拾ノ章
百聞は一見にしかず
其ノ88
見知らぬ男子二人が登場する地獄の夢のせいで、漬け物と団子が脳内に深く刻まれてしまった。
翌日の午後。香我美家をあとにして帰宅する道すがら、バス停近くにある商店で漬け物と団子を買ってしまった。そうしてぶらぶらと坂道を歩く。べつにわたし自身がいま食べたいわけじゃない。それなのに、ただでさえ少ないおこづかいをつぎ込んでまで買ってしまった……。
「なにしてんだろ、わたし」
団子はごまとあんことみたらしで迷った末、みたらしにした。わたしが好きなのはごまなのに、なぜか「みたらし」と口にしていた現象の意味も謎すぎる。
「ホントにわたし、どうかしてる……!」
一人身悶えながら境内へ入り、玄関の扉を開ける。鷹水さんの下駄を目にした瞬間、どっくんと心臓が高鳴った。
わたしには、鷹水さんをお祭りに誘うというミッションが課せられているのだ!
ヤバい。めちゃくちゃ緊張してきた。
おそるおそる居間の障子扉を開ける。誰もいないのでほっとしつつ、とりあえず冷蔵庫に漬物を入れ、団子のパックは床の間の仏壇に供えた。
母さんの写真に手をあわせる。
「なんか買ってしまいました。ってことで、団子はあとでわたしが食べるけど、母さんお先にどーぞ」
チーンとリンを鳴らして居間に戻ると、袈裟姿の父さんが来た。
「おお、椿。いま鷹水さんが本堂の窓を拭いているから、暇ならおまえも手伝ってあげなさい」
「えっ」
「父さんは三軒ばかしまわらなくちゃいかんから、夕方までちょっと出掛けてくる。あとは頼むぞ?」
慌ただしく出て行った。え、待って。ってことは、夕方まで鷹水さんと二人きりってことなんでは……?
もしかして、これはお祭りに誘うチャンス!? でも、なんて言って誘えばいいのか全然わからない!
「戻ってたのか」
うしろから声をかけられて、びっくりして飛び上がる。どことなく不機嫌そうな鷹水さんが、踏み台とバケツを持って立っていた。わたしのつま先から頭のてっぺんまで鋭い視線を向けつつ、なにか言いたげに口を開く。と、無言で横を過ぎていく。
「え、ちょっ……いまのはなんすか?」
「なんすかって、なにがだよ」
鷹水さんは玄関先で下駄をつっかけ、言い捨てる。
「なんとなくだけど、わたしになんか言いたそうに見えたっていうか……?」
ため息をついた鷹水さんは、さも言いにくそうに顔をしかめた。
「その……なんだ。あれだ」
どれだ?
「その格好はどうなってんだ?」
ショートパンツと水玉の半袖ブラウスという格好に、元ヤンの逆鱗に触れそうなポイントは見あたらないはずなんだけれども。
鷹水さんの眉根がさらに寄る。
「……そもそも、学校に着て行く洋装も気に入らねえんだよ、俺は。足を丸出しにしやがって。よく誰も叱らねえな」
ヨウソウ? 足が丸出し? たしかに足は丸出しだけど、それがなにか?
「はい?」
「なんでもねえよ」
むすっとした顔で扉を開け、外に出るとぴしゃりと閉めた。
学校に着て行くヨウソウってのは、制服のことなんだろうか……と考えて、はっとする。
あ、そっか! 鷹水さん的には制服のスカートの丈が短いって言いたかったんだ! けど、それはそれでおかしい気がする。だって、鷹水さんが高校生のときだって、女子のスカート丈は短かったはずだもんね。それとも、まさか。
「もしかして、私服の高校?」
だったらなおさら、やんちゃな私服の女子がいたのでは?
「元ヤン的に納得いかない感じがあんのかな……」
ああ、きっとそれだ!
♨ ♨ ♨
寺の裏手にある墓地は、雑木林に囲まれている。
すっきりと晴れ渡った空の下、踏み台にあがった鷹水さんは、こじんまりとした本堂の窓を磨いていた。そんな鷹水さんの様子を、本堂の角に立って手伝うこともなく見ていると、案の定気づかれてしまった。
「なんだよ、どうした?」
鷹水さんは踏み台からおり、雑巾を洗う。
「と、父さんに手伝えって言われたので……わたしが雑巾洗って渡します!」
本堂の窓は少し高い位置にあるので、雑巾を洗うためにいちいち踏み台からおりなければならないのだ。わたしが洗って渡せば、鷹水さんのその手間がはぶける。
「おう」
そう返事をして雑巾を絞った鷹水さんは、わたしを上目遣いに見ると、なぜか一瞬にやりと笑った。
「なんですか?」
「……〝です〟〝ます〟。丁寧にしゃべれるんだなと思ってな」
「へ?」
鷹水さんが踏み台にあがった。
「なんでもねえよ」
しばらく無言のまま、鷹水さんは窓を拭く。汚れた雑巾を渡されるたびに洗い、鷹水さんに差し出す……なんて地味なことを繰り返してる場合じゃなかった。
お祭りに誘うミッションがあったんだった!
でも、お誘いする会話のきっかけが、まったくもってつかめない!
「……あ、あの~」
まずは彼女の有無を訊くべきだ。カガミちゃんだって直球でいけと言ったのだ。
がんばれ、わたし。覚悟を決めろ、いまがチャンスだ!
「なんだ?」
踏み台からおりた鷹水さんが、次の窓に移動する。バケツを持ったわたしの緊張は、いましも限界を超えそうだ。
「かっ――」
のじょとか、いますよね? いるんですよね、わかります!
「――ラスが、見てます!」
とか言って木を指してどうする!?
「カラス?」
鷹水さんが雑木林を見た。
「……が、どうしたって?」
なんでもないです、忘れてください。
ああ、ダメだ。わたしには無理だ。誘うどころか彼女の有無も訊けやしねえ!
男子への罵倒なら数々のセリフが浮かぶのに、女子っぽいことをしようとするとこのありさまだなんて、とんだヘタレ女子じゃん! こんなんでお祭りに誘うなんて、できる気がしない。
がっくりとうなだれて地面を見つめる。と、鷹水さんの下駄が視界に入った。
「カラスじゃねえだろ。なんか言いたいことあんだな?」
すごい。どうしてわかったのか知りたい。ってか、これが大人ってことなんだろうな、たぶん。
「言えよ」
ささやくような鷹水さんの低い声が、吐息とともに耳に触れた。
なんだろ。なんかこの感じ、妙に懐かしい感じがする……って、なんで?
「ちゃんと聞いてやるから、言ってみろ」
ヘタレを返上するならいましかない。ええい、当たってしまえ! そんで砕けたっていいさ!
「かっ……彼女的な人とかいるのかなあと、思いまして!」
間近に鷹水さんがいると思うと、恥ずかしすぎて顔を上げることができない。うつむいたまままぶたをきつく閉じて返事を待つ。
「……いる」
あっさり言われた。あ、ですよね。
これで人生初のうっすらとした恋が終了してしまった。あまりの呆気なさに笑いそうだ。いや、笑えない。
「ですよね……!」
若干のショックと照れくささと恥ずかしさをにごすため、にやけ顔をつくって鷹水さんを見る。すると、鷹水さんはなぜか嬉しそうに微笑んでいた。なんでそんな表情なのか、謎すぎる。
「え……なんすか」
腕を組んだ鷹水さんは、勝ち誇ったようにニヤッとした。
「がっかりしたな? そうだろ」
「えっ! い、いや、まあ……ちょっと興味があって訊いてみただけっていうか……っ」
「なんだよ、がっかりしたわけじゃねえのか?」
「そ、そういうわけでは!」
焦って否定すればするほど、なんか墓穴を掘ってる気がする!
「……なんか、わたしのことからかってますよね!?」
鷹水さんはクスクス笑いながら、踏み台に足をかけた。
「怒っても〝です〟〝ます〟なんだな。こいつはびっくりだ」
「はあ? だって、目上の人にはちゃんとしないとじゃないですか」
「俺はたいしたやつじゃねえから、そういうのはナシにしてくれ」
「……へ?」
踏み台にのった鷹水さんが、わたしを見下ろした。
「そういうの、ちっとばかしさみしいんだよ。普通でいいから、丁寧な口調はやめてくれ」
さみしい? さみしいって、なんで? 困惑するわたしにかまわず、鷹水さんは言葉を続けた。
「あんたが礼儀正しく育てられたのはよくわかった。あんたの父さんはいい父さんだ。俺みたいなやつにも親切だしな」
父さんを褒められるのは素直に嬉しい。
「はあ……それはその、どうもです」
「です?」
「あっ……と、どうも」
鷹水さんが嬉しそうに笑った。
「そうだ。それでいい」
そう言われると、なんでかわたしも嬉しくなってきた。なんだこれ。なんなんだろう、この感じ。
しばらく窓を拭いていた鷹水さんは、やがてぽつりと言った。
「……ほかのやつが足を丸出しにしてようが、俺は知ったこっちゃねえけど。その……なんだ。あんたのはダメだ」
「え?」
「なんつうかなあ。ようするに、みんなが見るだろーが」
「みんな?」
「そうだよ。野郎も見るんだろうって言ってんだ。まったく、どうなってんだ。ここは日本か?」
日本です。鷹水さんは呆れたように息をついた。
「まあ、もう気にすんな。どうでもいい俺のひとりごとだ――けど」
わたしを見る。
「――俺に、興味津々なんだな」
こちらの内面を探るような、真剣な眼差しで問われる。その瞬間、なんでかこう思ってしまった。
わたしはこの人を、知ってる。
「……あの。やっぱり、どこかで会ってるような……?」
鷹水さんは静かにわたしを見つめながら、言った。
「もっと、俺に興味持ってくれ」
「え」
意味深な言葉の意味がわからなくて、鷹水さんを見つめ返す。と、踏み台からおりた鷹水さんは、熱っぽく色気を含んだ眼差しをわたしに向けながら、ゆっくりと顔を近づけてきた。
もしかして鷹水さんも、わたしのことが好きなのか?……ってか、ちょっと待った!
もう少しで唇が触れそうになったところで、覚醒した。
彼女がいるんだから、これは完全に浮気ですよ!
「ノォーーー!」
鷹水さんの額を両の手のひらで押しやった。
「うお……っと、なんだよ、おい」
「あ、すんませ……じゃなくて! うっかりキスしそうになっちゃったけど、彼女いるんだからこんなんダメじゃん!」
あ、と鷹水さんが目を丸くした。
「ああ、そういうことか」
「そういうことか……じゃないし! 彼女がいるなら浮気はダメでしょ、ほんとマジで!」
鷹水さんはどことなく気まずそうに頭を撫でつつ、視線を落とした。
「あー……まあ。恋仲な相手はいるけどな……」
「けど? ってなんすか。いるんすかいないんすか、どっちっすか!」
え……なんでそんなせつなげに、わたしを見つめてくるんだろ。そんな目で見つめられたら、ふらーっと気持ちごと吸い寄せられて、彼女とかまあべつにいっかみたくなりそうだから、やめてほしい!
鷹水さんが、なにか言いたげに口を開く――直後、ブウンと車のエンジン音が境内の外から響きわたり、一瞬で過ぎ去った。なにごとかと思った刹那、いきなりキュルルと激しい音を響かせながら戻ってきて、寺の前でピタリと停まった。
「なんだ?」
鷹水さんが境内に向かいはじめた。わたしもあとに続くと、ど派手な赤いオープンカーが停まっていた。
「……また、ややこしそうなのが来やがったな」
鷹水さんが立ち止まった。っていうか、誰? あんな派手な車を乗りまわす檀家さん、いたっけ?
車から降りたのは、眼鏡をかけた大人男子だ。すっきりとしたショートヘア、半袖シャツとグレーのパンツ姿で境内に入ると、寺を見まわしながら腕を組む。と、こちらに気づいたらしく、向かってきた。
「あんな檀家さん、いないんだけどな……」
だんだん近づいてきた男子が、足を止めて口を開いた。
「イタリアの港町からネーミングされた車、フェラーリのポルトフィーノだ。いい車だろう?」
……ん?
「え……っと、もしかして車屋さんですか?」
まさか父さん、ママチャリを捨てて車を買うつもりか? ウチにそんなお金はないんだけど!
男子は青ざめるわたしを見つめ、眼鏡を指で押し上げた。
「車屋ではない。久しぶりだな、ツッキー。俺があちこち放浪してるうちに、ずいぶん美人になったじゃないか。嫁にしてやろうか」
いえ、結構です。っていうか、だから!?
「だ、誰?」
「おまえのおしめを替えたこともある、この俺の顔を忘れたのか?……とは言っても、十年も会っていなければ忘れるか。にやついた衣心に顔が似てるのは、自分探しにかまけているアホな芳彦《よしひこ》だけだしな」
その言葉でやっとわかった。ネパール帰りの衣心の兄さん、リョーちゃんだ!
「俺は光竜寺を有名寺にするため生まれてきた、骨の髄まで悟りまくりの坊主だ。もう忘れるなよ」
「え」
ド派手な外車を乗りまわす剃髪すらしていない私服の男子が、どの口でそんなことを言う? どこからどう見ても、お坊さんに見えないですよ!
呆れ顔のわたしを無視したリョーちゃんは、迷うことなく鷹水さんを視界に入れた。
「ほう? これはすごい。衣心からのメールのとおりじゃないか。面白い」
振り返ると、鷹水さんはリョーちゃんを静かに見すえていた。対するリョーちゃんも眼鏡越しの眼光を強め、不敵な笑みを浮かべる。
そうしてゆっくり、口を開いた。
「――どういうことだ。貴様の背後に、地獄が見えるぞ」