拾ノ章
百聞は一見にしかず
其ノ89
腕を組んだリョーちゃんは、鷹水さんを観察しながら言った。
「なんとまあ、強烈な。人であって人ではない者が寺に居座るとは、いい度胸じゃないか。これは俺一人じゃ無理そうだ」
そうつぶやくと、ポケットからスマホを出して操作をはじめる。
「しかたない、力のある坊主をかき集めるか……」
背中を向けて去って行く……って、ちょっと待て!
「ちょっと! 突然あらわれてわけわかんないこと言って逃げるな!」
振り返ったリョーちゃんは、わたしを一瞥してから視線を動かす。そこにいるのは、鷹水さんだ。
「ツッキー、気をつけろ」
「気をつけるもなにも、鷹水さんはいい人だし――」
わたしの言葉を制したリョーちゃんは、険しい顔を近づけて耳打ちした。
「――あいつの心臓に手をあててみろ。おそらく鼓動はない。あいつは死んでる」
……は?
♨ ♨ ♨
ブオォォンとエンジン音をひびかせて、てかてかの外車ごとリョーちゃんは去った。
嘆息した鷹水さんはきびすを返し、なにごともなかったかのように窓拭きに戻った……っていうか!?
死んでるってなにさ!
どう見ても生きてる普通の人間にしか見えないのに、なんでどうして、どういうこと!?
そろそろと気配を消しつつ、窓を拭く鷹水さんに近寄る。対する鷹水さんは平然とした様子で、なにも言わない。
死んでるってことは、死人ってことだ。そういう人がなんで家の寺にいるのかがわからない。
リョーちゃんや衣心の言ったことを鵜呑みにするつもりはないけれど、リョーちゃんはお坊さんをかき集めるとまで言ったのだ。
かなり本気で、鷹水さんをここから追い出そうとしていることは間違いない。
「……あ、あのう。ひ……人じゃないんすか?」
思わず口からもれてしまった。鷹水さんは踏み台の上からわたしを見下ろす。
「否定はしねえよ。でも、悪さをするつもりもねえ」
「えっ――」
――えええ!?
返事に衝撃を受けて、言葉を失う。でも、おかしなことにそこまで驚いていない自分もいた。
なんだろ。なんか、はじめからわかってたような気がするような、しないような……?
無言で困惑するわたしに、鷹水さんは笑みを向けた。
「修行するってのは本当だって前にも言ったよな? 俺はてめえのしてきたことにたんまり後悔してんだ。それを償いたい。あんたにはわけのわからねえことかもしれないが、たしかに一度、死んでる。だから、いまの俺は屍みてえなもんだ」
その笑みはどこか切なげで、なぜだかわたしの胸がぎゅうと痛む。
怖くない。どうしたことか、まったく全然怖くなかった。
「……じ、じゃあ、幽霊?」
「ちっと違うな」
「よ、妖怪?」
「……まあ、似たようなもんだ」
ふっと、自虐的な苦笑を浮かべる。
「な、なんで家に来たの?」
鷹水さんが、まっすぐにわたしを見つめる。
「俺がここにいるのは、縁あってある人に命を半分もらったからだ。それで、坊主になろうと思った。ずいぶん迷ったけど、どのみち一度は死んでんだ。失うものもなんにもねえ。やりなおしてみるのも悪くねえとも考えた。だから、賭けをした。その賭けのせいで、この世での俺の身体はまだ完全じゃねえ。ただの入れ物のまんまだ」
「賭け?」
「しゃべりすぎた。これ以上は詳しく言えねえ。それが約束だ」
鷹水さんはわたしから視線をそらし、ふたたび窓を拭きはじめた。
「俺が嫌なら追い出せばいい。それも俺の運命だ」
そう言って、にやりと笑う。
元ヤンかと思われた鷹水さんは、実はかなりなワケありで……普通の人間じゃないことが判明してしまった。あまりにもホラーな展開だし、現実離れしすぎて笑いそうになってくる。でも、たぶん全部本当のことだ。そういう予感がわたしにはある。
リョーちゃんが言ったとおり、鷹水さんの心臓に手をあてたら、その予感はきっと真実になるんだろう。
――でも、人じゃないから、なんだっつーの?
わたしも父さんも、鷹水さんを気に入ってる。
鷹水さんはこんなしがない貧乏寺でも文句も言わず、真面目に過ごしてくれているし、父さんだって楽しそうだ。
鷹水さんが妖怪的ななにかだろうが、悪いことなんてなにもしてない。だったら、べつにここにいたっていいじゃんとわたしは思う。
そう――そうだよ。それがわたしの答えだ!
「鷹水さん」
「なんだよ」
「坊さんになるってのは、マジなんだね?」
鷹水さんは真剣な眼差しで、うなずいた。
「ああ」
よし、いいだろう。その思い、受け止めた!
「わかった」
くるんと背中を向けたとたん、呼び止められた。
「おい、待て。わかったって、なにがだ?」
わたしは肩越しに振り向く。
「真面目に坊さんになりたいって言うなら、鷹水さんの正体がなんだって、べつにどうだっていいってことだよ」
鼻息荒く大股で、本堂の脇を歩きはじめる。
そうだ、そのとおりだ、山内。
妖怪だろうが屍だろうが、なにかを成し遂げようとしてるんなら、もうなんだってオールオッケーだ!
「おい、どこに行く?」
鷹水さんの声を背中で受け止めつつ、わたしはいっきに駆け出した。
「――金持ち寺に、邪魔すんなって文句言ってくんの!」
♨ ♨ ♨
坂道を駆け上がり、ご立派な寺の境内で仁王立ちする。
ここに来るのが久しぶりすぎて、めまいがしてきた。
敷地は我が家の三倍、山門から見える本堂の瓦屋根は、午後の日射しを浴びてぴかぴかで、もちろん傾いてなんかない。
「あいかわらず立派で、悔しいけど羨ましい……!」
歯ぎしりする思いで境内を突っ切る。寺の景観をそこなわない二階建ての純和風建築の前に、ど派手な外車が停まっていた。それを横目で見つつ、「村井」と表札のかかった玄関のチャイムをおそうとした矢先。
「山内じゃん、なにしてんだよ」
建物の裏手から、サッカーボールを手にした衣心が顔を出した。おお、いいタイミングじゃん!
「あんたの兄さんに話があんの!」
はあ? と衣心は顔をしかめる。
「なんでリョーちゃんに話があんだよ、好きなのか?」
短絡すぎだぞ!
「なんでそーなる!? さっき家に来て、鷹水さんを追っ払うみたいなこと言われたから、その必要はないって直談判に来たの! 兄さん出してよ!」
玄関の前で衣心に訴えた直後、いきなり引き戸が開いた。
「あらー! 椿ちゃんじゃない、久しぶりねえ!」
ふわりと巻かれた髪、白いシャツにデニム姿。大人女子な雑誌の読者モデル的風貌の、衣心の超美人な母さんだ。
お久しぶりですこんにちはと頭を下げると、入って入ってとおばさんに腕を引っ張られてしまった。
「ああ、すっごく嬉しい! 見かけることはあったけど、椿ちゃん全然家に来てくれなくなっちゃったから、おばさんとってもさみしかったのよ~。ほら、家の娘はもう結婚しちゃってるし、ここにはむっさい男しかいないから、つまらなくてつまらなくて」
来なくなったのは、衣心にいじめられていたからですとも言えず、招かれるまま玄関で靴を脱いだ。
「……ど、どうもです」
衣心は気に入らないけれど、実はおばさんは好きなのだ。母さんとも仲がよかったし、いろんな洋服やおもちゃをわたしにくれた思い出もある。でもその贈り物には、おばさんなりの思惑があったことを、この日わたしははじめて知ってしまった。
「本当にすっかり美人になったわねえ。もうおばさん、衣心のお嫁さんには椿ちゃんって決めているのの!」
「ええっ!?」
リビングにわたしと衣心を押し込み、続けた。
「ねえ、椿ちゃん。おばさん、たくさん椿ちゃんにいろんな物をあげたけれど、それって本当はね、どうしてもおばさんのこと気に入ってもらいたかったからなの。だって、衣心と結婚したら、おばさんは椿ちゃんの義母になるでしょう? 一緒にお買い物をしたり旅行したり、おいしい物を食べたりして遊びたいじゃない? だから、小さかった椿ちゃんに、あの頃からおばさん、好きになってもらいたくて必死だったのよお~!」
そうだったのか。さすが村井家の母、あなどれなかった!
「い、いやあ、それは……っ」
ずるずるとおばさんに腕を引かれてリビングに入り、ソファに座らされた。
「あっ、そうだわ!」
おばさんが小さく跳ねて手を叩いた。
「リョーちゃんに買ってもらったバッグがあるから、椿ちゃんにあげちゃう! おばさん一度も使ってないの。いまの女子高生も好きなのかしら、ヴィトン?」
「えっ! いやいや、そんなのいらないです!」
「そんなこと言わないで、待ってて!」
はしゃぎながら、おばさんは出て行った。もう誰もおばさんを止めることはできなそうだ。だけど、もっと強く拒否らなければ、村井家の嫁にガチで認定されてしまう!
今後はいっさいなにももらわないぞ。そう鼻息荒く拳を握っていたときだ。
「で?」
ソファに座るわたしを見下ろし、衣心は腕を組んだ。
「断るってなんだよ」
「いまのまんまでいいってことだよ」
「は? あのさ、リョーちゃんマジでやる気だから、任せとけって。あの妙な坊主を追っ払ってやるから、心配すんな」
いや、だから! それが余計なお世話なんだって!
「心配もしてないし、任せるつもりもないんだよ。もうほっといて欲しいんだって!」
はあ? と衣心が眉を寄せる。
「意味わかんねーぞ、山内。あいつは人じゃないんだって。そんなやつを家に置いとくのかよ?」
「家の勝手じゃん。鷹水さんは真面目だし、悪いことなんてなんにもしてないし、父さんだって気に入ってんだよ。それに、マジで坊さんになろうとしてる。もうさ、首突っ込むなつってんの!」
ソファから立ち上がり、衣心とにらみあう。
しばらく押し黙った衣心は、さらに眉を寄せてから口を開いた。
「……ああ、わーかった。おまえ、あいつに取り憑かれてんだ。たぶん、おまえの父さんもな」
「は?」
「冷静になれ、山内。おまえは取り憑かれてる。間違いない」
ええ……と、そうなのか? あれ? もしかすると、そうなのかも?
マズい。うっかり迷いが生じてきてしまった。
家の、それも寺に、人間じゃない妖怪&屍的ななにかがいるとか、たしかに深く考えたらありえないわけで。やっぱり、よくないことなのかもしれない……と、真剣に考えながらうつむくわたしの頬に、突如衣心の唇が触れた。
――ちゅっ。
「――って、なんじゃごらあああ! ケンカ売ってんかよ、ふざけんな!!」
衣心をどつく。どつかれた衣心はにやにやしながら、カーゴパンツのポケットに両手を突っ込んだ。
「ふざけてねーよ。いいじゃんもう、付き合ってんだから」
え? 誰と誰が? とかやってる場合じゃない。
衣心にかまっている暇なんかない。考えるのだ山内。のん気な父さんを守れるのは(そしてあの寺を守れるのは)もはやわたししかいないんだから!
ってか、その前にこれだけは言っておきたい。
「あんたと付き合うつもりはないし、嫁になるつもりもまったくないからね!」
「そうか、じゃあ、俺の嫁になるんだな?」
廊下にあらわれたリョーちゃんが、リビングに入りながら苦笑する。
「やれやれ。母さんがヴィトンのバッグを探しまわっていて、二階がゴミ屋敷になってきたから逃げてきた。母さんは物を持ちすぎだな。ところで、どうしたツッキー、さっき会ったばかりなのに来てたのか? 安心しろ、いま俺はフリーだ」
そうじゃない。村井兄弟についていけない。
「わたしは誰の嫁にもならないからね!」
「じゃあ、あの得体の知れない〝魔物〟の嫁になるつもりか?」
どさりとソファに座ったリョーちゃんは、さらりとすごいことを言ってのける。
「え」
――〝魔物〟?
リョーちゃんは息をつき、腕を組んだ。
「肉体は死んでるくせに、まるで生きた人間そのものに見えるから困る。なにかの獣が人間に化けてるような予感もある。ともかく、強烈な魔物だ。いまは悪さをしていなくても、なんらかの目的はあるはずだ」
言葉をきって息をつき、わたしに向かって続けた。
「あいつは地獄から来てる。ほかの人間にはわからないだろうが、俺の鼻が硫黄のにおいでバカになりそうだったからな」
「……じ、地獄?」
リョーちゃんがうなずく。
「なあ、ツッキー。おまえも行ったことがあるんじゃないのか?」
「は? 行ったことがあるって、どこにさ?」
眼鏡の奥の眼光を鋭くさせ、リョーちゃんは言った。
「地獄だ」
そんなバカな。
♨ ♨ ♨
生きたまま地獄に行ったわたしが、こっちの世界に戻るとき、魔物も一緒に連れて来たのかもしれないとリョーちゃんは予想した。
もちろん、そういったことが霊能力的な方向で、リョーちゃんに見えているわけじゃない。けれど、鷹水さんが人ならざる存在であろうことは、感覚ではっきりわかるらしい。
村井家の中で衣心とリョーちゃんだけが、そういう能力を持って生まれたのだと教えられた。
だからどうした。だって、家のことは家のことだもの。
首を突っ込むなとともかく強く訴えて、わたしは村井家をあとにした。ちなみに、バッグを探し続けていたおばさんは、わたしが帰ろうとしたときもまだ見つけられずにいたのだった。もらわずに済んだので、マジ助かった。
眼下に広がる家並みの屋根を眺めながら、坂道をくだる。
鉛色の雲が、晴れていた空を覆い隠していく。そんな空をあおぎ見ながら、リョーちゃんの言葉を反芻した。
わたしが地獄に行ったとか。そんなことあるわけないじゃん。
でも、もしもそうだとしたら、残念ながら思いあたることがある。
あの日、記憶がないまま林に立って手にしていた謎な物たち。
それが、わたしの身に起きたことのすべてを、物語っていそうな気がしてならない。
「……地獄から持ってきた的な……?」
いやあ、ないわーって、自信満々で拒否できないから困る。
「待てよ。もしかして、あれを鷹水さんに見せたら、なにかわかったりするかも?」
いいかもしれない……! なんて考える一方で、どうしても引っかかっていることがあった。
取り憑かれている――って、マジだったりして?
父さんも取り憑かれていて、だから鷹水さんを家に置いてるんだとしたら?
「うう……やっぱ、リョーちゃんに頼ったほうがいいのか!?」
坂道を歩きながら、身悶える。
「……くそう、わからん。なにひとつ、どうしたらいいのか決められない!」
そう声にしたときだった。黄色い羽をはためかせた蝶が、わたしの目の前をひらひらと横切った。それを目にした瞬間、わたしの心の奥深くで――そうじゃない、みたいな感情が芽生える。
そうじゃない。取り憑いてるとかじゃない。鷹水さんはそんなことしない。だから、きっとなにか理由があるんだ。
坊さんになりたいって気持ちのほかにも理由があって、だから家にいるんだ。
立ち止まって、蝶を目で追う。どうしてだろう、母さんの言葉が脳裏を過った。
───しっかりした芯のある女の子になって欲しいと、母さんは思っています。
「……って、いつ言われたんだっけ?」
もちろん、思い出せない。
雑木林の向こうに、蝶ははらはらと飛び去って消えた。
「どうするのがいいんだろ……とかじゃなくて、わたしはどうしたいのか、見極めないと」
誰に言うでもなく、声にする。
誰かの意見じゃなくて自分で決めることのできる、芯のある女子にならなければ。そんで決めたら最後、とことんまでつらぬく……って、なんか武士みたいだけど嫌いじゃない感じだ。
まだボクシングのジムに通っていたころ、なかなか強くなれなくて、もう辞めようかと思うこともあった。そんなとき、はじめようとしたころの気持ちを思い出せと、先輩に励まされたことがある。
悩んだり迷ったりしたときは、ものごとの一番はじめを思い出す。初志貫徹とかいうやつだ。
村井家に突撃したのは、いまの、このまんまでいいと訴えるためだった。
だったらさ、それでいいんじゃないの? それをつらぬくべきなんじゃないのか!?
なんか見えてきた! そうだよ、そのとおりだよ!
「……よし、決めた。わたし、寺ごと鷹水さんを守る!」
そう決意したら、胸がすっとした。と、頬にぽつりと滴があたる。見上げると、空から小雨が降りはじめた。
「雨だ」
直後――〝雨〟という漢字が、なぜだか頭から離れなくなる。
「……なんだ?」
首をかしげながら小走りで坂を下っていると、黒い傘をさした人影が向かってくるのが見えた。顔は傘に隠れているけれど、下駄と作務衣で誰かはわかる、鷹水さんだ。きっと、雨が降ったから迎えに来てくれたのだろう。
全速力で鷹水さんに駆け寄る。その間も〝雨〟という文字がくっきりと、頭というよりも胸に深く刻まれて離れない。なんだろうこの感じ……と思った瞬間、はっとする。
――なんか、〝雨〟って漢字に、続きがある……気がする。
「どうした?」
立ち止まった鷹水さんが、わたしに傘を差し伸べてくれた。
鷹水さんのきれいな瞳を見つめつつ、〝雨〟の続きを必死に探る。
そうして探ってふと浮かんだのは、なぜかこの字だった。
――〝市〟。