終ノ章
把手共行
其ノ100
お祭り初日、土曜日の朝。
頬がぐうっと押される感触で、目を覚ます。わたしの枕元にしゃがんだ鷹水さんが、人差し指で頬を押していた。
「おっ……はようです」
よかった! 今日も消えずにいてくれた。
「自分の部屋に戻ったほうがいんじゃねえのか? そろそろ和尚も起きるぞ」
たしかに。
父さんに見つかったら、廊下で寝ている理由を間違いなく突っ込まれる。うまく答えられる嘘も思いつかないんだから、一刻も早く撤収しよう。すぐさま飛び起き、自室まで布団を引っ張る。するとうしろから、鷹水さんのクスクスと笑う声が聞こえてきた。
「え、なんすか」
「面白れえなあと思ってよ。俺を見張るっつって廊下で眠って、朝になったら布団引きずって部屋に戻ってんだもんなあ。喜劇みてえだ」
いや、誰のせいでこうなってると思ってるんですか!……っていうか、まあ、わたしが勝手にやってることだけれども。
「はいはい、笑ってください。でも、今夜もわたしは廊下に寝ますからね!」
笑い続けている鷹水さんを廊下に残し、部屋の障子を閉めた。
お祭り日和となった、快晴のその日。
午前中、わたしは父さんと鷹水さんを手伝って、すみずみまで掃除をした。
廊下を雑巾掛けし、境内を帚で掃いて、ついでに自分の部屋も掃除する。鷹水さんの行く末について考える暇をなくしたくて、とにかく無駄に動きまくった。
お昼ごはんを食べ終えてからも、父さんと鷹水さんは掃除の続きをするために本堂に向かった。わたしは茶碗を洗い、居間に掃除機をかける。きれいになった仏間に大の字になったとたん、日々の寝不足のせいで睡魔におそわれ、眠ってしまった。
電話の音で飛び起きると、夕方間近になっていた。飛び起きて受話器を取る。きっとカガミちゃんだと思ったのに、通話の相手は檀家さんだった。
「し、少々お待ちください」
「どうした?」
ちょうど父さんだけ戻る。檀家さんからだと告げて受話器を渡すと、父さんは神妙な面持ちで受け答えする。やがて受話器を置いた父さんは、ふうと息をついた。
「檀家さんが大往生でお亡くなりになったらしい。あそこのおじいさんには本当にかわいがってもらったから、やっぱりさびしいものだなあ」
檀家さんに挨拶をしたあとで、通夜と葬儀の打ち合わせをすると言う。
「ということだから、椿。すまんが鷹水さんにも、あれこれ準備を手伝ってもらわなくちゃならんくなった」
「あ、そっか」
鷹水さん、お祭りに行けないんだ。
「うん、わかった」
明日消えるかもな魔物とはいえ、いまのところはそれが鷹水さんの仕事だ。でも、地獄から来たっぽい魔物がお通夜の手伝いをするって、縁起的にどうなんだろ……って、お寺で働いてる時点で考えるだけムダかも。
「じゃあ、お祭りやめて、わたしも留守番してようかな」
お祭りに行きたかったのは、浴衣を着て鷹水さんと並んで歩きたかったからだ。鷹水さんが来られないのなら、ひとりで行っても意味がない。
「お友達と約束してるんじゃないのか?」
「カガミちゃんと約束はしてるけど、事情を説明すればいいだけだし……」
「どのみち、花火が終わるころには戻ってるだろうから、おまえもお友達とちらっとお祭りを見て来たらいいじゃないか」
電話台の引き出しを開けた父さんは、がま口財布を取り出すと、ちんまり折りたたまれたお札を三枚出した。
「ほれ、こづかいだ」
え、えええ……! 三千円も渡された。すごい高額、大丈夫なのか、父さん!?
「これ、もしかして来月の電気代……」
「いいから、いいから。今日ぐらいはなにも気にしないで楽しんできなさい。さて、鷹水さんを呼んで用意をせねば」
午後五時前。袈裟姿の父さんと鷹水さんを、玄関先で見送った。我が家としてはかなりの出費になるタクシーが境内の前に停まっていて、父さんが先に向かっていく。と、鷹水さんが振り返った。
「――待ってろ」
「え」
「なんとか抜けて、こっそり行く。和尚の了解をちゃんと得たかったけど、さすがに言える雰囲気でもねえしな」
「ほ、ほんと?」
鷹水さんはわたしを見て微笑み、うなずく。
「ああ。絶対に行く」
そう言い残すと、父さんのあとに続いて歩き行き、タクシーに乗った。
父さんには悪いけど、かなり嬉しい。だって、鷹水さんとお祭りに行けるなんて、間違いなくこれが最初で最後になるからだ。
きっと、鷹水さんもそう思ってる。だから、父さんに内緒にしてでも「絶対に行く」って言ってくれたんだ。
やった!……って、にやついてる場合じゃない。
「浴衣に着替えないと!」
♨ ♨ ♨
藍色の空に、淡い輪郭の満月がぽっこりと浮かんでいる。バス停までの坂道を、からんころんと音をさせながら下駄でくだった。
おそろしいことに、浴衣はするすると着れた。着付けはしっかり覚えてているくせに、それを習った場所でのことを思い出せないからやるせない。
だけど、もうしかたない。
せっかくの夜なのだ、泣いたり哀しんだりしたくない。
今夜だけは、鷹水さんの身の上とかこの先のこととか、いろんなことを忘れて楽しもう。それで、いつか大人になったとき、きちんと思い出せるように過ごそう。
「うん、それがいい!」
小走りで坂を下り、バス停に着く。何人か並んでいるのが見えた瞬間、衣心がいるかもと身構えた。
「……いや、いないっぽい」
ホッとした。ってか、リョーちゃんの車だってあるんだし、衣心がバスで行くわけないか……とまで考えて、はっと息をのむ。
そういえばリョーちゃん、大福と家に突撃してきたときに「お祭りの日を楽しみにしておけ」とかなんとか、言っていたような気がする。
昨日は衣心が学校を休んでいたし、背筋が寒くなってきた。
「……いや、きっと大丈夫だって」
そうだよ。またわけのわかんない突撃を仕掛けてきたって、きっと父さんが追い払ってくれる。
どうせたいしたことじゃない。気にするだけ時間のムダムダ!
鼻息荒めで停車したバスに乗り込むと、車内はかなり混んでいた。浴衣姿の女子と私服の男子カップルに混じって、浴衣の男子も数人いる。
鷹水さんも、ああいう和装とか似合いそうだな。できるなら、鷹水さんの浴衣姿とか見てみたかったな。
手すりにつかまって、バスに揺られる。
なにげなく足元に視線を落とすと、隣に立っている女子の足先が視界に入った。足の爪にピンク色のネイルが塗られていて、かわいいと思ってしまった。なにも塗られていない自分の足の爪が、ちょっとだけ恥ずかしくなる。
そっか。そういうオシャレとか、すればよかったな。
ずっと、女子っぽいことを避けてきた。
だって、べつに恋とかしないし関係ないって思ってたから。
男子はみんなわたしをイジメるクズだって決めつけて、髪がボサボサでも気にしなかったし、メイクだって別世界のものだった。
でも、いまは違う。
ネイルとかしてみたらよかった。メイクもすればよかったな。そうしたら母さんの浴衣も、もっときれいに見えたかも。まあ、いまさらだけれど。
ほんと。恋ってすげえ、とか思う。
どんどん、自分が自分じゃなくなっていくのがわかる。だけど、それは自分にとって嬉しい変化だ。そういうことを繰り返して、わたしも大人になっていくんだ。
でも、こんなふうに誰かに恋をすることなんて、もうないかもしれない。鷹水さんみたいに好きになれる人が、またあらわれるなんて想像もつかない。
これって、わたしにとって初恋ってことになるんだろうな。
人じゃない人に、恋をした――なんて、忘れようと思っても忘れられない思い出になりそうだ。
私はうつむき、小さく微笑む。
おばあちゃんになっても絶対に思い出せる。その自信だけはある。
地獄の記憶はないけれど、なにがあっても、今夜のことだけは忘れない。
そう誓いながら、車窓に映る自分をひたすら眺めた。
♨ ♨ ♨
川見神社の前で、バスを降りた。
すでにすごい人混みだ。コンビニや商店が点在する住宅街をしばらく歩くと、露店が左右に並んでいる通りが見えてくる。その向こうに流れているのが、平野川だ。
通りを右に曲がってまっすぐに歩くと、山のふもとにある川見神社の鳥居がある。
スマホも時計もないから正しい時間がわからないけれど、バスから降りてここまで歩いた感じで、だいたいわかる。そろそろカガミちゃんと待ち合わせている時間のはずだ。
食欲をそそる香りの露店をなんとか無視し、人波にもまれながら鳥居を目指した。
露店は鳥居まで続く。その先の左側に、平野川にかかる橋が見えた。橋の上も人でいっぱいだ。
鳥居を背にして立ち、カガミちゃんの姿を探す。まだ着いていないのか、どこにも見あたらない。こういうとき、心底思う。
マジでスマホ、絶対入手する!
「いやもう、ほんとマジで」
貧乏な自分の運命を呪いながら視線を動かすも、知っている人影はゼロ。しかたがないのでその場でじっとし、ぼんやりと暮れていく空を見上げた。
どれほどそうしていたかわからないけれど、どんどんと闇が濃くなっていく。そろそろお腹も空いてきた。いまだカガミちゃんに会えずにいるけれど、いったんここから離脱してなにか食べようかな……と思ったとき、ふと気づく。
誰もが、暮れはじめた空を見上げていたのだ。橋の上にいる人たちも、下流に身体を向けて夜空を見上げている。
「あ、そっか」
そう、つぶやいたときだった。
花火の開始を知らせるアナウンスが流れ、歓声と拍手がわき起こる。ここからでもじゅうぶん見えそうだ。少し背伸びをした瞬間、シュッと光の筋が空に舞い上がった。
――ドンッ。
まばゆい大輪の光の花が、夜空を埋めつくす。
それを合図にしたかのように、ひゅるると音の尾を引きながら、小さな花火がいくつも上がった。闇に広がる星の花に、鳥居の前にいたおじいさんが叫ぶ。
「――たーまやー!」
なぜだかそのとき、わたしの胸がどくんと波打った。
そうだ。わたし、どこかで見た。花火を見た。
だけどそれは、ここじゃない。おかしいな。どこで見たんだったっけ。
――ドンッ。ドンッ。
いくつもいくつも上がる花火の音が、わたしの心臓の鼓動と重なる。
どくどくと高鳴る胸を右手でおさえながら、一瞬で煙となる宝石みたいなまたたきを目に映す。
――もっと。もっと上がれ。もっともっと、上がれ!
咲いては散っていく花火を目にした瞬間、脳裏になにかが過った。そのなにかの輪郭をとらえたくて、もっと間近で花火を見るため、カガミちゃんと待ち合わせをしていることも忘れてその場を離れる。
「す、すみません」
謝りながら、人混みをかきわけて橋へ向かった。
わたしはどこかで花火を見た。けれどそれは、何度も見ている御影町のこの花火じゃない。
――そうじゃない。そういうのじゃない花火。
橋のたもとまで来て、大きく背伸びをする。すずらんを連想させるもの、大きな線香花火に似たそれに続き、たんぽぽみたいなかわいらしい花火が、ポッとひとつだけ上がった。
――パンッ。
ぞわりと、足の裏から頭のてっぺんまで、血液が逆流したみたいになる。
そして、もっとも大きな花火が上がった。
歓声と拍手がこだまする。闇夜に開いた巨大な花は、柳の枝葉のように川へ伸びて散っていく。わたしも力いっぱいに叫んだ。
「たーまやー!」
声にすると、身体が震えた。その震えが、なぜか涙になる。
ぼわっと浮かんだ涙が頬に流れて、打ち上げられる花火が視界でにじんでしまう。
ああ、そうだった。わたしが見たのは、あの花火だ。
墨汁をひたしたような、優しくて小さなあれは。
閻魔の筆からあらわれた――あれは。
「――ハシさんの、花火」