いっそきれいに消してくれって、注文つけてやった」
――きれいに消してくれ。
「……え?」
衣心を見すえる。
「あんたが……消してくれって言ったの? 成仏とかじゃなくて?」
衣心はにやりとした。
「相手は魔物だぞ? 成仏させてどーすんだよ。消えてもらうのが一番だろ。まあ、逃げられたけど」
そうだ、雨市は逃げたんだ。賭けの期限が切れていなければ、魔物じゃなくなってどこかにいる。衣心のぐだぐだなしゃべりを聞いて、腹を立ててる場合じゃない。
竹蔵だって身体をはって、時間を稼いでくれてるんだ。さっさと探しに行かないと!
「逃げられてざまーっすね、村井くん。もう自分の巣にお帰りください」
じゃ! と華麗に立ち去る寸前、
「……言っとくけど、あいつ探してもたぶん無駄。弱ってるくせに力ふりしぼって、鳥に化けて逃げたんだ。もう人の姿には戻れねえだろ」
――え。
「……は?」
「あいつは鳥になって逃げたまんま。もうあのうさんくさいイケメンにも戻れねーし、記憶だってねーかもしんねーよ。だって、その力まで使い果たしただろうからさ。ってことで残念だったな、山内。俺の勝ちだ」
「勝ち……」
……って、なに? 勝ちとか負けとか、なんだよそれ。
「……んだよ、それ」
なにが勝ちで、なにが負け? これ、いったいなんの戦いだよ。
「勝ちってなにさ。村井」
のどの奥から、声を振り絞る。
「おまえの好きな魔物坊主は、人の姿でおまえんとこの寺に戻らねーし、戻れねーの。全部の力使い果たして鳥に化けたまんまだ」
衣心はさも楽しそうに言う。
「魔物つっても、飛んでるうちに自分がどこの誰だったのかもすっかり忘れてく。そのうち、本能のみで飛びまわるだけの鳥類の仲間入りだ。もういいだろ、目を覚ましてあきらめろよ、山内。おまえ、どんだけ強力に操られてんだよ。あとでリョーちゃんたちにお祓いしてもらえ。おじさんと一緒にな!」
鳥に化けて、力を――使い果たした?
「なにそれ……ってか、取り憑かれてないっつってんじゃん! つうか、鳥類の仲間ってなにさ。意味わかんないって!」
人の姿でいられなくなっていると言った雨市の言葉が、いきなり蘇る。
一番避けたい予感に、血の気が引いていく。胸が痛くて、息ができない。
「化けるにも力がいる。その力を使い果たせば、もう人の姿になんか戻れない。飛び回って、餌を探すことしかできなくなる。それでも、リョーちゃんは探して消すとか言ってたけど、魔物つってももう飛ぶしかできない鳥じゃんか。追っ払うほどの価値もねーだろ」
「……力を使い果たしたとか、なんであんたにわかんの?」
「鳥の姿で寺に戻ってきたあいつ、人になってからあきらかに足元がふらついてた。それを見てたリョーちゃんが、もう限界だなって言ったからだよ」
わたしははっとする。
まさか、雨市。鳥の姿で寺に戻ったって、袈裟を脱いでお祭りに行くため?
わたしの心臓が、どくどくと尋常じゃないほど波打つ。ああ、きっとそうだ。だって、飛べば長距離を時短できるもの。急いでお祭りに向かうつもりで、雨市はそうしたんだ。
力が限界になるのもわかる。賭けの期限もそれに重なっていたんだから。
だけど、信じたくない。どうしても、あきらめたくない。顔面が蒼白するわたしを尻目に、衣心はさも嬉しそうに笑っていた。
「どうする山内? その鳥探してペットにでもすんのか? なら、俺も一緒に探してやろうか?」
ブチン、と感情のストッパーが切れた。
――全部、こいつのせい。なにもかも全部全部、こいつのせいだ!
頭が真っ白になった瞬間、すべての思考が停止した。無心で衣心のTシャツの胸ぐらをつかんで引き寄せ、右ストレートをぶちかました。
衣心が地面に倒れる。落ちた懐中電灯が、草むらを虚しく照らす。頭に血がのぼったわたしは、浴衣の裾をまくり上げるや衣心に馬乗りになった。
「いっ……てえ……」
頬を手で包む衣心の胸ぐらを、わたしは両手でつかみ上げる。
「……ふっ……ふざけんな!」
顔を近づけ、叫んだ。
「一緒に探してやろうかってなんだよ。そんなんこっちから願い下げだから、ふざけんな! なんでこんなことになんの!? ただの親切心じゃないよね? ぶっちゃけあんた、面白がってただけなんじゃん!? けどさ……けど、遊びじゃないんだよこっちは! 命賭けてたんだよ! わかる? 命賭けてたの! なんも知らないくせに余計なことすんなってば!」
衣心が驚き、目を見開いて息をのむ。
「あんた、どの口でわたしを好きだとか言ってた!? わたしをほんとに本気で好きなら、わたしの言うこと信じてくれんじゃないの? そんで味方になってくれんじゃないの!? わたしが哀しむようなこんな仕打ち、するわけないじゃんか!」
やりきれなさが涙になって、どんどん頬に流れ落ちた。
「……あんたなんか、どーせわたしのこと好きでもなんでもない。あんたはただ、悔しかっただけ。金持ちでみんなにちやほやされてたのに、貧乏な寺の娘にだけ邪険にされてることに、ただムカついてただけ。あんたのそのくっだらないプライドのせいで、雨市が……鷹水さんが……邪魔だっただけじゃん!」
悔しい悔しい悔しい悔しい!
わたしは衣心の胸ぐらを揺らしながら、嗚咽とともに泣きじゃくった。
仰向けで寝転がる衣心に馬乗りになったまま、わたしは世にもぶざまな顔で告げた。
「……絶対許すもんか、一生恨んでやる!!」
衣心はわたしを見つめ、息をのむ。寺の娘にはあるまじき煩悩にまみれたセリフだけれど、この際知るか。これが本音だ!
賭けの期限がまだ切れていなかったとしても、鳥に化けた雨市は、きっと人の姿に戻れない。その力が、もう残されていないから。だとしたら、すでに魔物としての鳥じゃなく、いまごろはただの鳥として闇夜を飛んでいるかもしれない。
わたしは記憶を取り戻し、雨市は賭けに勝った。けれど、結局はダメになった。
認めたくない。でも、認めるしかない。
間に合わなかった。なにもかも、遅かったんだ。
「……ごめん」
みっともなく泣き続けるわたしに向かって、衣心がゆっくり口を開く。
「……悪かったよ、山内」
「はあ? いまさらなにさ、どうせいい気味だって思ってるくせに!」
「……思ってねえよ。……そっか。そんなにあの魔物が……あいつが好きなのか。操られてたんじゃなくて、マジで好きなんだな」
「そうだよ、文句あっか!」
「……ねえよ」
衣心はそっぽを向くと、きつく眉をひそめる。
「あいつが……ムカついた。邪魔くせえし、いなくなればってただそんだけ思ってた。たぶん、あいつじゃなくても、ほかの誰でも、おまえんとこに居座るやつは、そういうふうに思った気がする」
そう声にしたとたんに顔をゆがませ、あろうことか衣心も泣きはじめた。
「……悪かったよ、マジで。けど、おまえのこと好きってのは嘘じゃない。つっても……だよな。たしかに、ホントにおまえのことが好きなら、おまえの言うこと信じてさ、味方してやればよかったんだよな。でも、できねえよ。そんな大人じゃねーもん、俺」
右腕で顔をおおい、声を震わせた。
「……好かれなくてももういいよ、山内。だけど、恨むとか、許さないとか言わないでくれよ、頼むから。おまえがそこまであいつを好きだとは思わなかったんだよ。一緒に住んでるせいで、ちょっと憧れてるだけだろって。それに、取り憑かれて、操られてるだけだって思ってたし、あいつがいなくなれば目が覚めて、きれいさっぱりあきらめんだろって思ったんだ。けど……違ったんだよな」
何度もごめんと言って謝る衣心は、小さな子どもみたいだった。
謝る衣心には、嘘はないように思える。目頭を指でおさえて涙をぬぐい、こちらを見上げる。その瞬間、なぜか不思議なことに、西崎そっくりに見えた顔や表情がまるで別人に映った。
「……悪かったよ。ってか、でも、いまさら謝ってもしゃーないよな。けどさ、けど、無茶なこと言ってるかもしんないけど……頼むから、嫌わないでくれ」
わたしを力づくでおさえることもできただろうに、衣心はそうしなかった。いっそのことそうしてくれたら、わたしだってもっと罵倒できたのに。
「……もういい」
うなだれたまま立ち上がり、衣心から離れる。母さんの浴衣が、すっかり汚れた。ごめんなさい、母さん。そう謝りながら、裾をなおす。
泣いて叫んで暴れたところで、どうにかなるわけでもない。
「……起きたことは、もうしかたない」
雨市はもう、戻らないんだ。
「……どうするんだ」
衣心が起き上がった。
「……どうするって、なにが?」
「今夜……これから。帰るんなら、送ってくよ。そんぐらいいいだろ」
「まだ帰らない。探すよ、もちろん」
そう。わたしには、そうすることしかできないから。
「今夜も、これからも」
賭けの期限が切れるよりも、わたしが思い出したほうが早かったのなら。
もしもまだ、この世にいるのなら。
「ずっと探す。白い鷹なんて珍しいから、きっとすぐに見つかる」
「……じゃあ、俺も手伝う」
きっとそれも嘘じゃない。でも、まだ「うん」なんて言えない。そんな余裕をかませるほど、わたしだって大人じゃないのだ。
「いいよ、べつに」
「手伝う」
衣心が懐中電灯を拾い、それを空に向けた。
光は闇に吸い込まれ、夜空にたたずむ星々だけが静かにこちらを見下ろしていた。
なぜだかふいに、自分の身に起きたことのなにもかもが、夢だったような気がした。でも、夢じゃない。
立っていられないほど苦しい胸の痛みが、その証拠だ。
「……わたし、地獄に行ったことあるんだ」
誰に言うでもなく声にする。衣心が近寄ってきた。
「閻魔大王の盗まれた筆のせいで、行ったんだ。そこにはさ、裁判待ってる人たちのまちがあって、みんなちゃんと食べたり眠ったりしてた。いい人もいたし、やな人もいたよ。そんで……好きな人ができたんだ」
隣に立った衣心は、それが〝魔物坊主〟であると察したらしい。驚くこともなく、静かに言った。
「……そっか」
疲れきり、ぐったりしたリョーちゃんたちが戻った。
鳥になった魔物を探す気力すらなくしたらしく、林に戻るやいなや帰る素振りを見せた。「ツッキーも帰るだろ」と訊かれたけれど、落とし物をしたから探したいと嘘をつき、残ることにした。衣心も残りたそうな顔をしていたけれど、自分が居座ることでまたわたしに迷惑をかけるかもしれないと思ってか、みんなとともに黙って立ち去った。
ずいぶん経ってから竹蔵が姿を見せ、リョーちゃんたちの怯えた様子を面白おかしく話してくれた。
わたしはちょっとだけ笑う。
それから、大声を上げてひたすら泣いた。