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終ノ章
把手共行
其ノ103

 ――闇。

 まぶたを開けているのか閉じているのかもわからないほどの、闇だ。

 わたしのうしろにいる竹蔵が、まるで目に見えない両開き扉を開けようとするかのように、伸ばした両腕をぐぐぐと動かした。その瞬間、住宅街の街灯でかろうじて見えていた山道が、視界にまったく映らなくなったのだった。

 ぞわりと鳥肌がたち、怖じ気づいたわたしは思わず立ち止まる。

「な、なんも見えん!」

 なんて闇。自分がどこにいるのかもわからなくなるほどの、いっさいの光を失ったトンネル。この闇は、初江王が開いてくれたあのトンネルに似ている気がした。

 わたしはごくりとつばを飲む。こうしてる時間がもったいない!

「よ、よし。突撃する!」

『わかってるだろうけど、うようよしてる』

 うしろの竹蔵が耳打ちしてきた。

「そ、そそ、それは……お化け的なやつってこと?」

 そうだよ、と竹蔵は言った。

『闇に目の慣れてないあんたにはまだ見えないかもしれないけど、慣れりゃわかる。山ほどうろついてる。だから、いいかい。これからは走っていっきに突っ切る。足を引っ張られたり助けを求める声を聞いても、絶対に同情すんじゃないよ。あんたに甘えはじめるからね』

「わ、わかった」

『――よし、行くよ!』

 背中から胸にかけて、極寒の風がひゅうっと吹き抜けたような感覚を覚える。竹蔵がわたしの背中に手を添えて、ぐいぐい押してくれているんだとわかった。

 走りにくい山道に、何度も下駄がひっかかってつまずきそうになる。息が上がって鼓動が早まると、焦りは頂点に達していって、目頭に涙が浮かびはじめる。

 ああ、もっと早く思い出せたらよかった。そうしたら、こんなに焦ることもなかった。

 ヒントがたくさんあったのに、なんにも思い出せなかった自分に心底腹がたってくる! 

 うっ、と嗚咽をもらしそうになり、鼻水をすする。

『どうした。泣いてんのかい?』

「だ、だってさ、めっちゃ焦るじゃん! 間に合ってなくて、雨市が消えちゃってたらどうしよう!」

 走りながら言葉にすると、いっきに涙腺が決壊する。

「もっと早く思い出せたら、こんなことになんなかったのに! 家に戻っても雨市がいなかったら、どうしよう!」

 みっともなくしゃくり上げる。すると、竹蔵はいつになく優しい声音で言った。

『――なら、覚えててやりな』

「え」

『そういう野郎がいたって、一生覚えててやりな。忘れられんのが一番かなしいんだ。雨市もアタシもハシさんも、生涯孤独で一生を終えた。誰の記憶にも残らない、無名な魂だ。けど、そうじゃなくなったんだ。あんたがいる。あんたは覚えててくれる。それでじゅうぶんだ。いままで思い出せなかったことをあんたは悔いるけど、ちゃんと思い出したじゃないか。なら、もう二度と忘れなきゃいいだけだ。そうだろ?』

「……うん」

 走りながら、ぐいと涙をぬぐう。そうだよ、忘れない。もちろん、二度と忘れるもんか!

『まあ、でもさ。大丈夫、間に合うって、いまは信じときゃいい。雨市はどこにも行きゃあしない。もっとも、それはそれでアタシとしてはつまらないけどね』

 竹蔵に励まされて、ほんの少し心が軽くなる。

 うん、そうだよね。いまはとにかく家に戻ろう。そんで、もしも衣心を見つけたら、今度こそ本気のパンチをかましてやる!

 鼻息を荒くしてこぶしを握り、全速力で山道を駆ける。やがて、目が闇に慣れてきて、木々の輪郭がうっすらと判別できるようになった。ちょうどそのとき、ひやりとした感触が足首に伝わってきた!

「――ひいっ!」

 浴衣の裾が引っ張られる。目を凝らすと、雑草の生い茂る獣道のような地面から、黒い物体が突き出してうねうねと動いているのがわかった。

 なんと、それは無数の手だった。

「ひっ、ひえええっ!」

 いっそ暗闇のまんまで、なにも見えなかったほうがマシだった!

「ぎゃーっ! 手、手っ!」

 小刻みにジャンプしながら叫ぶと、うしろの竹蔵が言った。

『気にしないで踏みつけな!』

「えっ、えええっ!?」

 とにかく行くしかない突っ切らなくちゃいけないのだ。覚悟を決めろ!……だけど、なるべく避けて走りたい!

 不気味に揺れる無数の手を避け、全速力で走る。でも、ときにはうっかり踏みつけてしまい、そのたびに低く苦しげなうめき声が幾重にもなってこだました。

 

 ――タスケテ。クルシイ。タスケテ。クルシイ。

 

 ふと、思ってしまう。かわいそうに。この人たちも、孤独だったのかな……。

 どうやらそれが、マズかったらしい。地面から伸びる無数の手が、目まぐるしい早さで合体しはじめて人型を象っていく。それが何体もできていき、行き先をふさいでしまった!

 これはまるで――影の軍団!

 こんなんもう、通り抜けられる気がしないんですけど!

「うっ……おおおおー!?」

『なんだい、こりゃ! ちょいと椿、あんたこいつらに同情しただろ! まったく、しょうがないねえ。どうせなんにもできやしないんだから、蹴散らしゃいいんだよ。いいさ、アタシについて来な!』

「えっ!」

 竹蔵がわたしの目の前に躍り出た。

 影の軍団を全スルーで走る竹蔵の背中が、どんどん遠ざかってしまう。

 ちょっ、めっちゃ早い。待って待って! ええい、わたしもやけくそだ。どいてどいて、どきやがれ!

 うつむきながら突撃したものの、肩や背中がふんわり撫でられる。懇願するようなその感触に引っ張られて、底なしの泥の中に沈んでいくみたいにどんどん足が重くなっていく。なんとか足を上げようとしても引きずられ、とうとう一歩も前へ進めなくなる。

「うっ!」

 とっさに目を閉じ、巾着袋を抱えてその場にしゃがむ。ぬるぬるとしたものが、頭にも首にも巻き付いてくる感触があった。ありえないほど寒くて震えながら身を縮ませる。

 いっそお経を唱えようかと思った直後、突然すうっと寒気が引いていく。おそるおそるまぶたを開けると、短刀を握りしめた竹蔵がいた。

『散れ! アタシたちはあんたらを助けてやれねえんだよ!』

 威嚇するような怒号で竹蔵が叫ぶと、影の軍団はうめきながらのろのろとしりぞく。と、竹蔵がわたしを見下ろした。

『椿、立ちな!』

 はっとして我に返り、腰を上げる。ふたたび駆け出すと、竹蔵がわたしの横に並んだ。

『てめえでてめえの首を絞めるから、ああなるんだ。いいかい、椿』

 走りながら、竹蔵はわたしを横目にした。

『どんなことがあったって、いずれは誰もが平等に死んじまう。けど、人生を終える瞬間にわかるんだよ。どんなにくだらない人生でも、そんなに悪いもんじゃない。生きててよかったってさ。アタシがそうだったからね』

 竹蔵は前を向き、横顔をにやりとさせた。

『背中に墨入れてさ、人を斬ったし騙しもした。親が誰かもわからねえ、放っておかれた人生だったけど、それでも最後の最後まで生きてみなきゃわからないこともある。まさか一緒に牢屋に入れられた罪人と、つるむようになるとは思わなかったよ。三人一緒に死んじまったし、はたから見りゃゴミみたいな人生だった。けど、アタシは牢に入れられたとき、もう誰も斬らなくていいって、ちっとばかし楽になった。それに、正直楽しかったよ』

「楽しかった?」

『妙に気が合った。アタシにとってははじめての、家族みたいなもんだった。そこにあんたがあらわれた。もしもアタシがてめえの人生に嫌気がさして、決められた寿命をまっとうせずにてめえでてめえを斬ってたら、さっきのやつらみたいになってただろう。それに、あんたにも会えなかった。だから、最後まで生きてみなきゃわかんないってこった。人生ってのはね』

 そう言いながら、竹蔵はわたしの背後にふたたびまわる。そして、また両腕を突き出した。

『そろそろ、あんたの家の近くだ』

 今度は、開けた扉を閉じるかのように腕を動かした。すると、いっきに夜風にそよぐ木々の音に包まれた。

 生温い初夏の風が頬を撫で、虫の声も聞こえる。ふと見上げると、枝葉のすき間から満月がのぞいていた。視線を落とすと、林の先に街灯に照らされた坂道がある。それでわかった。

「……あ。ここ」 

 そこは、地獄から抜けた出口。ほぼ毎日にように通った林だった。

「え、すごい。バスでもここまでめっちゃ時間かかるのに」

 ほんの数分で突き抜けられた! 途中のホラーはかなり恐怖だったけれど、全部竹蔵のおかげだ。ありがとうと告げようとして竹蔵を見ると、かなり鋭い眼差しで坂道をにらみすえていた。

「……え、どうしたの」

『しっ』

 竹蔵が口に指をあてる。そうして、一歩二歩とわたしから離れてしりぞく。

『耳をすましてみな』

 息を止めて耳をすます。すると、遠くから耳にしたことのないお経がうっすらと聞こえてきた。

 輪唱のようなそれが、どんどん大きくなってくる。同時に、何人もの人影が見え隠れした。その中に、袈裟姿のリョーちゃんもいた。

「……あ。あれだよ、竹蔵。坂の上の寺の人。あと、その人が呼んだ坊さんたち。でも、なんでこんなとこをうろついてんだろ?」

 少し離れて立っている竹蔵を振り返る。

『……もしかして、逃げたんじゃないのかい?』

 竹蔵が表情をこわばらせた。

「え。……逃げた?」

『雨市だよ。だから探してんだ。にしても、こいつはけっこう強烈だ。囲まれたら最後、アタシまで消されちまう』

「――えっ!?」

 大声を発してしまったせいで、

「なんだ? 林から声がしたぞ――誰だ?」

 見つかった!

 でっかい数珠を首に下げたお坊さんらをしたがえて、リョーちゃんが林に足を踏み入れた。

 読経の声も大きくなる。すると、わたしを見た竹蔵が、くいとあごで木々をしめす。隠れるよって言ってるんだ。わたしはうなずき、竹蔵のあとについて幹のうしろに身を隠した。

 それにしても、雨市が逃げたってどういうことだろ。ヘンな坊さんたちが、そんな雨市を探してるって、どういうこと……? 

 無言でぐるぐる思考を巡らせていると、リョーちゃんの声がうっすら聞こえた。

「禍々しいのがなにかいる……気配がするな。鳥に化けてこっちに飛んだはずだだが、弱っているだろうから遠くまでは飛べまい。まだどこかに隠れてるぞ」

 

 ――鳥に化けて。

 

 その言葉を耳にしたとたん、血の気が引いて固まる。

 うそ、まさか――間に、合わなかった? 遅かった? わたしが思い出すほうが、遅かったってことなのか?

 たぶん、きっと、そういうことだ。ああ、どうしよう――遅かったんだ!

『大丈夫だよ、椿。逃げたんなら、まだわからないよ。経を読む坊主に囲まれなきゃ、存在は消えたりしないからね』

 ささやくような声音で、竹蔵が耳打ちしてくる。

「ほ、ほんと? 雨市、消えてない?」

 その説、切実に信じたい!

『ああ。けど、それにしてもウザったいやつらだねえ。まあ、こっちにはいい迷惑でも、あいつらにはあいつらの正義があってやってんだろうけどさ』

 全力で同感だよ。さっきの影の軍団とかね!

「そか。なら、わたしどうすればいい? なにすればいいかな」

『そうだねえ……』

 目を細めて思案した竹蔵が、ふと地面を見る。大きな水たまりを目にした瞬間、にんまりと口角を上げた。

『いいこと思いついちまった。あんたは雨市を探しな』

「い、いいけど。竹蔵はどうするの?」

 竹蔵はにやりとし、切れ長の眼差しでわたしを見つめた。

『――あいつらの正義を、利用してやる』

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