拾ノ章
百聞は一見にしかず
其ノ87
翌朝、妙な夢で目覚めてしまった。
岩に囲まれた湯船に、見知らぬ二人の男子がしっぽりと浸かっている夢だった。
なにやら湯の温度が高いらしく、品のよさげな紳士が「のぼせますなあ」と赤い顔でのん気に言う。すると、ものすごい美女みたいな男子が、ぐったりした様子で口を開く。
「毎日毎日長時間浸かるってのも、なかなかに地獄だねえ」
「そうですなあ。とにかくつらいのは湯から上がりましても、のどを潤すお飲ものをいただけないことですなあ」
まぶたを閉じた紳士が、しみじみと同意する。美女系男子はにやっと笑うと、腕を岩にのせながら「たしかに地獄だね、楽な地獄だ」と笑った。そこで、わたしは目覚めてしまったのだ。
「……なんだ、この夢」
夢とは意味不明なものだ。あまり気にせず起き上がり、ぼさぼさの髪でぼーっとしたまま洗面所へ向かうと、掃除をしている作務衣姿の鷹水さんに出くわした。
昨夜衣心に突撃されてからのあれやこれやが、走馬灯のように駆け巡る。まるで時代劇に出てくる江戸っ子みたいな鷹水さんの口調と捨て台詞も思い出し、一瞬固まってしまった。
あれも夢……って思いたいけど、しっかり覚えてるしそんなわけない。
「お、おはようございます」
バケツを前にしてしゃがむ鷹水さんは、ぎゅっと雑巾を絞りながら、上目遣いにわたしを一瞥した。
「おう」
おう? 腰をあげた鷹水さんは、困惑するわたしに言う。
「言葉遣いが荒っぽいのは生まれつきだ。丁寧にしゃべるのにも疲れちまった。つっても、あんたの父さんは尊敬するし修行するってのも本当だ。ただ、あんたの前では自然でいたい。だから俺のこの口調にも慣れてくれ」
「は、はい……?」
「それと、昨日はわけのわかんねえこと言って悪かった」
きゅっと苦しげに眉間を寄せる。
「俺はただの見習いで、あんたに会ったのは……三日前が最初だ。ただ、あんたが仲良くしてるあの野郎が、俺の知ってる気に食わねえ男に瓜ふたつだったから、頭にきて追い払っちまった。邪魔してすまなかった」
どことなくむすっとして、そっぽを向く。
「で、あいつは恋人か?」
それはない!
「ないですないです! 絶対に完全にそれだけはないです!」
心なしか鷹水さんの口角が上がる。と、本堂からあらわれた父さんが鷹水さんを呼び、会話がはじまる。父さんとにこやかに接する鷹水さんは、前のような丁寧な口調だ。やがて、父さんが本堂に戻って行く。鷹水さんもバケツを持ち、わたしに背を向ける。その一瞬、肩越しに目があった。どきりとして視線をはずそうとした矢先、鷹水さんは本堂脇の納骨堂へと去ったのだった。
鋭い視線に時代錯誤な口調。それなのに目上の人には礼儀正しいとか、なんか鷹水さんってもしかして。
「……元ヤン?」
♨ ♨ ♨
部活の練習をしていたカガミちゃんとモールで待ち合わせ、しばらくぶらついてから香我美家に突撃した。
家にはカガミちゃんのお母さんがいて、夕飯をごちそうになってから二階のカガミちゃんの部屋に落ち着いた。
「そういえばすっかり忘れてたんだけど、なんか筆売りたいとか言ってたよね?」
「へ?」
出ました。父さんも言ってた、謎の筆!
カガミちゃんはピカピカのスマホを手にしてベッドに座る。
「売りたいとか言ってたじゃん。それ持って来たんでしょ?」
もちろん持ってないし、覚えもない。むしろ、そんな謎な筆よりも。
「それもそうなんだけど、実はですね……」
バッグをまさぐって例のポーチを出して中を見せ、林の中に立っていたことや筆の記憶がないことを伝えてみる。案の定、カガミちゃんは困惑した。
「……うっわ、なにこれ」
ネクタイをつまみ、まじまじと見入って顔をしかめる。
「なんか、めっちゃ古そうなんだけど」
「そうなんだよ。けど、なんか捨てられないんだよ……」
カガミちゃんは正座するわたしを見つめ、ものすごく真剣な顔つきで言った。
「……あんたさ、宇宙人にさらわれたんじゃない?」
「え、そっち? ってか、カガミちゃんそういうの信じるほう?」
「都市伝説系のユーチューバー見てると、だんだんあるかもって気がしてくるよ。見る?」
「見る」
一時間も見てしまった。
「どう?」とカガミちゃん。
「……うん。スマホうらやましすぎて死にそう」
「そっちか!」
ゲラゲラと笑われた。
「椿は絶滅危惧種だからな~。けど、いつか買うんでしょ?」
買う。近々なんとしでも手に入れる! まあ、それはそれとして。
「宇宙人説さ、ありそうな気もするけど、じゃあこのネクタイとかピンとか謎布の意味はってなっちゃうなあ」
「だよね~。なんかさ、暗号とか隠されてない?」
しばらく探すも、なにもなかった。宇宙人説で一瞬盛り上がったものの、わたしもカガミちゃんもそれが現実的じゃないことくらいわかっているので、結局のところわたしが寝ぼけていた説で落ち着いてしまった。
「寝ぼけついでに、どっかに落ちてたの拾ったんじゃん?」
「なんで?」
「美化運動的な?……ってのは冗談だけど、やたら眠いときとかあるからさ。きっとあんたもマジで寝ぼけてたんじゃない? 筆のこともよくわかんないけど、うちのパパとか同僚の娘さんのエピソード聞いて、あたしのことと勘違いしたりするときあるから、あんたの父さんもそうかもよ? なんつーか、檀家さんで聞いた筆のこととあんたを混同してるってかさ」
それはすごくありそうだ。
「なんか見えてきた! けど、ポーチの中身と林にいたことはまだ見えない……」
「ポーチのやつはさ、マジであんたが拾ったんじゃないの? 林にいたのは寝ぼけてただけだって。あんた毎朝走ってるの癖になってて、脳みそ半分眠ってても自然に起きちゃって、走れる能力手にいれてんだよ」
「え。なにそれすごい」
カガミちゃんが笑った。
「いつかなんかの役にたつかもね」
本当に心配なら、病院に行ったほうがいいと言われたけれど、そこまでではないのでありがたく遠慮した。完全に解明できたわけじゃないけれど、なんだか少しスッキリした。
「それはそれとしてさ、例の坊さんとはどうなん?」
興味津々の目で見つめられた。
「鷹水さんは、なんかワケありの元ヤンっぽい」
「マジか」
「うん……ってか、そうだ! 昨日衣心にストーカーされたんだよ。あいつ、鷹水さんのこと妖怪っぽいとか言い出してさ」
「妖怪って、見た目が?」
「いや、ガチのやつ。鬼太郎方向な意味で」
「ええ……それはさすがにないでしょ」
カガミちゃんが声を上げて笑う。
「そんなんただの焼きもちだって。けど、村井のファンって地味に多くて謎なんだよなあ」
「わかりすぎる」
「陸上部にもいてさ、相手があんたじゃ勝ち目ないってぼやいてる子けっこういるよ? つっても、がっつりボクサーなあんたが相手じゃ、マンガみたいな女子集団のイジメ展開とか絶対ないけどね」
衣心の焼きもちは完全無視で、元ヤン坊さんをお祭りに誘ってしまえと、カガミちゃんにいきなり提案される。そういえば御影町の神社のお祭りが、二週間後に控えていたんだった。その前におそるべき期末テストがあるんだけれども。
「そ、そうだ。お祭りあるんだった……!」
「元ヤンならお祭り好きなんじゃないの? 坊さん見習いとか言ってもさ、一日くらいは遊んでもバチあたんないって」
「父さんゆるいから、たぶん許可はおりると思うけど……。カガミちゃんは誰と行く?」
ふふふとほくそ笑んだカガミちゃんは、星だの月だのの夜空の画像でパンパンなインスタを見せてきた。
「宇宙推しすごい……けど、誰?」
「二組の岩佐。あたしさ、お祭りにこいつ誘う!」
「えっ」
二組の岩佐くんといえば、地味で無口で図書委員という超文科系。いつも一人で読書をしている孤高の眼鏡男子として有名だ。アクティブなカガミちゃんとは真逆キャラだから、意外すぎてすぐにはなにも言えなかった。
「そ、それは……もしかして好きみたいな?」
「そうだよ。入学式から密かに目をつけてたんだけど、女子に優しいし品があるから、わりと人気あるっぽいんだよ」
「それはなんとなくわかる気がする……」
「クラス違うからマジで焦ってんだ。まだ彼女いないっぽいから、お祭りに乗じて声かけるつもり! 早くなんとかしないと、あたしみたいな女子が突撃しそうで怖いじゃん」
「おおおっ、がんばってカガミちゃん!」
「うっす! 椿もな!」
二人で熱く抱き合ってみた。女子の友情って最高に素晴らしい。しかし、しかしだ!
「うおお……どうしよう。鷹水さんを誘いたいけど、どやって誘ったらいいのかわかんない!」
頭をわしづかんで訴えると、カガミちゃんは「落ち着け」とわたしの肩に手を置いた。
「椿、相手は元ヤンだ、直球でいけ。ちなみにあたしも直球で誘う。岩佐くん系には直球じゃないと伝わらない気がするからさ。そんで、お祭りには浴衣着るんだ!」
「うわ、いいなあ浴衣!」
いつかわたしにと、母さんの浴衣を父さんが大切にしまっていたはず。あれを着て鷹水さんとお祭りなんて最高すぎる。そんな妄想をしたとたん、なぜか胸の奥がきゅんときしんだ。
「……でもなあ。なんとか誘えたとしても、断られそうな予感もするなあ」
「彼女とかいそうなの?」
カガミちゃんに訊かれて、はっとした。
「そ、そうだよね。まずはそれを訊くのが先だ……」
「どっちにしても、行動するのみだよ、椿」
「う、うす。がんばる!」
やるしかない……っていうか、訊くしかない。そのあとでアクションを決めよう。
鼻息荒く拳を握ると、カガミちゃんがスマホのカレンダーにチェックをつけた
「……あ、ママが友達と温泉行くから、お祭りの日は着付けを誰かに頼まないといけないんだった。面倒くさいな~」
眉をさげたカガミちゃんの言葉に、思わず反応してしまった。
「わたしできるよ。着付けしようか?」
「は? 椿、浴衣とか着れんの?」
――あれ? なんでわたし、できるって思ってるんだろ。ってか、むしろ〝信じてる〟感覚に近いのはなんでだ?
「い、いや……うん。たぶん……大丈夫?」
「なんだよそれ」
カガミちゃんにまた笑われる。
ええ……?
わたしはいつどこで、着付けを習った? しかも、できるって〝信じてる〟。
この感覚は、いったいなんだ!?
♨ ♨ ♨
岩佐くんに対する熱い思いをカガミちゃんに聞かされつつ、布団に潜り込んだ。やがて、どちらからともなく無言になり、浅い眠りに落ちていく。けれど、真夜中にふいに目が覚めたとたん、なぜか窓の外が気になってしまった。
寝息をたてるカガミちゃんを起こさないよう、そっと布団から出る。ぼんやりと寝ぼけながらカーテンを細く開け、外を見てみる。隣の家の屋根の上に、真っ白な鳥がいた。
月明かりに照らされた鳥は、ただ静かな眼差しでこちらを見ている。ここはいろんな鳥獣がいておかしくない田舎だけれど、あんな鳥はありえない。
あの鳥は、鷹か、鷲……?
ばさりと翼を広げた鳥は、それをはためかせて屋根から去った。
窓に顔をくっつけて、闇夜に吸い込まれていく鳥を見守る。なんだかすごいものを見た気がする。
「……ってか、わたしなにしてんの。眠いし……」
あくびをして布団に潜ったとたん、すぐに深い眠りに落ちていった。
その夜も、例の二人組の夢を見た。
やっぱり湯に浸かっていて「漬け物が食べたいですなあ」と、紳士が言う。
美女系男子は「団子が食べたい」と告げ「墓はどうでもいいから団子が食べたいよ」と繰り返した。よっぽど団子が食べたいらしい。
「それにしても、アホな賭けをしたもんだ」
美女系男子が苦笑する。
「果たして、思い出せますかなあ」
紳士がつぶやくと、さあねと美女系男子が空をあおぐ。
「もしも思い出せれば、魔物が一転ただの人だ。でもそうじゃなきゃ、あの男は真っ暗闇を永遠にうろつく亡者になる。魔物のほうがまだマシだ」
「よくぞ覚悟を決められたものですなあ。そのような経緯についてはいっさい言うことが叶いませんし、自分がどこの誰なのかも教えられないと申しますのに、思い出すことを信じたのですな。愛ですな……!」
「愛だろうが、分が悪すぎるよ。いまごろどうしてんのかわかりゃしないけど、期限だって迫ってるはずだ。まあ、アタシらはいいよ? そろそろ盆だし、地獄の蓋が開く。思う存分、びっくりさせてやれるからねえ」
ほほほと紳士が、上品に微笑む。
「わたくしはぜひとも、思い出せるほうに賭けたいですな! とは言いましても、賭けられるものはなにもないのですが」
「じゃあアタシは、思い出せないほうに賭けるとするよ。あの男が亡者になろうが知ったこっちゃないからね。つっても、アタシにだって賭けられるものなんざ、なーんにもないけどさ」
岩で囲まれた湯船のまわりをうろついているのは、金棒を持った鬼だった。
その夢の中で、わたしは冷静に悟ったのだ。
ああ、そうか。ここは――地獄だ。