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拾ノ章
百聞は一見にしかず
其ノ90

 ……あめ、し?
 て、どこにあるまちの名前だ? 
「市」がつくからにはそこそこの規模のはずだけど、聞いたことない。帰ったら地図で探すしかないけど、なんでいまこんなまちの名前が浮かんだんだろ。
 謎すぎる……。
 小雨の中、坂道を歩く鷹水さんの下駄の音が、からんころんと心地よくひびく。傘を持った鷹水さんは、わたしの歩幅にあわせて歩いてくれた。
 どこからどう見ても普通の人だ。でも、人じゃない。
 どうしても信じられず、何度も横目で鷹水さんを盗み見る。そうしていたら、前を向いて歩く鷹水さんにもちろん気づかれて目が合ってしまった。
「なんだ?」
「う……っと、いや、まあ……なんですか」
 思わず視線をそらしてしまった。
「どう見ても普通の人にしか見えないなあ……って」
「怖えか?」 
 鷹水さんにさらりと訊かれた。
「それがその……なんでかあんま怖くないっていうか」
 こうして一緒に歩いていても、いますぐ離れたいだとか、誰かに助けを求めたいみたいな気持ちにはまったくならない。むしろ、できればずっとこのまま一緒に歩いていたいような気さえする。
 どんよりとした雲のせいで、薄暗い濃霧の中を歩いているような錯覚におちいっていく。とたんに、はっとした。もうずいぶん歩いているのに、家の屋根が全然見えてこないのだ。
 雨が降りはじめてから、鷹水さんは迎えに出てくれたはず。そうだとすれば、家までの距離は遠くない。むしろ、すでについてもいいころだ。
 それなのに、人も車も通らない坂道がさらに勝手にのびたみたいになってる……ような?
「……なんか、ずっと同じとこ歩いてる感じする」
 隣を歩く鷹水さんは、前を向いたままにやっとした。
「あんたと少し歩きたい。だから、寺を遠ざけた。それにしてもびっくりだ。俺はこういうこともできんだなあ」
「えっ」
「心配すんな、家には戻れる。ちっとばかし、そこまでの距離を俺がのばしただけだ」
 はっきりとそう告げられて、奇妙な光景が広がっていることにいまさら気づく。
 下り坂道の右側、眼下にある家々の間の通りに、バスや車、人の姿がまったくない。まるで、時間の止まった無人の村に取り残されたかのようだ。もしかしてここは、あの世とこの世の境目みたいなところだったりして?
 そうだとしたら、マジですごい。だって、それこそガチ中でガチなオカルトだから!
 雨が傘にあたる音と下駄の音だけが、この奇妙な空間でこだましていた。
「……で、どうすんだ?」
「え、どうするって?」
「坂の上の寺と協力して、俺を追い出すことにしたか? 文句言ってくるってあんたは出て行ったけど、説得されたんだろ?」
「は? いや、説得的なことはされたけどさ、家の寺のことに首突っ込むなって言ってきたよ。当然じゃん!」
「あ?」
 鷹水さんが立ち止まった。
 え、なんすか?
 鷹水さんは心底びっくりしたみたいに、目を丸くした。
「てっきり、説得されたと思ってた。それがまっとうだししかたねえから、追い出される前に出てくしかねえなあと思ってたぜ」
 言葉をきり、少し押し黙る。そうしてから、言いづらそうに付け加えた。
「……なにしろ、人じゃねえからな、俺は」
「そうかもだけど。だけどさ、鷹水さんはなんにも悪いことしてないし、父さん楽しそうだし、だったらそれでいいかなと思ったんだよ。家はずっとわたしと父さんだけだったから、父さん的には家族が増えたみたいになってるっぽいっていうか……」
 ……脳内ですでに婿認定されてますんで! とかは口が裂けても言えない。逆に父さんには、婿認定した相手は地獄から来た魔物ですとも言えない。
 なんだろうな、このおかしげな板挟みは。
「まあ、とにかくさ! わたしとしては鷹水さんを追い出すつもりなんかないからさ、いればいいじゃんってことだよ。だって、お坊さんになりたいんだよね?」
 鷹水さんを見つめ、さらに強く念を押す。
「お坊さんになりたいなら、それでいいのだ」
 そのとおりだ、それが答えだ! これぞ、シンプル・イズ・ベスト! 
 わたしをまじまじと見つめた鷹水さんは、クッと声をもらして笑い出す。
「……すげえなあ。ほんとにおまえはすげえよ」
 あんた、と呼んでいたのに、おまえ、に変わった。
 前からわたしを知っていたかのような気さくな口調が、妙に胸にひっかかる。
「……あのさ。やっぱどっかで会ってるよね?」
 笑みを消した鷹水さんは、前を向いてふたたび歩を進めた。
「俺はあんたに言ったぞ。寺で会ったのが初対面だってな」
 そうだった。でも、初対面の相手にわざわざ「初対面です」だなんて言ったりするかな。それがそもそもおかしいのでは……? 
「……ちなみにだけど、地獄から来たんだよね?」
「まあ、だな」
 リョーちゃんの言葉を思い出す。
 わたしも地獄へ行ったことがあるんじゃないのかと、リョーちゃんは言ったのだ。もしもそれが本当なら、わたしは鷹水さんと地獄で会ってたんじゃないのか?
 むちゃくちゃ信じがたいけど、そうだとしたら点が線になりそうなんだよ。
 え、うそだ。マジで?

 ――わたし、マジで生きながらにして地獄へ行ったのかも!?

「お、鷹水さん」
「なんだ?」
「あのですね……家に帰ったら、ちょっと見てもらいたい物があると言いますか」
「いいけど、なんだそりゃ」
「なんとなく捨てられなくて、持ってる物がありまして。紐みたいなやつとネクタイと、あと傘の形のネクタイピン」
 ころん、と下駄の音をたてて、鷹水さんが立ち止まった。
 そうして傘を手にしたまま、ゆっくりとこちらに顔を向ける。なぜかそのとき、例の夢が過った。あの、二人の男子が登場する夢だ。

 ――そうだった。あの背景も、地獄みたいだったんだ。

「あ、あとですね。なんていうかこう、地獄なんだけど温泉的なところに入ってる上品な紳士っぽい人と、きれいな女子みたいな男子が出てくる夢をよく見てまして……」
 もしかして、知り合いとか? と訊ねる寸前に、鷹水さんはなぜか一瞬、いきなりにやりとほくそ笑んだ。
「え、なんすか?」
「なんでもねえよ。それで、その夢がどうした?」
 歩き出した鷹水さんにくっついて、夢について語る。そのせいで、漬け物と団子を買ってしまったことを教えると、はははと鷹水さんは笑った。それで、なんとなくだけど、やっぱり知り合いなんだと直感する。
 鷹水さんとあの二人の男子は、たぶん知り合いだ。でも、だったらどうしてわたしは、そんな夢を見てるんだろう。
 わたしとあの二人には、つながりがあるんだろうか。
 もしもあるなら、全部の答えがいっきに出そうだ。
 記憶はまるでないし信じられないことだけど、わたしは地獄に行ったって証拠になるから!
「……実は、林の中に立ってたことがあって。そんときにその紐とかネクタイとかネクタイピンを持っててさ。でも、林まで行った覚えはまったくなくて、もしかしてわたし――」
 鷹水さんが、耳をすませている気配が伝わる。
「――地獄に行ったことあるんじゃないかな、と……?」
 そう言った直後、前方の水たまりに気づいてつま先立ちになる。
 舗装がへこんだ部分は広範囲で、なるべく水のたまっていないところをジャンプして越えようとした矢先、傘を持ち替えた鷹水さんが左手を差し出した。
「つかめ」 
 言われるがまま、その手をつかもうとした、そのとき。
「驚くなよ。冷てえぞ」
 一瞬、指先を引いてしまった。でも、鷹水さんは強引にわたしの手をぎゅっと握る。
 たしかにこれは、雪の中に手を突っ込んだ冷たさだ。
 水たまりを越える鷹水さんの足元を真似て、手を握られたまま三度軽く飛んだ。そのいきおいで、鷹水さんの間近に着地する。おかげで自分の唇が、鷹水さんの首にくっつきそうなほど近い。
 鷹水さんの肌を間近にして、しみじみと思った。
 手はこんなにも冷たいのに、襟元からのぞく肌の色は普通だ。もっと青白かったり、精気のない色だったりするはずなのに、血が通っているように見えるのだ。
 触れたら、温かそうなのになあ。なのにこの手は、雪みたいに冷たい。
「俺はなんにも、言えねえんだ」
「え」
 鷹水さんは、握ったわたしの手をゆっくりと頬に寄せ、「温けえな」とまぶたを閉じる。
 その表情があまりにもきれいだったから、らしくもなくきゅんとしてしまった。わたしの体温で、鷹水さんがちょっとでも温かくなったらいいのになあ……って、いやいやいやいやダメでしょ!
 うっかりしてたけど、この人(ってか、この魔物)には、彼女がいるんだった!
「鷹水さんの彼女は、どこにいるんすか!? もしかして、こっちの世界にいるんすか? それとも、あっちの世界にいるんすか!」
 くそう、あっちとかこっちとか世界が広すぎてややこしい!
「あ?」
 鷹水さんが呆気にとられる。と、うっすらにやけながらうつむき、わたしの手を握ったまま歩き出した。
「え、え? なんすか、そのちょっと余裕あるみたいな感じ。ってかさ、彼女がいるのにわたしの手とか握るのはおかしいってハナシだからね!」
 なぜ、離さない!?
「……いいからちょっと黙れ。少しでいいからこうして歩かせてくれ」
 鷹水さんは卑怯だ。温かいとか、手袋代わりみたいなことを言われたら、まあいいかって思っちゃうじゃん。ダメだけど!
 本降りにならない小雨の中、鷹水さんと手をつないで長いこと歩いた。
 右手に持った傘をこちらへ向けつつ、わたしの手を離そうとしない鷹水さんの下駄の音を耳にしながら、二度ほど軽くくしゃみをする。
「寒いか?」
「いや、寒くはないよ。くしゃみしただけ」
「でも、俺があんたの体温を奪っちまってる」
 申しわけなさそうな声音でつぶやき、鷹水さんはやっとわたしの手を離した。
「ずいぶん歩いたなあ。惜しいけど、そろそろやめとくか」
 鷹水さんが左手に傘を持ち替えた直後、前方の林のすき間に、本堂の屋根があらわれた。
 そのとたん、車のクラクションが遠くでこだまする。
 小雨だった雨は本降りになり、猛烈ないきおいで傘から滴が落ちていく。もう家に着くという間際になって、ふたたび「あめし」なるまちの名前が脳裏を過った。
 そのまちがどこにあるのか、もしかすると鷹水さんは知っているかもしれない。地図で探す手間がはぶけるという軽い気持ちで訊いてみた。
「あのさ、鷹水さん」
「おう」
「あのさ。さっきなんか浮かんじゃったんだけど〝あめし〟っていうまち、知ってる? 〝あめ〟はこの降ってる〝雨〟って字で、〝し〟は都市の〝市〟」
 寺の敷地を前にしたところで、鷹水さんが立ち止まった。
「……ああ……そりゃ、たぶん」
 なぜか、声が震えていた。
「読み方が」
 少ししゃがれたような、苦しげな声で、鷹水さんはまっすぐ前を向いたまま言った。
「ちっと違うんじゃねえか」
 そうなのか? 
 読み方が違うというなら、あめいち? もしくは、うし?
 むむむと無言で思考を巡らせたのち、とある読み方で、わたしの心臓がどくんと大きく波打ったのだった。
 
 ――う、いち。

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