拾ノ章
百聞は一見にしかず
其ノ86
いまでこそゆるい父さんにも、厳しい修行を経験した過去があるらしい。
鷹水さんお手製の素晴らしい精進料理をいただきつつ、父さんは本山での修行について語った。
「毎日ぼんやり過ごすわけにもいきませんのでね。今日から本格的な作法を教えます。とは言っても私は厳しくないので、本当の過酷さは本山で経験してくださいな」
ほほほと照れくさそうに笑い、父さんは続ける。
「まあ、厳しくするっていうのも疲れますんでね」
「大丈夫です、しっかり覚えます」
やけに意気投合してるっぽい二人を尻目に、精進料理を平らげた。そうしてさっさと食器を洗っておいとまし、自室に引きこもった。
父さんは鷹水さんのことを、これっぽっちも疑ってない。っていうか、鷹水さんはどこからどう見てもただのイケメンで、衣心の言ったような怪しさのかけらもない……ような気がするんだけれども?
「あいつのせいで、なんか自信なくなってきた……」
衣心の最後っ屁みたいな捨てぜりふが気になって、テスト勉強どころじゃない。ふんっと鼻息荒く障子扉を閉め、大の字になって畳に寝転んだ。
夕方、鷹水さんに衣心について訊かれてから、いやに気まずい空気が流れた。逃げるみたいにしてジョギングに出かけたわけだけれども、いまだにもやもやしていることがある。
ちょっとキスされるみたいな雰囲気になったあれって、ただのわたしの勘違いか?
「なんだったんだろ……」
自意識過剰すぎ? そうかもだけど、違う気もする。そんな自分にイライラしてきて、両手で頭をわしづかんだ。
「……謎すぎてわからん。勉強で現実逃避してやれ」
まさか現実逃避のために勉強する日がくるなんて、想像したこともなかった。とにかく机を前にして椅子に座り、教科書とノートを開いてみたものの長続きするわけもなく、ダラダラしているうち睡魔におそわれ眠ってしまった。
――コツン。
窓になにかがあたる音がして、はっとして起きよだれを拭う。
まっ白なノートにぎょっとしつつ、時計を見たら午後十時を過ぎていた。
寺の夜は早いので、父さんは間違いなく眠ってる。でも、鷹水さんはどうだろ。眠ってるかもしれないけど、またこっそり外で煙草を吸ってるかもしれない。
――コツン。
またもや窓になにかが当たった。これ、あきらかに誰かが窓を叩いてるやつだ。
「……ってか、まさか」
恋する女子とはおそろしい。なぜか窓の外にいるのは、鷹水さんなんじゃないかと思ってしまった。冷静に考えれば障子の向こうから「ちょっといっすか?」って言ってくれればすむことなんだから、わざわざ外から窓を叩く必要なんかない。でも、そんな考えなんてはなから消えるのが恋ってやつなのだ!
カーテンを細く開け、そっと外に目を向けてみる。外の暗さに反して部屋が明るいので、窓に映るのは自分の顔だ。ぐぐぐとガラスに額をくっつけると、驚いたことに誰もいない。見えるのは境内と本堂のみだ。
「あれ?」
鍵をはずして窓を開ける。直後、生ぬるい微風が吹く――と、あろうことか窓枠の端から、衣心が顔を出しやがった!
「うおっ、な、なにしてんのさ!?」
キモいわ! と叫ぶ間もなく、衣心は口に人差し指を添える。なにが「シーッ」だよ、警察呼ぶわ!
「ちょっ、マジでありえないから!」
窓を閉めようとしても、外にいる衣心がパワーマックスでそれを制す。
「黙れって。いいから中に入れてくれ」
なぜゆえ貴様を、部屋に入れなければならない?
「ストーカーで訴えてやる、ガチで!」
「ちっげえよ!………ってかまあ、ちょっとそうかもしんないけど」
両手で窓を押さえながら、照れくさそうにうつむくな。似合わないから!
「いま何時だと思ってんの? どう考えてもおかしいじゃん!」
「声でけえって。頼むからちょっと黙れ。ほっとこうかと思ったけど、やっぱおまえが心配になって来たんだよ。しゃーないだろ」
衣心がわたしを心配してくれている。嬉しいかも……なんてまったく思えないのだが、鷹水さんのことについて深く突っ込めるチャンスかもしれないと、うっかり思ってしまった。
「……よし。いいだろう」
窓から手を離すと、衣心は一瞬にやっとした。
「なにその……にやっとした感じ」
「なんでもねーよ」
スニーカーを脱いだ足で窓枠をまたぎ、衣心は色落ちしたデニムにグレーのTシャツ姿で部屋に立つ。私服はあんまりチャラくないんだな。いや、そんなことはどうでもいい。
衣心は「ふーん」とつぶやきながら部屋を見まわした。
「はじめて来たけど、なんか超フツーだな。つうか、男の部屋みたいだな」
余計なお世話だ。
「そんで? わたしはピンピンしてるし、あんたに心配されることなんかひとっつもないんだけど、鷹水さんがなんだって?」
なんで「人じゃない」なんて言ったのか、その理由をきっちり述べていただこう!……の前に、なぜ足を伸ばして畳の上に座り、まったりくつろぎはじめてる? しかも、なんか飲みものちょうだいとか言うな! 出すかボケ!
「あのさ。マジであんたなにしに来たの?」
壁に背を寄せてくつろぐ衣心を見下ろし、威圧的な態度で挑む。対する衣心は、あくび交じりでわたしの質問を無視し、「勉強してるか」と訊いてきた。
なんだろう。この仲良し幼なじみみたいな会話……って!
「勉強なんかしてないし、そんなことはいまどーでもいい。そんで? 鷹水さんがなんだって?」
しゃーねえなあと言わんばかりに、衣心は髪をくしゃりとやった。
「あいつはマジで人じゃねーぞ。人に見えるけど似て非なるなにかだ……ってか、あ!」
あ? 衣心はわたしではなく、わたしのうしろにある本棚を見ていた。ずるずると畳を這った衣心は、本棚の下段に手を伸ばし、がっつりとアルバムを手に取った。
「これ、アルバムだろ?」
「おい、見んな! あんたにその権利はない!」
とっさにしゃがみ、衣心のつかんだアルバムを引っ張る。
「べつにいいじゃん。見るくらい」
そう言う衣心も引っ張る。この綱引き的な感じもなにかどっかで経験したような……なんて、記憶をたどってる暇はない!
「見せるか!」
「いいじゃん、見たい。ガキのころの写真だろ? おまえ、すっげーかわいかったんだよな。もう俺、イジメたくてたまんなかったもん」
どうでもいいわ! ってか、これはダメだ。
そっか、いまわかった。鷹水さんのことだって、きっと口から出まかせなんだ。
それもこいつの、新手のイジメなんだ!
「もういいから、いますぐ自分の巣に帰れ!」
突如、衣心がアルバムから手を離した。そのいきおいで、わたしはうしろに尻もちをつく。アルバムを落としてしまい、拾おうとしたときだ。
衣心がわたしの両肩を力強く押しやった。おかげで横たわる格好になってしまい、
「ちょっ、なにすんの――」
衣心は起きあがろうとするわたしの上におおいかぶさり、両腕を畳に押しつけた。
ってか、え……この体勢、なに?
天井のライトを背負った衣心の顔は、逆光になってるせいで世にも不気味だ。衣心はイケメンの部類らしいけど、一般的な顔面偏差値とかわたしには関係ない……って、そんなことよりもこの既視感がヤバい。
こういうこと、前にもあったはず。絶対にあったはず!
けど、相手は衣心じゃない。それだけはわかる。なんていうか、きっとすごく似てる誰かだ。
たぶんそいつのせいで、前よりも衣心をキモく感じてるのかもしれない。でも、肝心のそいつを思い出せないから、もどかしくてたまらない!
計算つくされたゆるふわ無造作ヘアの前髪から、衣心の眼差しがのぞく。似ている……でも誰に似ているのかはさっぱりだ。どこでいまみたいな目にあったのか、ちらりとも脳裏を過らないとかどうかしてる。わたしの脳みそちゃんと働いてくれ、頼むよ!
ここで頭突きをかまして逃げるのは簡単だ。でも、あとちょっとでなにか思い出せそうな予感のせいで、衣心の顔をまじまじと直視してしまう。
誰だ? こいつは誰に、似てるんだ!?
「おまえさ、ほんときれいだよな。マジでずっと見てられる」
「あ?」
わたしの視線を間違った方向に解釈してしまったのか、衣心はうっとりしたような眼差しで顔を近づけてきた。
それはありがとうございます……なんて言うわけないし!
「はああ? ブサイクブサイク言ってたくせに、どの口が言う!?」
「だから、それは裏返しっつーか」
さらに顔が近づく。これはマズい、かなりマズい。でも思い出せそうだし、思い出したくてたまらない!
衣心の前髪が、いよいよわたしの額に触れそうだ。いかん、これはダメだ。思い出せない自分の脳みそに見切りをつけてさっさと反撃しよう……と決意した直後だ。
いきなり障子扉が開いた。はっとした衣心が、顔を離す。わたしもとっさにそちらを見た。そこに立っていたのは、鷹水さんだった。
鷹水さんはなにも言わず、ものすごく冷ややかな眼差しをこちらに向けている。衣心はわたしにまたがったまま、鷹水さんをにらみすえた。
「なんすか。邪魔っす」
いや、邪魔なのはおまえだ。
「こ、これには深いわけが……!」
こんなとこ見られたくなかった。さっさと反撃すべきだったんだよ、わたしの大バカ野郎!
鷹水さんは氷のような冷たい視線で、口を開いた。
「さきほどから会話が聞こえておりました。椿さんがお困りのご様子でしたから、失礼かと思ったのですが」
鷹水さんも衣心を見すえる。と、含みのある笑みを浮かべた衣心は、やっとわたしから離れて立ちあがった。
「っつーか、こうなったらもうぶっちゃけるけど、あんたフツーじゃないよね?」
鷹水さんは慌てることなく、静かに訊ねる。
「フツーじゃないとは?」
「感覚的なことだからうまく言えないけど、あの世とこの世の間をうろついてるやつはわかるんだよ、俺。あんたがなんかに憑かれてんのか、あんた自身がそうなのかはわかんないけど、どっちにしてもあんたはフツーの人間じゃない」
ひやりとするほどの静寂が流れた。押し黙った鷹水さんが、部屋に足を踏み入れる。そうして視線を落とすと、なぜか小さく微笑んだ。
「……なるほど。それで?」
衣心を上目遣いで見て、言葉を続ける。
「だったらどうだと言うのです? 僕は誰も傷つけない。誰の迷惑にもなりません」
――え。否定しなかった!?
否定しなかったのは、真実だからか? それとも、衣心をからかってるとか?
あ然とするわたしを尻目に、衣心が口を開く。
「へえ、否定しないんだ。そーっすか。そんで寺に入り込むとか、マジすげーな。まあ、ここはのん気な寺だしおじさんもお人好しだから、あんたの怪しさに気づいてないかもしんないけどさ。俺の寺は違うぞ」
「僕を追い払うというわけですか?」
「父さんは無理だけど、兄さんが戻ったらな。この寺囲んで祓ってやる」
ん? ちょっと待て。
「あれ? あんたの兄さん、三年前からミュージシャン目指して世界放浪中じゃなかったっけ?」
「それはヨッシー。その上の姉ちゃんはニューヨークにいる。ガチ坊主は一番上のリョーちゃんだけど、いまネパール行ってんだ。修行とかじゃなくてただの旅行だけど」
ただの旅行か! いや、そんなことはどうでもいい。
「いや、あのさ、ウチの寺のことに首突っ込んで、勝手に鷹水さんを追い払うとか祓うとか、そんなの余計なお世話だから! それに鷹水さんも鷹水さんですよ! 冗談がすぎるってか、そんなマジ顔で言われたら信じそうになっておかしなことになるし!」
わたしが訴えると、鷹水さんはにこりともせずに言う。
「いたしかたありません。たしかに僕は、この世のものではありません」
「――え」
鷹水さんはわたしを見つめ、もう一度はっきりと口にした。
「僕は、この世のものではありません」
困惑をあらわにして眉を寄せた衣心は、鷹水さんからしりぞきながら声を震わせる。
「じ、じゃあ……なんでここにいるんだよ」
逆に鷹水さんは、衣心を追いつめるように近づく。
「賭けをしましてね」
「賭け?……だ、誰とだよ」
衣心の問いに、鷹水さんは静かな声音で返答した。
「閻魔大王とです」
えっ――と、わたしも衣心も身動きを忘れて固まる。
……いやいやいやいや、それはないわ~なんて言って、笑える空気感じゃない。
青ざめた顔の衣心が、わたしを見る。わたしは鷹水さんに視線を向け、鷹水さんは衣心をまっすぐ見つめていた。そうして数秒が過ぎたとき、ふと鷹水さんがクスクスと笑いだした。
「もちろん冗談ですよ。僕はフツーです」
そう言うと笑みを消す。鷹水さんは衣心を静かに見つめたまま、圧が強めの声音を発した。
「今夜は遅いですからお帰りください。次にこのようなことがある場合は、場所を選ぶことをおすすめします。そうすれば、僕が邪魔をすることもないでしょうから」
立ちすくむ衣心の横を過ぎ、窓を大きく開け放つ。
「どのみち僕は、一月までしかここにおりません。それでも僕を追い払いたければ、お好きにどうぞ」
手のひらで外をしめす。去れと言わんばかりな鷹水さんの態度に、衣心は舌打ちで返答する。なにか言いたげに一瞬口を開いたものの、気を取りなおすように息をつき、強がるように髪をかきあげた。そうして鷹水さんを一瞥すると、「気をつけろよ」とわたしに言い残して窓から去った。
衣心が立ち去るやいなや、鷹水さんは窓を閉めて鍵をかけ、カーテンをきっちりと閉じる。
どこか疲れきったように深く息をつき、ぐったりした様子でその場にしゃがむ。そうして、きれいに剃られた形のよい頭を撫でながら、ありえない口調でささやいた。
「……ああ、面倒くせえ」
え……。面倒〝くせえ〟?
「……あ、のう~?」
おそるおそる鷹水さんに近づく。すると、わたしを見上げた鷹水さんは、げんなりした表情を隠すこともなく、またもや深く嘆息した。
「……やってらんねえな、やめだやめだ。まだ二日なのに挫折しちまうぜ。なんせ四六時中格好つけてなくちゃならねえからな」
は、はい?
面倒そうに腰をあげた鷹水さんは、わたしに顔を近づけて見下ろすと、いきなりわたしの鼻を一瞬つまんだ。
「アホが」
「ひょっ!」
おかしな声を出してしまった。鼻をおさえて鷹水さんを見つめると、呆れたような顔で舌打ちされた。
「きょとんとしやがって」
ため息交じりにつぶやくとわたしに背を向け、障子扉に手をかけた。
「西崎そっくりの野郎に襲われてる場合かよ。おまえの言っていたとおり、そっくりすぎて吐き気するぜ。まあ、さっきのあいつに罪はねえけどな」
肩越しに振り返る。
「すっかり忘れちまってんだな。しゃーねえけど、さっさと思い出しやがれ」
いきおいよく障子扉を閉めた。
……ん? 思い出しやがれ?
「って、なんですか……!?」