終ノ章
把手共行
其ノ102
「たた、竹蔵!?」
こりゃすごい、と竹蔵は目を丸くする。
『あんた、全部思い出したんだねえ! あっぱれだよ』
ってか……透けてる!
「す、透けて」
『裁判されて、まるきりすっかりあの世の住人になっちまったからね。筆を探してあっちこっち行き来してたころとは、勝手が違うってこった』
竹蔵はわたしを見下ろし、苦笑する。
『前にもあんたに会いに行ったんだよ。けど、なーんでか一瞬雨市のことが過っちまったもんだから、あの野郎のそばにあった鏡から出ちまった』
そうだった。竹蔵は前にも、鏡から飛び出して雨市としゃべっていたんだった!
そういえばあのとき、ハシさんと極卒の宿に忍び込んで、こっちの世界に来られる鏡を見つけたとかなんとか言っていた気がする。
「か、鏡で行き来とかできるんだ!?」
『というか、いまの場合はこれだね』
地面の水たまりを指した。たしかに。それにしても。
「す、すごい……。マジで竹蔵だ」
竹蔵がにっと笑った。これはようするに、幽霊ってことだ。でも、まったく怖くない。まあ、足首つかまれたときはさすがにビビったけれども。
「ってか、え? なんでいまここにいるの?」
『しょっちゅう極卒の宿に入れるわけじゃないんだよ。ちょうど忍び込めたから、あんたのこと考えながらためしに通り抜けてみただけだ。あんたのそばに、この鏡みたいな水たまりがあってよかったよ。鏡の代わりになってくれたみたいだからさ』
「こっちにも鏡がないとダメなの?」
『そうだよ。じゃなきゃ、アタシはそもそも鏡に入れないからね。あんた娘なのに、鏡を持ち歩かないのかい?』
気まずくなって目をそらす。
「……部屋にはあるけど、持ち歩いたりとかはちょっと……」
とにかく、いろんなタイミングが必要なシステムらしい。
『まあ、いいさ。あんたに会えた。思い出したついでに訊くけど、アタシの髪はまだ持ってるのかい?』
「あっ! なんかさ、消えたみたいなんだ。でも、布は残っててそれは持ってるよ」
そいつは残念だと、竹蔵が腕を組んだときだった。
駐車場から歩いてきた家族連れが、けげんそうな顔でわたしの横を通り過ぎた。お母さんと手をつないだ子どもが、思いきり振り返ってまだこちらを見ている。すると、お母さんが「見ちゃいけませんっ」と子どもの手を引っ張り、急ぎ足で去っていった。
え、なんだろ。うそ、もしかして!
「れ、霊感とかある的な――?」
『――じゃなくて、あんたはいま、大声でひとりごと言ってる変なやつになってるってことだよ。気をつけな』
「えっ!」
竹蔵が、にやりとした。
『アタシは霊だからね。見えるやつには見えるだろうけど、あの親子は違うよ』
「そ、そっか。けど、わたしも霊感とかないんだけどな」
『そう思ってるのはあんただけかもしれないよ』
「ええ!?」
びっくりするわたしを見て、竹蔵は声をあげて笑った。
『一緒に地獄での日々を過ごした仲じゃないか。あんた、ときどきアタシやハシさんの夢見なかったかい?』
「ああ、見た見た! 温泉みたいなとこに入ってた!」
『だろう? 目に見えない縁みたいなもんが、アタシやハシさんとあんたを、いまだにつなげてくれてる証拠だよ。だから、アタシらの姿はあんたにちゃんと見える。そういうもんを引きつけるなにかが、あんたにはあるってこった。そいつだっって立派な霊感だろう?』
たしかに。そっか、目に見えない縁――か。
『それよりも、あんた。どうやってアタシらのこと思い出したんだい?』
そう訊かれて、はっとする。そうだった。竹蔵を立ち話をしてる場合じゃないんだった。していたいのは山々だけれども!
思い出した経緯をかいつまみ、雨市が追い払われそうになっていることをいっきにしゃべる。顔面を蒼白されていくわたしとは裏腹に、竹蔵はさも楽しそうな顔をした。
『へえ、そりゃ面白い!』
いやいや、面白がってる場合じゃないですから、ガチで!
「そ、それで帰ろうと思ってるんだけど、なにしろ家まで遠いんだよ。だから、もういっそ走ろうかと思ってたとこなんだ!」
ふうん、と竹蔵は周囲を見まわす。露店でにぎわう声や音楽が、閑散とした住宅街まで聞こえていた。
バス停のある舗装された通りには、シャッターの閉じた商店、一軒家が並んでいる。それはゆるやかな坂の車道に向かっていて、東西の二股に分かれている。その通りを越えると、家々が点在しているバスの通らない一本道につながっていた。
そして、とぼしい街灯に照らされたその一本道の坂道は、山のふもとに続いている。
そちらに顔を向けた竹蔵は、にやりと口角を弓なりにさせた。
『あの野郎が亡者になるのも面白いかと思ってたけどさ、あんたが思い出したんならしょうがねえ。加勢してやるかねえ』
わたしを見る。
『――椿、来な!』
そう言うやいなや、音のない風のように一本道を駆け出した。え、ええ!? 慌てて竹蔵のあとを追う。
「ちょっ、ま、待って!」
走りながら、透けた背中に向かって叫ぶ。どこかの飼い犬にけたたましく吠えられた。動物には霊なんかが見えるって言うけれど、それって本当だったんだなんて感心してる暇はない!
「た、竹蔵、待って! ここ走っても山だし!」
『いいから黙ってついて来な!』
からんころん、からんころん。
わたしの下駄の音だけが――一人分の足音だけが、住宅街にこだましていく。必死になって竹蔵を追いかけ、ずんずんと山に向かっていたとき、ふと竹蔵の姿が消えた。あ、と思って足を止めようとした矢先、隣にあらわれてほっとする。
瞬間移動的なこともできるのって便利だなとか思いつつ、竹蔵と並んで坂道を駆け上がる。すると、竹蔵が言った。
『椿。雨市がなんで、閻魔と無茶な賭けをしたか知ってるかい?』
「魔物じゃなくなるから、とかじゃないの?」
『まあね、それもある。けど、だったらさ、あいつが魔物じゃなくなるってのは、どういうことかわかるかい?』
「それは……フツーの人になれるってことなんじゃないの?」
竹蔵がふっと笑みを浮かべた。
『魔物とあんたが添い遂げちまったら、あんたは魔物ともどもまっすぐ地獄行きだ。でも、あの野郎が魔物じゃなくなれば、あんたは死後、ちゃんと閻魔の裁判を受けられる。だって、あんたの相手はもう魔物じゃない。ただの人だからね。もちろん、裁判の結果が地獄か極楽か、それは閻魔が決めることだしあんたの生きざまにかかってる。けど、この違いは大きいだろう?』
「え」
思わず足を止めてしまう。竹蔵も立ち止まり、わたしに向きなおった。
『あんたに極楽に行ける機会が与えられる。雨市はあんたのために、こんな無茶な賭けをしたのさ』
「――え」
『こんなの、さすがにアタシも降参だ。よほどあんたが好きなんだろう。それにしてもさ、あんたはよく思い出したよ。いったん死んだ人間がまともな命を与えられる。それは、生きなおすってことになる。そんなことありえないだろう? だからこそ、閻魔は絶対に無理な賭けを、雨市に持ちかけたんだ。それなのに、あんたはやりやがった。たいしたもんだ!』
雨市は、わたしがちゃんと裁判を受けられるように、魔物じゃなくなる賭けをしたのだ。もしもわたしが思い出せなかったら、魔物どころか永遠に暗闇をさまよう亡者になるかもしれなかったのに。
「……ずっと、全然思い出せなかったんだ」
うつむいてつぶやくと、そうだろうねえと竹蔵が相槌を打った。
「もうダメだと思ってたら、花火が」
竹蔵がわたしをのぞき込む。
『花火?』
「うん。花火で全部思い出したんだ。ハシさんの花火、みんなで見たよね。閻魔の筆から、ハシさんが出した花火。それで、思い出せたんだ」
そう言って顔を上げると、竹蔵は微笑む。相変わらず、美しすぎる顔だ。
『じゃあ、あっちに戻ったらあんたの代わりに、アタシがハシさんにお礼を言っといてやるよ』
「うん! ハシさんも元気なんだよね?」
にんまりと笑った竹蔵は、じゃなきゃアタシはいまここにいないと告げる。そうだった、二人して極卒の宿に忍び込んでんだもんね。わたしが笑みを見せると、竹蔵が前に出た。
『さて、おしゃべりはここまでだ。寺に戻って、おせっかいな野郎どもを蹴散らすんだろ? だったら、早く行くよ!』
「……うん!」
ふたたび駆け出すと、舗装された一本道が砂利に変化する。山道が目前に迫ってきたところで、はっとしたわたしは息をのむ。
風もなく、虫の声も枝葉の揺れる音も聞こえない。雨市と一緒に歩いた雨の降る坂道のときみたいに、いつの間にかいっさいの気配が静まっていた。
時間の止まったような世界に、足を踏み入れていることに気づく。と、前を行く竹蔵が、すっとわたしの背後にまわった。
『――霊道を開いてやる』
「え!?」
竹蔵はわたしのうしろから、木々の生い茂る真っ暗闇に向かって右手を伸ばした。
『地獄にも極楽にも行けない、たましいどもの通り道だ。地獄にもこの世にも、そういう道がたくさんあるのさ。歪んだ空間の近道がね』
背中がひやりとした。ひやりとしたのは、竹蔵がわたしの背中を押してくれているからだ。
『けど、大丈夫だよ。アタシがついてる』
竹蔵は指先を広げ、伸ばした右腕をぐっと左へ向ける。
『せいぜい、雨市と添い遂げな――』
まるで、目に見えない重たい扉を開けるかのように、竹蔵はわたしの目の前で、その腕を左右にずいっと動かした。
『――じゃなきゃ、アタシも浮かばれねえってもんだ!』
暗がりの裂け目が、視界をおおいつくした。